毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

喜びの春風を届けよう

2022年03月27日 | 妙法

喜びの春風を届けよう 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2022年3月27日

 【写真説明】淡いピンクのサクラ、青いデルフィニウム……。色とりどりの花々が鮮やかに咲き薫る。暖かな陽気に誘われて、1羽のヒヨドリがやって来た。2020年(令和2年)3月の都内。池田大作先生が、その瞬間をカメラに収めた。
 春本番の今この時を喜ぶかのように、花が舞い、小鳥は歌う。御書には「春の初めの御悦び、木に花のさくがごとく、山に草の生い出ずるがごとしと、我も人も悦び入って候」(新1929・全1585)と。
 友情の花園も動き歩いた分だけ、爛漫と広がる。古き友人を大切にしながら、新しき出会いを求めて、足取り軽く、対話の季節を駆け抜けよう。
 

池田先生の言葉

 春が来た!
 寒風を乗り越えて、
 春が来た!
 春は喜びだ!
 正しき信仰に生き抜く
 私たちの生命は、
 三世の諸仏の
 護りと笑顔に、
 春のごとく包まれている。
  
 勇気を出して、
 一人の友に会う。
 相手の幸福を祈り、
 誠実に、
 情熱込めて語っていく。
 その一人立つ挑戦が、
 己心の壁を破り、
 友の心を動かす。
  
 自分から周囲へ、
 わが家から近隣へ、
 春風のごとく、
 自然のうちに、
 温かい声、明るい声、
 力強い声を
 広げゆくところに、
 民衆の幸福と
 平和の地盤が
 出来上がっていくのだ。
  
 何歳になっても、
 新しい出会いを求め、
 友人を
 つくっていくことだ。
 友が増えれば、
 世界が広がる。
 未来が広がる。
  
 声は、人の心を動かし、
 社会、世界を変えていく。
 声をあげることから、
 新しい一歩が始まる。
  
 楽しくやろう。
 肩肘張る必要はない。
 心軽やかに、
 どんどん人と会い、
 信心の喜びと
 確信を語ることだ。
 そこに
 自身の人間革命の修行も、
 広宣流布の拡大も、
 全部、含まれている。
  
 私たちが
 仏縁を結んだ分だけ、
 人々の生命に具わる
 仏の生命が呼び起こされ、
 地域も輝きを増していく。
 さあ、
 勇んで打って出よう!
 あの友、この友の心に、
 希望と励ましの
 春風を届けよう!


第15回「夕張炭労事件〈上〉」 心の暖炉に希望の火を赤々と

2022年03月25日 | 妙法

第15回「夕張炭労事件〈上〉」 心の暖炉に希望の火を赤々と2022年3月25日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【学生部への指針】
一、戦う学生部たれ!
一、正と邪を、はっきりさせる学生部たれ!
一、学生部、ここにあり、という旗を立てよ!
(「第1回全国学生部幹部会」〈1997年4月15日〉のスピーチから)
学生部結成から1年後の1958年6月29日、池田先生は第1回学生部総会に出席(東京・目黒公会堂で)。“学問に挑戦し抜いた者こそが、新時代の最高の指導者である”と語った
学生部結成から1年後の1958年6月29日、池田先生は第1回学生部総会に出席(東京・目黒公会堂で)。“学問に挑戦し抜いた者こそが、新時代の最高の指導者である”と語った
◆いわれなき弾圧

