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札幌創価幼稚園で節分の行事を楽しく

2022年02月04日 | ネコ・癒やし

札幌創価幼稚園で節分の行事を楽しく2022年2月4日

鬼さんと触れ合い、「会えてうれしい!」と喜ぶ園児たち(札幌創価幼稚園で)
鬼さんと触れ合い、「会えてうれしい!」と喜ぶ園児たち(札幌創価幼稚園で)

 北海道・札幌創価幼稚園の節分行事が3日、同園内で行われた。
 
 園児らは、自作の“鬼のお面”をつけ、園内を装飾して“赤鬼さん”と“緑鬼さん”を大歓迎。昨年完成したばかりの新園舎を鬼たちが迷わないように、地図が用意された。そして、一緒に記念撮影を行い、心を通わせた。

“赤鬼さん”と“緑鬼さん”と記念撮影をする園児ら(札幌創価幼稚園で)
“赤鬼さん”と“緑鬼さん”と記念撮影をする園児ら(札幌創価幼稚園で)

 最後に、音楽に合わせて皆で踊り、楽しいひとときを過ごした。
 
 坂本園長は、「心の中にある“弱虫鬼”“いじめっ子鬼”を退治して、“太陽の子”らしく、優しい心と明るい心を大切にしましょう」と呼び掛けた。


酪農家の“うっしっし”な話

2022年02月03日 | ネコ・癒やし

インタビュー〉 いつの間にかSDGsになっていた酪農家の“うっしっし”な話2022年2月2日

  • 〈SDGs×SEIKYO〉 ヒューマンストーリー

 北の大地で、広大なオーガニック牧場を運営する酪農家の支倉博さん(49)=北海道・興部町、支部長。2010年から牛のふん尿を利用したバイオマス事業に参画し、14年からはオーガニックビーフも手掛けています。
 道内屈指のエコな酪農家に、“うっしっし”な取り組みを聞きました。(取材=掛川俊明、菅野弘二)

支倉さん㊧と妻・小百合さん
支倉さん㊧と妻・小百合さん
取材時、興部町や紋別市には流氷が
取材時、興部町や紋別市には流氷が
■人の3倍もの牛であふれている町

 ――北海道・興部町の人口は約3700人。それに対して、乳牛は約1万2000頭。支倉牧場も東京ドーム36個分の牧草地で340頭の牛を飼育されています。

 うちの牧場は、祖父が牛1頭から始めて、1971年(昭和46年)に興部町に移ってきたんです。その後、祖父とおやじで土地を開拓し、規模を拡大してきました。
 おやじはとにかく牛が大好きで、狭いスペースで動けないのはかわいそうだと、86年に自由に動き回れるフリーストール(放し飼い牛舎)を導入したんです。当時、自分は中学生でしたが、一緒にコンクリートを練り上げて、牛舎造りを手伝いました。

広大な支倉牧場
広大な支倉牧場

 ――札幌の農業専門学校で学び、実家に戻った直後の92年、道内で2番目の早さで、パソコンを使った総合管理システムも導入されました。

 酪農は家族経営が主流で、当時は過酷な労働環境。うちのおやじも過労で何度も倒れていたし、私も20歳でヘルニアになったしね。興部はもともと人口が少ない上に、すごい勢いで過疎化も進んでいた。酪農の担い手不足は、今に始まった話じゃないんですよ。
 だから30年前にシステムを導入し、作業を効率化して。牛の脚にIDタグを着けて、毎朝晩の乳量や乳質、運動量を把握し、搾乳時に乳房炎になっていないか、チェックできるようにもなりました。

搾乳作業を進める
搾乳作業を進める
■「ダイジョーブ!」と「オッケー!」しか言わない

 ――餌やりの24時間オートメーション化も実現。これも道内初の試みだったとか。

 うちのオカンは苦労もしたし、自分が仕事に追われて子育てをできなかった経験から、「嫁は、子どもが大きくなるまでは、牧場仕事はしなくていい!」って。それで妻〈小百合さん(47)=地区女性部長〉は子育てに専念してました。規模も大きいし、従業員を雇うために、労働環境を整えないといけなかったわけです。93年には「農事組合法人」にして、福利厚生も整えました。
 その上で、さらに作業効率を上げるために、大型の牧草収穫機も2台買って。そしたら、町外の牧場からも「うちの牧草も刈ってくれ」って頼まれて。

「底に愛があります」
「底に愛があります」

 ――課題を見つめ、先手を打つ。先進的な取り組みに頭が下がります。

 そんなカッコいい話じゃなくて、当時は(創価学会の)男子部の活動も忙しくて。
 ここら辺じゃ、1人に会うのにも車で1時間かかるんですよ。どうすれば仕事が早く終わるかって、題目あげる中で知恵が湧いて、助けてくれる良い縁にも恵まれたって感じですね。
 今は、ベトナムからの技能実習生が2人、住み込みで働いてくれています。ニュースではいろんな問題も報道されてますけど、私は彼らに何を言われても「ダイジョーブ!」と「オッケー!」しか言わねえです(笑い)。

■知らないうちに温室効果ガス削減に

 ――牛のふん尿や生ごみをメタン発酵させて、発電・熱利用するバイオマス事業。これも道内の酪農業のモデルケースとして、2010年から始められています。

 うちの牧場では、乳牛の排せつ物は年間5000トンほど出ます。町には至る所に牧場があるので、臭いが辺りに充満して、転勤してきた人とかはびっくりするんです。
 今は廃校になったけれど、当時は牧場の目の前に小学校があったから、子どもたちのためにも、その臭いを何とかしたくてね。
 それに、不要な廃棄物からエネルギーを生み出すなんて、まさに「価値創造」じゃないですか! これぞ“うっしっし”な酪農家ですよ!
  
