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貫き果たしてこそ「誓願」 

2021年06月27日 | 妙法

貫き果たしてこそ「誓願」 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2021年6月27日

 【写真説明】石灰岩の白い尾根が青空に映える。その名もサント・ビクトワール山(聖なる勝利山)。1991年(平成3年)6月、池田大作先生が南仏トレッツで撮影した。
 今年も7月3日が巡り来る。45年(昭和20年)のこの日、戸田城聖先生が出獄。12年後の同日、池田先生は事実無根の公職選挙法違反の容疑で不当逮捕された。「7・3」とは、民衆の勝利へ不退の誓いに立つ峻厳なる記念日である。
 池田先生は後年、詠んだ。「忘れまじ 七月三日の この文字は 師弟不敗の 記なるかな」
 我らが目指す凱歌の頂は目前。力走に次ぐ力走を。闘争に次ぐ闘争を。師と共に! 同志と共に!
 

池田先生の言葉

 誓願の人生を歩むうえで
 最も不可欠な要件は
 いったい何であろうか。
 それは「不退の心」だ。
 誓願は、
 貫き果たしてこそ、
 真の誓願である。
  
 立つべき時に
 立つかどうか。
 それで
 人間の真価は決まる。
 肩書でもない。
 立場でもない。
 大事なのは、
 苦難を恐れず、
 師と「不二の心」で
 立ち上がる勇気である。
  
 誰だって、
 勇気を出す時は
 ドキドキするし、
 恐怖を覚える。
 「こわくない」のが
 勇者なのではない。
 ふるえながらでも
 「一歩前に出る人」が
 「勇気ある人」なのだ。
  
 自分の心がどうかである。
 他人が決めるのでも、
 環境で決まるのでもない。
 愚痴や文句を言う前に、
 一歩踏み出してみよう。
 「自分は、これでいく」と
 腹を決めるのだ。
 そして、
 強く朗らかに進むのだ。
 最高峰を目指して
 ベストを尽くし、
 「これでよし」と
 悔いなく叫ぶのだ。
  
 私は心から願う。
 愛する同志が、
 喜び勇んで
 広布に邁進することを!
 私は懸命に祈る。
 一人ももれなく、
 絶対の幸福の人生を
 悔いなく勝ち切ることを!
  
 広宣流布とは、
 全人類を幸福にし、
 平和を築きゆく大偉業だ。
 人生を懸けて悔いなき、
 最高にして
 名誉ある
 大目的ではないか。
 進もう!
 師弟不二の王道を!
 登ろう!
 未踏の
 広布の王者の山を!


第6回「大阪の戦い〈下〉」

2021年06月25日 | 妙法

第6回「大阪の戦い〈下〉」 信心と団結でしか勝てぬことを忘れるな 2021年6月25日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【大逆転劇への心得】
一、執念で勝つ
一、喜び勇んで勝つ
一、団結で勝つ
(「随筆 希望の大道」<庶民の勝利が学会精神>から)
「もう一度、私が指揮を執ります! 一緒に戦おう!」――第3回関西総会で、池田先生は呼び掛け、勇壮な舞を披露した(1981年11月22日、関西戸田記念講堂で)
「もう一度、私が指揮を執ります! 一緒に戦おう!」――第3回関西総会で、池田先生は呼び掛け、勇壮な舞を披露した(1981年11月22日、関西戸田記念講堂で)
リーダーが先頭に

 大阪の名菓として知られる粟おこしは、米を細かく砕き、水あめで固めたお菓子だ。
 1956年(昭和31年)の「大阪の戦い」の折、池田先生は関西の同志と粟おこしを口にし、“粟おこしは団結の姿です”と、ユーモアたっぷりに語ったという。小さな一粒一粒も、一つにまとまったとき、名菓になることを団結に例えたのである。
 「団結」こそが、広宣流布の短期決戦における最重要の勝利の要諦であることを、先生は何度も、関西の同志に訴えた。
 ある時、一人の婦人が先生に悩みを吐露した。リーダーとして、どのように活動を進めていけばよいのかが分からない、と。先生は扇子を取り出した。
 「扇子は、“要”が回転して開いていきますね。皆を動かそうとするのではなく、あなた自身が戦い、成長していけばいいのです」
 団結とは、皆を動かすことではない。リーダー自らが先頭に立って、祈り、動き、語っていくことから生まれることを力説した。
 先生は団結について記している。
 「堅固な団結は、必ず各人の『境涯の拡大』をともなう。広宣流布の回転に心を合わせれば、自分中心の小さなエゴの殻を破っていけるからだ」
 激戦の中、東京からの派遣幹部と地元幹部に感情的なもつれが生じた。「小さなエゴ」にとらわれていた。先生は、互いの言い分を聞いた後、厳しく諭した。
 「意見の衝突はよい。しかし、感情の衝突は喧嘩です。これほど味方の戦力を潰すものはない」
 組織の中で起こる非難・中傷は、ことごとく“魔の仕業”であることを強く説いた。
 先生の指揮のもと、大阪が大躍進を遂げる一方、東京は苦戦を強いられていた。先生は、「信心と団結でしか、勝てぬことを忘れるな」「われは、断じて関西で指揮をとる。東京の闘争に栄光あれ」(『若き日の日記』、1956年4月10日)と、東京の同志に呼び掛けるかのように書きとどめた。