 「16年前のあの日、僕は、北海の地にいた。吹き上げる人間讃歌の声を阻む、かたくなな勢力は、あの時も怒濤となって、荒れ狂っていた」――。1973年(昭和48年)6月30日、池田先生は、学生部結成16周年に際し、メッセージを寄せた。そこには、16年前に起こった「夕張炭労事件」での真情が克明に記されていた。これは、学生部結成と切り離すことのできない歴史である。
 「青年らしく、貧しき人々の家々を訪ね、窓辺に勇気の花を咲かせ、心の暖炉に希望の火を赤々と灯した。この人々のために、僕は邪な行為を憎んだ。分厚い壁を前に、一歩も退くことは、できなかった」
 「夕張炭労事件」が起きたのは57年(同32年)。同年5月、炭労(日本炭鉱労働組合)が、新たな民衆勢力として躍進する学会を敵視する方針を打ち出した。相前後して、北海道最大の炭労組織・夕張炭労が、本格的な学会員の排斥に動き出した。
 当時、炭労といえば「泣く子と炭労には勝てない」といわれるほど、組合員に対して絶大な権力を誇っていた。
 夕張での学会員に対する圧力は、前年の夏頃から始まっていた。参院選で、学会推薦の候補が台頭したことがきっかけだった。炭労の組合は、学会員の日常生活の細部にまで首を突っ込んだ。圧力は次第に陰湿化し、悪意のビラがあちこちに貼られ、有線放送を使ってあらぬ中傷まで流された。
 組合に所属する学会員の勤務態度は非常に良好であり、一人一人が職場で実証を示していた。“仕事で貢献しよう”“地域を良くしよう”と活動する学会員に対する圧力は、いわれなき弾圧にほかならなかった。
 大人だけでなく、子どもまでもが村八分にされた。当時のメンバーは手記につづっている。「私たちがとやかく言われたり、いじめられたりするのは、少しも苦しくありませんでした。でも、子どもが仲間に入れてもらえない、と小さな胸を痛めている姿、じっと我慢している姿を見るたびに涙が後から後から流れました」
  

信心の世界が、最高に愉しく、美しい。
指導に行くことは、結局、自身が、
指導を受けに行くようなものだ。
【「若き日の日記」1957年(昭和32年)6月1日から】
◆タンポポの笑顔

 夕張に弘教の波が広がり、地区が誕生したのは1955年(昭和30年)秋のこと。夕張地区は文京支部に所属した。
 57年(同32年)1月13日、文京支部長代理だった池田先生は、厳寒の夕張を初めて訪れた。
 先生は、札幌から汽車で鹿ノ谷駅に到着。辺りは猛吹雪だった。当時は石炭の汽車で、先生の顔、コートは、すすで汚れていた。
 「みんなが大変ななか、どんな思いで東京まで来ているか、それを分かち合おうと、きょうは汽車で来ました」と、先生は語った。
 夕張に到着する前日、先生は日記につづっている。「厳しき、怒濤にたゆまず、挑みゆく師弟」「明日は、独り北海道だ」(『若き日の日記』、1957年1月12日)
 この時、先生は「山口開拓指導」の陣頭指揮を執っており、山口訪問の予定も控えていた。激務の合間を縫って夕張を訪れ、一人一人の心に“希望の明かり”をともしたのである。
 ある男性には、格言を贈った――「見るもよし 見ざるもよし されど我は咲くなり」。誰がどう見ていようが、見ていなかろうが、自ら決めた信念を貫く。それは、恩師・戸田先生を支え抜く池田先生の生き方そのものであった。
 また、ある女性に対しては、「ふまれても ふまれても なほ咲くタンポポの笑顔かな」と、ノートに記した。“どんなことがあっても明るく前進を”との強い思いが込められていた。
 5カ月後、炭労から学会員への弾圧は、いよいよ激しさを増していった。
 ある炭鉱では、組合の役員が“創価学会の信心は、組合の団結を崩している。このままでいけば、組合を辞めてもらうより仕方がない”と迫った。
 夕張の学会員の多くは、炭鉱で働く組合員である。会社と組合はユニオンショップ制で、組合員の資格を失うことは、即会社からの解雇を意味していた。しかし、メンバーたちは、弾圧に屈することなく、求道の炎をいっそう燃やした。
 6月27日、北海道炭労は「創価学会撲滅闘争」なるスケジュールを打ち出し、7月からの3カ月間で、学会員の改宗に当たることなどを示した。それは、一宗教団体への弾圧にとどまらず、「信教の自由」という人間の権利を踏みにじる、卑劣極まりない暴挙であった。
 池田先生は、夕張の同志が直面している状況を聞くと、深く心に誓った。
 “彼らを断じて守らねばならぬ!”
 炭労は学会に対し、“公場対決”を要求。その日は7月4日と決まった。6月29日には、地元紙による紙上討論会が学会と炭労の間で行われることになった。
 28日、池田先生は北海道の地を踏む。28・29日と札幌で討論会に出場する幹部らを激励し、「何事も学会精神だ。討論会といっても、根本は折伏精神です」と勝利の要諦を伝えた。
 討論会が終わると、録音テープを聞きながら、先生は言った。
 「成功だったね、こちらの勝ちだ」
 時を同じくして夕張から電話が入った。炭労側から“公場対決”中止の申し入れがあったのである。先生は、すぐさま夕張へと向かった。