 町としては、ふん尿と同じく漁業のごみや汚泥も課題になっていて、農機具メーカーから話を持ち掛けられた時は、もうけになる話じゃなかったんだけど、こりゃ地域のためにも、学会員として、やんなきゃいけねえだろって熱くなったんですよ。

 ――バイオマス事業を通して、ふん尿を発酵処理し、良質な肥料(消化液)も製造。その肥料で牧草をオーガニック(農薬や化学肥料に頼らない有機農法)で育てるようにもなったと。

 ある企業から「消化液があるなら、良質なオーガニック飼料を作れるんじゃないか」と頼まれて。それで、バイオマスでできる肥料(消化液)を使った委託栽培を引き受けて、そのうちに自分の牧場でもオーガニック牧草に切り替えたんです。
 今では170ヘクタール全てが有機牧草地になって、有機JAS認証の事業者にもなりました。
  
 実際、バイオマス事業は採算の上では、やらないほうが良かった面もあるんですけど、そこに挑戦したおかげで、今は有機栽培に国から補助金も出るようになったし、不思議とつながってきたなと感じています。
 それに、16年には、町のバイオマスガスプラントが稼働を始めて。酪農だけではなく漁業の生ごみや汚泥の再利用も含め、町全体の取り組みになったんで良かったなと思ってます。

バイオマスのガスプラント
バイオマスのガスプラント

 ――牛のふん尿などが、温室効果ガスを増加させるとの指摘もあります。それに対し、有機農法は化学合成の肥料や農薬による水質汚染を防止し、適切な土壌管理とともに、気候変動の抑制につながるともいわれています。
 
 別に“地球温暖化対策のために”とか、そんな崇高な目的で始めたわけじゃなくて。ただ、くせえからなんとかしないとって感じですよ(笑い)。
 「SDGs」っていわれても、本気でやってる人からしたら申し訳ない限りだし、自分としては人との縁を大切に、地域のために行動してきただけなんです。
 ただ、誰に認められなくても、学会員として、地域に恥ずかしい生き方だけはしてこなかった。男子部の先輩にたたき込まれてきたんで、そこだけは曲げたことはないです。

■私の人生、まるで「使用前」「使用後」みたいな感じ

 ――祖父母は、興部町の創価学会の一粒種。旧習深い地域で無理解と立ち向かいながら、親子二代で信心を貫き、今の規模まで牧場を拡大されてきました。

 私も信心する前に比べたら、まるで「使用前」「使用後」みたいな感じですよ。自分にも他人にも甘い、いい加減な人間でした。それを先輩が励ましてくれ、叱咤、叱咤、叱咤で育ててくれたんです(笑い)。
 圏や県の男子部長時代は、ホントよく怒られました。後輩と接する姿勢や、会合を運営する心構え、広布の戦いへの執念とか、人生にも通じる人間としての基礎をたたき込まれました。
 当時は「この先輩、いなくなってくれないかな」って何度も思いましたけど(笑い)。今は本当に感謝してます。

 ――8年前からはオーガニックビーフの畜産にも挑戦されているそうですね。オーガニックビーフは、国産牛では0・002%しかないといわれています。

 オーガニックの牧草や有機の餌だけを食べて育った肉牛を「オーガニックビーフ」と呼ぶんです。正直、乳牛も有機の飼料だけで育てたいんですが、乳量も減るし、コストがかさみすぎて今はまだ無理です。それでも何か始めたくて、14年から有機の牧草で肉牛を飼育し、6年かけて、ようやく完成・出荷することができました。
 今は稲作、畑作、酪農、加工品生産など、道内各地のいろんな仲間たちと一緒に「グリーン・ホライズン」というグループも立ち上げて、オーガニックのモデルケースに挑戦しています。

100%オーガニック素材だけで作った支倉牧場のカレー
100%オーガニック素材だけで作った支倉牧場のカレー

 ――常に新しいことへ挑戦し続ける支倉さんの生き方に感動します。その原動力は?
  