【「若き日の日記」1956年(昭和31年)4月22日から】
前途は多難あり、嵐あり。
その中に勝ちゆく「栄光」が、
真実の「栄光」か。
「大阪の戦い」で、池田先生は「勇戦」と揮ごう。それを大切に保管していた同志が、1983年3月、“先生のもとにお返ししたい”と届けた。先生は“その代わりに”と、この書をしたためた(同月、関西文化会館で)
「大阪の戦い」で、池田先生は「勇戦」と揮ごう。それを大切に保管していた同志が、1983年3月、“先生のもとにお返ししたい”と届けた。先生は“その代わりに”と、この書をしたためた(同月、関西文化会館で)
頑張る時は「今」

 「特筆すべき事は、全くの信心したての人々が揃って折伏に励んでいる姿である」――1956年(昭和31年)5月6日付の本紙の記事。なぜ関西は躍進しているのか。その要因として、池田先生を中心とした強固な異体同心の団結とともに、「歓喜」を挙げている。
 生活は苦しかった。入会から日も浅く、信心もよく分からなかった。しかし、とにかく楽しかった――。「大阪の戦い」を戦った友が、異口同音に語ることである。
 その「歓喜」の源泉こそ、池田先生の激闘である。例えば、4月末から5月にかけての1週間だけでも、先生は大阪と東京を2往復。夜行列車の移動では、車中で原稿を書き、同志への激励の一文もしたためている。
 戸田先生によって徹底して磨かれ、鍛えられた「常在戦場」の一念は、どんな時も同志の激励のために注がれたのである。
 本紙が関西の圧倒的な勢いを報じた9日後の5月15日、6人の学会員が逮捕された。すでに個々別々で解決していた出来事を蒸し返し、組織的な暴力があったかのように見せる警察の思惑だった。大阪の新聞は夕刊で、学会が「暴力宗教」であると報じた。
 翌日、先生は事件の善後策を講じるために奔走。17日、筆に墨を含ませて、「電光石火」と大書した。この日に行われた早朝の御書講義。先生は関西の友の動揺を吹き払う師子吼を放った。
 「頑張る時は今です。信心の利剣で、魔を打ち破るのも今です!」「正しい仏法が、正しい信仰が、最後に必ず勝たないわけがない」
 早朝講義の脈動は、この日の夜にかけ、大阪全域に一気に広がっていった。
 暴力宗教というデマを信じる友人もいた。しかし、同志は「その宗教の座談会を見に来ませんか?」と切り返した。
 先生は、「見方が変わる、つまり一念が変われば、全ての苦難が自身の人間革命の糧となる」と記している。関西の同志は、相手の学会に対する「見方」を変える言論によって、「味方」を広げていったのである。

色鮮やかな虹が、大阪城公園に姿を現す(1995年11月、池田先生撮影)。かつて先生は、関西7府県の“虹のスクラム”の前進をたたえた
色鮮やかな虹が、大阪城公園に姿を現す(1995年11月、池田先生撮影)。かつて先生は、関西7府県の“虹のスクラム”の前進をたたえた
敵も味方に変える勇気

 法華経の文に「魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る」(御書1242ページ)とある。いかなる相手でも、自分の信心が強くあれば、広宣流布のために働く存在に変わっていく、との意味だ。この御文を、先生は「大阪の戦い」の中で、幾度も拝した。
 敵をも味方に変えていく。その勇気の行動こそ、広布拡大の根本だ。
 56年6月、参院選の公示の日、先生は、御本尊への祈りに、新たな祈念を加えた。「大阪のいかなる人であれ、このたびの戦列に加わって、味方となること」である。先生の祈りに呼応し、大阪各地で気迫と執念の対話拡大が展開されていった。
 「大阪の戦い」の最終日、先生は早朝5時ごろに目を覚ました。一人のリーダーがそっと玄関のドアを開け、足早に同志のもとへ駆けていく姿を目にした。
 この時、先生は“これでよし、勝てる!”と確信する。リーダーが最後の最後まで、緊張感を持続している姿勢が、そこにあったからである。その直後、電話が鳴った。戸田先生からだった。「関西はどうだい?」との問い掛けに、池田先生は「こちらは勝ちます!」と即答した。
 「大阪の戦い」の出発の時、先生は関西の友に「今度の関西の戦いは勝った!」と宣言した。最終日には、師に勝利の確信を伝えた。そして、実際に「まさかが実現」と世間を驚嘆させる大逆転劇を飾ったのである。
 先生は語っている。「今の皆さん方の真剣な行動が、後世の教科書になっていく」「皆がどう戦ったのかを、50年後、100年後の同志が学ぶ。そういう時代が必ず来るのだ」
 「大阪の戦い」から65周年となる本年は、2030年の学会創立100周年へ向けての初陣の年。コロナ禍の中で、立正安国の実現のために、いかに動いたのか。未曽有の危機にあっても、広布の誓願を燃やし続けることができたのか。
 私たちは折に触れて、「大阪の戦い」から法華経の将軍学を学ぶ。今の私たちの必死の激闘もまた、50年後、100年後の同志が、“コロナ禍でどう戦ったのか”を知る「後世の教科書」となるに違いない。