北海道「雪の文化祭」で、厳寒の中、同志の激励に回る池田先生(1971年2月26日、札幌市のテイネオリンピア〈当時〉で)。同文化祭や夕張初訪問等、先生の雪の季節の来道は11回に上る
北海道「雪の文化祭」で、厳寒の中、同志の激励に回る池田先生(1971年2月26日、札幌市のテイネオリンピア〈当時〉で)。同文化祭や夕張初訪問等、先生の雪の季節の来道は11回に上る
◆「先駆の誇り」を託す

 「私が来たからには、もう心配することはありません」――。夕張に到着した池田先生は、弾圧に苦しんできた同志を抱きかかえるように激励した。
 「創価学会は、真実の民衆の団体です。初めから勝負は決しているのです」
 夜の会合では、「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんがごとし」(新1435・全1056)との御書の一節を引いた。信心で積んだ福徳も、少しの謗法で無に帰することを例えた御文である。
 先生はこう強調した。
 「どんな障魔も、この純粋な信仰で打ち破ることができるのです。正義の学会を弾圧するものは、御書に照らして衰退することは間違いありません」
 先生の渾身の励ましは、夕張の同志の勇気を沸き立たせた。
 6月30日、先生は2度にわたり、炭労との会見を申し込むが、炭労側は会うことすら拒んだ。対決から逃げ、会見を拒否する炭労に対し、先生は追撃の手を緩めなかった。それは、この先も、炭労が学会員への弾圧を続けかねなかったからである。先生は、7月1日に札幌で、2日に夕張で予定されていた、炭労への抗議集会の準備を入念に進めた。
 30日の朝、先生は東京に宛てて1通の電報を打つ。「新しき世紀を担う秀才の集いたる学生部結成大会、おめでとう。会長先生のもとに、勇んで巣立ちゆけ」
 その日、東京・麻布公会堂で開催される、歴史的な学生部結成大会に向けたものだった。青年室長だった先生は、この日を心待ちにしていた。恩師の悲願でもあった学生部の結成に向け、学生たちを支え続けてきたからである。
 夕張炭労事件が吹き荒れる中にあって、前月の5月には、学会の“先駆の自覚”を持つことを学生たちに直接訴えた。6月に入ると、中心者と結成大会について懇談。10日には、結成の日に向けて奮闘する学生たちに、“存分に戦って、立派な大会を開いていただきたい”と万感の励ましを送った。
 そして30日、先生が北海の地を奔走する中、学生部は、大きな期待を受けて産声を上げたのである。
 夕張炭労事件の渦中で生まれた学生部の使命は、庶民を守り抜く慈悲と英知のリーダーの輩出にほかならない。
 結成から65年の間、池田先生は学生部に深い慈愛を注ぎ続けてきた。部結成60周年に際して、激変する時代を生きる学生たちに、こう期待を寄せた。
 「真の地涌の学徒には、悲嘆も、失望も、諦めもない。ただあるのは、前へ前へと進みゆく、逞しき楽観主義と不屈の負けじ魂である」「一閻浮提広宣流布という永遠の人間共和の大建設を、私は全世界の創価家族と共に、すべて『先駆の誇り』の学生部に託したい」
 英知の学生部が、“人間共和の大建設”へ民衆の連帯を広げゆく時、未来の大空は希望と平和の光に包まれていくに違いない。

正義と友情の旗がひるがえる「世界広布新時代 全国学生部総会」(2017年3月4日、東京・八王子市で)。「世界第一の平和と正義の学生城、万歳! 学生部は、永遠に広宣流布の『勝利の光源』であれ!」――。池田先生は、部結成60周年を記念して開催された集いに万感のメッセージを寄せた
正義と友情の旗がひるがえる「世界広布新時代 全国学生部総会」(2017年3月4日、東京・八王子市で)。「世界第一の平和と正義の学生城、万歳! 学生部は、永遠に広宣流布の『勝利の光源』であれ!」――。池田先生は、部結成60周年を記念して開催された集いに万感のメッセージを寄せた
 

