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立正安国③

2021年09月30日 | 妙法

〈希望の指針――池田先生の指導に学ぶ〉 立正安国③2021年9月30日

  • 大衆とともに新たな時代を

 連載「希望の指針――池田先生の指導に学ぶ」では、テーマごとに珠玉の指導・激励を紹介します。今回は小説『新・人間革命』から、「立正安国」(全4回予定)の第3回を掲載します。

【民主主義の要諦】 人々の「健全な魂」の開花が不可欠

 〈1962年(昭和37年)2月、山本伸一はギリシャのアテネを訪れた。哲人ソクラテスが投獄されたと伝えられる牢獄の前に立ち、彼を死に追いやった、アテネの「民主主義」について考える。そして、伸一は同行の幹部と、ソクラテスの弟子・プラトンについて語り合う〉
 
 プラトンが生涯を捧げたテーマ――それは、どうすれば、この世に「正義」を実現できるのかという根本的な問題であった。その探究の結論が、「哲人政治」の理想であった。
 
 プラトンは、大著『国家』のなかで、いわゆる“哲人王の統治”こそが、国家と人類に幸福をもたらす「最小限の変革」であると主張したのである。
 
 彼は、政治制度の在り方を分類して、第一を哲人王による王制とし、以下、名誉制、寡頭制、民主制、僭主制の五つを挙げている。民主制は、四番目の低い評価である。
 
 民主制は人類の偉大なる知恵であり、発明である。しかし、それも、民主制を担い立つ人間自身のエゴイズムを制御し、自律する術を知らなければ、本来の民主とは全く異質な“衆愚”に陥りかねないことへの鋭い批判の矢を、プラトンは放ったのである。(中略)
 
 人間の魂が正しく健康でなければ、いかなる制度も正しく機能しない。水は低きに流れる。人間もまた、内なる鍛錬、人格の陶冶がなければ、欲望の重力の赴くままに堕落を免れないのである。
 
 ゆえに、プラトンは、引き続いて「魂の健康」「魂における調和」を考察し、“自己の内なる国制”に目を向けるように促す。
 
 “外なる国制”を正義に適った最良のものにしていこうとするならば、必然的に“内なる国制”の整備を必要とするのである。つまり、「魂の健康」を育む哲学こそが、民主制を支える柱なのである。
 
 プラトンは「哲学者たちが国々において王となって統治するか、あるいは現在王と呼ばれ権力者と呼ばれている人々が、真実にかつ充分に哲学するのでないかぎり」、「国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だ」と述べている。(中略)山本伸一は、再び青年たちに語りかけた。
 
 「師のソクラテスのような『正義の人』が、絶対に殺されることのない国家を建設しようと、プラトンは民主制の“落とし穴”を徹底的に解明していった。現代でも、しばしば民主政治に対して“衆愚政治”などという非難があるが、民衆の健全なる魂の開花がなければ、真実の民主はありえない。
 
 結局、民衆を賢く、聡明にし、哲人王にしていくことが、民主主義の画竜点睛であり、それを行っているのが創価学会なんだよ」
 
 (『新・人間革命』第6巻「遠路」の章、114~117ページ)
 
 ※プラトンの『国家』は、田中美知太郎・藤沢令夫他訳。

画・内田健一郎
画・内田健一郎
【公明党結党への期待】 民衆の幸福と平和のための党に!

 〈1964年(昭和39年)5月、日大講堂で行われた男子部幹部会の席上、山本伸一は公明党の結党を提案する〉
 
 仏法者として、立正安国という民衆の幸福と平和を実現していくためには、日本の政治の改革を避けて通るわけにはいかなかった。
 
 日本の政治家には、何よりも、まず指導理念が欠落していた。
 
 たとえば、世界の平和を口にしても、イデオロギーや民族の違いをどう乗り越えるかという哲学をもつ、政治家はいなかった。
 
 それゆえに、仏法の大哲理に基づく、「地球民族主義」という理念を掲げた政党の必要性を、伸一は、痛切に感じていたのである。
 
 「地球民族主義」は、かつて、戸田城聖が提唱したものである。
 
 ――人類は、運命共同体であり、民族や国家、あるいはイデオロギーなどの違いを超えて、地球民族として結ばれるべきであるとする考え方である。公政連の「国連中心主義」の主張も、「地球民族主義」から導き出されたものであった。
 
 また、東西冷戦の構図がそのまま日本の政界に持ち込まれ、既成政党は、片やアメリカに追随し、片やソ連に従うなど、政党としての自主性に乏しかった。イデオロギーや他国の意向に、左右されるのではなく、民衆の幸福と平和の実現を第一義とし、中道の立場から政治をリードしていく政党を、人びとは待ち望んでいるはずである。
 
 さらに、日本の政治改革のためには、腐敗と敢然と戦う、清潔な党が出現しなければならない。政界浄化は、公政連の出発の時からの旗印であり、これまでの腐敗追及の輝かしい実績は、比類がない。
 
 また、日本には、真実の大衆政党がなかった。
 
 保守政党は、大企業擁護の立場に立ち、革新政党はその企業などに働く、組織労働者に基盤を置いている。しかし、大衆は多様化しており、数のうえで最も多く、一番、政治の恩恵を必要としているのが、革新政党の枠からも漏れた、未組織労働者であった。
 
