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「少年日本」挑戦の日々

2021年08月04日 | 妙法

〈「原爆の日」特集〉 21歳の池田編集長 「少年日本」挑戦の日々2021年8月4日

  • こどもたちに「核廃絶」のバトンを

 太平洋戦争の敗戦から4年。月刊誌「少年日本」の1949年(昭和24年)11月号に、「原子野の花」という小説が載った(作=秋永芳郎、絵=佐藤泰治)。広島の原子爆弾投下を正面から取り上げた作品である。編集長は21歳の池田大作先生。戸田城聖先生の厳しい訓練を受けながらの、挑戦の日々だった。「ああ、何故戦争なんかしたんだろう。おれたちは、何故くるしまねばならぬのだ。やさしい母まで、殺そうというのか」。主人公の少年は原爆の悲惨を訴える。いまだGHQ(連合国軍総司令部)による検閲が続いていた。書きたいことが書けない時代だった。伝えたいメッセージがあった。そこに智慧の戦いが生まれた。「原爆の日」を前に、師弟のドラマをたどる。

21歳の池田先生が、優れた出版人であり、編集者である戸田先生のもとで編集長を務めた「冒険少年」昭和24年7・8月号(奥)と「少年日本」10・11・12月号。被爆直後の広島で深まる友情を描いた「原子野(げんしの)の花」(手前)は「少年日本」11月号に載った
21歳の池田先生が、優れた出版人であり、編集者である戸田先生のもとで編集長を務めた「冒険少年」昭和24年7・8月号(奥)と「少年日本」10・11・12月号。被爆直後の広島で深まる友情を描いた「原子野(げんしの)の花」(手前)は「少年日本」11月号に載った

 「原子野の花」の主人公は2人の男の子である。広島市内から学童疎開していたが、ある事件がきっかけで貫二は黒田先生に厳しくしかられ、疎開先の寺を飛び出してしまう。貫二と仲良しの幹夫は、黒田先生に頼まれ、貫二を捜すため広島市内に戻る。
 「その日こそ、昭和二十年の、あの試練の日、八月六日であった。幹夫が廣島駅についたのは、午前七時五十分であった」
 貫二も、幹夫も、それぞれの思いを抱え、久しぶりに家に戻り、母親と再会した。アメリカ軍による原爆の投下は、その直後のことだった。
 「……幹夫が座敷へ上った瞬間だった。あけはなたれた障子のむこうを、まっ白い音なき閃光が、さっと走った。眼がつぶれそうに強い光りだった」
 幹夫は「お母さん、お母さん!」と叫び、防空壕へ向かおうとした。「しかし、その足はパッとすくわれて、大男にえり首をつかまれたように、宙にあがりどんと投げだされていた。メリメリメリッ!と、家のこわれる音をききながら、幹夫は気を失ってしまった」
 
 日本国憲法の第二十一条に「検閲は、これをしてはならない」とある。しかし、東京の水道橋駅に近い日本正学館で、「少年日本」を囲み、戸田先生と池田先生が編集会議を繰り返していたこの時、日本社会は憲法に反する状況が3年近くも続いていた。
 GHQは日本のメディアを支配するためにプレス・コードとラジオ・コードを出した。CIS(民間諜報局)に属するCCD(民間検閲局)が、大新聞から子どもの書いた手紙まで、あらゆるものを検閲した。占領政策への批判を徹底的に取り締まったのである。
 日本中の編集者たちが、この検閲に苦心した。戸田先生は戦争中、雑誌編集者として日本の軍国主義に抵抗した。その戦いは小説『新・人間革命』第1巻「慈光」の章にくわしい。「少年日本」の若き池田編集長は、この筋金入りの闘士から薫陶を受けた。

CCD(民間検閲局)によって検閲され「プランゲ文庫」に保管されている「少年日本」1949年(昭和24年)11月号の表紙(メリーランド大学ゴードン W. プランゲ文庫所蔵)。CCDは同年10月に閉鎖されるが、この11月号は10月に出版されており、右上の押印や中央の書き込みが検閲された事実を示している。表紙左に「原子野の花」が大きく印刷されており、最も読者に読んでほしい企画だったことがうかがえる。同号の投稿欄を見ると、神奈川、熊本、広島、福島、青森、兵庫、鹿児島、岩手、茨城、三重など日本各地で読まれ、“少日(しょうにち)”の愛称で親しまれていたことが分かる
CCD(民間検閲局)によって検閲され「プランゲ文庫」に保管されている「少年日本」1949年(昭和24年)11月号の表紙(メリーランド大学ゴードン W. プランゲ文庫所蔵)。CCDは同年10月に閉鎖されるが、この11月号は10月に出版されており、右上の押印や中央の書き込みが検閲された事実を示している。表紙左に「原子野の花」が大きく印刷されており、最も読者に読んでほしい企画だったことがうかがえる。同号の投稿欄を見ると、神奈川、熊本、広島、福島、青森、兵庫、鹿児島、岩手、茨城、三重など日本各地で読まれ、“少日(しょうにち)”の愛称で親しまれていたことが分かる
「冒険少年」「少年日本」の編集長時代の池田先生
「冒険少年」「少年日本」の編集長時代の池田先生
「中国新聞」1949年(昭和24年)10月9日付1面に掲載された「少年日本」同年11月号の広告(広島市立中央図書館所蔵)。長崎日日新聞など20紙に掲載されたことが確認されている。広告の左に「科学物語 ジェンナー人類を救う 山本伸一郎」とある。「山本伸一郎」は池田編集長のペンネーム。のちの「山本伸一」の原型である
「中国新聞」1949年(昭和24年)10月9日付1面に掲載された「少年日本」同年11月号の広告(広島市立中央図書館所蔵)。長崎日日新聞など20紙に掲載されたことが確認されている。広告の左に「科学物語 ジェンナー人類を救う 山本伸一郎」とある。「山本伸一郎」は池田編集長のペンネーム。のちの「山本伸一」の原型である
GHQの検閲下、児童小説で「原爆の悲惨」訴えた師弟の心