桂冠詩人は詠う 勇気の舞 凱歌の行進Ⅱ

2022年03月23日 | 妙法

〈桂冠詩人は詠う 勇気の舞 凱歌の行進Ⅱ〉第5回 兵庫の友へ2022年3月23日

 連載「勇気の舞 凱歌の行進Ⅱ」では、池田先生がつづった長編詩を紹介していきます。第5回は、「常勝の詩 大兵庫に勝鬨を!」(2003年2月)です。

兵庫池田文化会館で開催された関西総会の直前、池田先生ご夫妻が三色旗を振って、館外に集まった同志を励ます。先生は総会で「兵庫は、全国の『あこがれの地』である」と語った(1991年10月)
兵庫池田文化会館で開催された関西総会の直前、池田先生ご夫妻が三色旗を振って、館外に集まった同志を励ます。先生は総会で「兵庫は、全国の『あこがれの地』である」と語った(1991年10月)
世界広布の模範と輝け!

 慈折広布の
 栄光の鑑となりゆく
 兵庫よ!
 その築き上げた
 皆の生命の城は
 いかなる旋風にも
 暴風雨にも
 微塵も動ずることなき城だ。
  
 その兵庫の城の中には
 正義と青春の喜びが
 沸き返り
 いかなる
 狂い来る嵐にも
 厳然として
 悠々たるスクラムで
 あらゆる迫害を
 打ち破る。
  
 一人悠然と
 兵庫の同志は
 何の遠慮もなく
 尊い勝利の栄光の人生を
 湧き出だしている。
  
 おお
 兵庫!
 身を投げて
 広布に走る
 魂の美しさよ!
  
 おお
 兵庫!
 役職に関係なく
 昼も 夜も
 悲しい時も
 口惜しき時も
 じめじめした心を
 振り払い
 新しき永遠の
 偉大な日の出を迎え光る
 兵庫の友よ!

 ◆◇◆

 二十世紀 最後の年の
 二月二十九日
 私は
 夢に見た長田文化会館を
 初めて訪問した。
 その日は
 私の七十五回目の
 兵庫訪問の折である。
  
 空前の大災害の渦中
 多くの市民の
 避難場所となった会館は
 傷みも激しく
 雑然としていたが
 私には
 神々しき宝城に見えた。
   
 傷んだ階段を
 一歩また一歩
 踏みしめて上がった。
 そこには
 励まし合って生き抜いた
 わが誇り高き
 賑やかな
 創価家族があった。
  
 「大悪をこれば
  大善きたる」
 「わざはひも転じて
  幸となるべし」とは
 御聖訓である。
  
 最も苦しんだ所こそが
 最も幸福になる。
 これが
 妙法の法理だ!

 ◆◇◆

 兵庫が勝てば
 関西が勝つ!
 関西が勝てば
 世界が勝つ!
  
 私は
 関西を永遠に愛する。
 私は
 兵庫を永久に愛する。
  
 私とともに
 血の滲むような
 真剣勝負の活動を展開した
 あの人 この人
 私は
 これからも一生
 大法の加護と
 福徳の人生を
 祈り続けていくだろう。
  
 ゆえに
 あなたよ!
 兵庫のあなたたちよ!
 神戸のあなたたちよ!
  
 日本中
 そして
 世界中の模範となりて
 わが友のために
 断じて負けるな!
 断じて勝ちゆけ! と
 祈りたい。

 

希望の指針―

2022年03月21日 | 妙法

希望の指針――池田先生の指導に学ぶ〉 未来の宝2022年3月21日

  • 皆が偉大な使命の人

 連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠玉の指導・激励を掲載します。今回は折々の指導から、未来部への励ましの言葉を紹介します。

友情は自分から

 「相手が自分のことを思ってくれる」から友情なのではない。「相手が裏切らない」間だけ友情が成り立つのでもない。「自分が相手を思う」からこそ、友情なのです。たとえ相手に裏切られても「自分が裏切らない」なら、友情なのです。
 
 (『希望対話』〈普及版〉、47ページ)
 