 きっと、周りの農家からは“あいつ、また何かやっているなあ”ってあきれられていると思いますよ(笑い)。
 自分たちが食べていくためには、エコとかSDGsとか言ってられない場合もあるし、経営を成り立たせるために、スケールメリット(規模拡大による利益)を追求することが悪いわけでもない。
 でも、未来まで持続可能な酪農を考えた時、規模拡大だけではなく、牛にも人にも地球にも優しい、小さなモデルケースになれたらって思ってます。
 まあ、迷った時はいつも「弟子として、師匠に恥ずかしくない生き方ができているのか!」っていう先輩の言葉を思い出すようにしています。それだけは生命に、たたき込まれてきたんで。
  
  
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興部町の夜空に広がる満天の星
興部町の夜空に広がる満天の星

ニタマ駅長7歳の誕生会、和歌山

2017年03月04日 | ネコ・癒やし

ニタマ駅長7歳の誕生会、和歌山 こにゃん市長も参加

7歳の誕生日会で、ケーキを贈られた和歌山電鉄貴志駅の駅長「ニタマ」=3日午前、和歌山県紀の川市

 和歌山電鉄の貴志川線貴志駅(和歌山県紀の川市)で3日、7歳になった三毛猫駅長「ニタマ」の誕生日会が開かれ、小嶋光信社長から「おたんじょうびおめでとう」と書かれた猫用のケーキが贈られた。

 会には滋賀県湖南市のインターネット上の架空動物都市「こにゃん市」で昨年4月、「市長」に選ばれた猫「ジュリアーノ」も参加。「おめでとう」と「第1秘書」の肩書を持つ飼い主の男性の口を借りて祝福した。

 約30人のファンが駆け付け、徳島市の会社員井口陽香さん(29)は「7歳になってニタマも貫禄が出てきた。ジュリアーノもかわいかった」と笑顔で話した。


河合奈保子のボディには“80年代の夢”がつまってる

2016年09月24日 | ネコ・癒やし

中森明夫「河合奈保子のボディには“80年代の夢”がつまってる」


 河合奈保子の30年ぶりの写真集「再会の夏」が大ヒットするなど、1980年代のアイドルブームが復活している。アイドル文化に造詣の深い中森明夫氏がその理由を紐解く。

*  *  *

月刊平凡 GOLDEN BEST!! Vol.1 河合奈保子写真集 再会の夏Amazonで購入する© Asahi Shimbun Publications Inc. 提供 月刊平凡 GOLDEN BEST!! Vol.1 河合奈保子写真集 再会の夏…

 河合奈保子の写真集がバカ売れしている。懐かしアイドルの水着写真が週刊誌の巻頭グラビアを毎週のように飾っている。いったい今はいつの時代なんだ!?
 突如、巻き起こった80年代アイドルの再燃ブーム。週刊誌や紙の写真集を購入するのが今や40代以上であり、現在の中年男子層の青春時代のアイドルこそが80年代アイドルなのだ。
彼らが40~50代の小金を使える年齢となって、懐かしグッズが「大人買い」される感覚で復刻版アイドル写真集がバカ売れって構図なんだろう。

 80年代のアイドルブームは熱かった。スマホもネットもなければ、握手会も盛んでなく、「会いに行けるアイドル」もいない。
テレビや雑誌グラビア等、メディアを通して輝く美少女らにファンは「遠い愛」を抱いていた。まずアイドルは単体だった。AKB48やももいろクローバーZや現在ブームの群体(グループ)アイドルらとは、違う。
今やアイドルは分業化された。グラビアアイドルやバラドルやアイドル女優や。80年代は一人のアイドルが歌も唄えば、ドラマもやり、バラエティにも出る「総合アイドル」だった。
そんな「総合アイドル」がテレビの水泳大会や水着グラビアに登場してくれるのがありがたい! という感覚を(今や中高年となった)80年代アイドルのファンらは持ち続けている。

 天皇陛下の生前退位論議や結成28年のSMAPの解散や──平成の終わりが囁かれる。今や時代の転換点。テレビのCMではなめ猫が踊り、ボディコン姿の田中美奈子が「ナウい~!」と奇声を上げる。
80年代とは実は昭和末で、最後に景気のよかった頃だ。80年代アイドルの水着写真集を見て「このポッチャリ体形がいいんだよな~」と中年男子はウットリとしていた。
なるほど現在のアイドルにはないふっくらとした体形に好景気の頃の記憶を甦らせているのかも。
河合奈保子の水着写真のはちきれんばかりの豊かな胸やふっくらしたボディには(バブルとは言うまい)、そう、“80年代の夢”がつまっているのだ!!

※週刊朝日 2016年9月30日号


ニタマ

2015年09月07日 | ネコ・癒やし

猫のニタマ駅長、就任後初行事 ベンチの除幕式、和歌山

「たま2世」駅長として初の公式行事出席後、ファンに囲まれる「ニタマ」=6日、和歌山県紀の川市の和歌山電鉄貴志駅

 和歌山電鉄の貴志川線貴志駅(和歌山県紀の川市)で「たま2世」駅長を襲名した三毛猫「ニタマ」が6日、駅に寄贈された木製ベンチの除幕式に出席した。
6月に死んだ前任駅長の三毛猫「たま」の後継として8月に駅長に就任して以降、初の公式行事。

 ニタマは同社の小嶋光信社長に抱えられ、ベンチを寄贈した和歌山東南ロータリークラブの平平治会長らとともに駅のホームで除幕。ファンから名前を呼ばれると振り向くなど、堂々と仕事をこなした。

 小嶋社長は「初仕事なので萎縮するかと思ったが、落ち着いて立派だった」と満足げ。