 『評伝 戸田城聖(下)』(第三文明社)によると、「原子野の花」以前に原爆を扱った児童文学としては、『二十四の瞳』で知られる壺井栄が、GHQの検閲が始まる寸前に「石臼の歌」という小説を発表した。これは単行本になった時、「原子爆弾」に言及した部分が削られた。また、「原子野の花」と同じ1949年に雑誌連載された若杉慧の「火の女神」にも、「原子爆弾」という言葉が使われている。
 「少年日本」の「原子野の花」は、被爆直後の惨状をつぶさに描いた。
 爆風で気を失った幹夫は、母と共に奇跡的に助かった。貫二を捜さないと!――幹夫は責任感に駆られ、母が止めるのも聞かず、町へ飛び出す。
 「……あたりを見ると、顔中をやけどした人、半分ちぎれた手をぶらぶらさせている人、足だけを大きな柱の下敷になって、うめきながら助けを求めている人……」。幹夫は幼子の亡きがらを背負ったまま気が触れてしまった若い母親の姿も目の当たりにする。
 いっぽうの貫二は、自分の足をひきずりながら、瀕死の母を背負い、赤十字病院にたどり着いていた。しかし、最愛の母は息絶えてしまう。
 「今まで笑顔でいたお母さんはもう死んでしまった。なんて戦争は悲惨だろう」(挿絵の説明文から)
 幹夫と母は伝馬船で天満川を渡り、己斐駅にたどり着き、貫二や黒田先生と再会する。誰かが口にした「ああ、荒野。この荒野に、美しい平和の花が咲くのはいつだろうね」という言葉で物語は幕を下ろす。
 同じ11月号には、理論物理学者の中村誠太郎による「原子力とこれからの世の中」という読み物が載っている。池田編集長は、この前号でも原子力を大きく取り上げた。人気画家の小松崎茂による原子力の未来予想図が巻頭カラーを飾り、アインシュタインの評伝(作=澤田謙)は「悲惨な戦争を止めさせた原子爆弾はどのようにして生れたか」という一文で始まるいっぽう、原爆を憂う次の文章で終わっている。
 「(アインシュタインは)自分のつくらせた原子爆弾の将来について、大へん心配している。『科学の上からみて、原子爆弾をふせぐ方法は考えられない。人類がほろびてしまうのをすくうには、世界に正しい平和をうちたてるほかはない』といま一生けんめいそのことを考えている」

横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部の東日本体育大会「若人の祭典」に出席する戸田先生と池田先生。この閉会式で戸田先生は青年への「遺訓(いくん)の第一」として、「原水爆禁止宣言」を発表する(1957年9月8日)
横浜・三ツ沢の競技場で行われた青年部の東日本体育大会「若人の祭典」に出席する戸田先生と池田先生。この閉会式で戸田先生は青年への「遺訓(いくん)の第一」として、「原水爆禁止宣言」を発表する(1957年9月8日)
苦境越え「原水爆禁止宣言」に結実

 「少年日本」は、戸田先生の事業の経営難から休刊。池田先生は苦境の戸田先生を支え抜き、戸田第2代会長が誕生し、75万世帯への前進が始まる。
 「原子野の花」掲載の8年後――戸田先生は「原水爆禁止宣言」を発表する。
 「……核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、今、世界に起こっているが、私はその奥にかくされているところの爪をもぎ取りたいと思う。
 それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります」(1957年9月)
 池田先生はこの宣言について「原水爆の使用を正当化しようとする人間の心を、打ち砕こうとしたのである。いわば、生命の魔性への『死刑宣告』ともいえよう」と述べている。
 烈々たる宣言は、創価学会の平和運動の原点となり、これまで数多くの試みを生み出してきた。近年では、国際パートナーとして歩みを共にしてきたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞受賞が記憶に新しい(2017年)。
 こうした取り組みの源流の一つは、子どもたちに「核廃絶」のバトンを託そうと、GHQの検閲下、児童小説で「原爆の悲惨」を訴えた師弟の心だったといえよう。

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