青春に失敗なし

 青春に、取り返しのつかないことなど絶対にない。むしろ、青春の失敗とは、失敗を恐れて挑戦しないことです。また、自分で自分をあきらめてしまうことです。
 
 (『青春対話1』〈普及版〉、42ページ)
 

明日勝てばいい

 たとえ、1度は負けても、次に勝てばいい。今日負けても、明日勝てばいい。100戦して99回負けたとしても、最後に勝てば勝利なのです。
 
 (『未来の翼』、136ページ)
 

「諸君を信じる」

 たとえ諸君が、自分で自分をだめだと思っても、私はそうは思わない。全員が使命の人であることを疑わない。だれが諸君をばかにしようと、私は諸君を尊敬する。諸君を信じる。
 
 (『青春対話1』〈普及版〉、44ページ)
 

心を決めて挑戦

 勉強は苦手だなあ、好きな科目がないなあと思っている人も、心を決めてまず一つ、じっくり挑戦してみると、必ずわかるようになります。そうすれば、がんばることが楽しくなる。
 
 (『希望の虹』、26ページ)
 

桜花の向こうに伸びる飛行機雲を池田先生がカメラに収めた(2006年4月、東京・八王子で)。「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる」とは、先生が高等部に贈った指針。“未来の宝”の希望の空は、無限に広がっている
桜花の向こうに伸びる飛行機雲を池田先生がカメラに収めた(2006年4月、東京・八王子で)。「未来に羽ばたく使命を自覚するとき、才能の芽は、急速に伸びることができる」とは、先生が高等部に贈った指針。“未来の宝”の希望の空は、無限に広がっている
「ありのまま」で

 「ありのまま」になやみ、祈り、また胸をはって挑戦していく――そうすることで、自分の心がみがかれる。心の中の宝物が光っていく。きみの、あなたの「いいところ」が、必ず見えてくるのです。
 
 (『希望の虹』、68ページ)
 

名著は人類の財

 名著は人類の共通の財産です。それを心に刻んでおくことは、どんな人とも自在に語り合える力になります。
 
 (『未来対話』、183ページ)
 

自ら選んできた

 親子の縁は不思議であり、深い意味がある。みんな、偉大な使命を果たさんがために、自分の親を選んで生まれてきたんだ。
 
 だからこそ、親を大切にすることは、生まれてきたこと、生きることへの感謝の表れです。親孝行しようという心は、自身の生命を大きく開くことになるのです。
 
 (『未来対話』、106ページ)
 

負けずにバネに

 人間、だれでも、何かコンプレックスをもっている。「あの人が……」と思うような人でも、もっている。要は、それに「負けない」ことだ。
 
 どんなコンプレックスがあっても、それをバネにし、じっとこらえて「今に見ろ!」と自分を励ましながら進むのです。
 
 (『青春対話2』〈普及版〉、340ページ)
 

悩みは成長の印

 成長しようとする人には、必ず苦しみやなやみの嵐が吹き荒れます。成長しているからこそなやむのです。その時は、とてもつらいかもしれないけれど、なやみは自分自身が大きく成長している証明なのです。
 
 (『希望の虹』、118ページ)
 

就職はスタート

 就職は自分を発掘するための「スタート」であって、決して「ゴール」ではない。あせる必要はない。あせらず、休まず、へこたれずに、大切な自分の一生の坂を上っていくのです。
 
 (『青春対話1』〈普及版〉、110ページ)


21世紀は女性の世紀 ③第一の戦友〈上〉

2022年03月20日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第18回 21世紀は女性の世紀 ③第一の戦友〈上〉2022年3月20日

  • 感謝の唱題は万代の幸を築く
会長就任の日

 第3代会長就任式が行われた1960年5月3日の夜、東京・大田区の小林町(当時)にあった池田大作先生の自宅を訪ねた夫婦がいる。
 玄関先で一言、お祝いを伝えるつもりだったが、先生から「どうぞ、上がって」と勧められた。
 先生は「今日は、家ではお赤飯も炊いてくれないのだよ」と語り、香峯子夫人を指して、「“今日は池田家のお葬式です”と言うんだよ」と。その言葉に、夫婦は粛然とした。
 この日を振り返り、香峯子夫人は語っている。「とても会長就任を喜ぶ心境には、なれませんでした。『今日はお葬式』というのが、偽らざる心情だったのです。この日を境に、生活は『私』の部分より『公』の部分の比重が、徐々に重くなっていきました」