〈季節の詩〉 奈良 鹿躍る若草山2021年6月24日

2021年06月24日 | 妙法

〈季節の詩〉 奈良 鹿躍る若草山2021年6月24日

01:57

 奈良市街を望む若草山に爽やかな風が吹き抜ける。夏毛に生え変わった鹿たちが、一面の新芽を食んでいた。今は新たな生命が生まれる季節。子鹿が母鹿に甘えながら、元気に駆け回っている。

新芽を食む鹿たち
新芽を食む鹿たち
奈良公園の「鹿苑」で一般公開されている子鹿
奈良公園の「鹿苑」で一般公開されている子鹿

 市内各所に国宝や特別史跡など、数多くの文化財が残る古都・奈良。かつて池田先生も、正倉院や平城宮跡を視察に訪れている。

平城宮跡に復元された朱雀門
平城宮跡に復元された朱雀門

 先生はつづった。
 「万葉の緑野は、地涌の菩薩が敢然と躍り出る、新しき民衆の文化の大地である。そして、『人間讃歌』の平和の世紀へ、新しき旅立ちの天地である」

雄鹿にはこの時期、枝分かれした立派な角が
雄鹿にはこの時期、枝分かれした立派な角が

 友は駆ける。“理想の奈良”へ、友情のシルクロードを広げながら。(8日=種村伸広記者・綿谷満久記者・安部光弘記者撮影


沖縄慰霊の日

2021年06月23日 | 妙法

沖縄慰霊の日 世界平和の誓い2021年6月23日

01:43

 きょう23日は沖縄の「慰霊の日」。沖縄戦等の戦没者を追悼し、平和を願う日である。

沖縄・南部戦跡の平和祈念公園(糸満市)。沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館や、戦没者の氏名を刻んだ「平和の礎」がある
沖縄・南部戦跡の平和祈念公園(糸満市)。沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館や、戦没者の氏名を刻んだ「平和の礎」がある

 平和祈念公園がある本島南部は沖縄戦最後の激戦地。1960年7月、沖縄を初訪問した池田先生は南部戦跡へ。「ひめゆりの塔」や「沖縄師範健児之塔」を訪れ、摩文仁の丘で同志と語らった。

 以来、沖縄の安穏と幸福を願う先生の思いは変わらない。83年には恩納村の沖縄研修道場を初訪問。道場内にあった米軍の核ミサイル「メースB」の発射台跡を視察し、「そのまま残して平和を象徴するものに」と提案した。翌年、発射台は「世界平和の碑」へと生まれ変わった。

 師との誓い新たに、平和への勇気の一歩を。その行動が崩れざる平和の礎を築く。


沖縄慰霊の日

2021年06月23日 | 妙法

沖縄慰霊の日 世界平和の誓い2021年6月23日

01:43

 きょう23日は沖縄の「慰霊の日」。沖縄戦等の戦没者を追悼し、平和を願う日である。

沖縄・南部戦跡の平和祈念公園(糸満市)。沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館や、戦没者の氏名を刻んだ「平和の礎」がある
沖縄・南部戦跡の平和祈念公園(糸満市)。沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館や、戦没者の氏名を刻んだ「平和の礎」がある

 平和祈念公園がある本島南部は沖縄戦最後の激戦地。1960年7月、沖縄を初訪問した池田先生は南部戦跡へ。「ひめゆりの塔」や「沖縄師範健児之塔」を訪れ、摩文仁の丘で同志と語らった。

 以来、沖縄の安穏と幸福を願う先生の思いは変わらない。83年には恩納村の沖縄研修道場を初訪問。道場内にあった米軍の核ミサイル「メースB」の発射台跡を視察し、「そのまま残して平和を象徴するものに」と提案した。翌年、発射台は「世界平和の碑」へと生まれ変わった。

 師との誓い新たに、平和への勇気の一歩を。その行動が崩れざる平和の礎を築く。