海外平和旅に同行

 それから4年後の64年10月2日、先生は東南アジア、中東、欧州の平和旅に出発した。海外歴訪のたび、激しい疲労が先生の体を襲った。慣れない現地の食事や気候の違いなどから、体調を崩してしまうこともあった。
 また、海外では要人や識者と交流する機会があった。こうした対外的な活動では、夫人同伴の方がふさわしいことが多い。そこで、この7度目の海外訪問から香峯子夫人が同行することになった。
 先発隊として出発した夫人は、タイ・バンコクで合流。日本から持参したコンロと鍋を使って、ご飯を炊き、みそ汁などを用意した。夫人の献身は、海外での先生の激闘を支えた。

創価の女性にエールを送る池田先生ご夫妻(2005年9月、八王子市の東京牧口記念会館で)。先生は「ますます仲良く健やかに、素晴らしき人生を勝ち開いていかれることを、私と妻は祈る日々である」と
創価の女性にエールを送る池田先生ご夫妻(2005年9月、八王子市の東京牧口記念会館で)。先生は「ますます仲良く健やかに、素晴らしき人生を勝ち開いていかれることを、私と妻は祈る日々である」と
「微笑み賞」

 89年10月6日、先生ご夫妻は女性誌「主婦の友」の要請に応え、インタビューを受けた。企画の趣旨は“夫婦の歩みについて”である。
 インタビュアーは「長い結婚生活の間には、夫婦の関係が、さまざまに変化します。名誉会長ご夫妻にも、さまざまな節目がおありになったと思います」「思い出に残るエピソードがございましたらお教えください」と尋ねた。
 先生は、もともと体が弱く、医師から“30歳まで生きられるかどうか”と言われたことを述懐し、「第一の思い出は、それを、食事、睡眠、励ましなど、妻が心をくだいてくれたおかげで、大きく乗り越えることができたことです。これは妻の勝利、歴史だと思っています」と語った。
 さらに、69年12月に急性の肺炎による高熱を押して、関西・中部を訪問したことに言及。大阪に到着した日の夜、夫人が東京から駆け付けた。先生は「あのときの(夫人の)笑顔は、大きな薬となりました」と述べた。
 夫人が、先生の国内の激励行にも同行するようになったのは、この69年12月からである。
  
 インタビューの最後、「これまでを振り返って、奥様に感謝状をささげるとしたら、文面は、どんな言葉になるでしょうか」という質問が飛び出した。
 先生は、「これはいちばんの難問です」とユーモアを込めて応じ、言葉を続けた。
 「妻は私にとって、人生の伴侶であり、ときには看護師であり、秘書であり、母のようでもあり、娘か妹でもあり、何より第一の戦友です」
 「妻に感謝状をあげるとしたら、『微笑み賞』でしょうか。あらゆる意味を、そこに込めて」

“香峯子蘭”が美しく(2021年10月、沖縄研修道場で)。15年前の2007年2月27日、シンガポール国立植物園が命名した
“香峯子蘭”が美しく(2021年10月、沖縄研修道場で)。15年前の2007年2月27日、シンガポール国立植物園が命名した
真心のピアノ演奏

 1977年4月10日、「第7回婦人部総会」が大ブロック(現在の地区)単位で開催された。
 総会の各会場には、事前にシートレコード(ビニール製レコード)が配られた。池田先生の声で、メッセージが収められていた。
 先生は、婦人部総会の開催を心から祝福。御書の「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり」(全383・新317)を拝し、訴えた。
 「信心の世界だけは、その功徳善根を消さないように、怨嫉や反感、そしてまた感情的にならないように注意してください。それは自分自身が損をするだけであります」
 「喜びの世界、楽しみの生活をつくるために、信心をしていただきたい」
 先生のピアノ演奏も吹き込まれていた。「荒城の月」「うれしいひなまつり」「春が来た」……。レコードは各地の総会に、大きな感動を広げた。
 香峯子夫人が出席して開催された渋谷区・羽沢大ブロックの総会。ここでも、参加者全員でレコードを聴いた。
 登壇した夫人は、先生が最初に覚えた曲が“大楠公”であったこと、ピアノを弾き始めた頃は、右手だけの演奏だったことなどを述懐。ある時、先生が「さくら」を右手で、別の友が左手で、一緒にピアノを弾いたことを振り返った。
 「会長がピアノを弾く時は、それこそ全身の力を込めて演奏します。別の方が左手で弾くと、どうしても合わないことがあるんです」
 「皆さんの激励のためだから、左手も演奏できるようにしよう、ということで練習を始められたわけです」
 さらに、海外でピアノを弾いた折、肩を痛めたことがあったことに触れ、先生は自分の気持ちを全て注いで演奏される、とも語った。
 ピアノに込められた“励ましの心”を知り、参加者は皆、師と共に人生を歩み抜くことを誓い合った。

10:54
東京・渋谷区の婦人部総会に香峯子夫人が出席(1977年4月10日、旧・渋谷文化会館で)。「笑う」ことに言及し、「生命力を涌現させ、笑顔あふれる人生を送っていきましょう」と語った
東京・渋谷区の婦人部総会に香峯子夫人が出席(1977年4月10日、旧・渋谷文化会館で)。「笑う」ことに言及し、「生命力を涌現させ、笑顔あふれる人生を送っていきましょう」と語った
信心の継承

 同年12月、池田先生と婦人部の代表との懇談が行われた。東京・北区の婦人部長を務めていた橋元和子さんは、「先生! 北区は合唱大会をやります!」と伝えた。
 先生は即答した。「歌は折伏と同じだ。人の心に勇気と希望を送る。“歌声運動”を起こしていこう」
 会場は板橋文化会館に決まった。先生の提案である。年が明けた78年1月8日には、本紙の1面に「3月に東京・北区が合唱大会」との予告記事が掲載された。
 先生はさらに、合唱団の名前を贈った。「弥生合唱団」。北区の“いよいよ”の戦いが開始された。日を追うごとに拡大の勢いは増し、歓喜の上げ潮の中で合唱大会の3月12日を迎えた。
 当日、東北男子部の会合のため、先生は出席できなかったが、会場には香峯子夫人の姿があった。全ての演目が終わると、夫人はマイクを取った。
 「皆さまは、学会の中で、最高の人生、本当に生きがいのある人生を歩んでこられた。そう実感できる合唱大会でした」
 「これからの10年、20年を有意義に生きるためには学会しかない。そう心に決めて、今日からまた一緒に頑張りましょう」
 合唱大会の終了後、懇談会が開かれた。ある友から、「子どもが信心を継承していくには、どうすればいいですか」との質問があった。
 夫人は自らの体験を通して、可能な限り、子どもと共に学会活動に歩くことを挙げた。一緒に動くことで、信心の素晴らしさ、同志のありがたさを、子どもは“肌で感じる”と述べた。
 また、幼い時からの勤行の習慣化を強調。親が子どもと勤行する挑戦を望んだ。さらに、“学会の庭”で育てる大切さを述べ、“師弟や報恩の意義など「信心の核」を教えてくれるのは、広布の組織です”と語った。
 3月12日は今、「喜多区女性部の日」である。この日を目指し、北総区女性部の友は、“青年の勝利が私たちの勝利”との思いで対話に駆けた。同男子部は「部2」を超える弘教で、今年の「3・16」を荘厳した。

池田先生が東京・北区の北文化会館を初訪問(1992年1月17日)。館内に飾られた雛人形を見つめる。この日、先生は北区の発展を祈りつつ詠んだ。「すばらしき 北区は喜多区と うたわなむ 大東京を 四方(よも)に見つめて」
池田先生が東京・北区の北文化会館を初訪問(1992年1月17日)。館内に飾られた雛人形を見つめる。この日、先生は北区の発展を祈りつつ詠んだ。「すばらしき 北区は喜多区と うたわなむ 大東京を 四方(よも)に見つめて」
「不退転」の色紙

 練馬区内にある山本典子さんの家で開催された三原台支部の座談会に、香峯子夫人が出席したのは、1979年3月17日のこと。
 座談会の途中、一人の参加者が手を挙げた。「みんな『池田先生』と言うけど、私はそのようには思えません」
 笑いがあふれていた会場に緊張が走る。語気に、とげとげしさがあった。夫人は笑顔を絶やすことなく応えた。
 「いいんですよ。ただ、好きとか嫌いとかではなく、会長は創価学会の責任者として、指揮を執ってくださっています。使命は皆さんを幸せにすることです」
 山本さんは胸を打たれた。清らかな微笑み、凜とした強さ。質問者とのやり取りには、どんな人をも包み込む真心と誠実さが凝縮されていた。
 座談会の終了後、山本さんは色紙を出した。「何か指針となるものをお願いできませんか?」。夫人は「私は会長ではありませんので」と断った。しかし、山本さんたち支部のメンバーの熱意に押され、ペンを走らせた。
 「不退転」
 先生が第3代会長を辞任したのは、この日から38日後のこと。練馬の友は「不退転」の決意を湧き立たせた。
 三原台支部が誕生した77年、支部は約120世帯。区内のほとんどの支部が当時、200世帯前後だった。支部婦人部長の山本さんは、支部長の夫・五郎さんと共に、“必ず200世帯の支部に”と誓った。
 78年、支部内に練馬文化会館が誕生。懇談の折、先生は五郎さんに「学会の会館がある支部は、“広布の城下町”です。地域を頼みます」と語った。
 山本さんは「地域発展」の祈りを強くした。近隣との友好を深め、絆を育んだ。「不退転」の揮毫から数年後、三原台支部は200世帯を突破した。

香峯子夫人が練馬・三原台支部の座談会に出席(1979年3月17日)
香峯子夫人が練馬・三原台支部の座談会に出席(1979年3月17日)
好きな言葉

 「お好きな言葉の中から、読者の方の励みになるような言葉をお教えください」――この質問に、香峯子夫人は応えている。
 「私のいちばん好きな言葉は、主人(池田先生)から贈られた言葉で、『愚痴は福運を消し、感謝の唱題は万代の幸を築く』です」
 「すべてをいいほうにとっていこうとする言葉です。その姿勢は、私の習慣になった気がします」

1982年11月、第13回の婦人部総会で、香峯子夫人は東京・文京の友に「愚痴は福運を消し 感謝の唱題は 万代の幸を築く」との言葉を贈った
1982年11月、第13回の婦人部総会で、香峯子夫人は東京・文京の友に「愚痴は福運を消し 感謝の唱題は 万代の幸を築く」との言葉を贈った
【アナザーストーリー】
“桜”のパネル

 1978年5月9日、池田先生が出席して、練馬文化会館の開館記念勤行会が晴れやかに開催された。
 館内には、卵の殻を染色して作られた“桜”のパネルが設置されていた。開館の日を目指し、ヤング・ミセス(当時)の友が丹精込めて制作したものだ。21世紀へ向けての自分たちの未来像を、万朶と咲く桜になぞらえた。約4000個の卵の殻が使われた。
 先生は「すごいね。真心、うれしいね」と。居合わせた婦人たちと、パネルの前で記念のカメラに納まった。
 翌79年3月17日、香峯子夫人が練馬文化会館へ。“桜”のパネルを見つめ、「素晴らしいですね」と。館内で練馬の婦人の代表と懇談した後、三原台支部の座談会へ向かった。
 
 三原台支部の座談会終了後、「不退転」と色紙に揮毫した香峯子夫人は、山本さんに語った。
 「これは、会長が書いたものではありません。どうか、額に入れて飾るようなことはなさらないでください」
 「師弟」こそが学会の根本精神であることを、奥様は伝えようとされたに違いない――そう感じた山本さんは、夫人の言葉の通り、額に入れることはしなかった。
 ただ、練馬の同志にとって「宝」の色紙である。“せめて、これだけは”と、山本さんは色紙を紫色の和紙に包み、大切に保管してきた。
 池田先生は述べている。
 「1979年(昭和54年)、創価学会が、厳しい法難の嵐の中にあった時も、妻は少しも変わらぬ笑顔で、学会活動に励みました。
 ある座談会に出席した折、同志の方から色紙に一言をと言われ、妻が書き記した言葉は『不退転』であります。どんなことがあっても、一生涯、学会と共に『不退転』の信心を貫き通す――これが、創価の師弟の誓いなのであります」

【引用・参考文献】『香峯子抄』(主婦の友社)、月刊誌「主婦の友」1990年新年号