 民衆の手に政治を取り戻すためには、組織労働者だけでなく、さまざまな大衆を基盤とした、新たな政党の誕生が不可欠である。
 
 多様な大衆に深く根を下ろし、大衆の味方となり、仏法の慈悲の精神を政治に反映させゆく政党が、今こそ躍り出るべきであろう。それが衆望ではないか――山本伸一は、こう結論したのである。
 
 (『新・人間革命』第9巻「衆望」の章、360~361ページ)

1974年4月、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で講演する池田先生。仏法の中道主義とは、「アウフヘーベン(止揚)に近い言葉」であり、「物質主義と精神主義を止揚する第三の『生命の道』」であると語った
1974年4月、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で講演する池田先生。仏法の中道主義とは、「アウフヘーベン(止揚)に近い言葉」であり、「物質主義と精神主義を止揚する第三の『生命の道』」であると語った
【「中道政治」とは?】 人間性尊重する慈悲の政治を実現

 〈1967年(昭和42年)1月、東京・日本武道館で行われた新春の幹部会の席上、山本伸一は公明党の創立者として、党のビジョンを語り、「中道政治」について論じた〉
 
 「私どものめざす中道政治とは、一言でいえば、仏法の中道主義を根底にし、その生命哲学にもとづく、人間性尊重、慈悲の政治ということになります。
 
 人間性尊重とは、人間生命の限りない尊厳にもとづき、各人各人の個性を重んじ、あらゆる人が最大限の幸福生活を満喫していけるようにすることにほかなりません。社会のいっさいの機構も、文化も、そのためにあるものと考え、政治を行うのが、人間性尊重の政治であり、それによって築かれる社会こそ、われらの理想社会であると思うのであります」
 
 次いで彼は、資本主義も共産主義も、ともに「人間不在」の政治に陥り、本末転倒の姿となっていることに、本源的な行き詰まりがあると指摘していった。
 
 「資本主義社会においては、利潤の追求が第一義であって、そのため、人間一人ひとりの幸福が犠牲にされることも少なくない。共産主義社会においても、画一的な経済体制、全体主義的な国家形態のもとに、個々の人間の自由は強く抑圧されている。
 
 この結果、資本主義社会は、大衆の犠牲をなんとか少なくしようとする方向へ、修正を余儀なくされております。また、共産主義社会も、個人の自由を認めるように、大幅な修正を加えざるをえなくなっております。
 
 世界の時代の趨勢は、真に人間性に立脚した中道主義、中道政治を求めて動いていることは明らかです。
 
 まさに、中道主義によって、平和と繁栄の新社会を築くことを、全民衆が心から待望する時代に入ったと、私は確信するものであります」
 
 地鳴りのような大拍手が場内を揺るがした。皆、目の前の霧が、一瞬にして晴れていくような思いがしてならなかった。
 
 伸一は、ここで、中道主義によって築かれる社会とは、「信頼と調和」を基本理念とする新しき社会であることを述べた。
 
 そして、国家と国家の抗争も、国内のさまざまな対立も、その根底にあるものは常に相互不信であり、それらを超えゆく指標こそ、「信頼と調和」の社会であることを訴えた。
 
 (中略)この講演は、公明党の進むべき道を示しただけでなく、日本の政治の進路を照らし出すものとなった。
 
 確かな未来像をもち、進むべき指標があれば、希望が湧く。希望は、勇気を呼び、前進の活力となる。
 
 山本伸一が発表した公明党のビジョンを聞くと、同志の支援活動に一段と力がこもった。皆、胸を張り、自信をもって、政治のあるべき姿を訴えていった。
 
 (『新・人間革命』第11巻「躍進」の章、332~333ページ)


ハーバード大学講演30周年に寄せ

2021年09月29日 | 妙法

ハーバード大学講演30周年に寄せて③完 池田国際対話センター ケビン・マー所長2021年9月29日

  • 「内なる心」を開発する哲学の復権へ 開かれた対話の場を築く

 私が所長を務める池田国際対話センターは、人類が直面する諸課題の解決の方途を、創立者・池田先生の平和の哲学に基づき、対話を通して探求する機関です。
  
 センターは先生のハーバード大学での1回目の講演(1991年)を契機として設立構想が進み、2回目の講演(93年)の際に発足しました。担うべき活動と使命については、池田先生の2度の講演の中に示されています。
  
 1回目の講演では、個人の内発的な力を開発し、社会に変化を促す視点に言及され、人間自身の変革がなければ、どんな平和構築の取り組みも達成し得ないことを訴えられています。
  
 2回目の講演では、平和と人権の確立のために「開かれた対話」の重要性を指摘されています。
  
 こうした人間の内面に着目するアプローチを実践しようと、センターではさまざまなイベントを実施してきました。
  
 例えば、池田先生の思想と行動を踏まえ、希望の未来を開く方途を学際的に語り合う年次フォーラムや、池田先生の思想・哲学をテーマにした、著名な学識者による講演会です。さらに、他の学術機関と協力した出版活動や、大学院生を対象にしたセミナーなどを行っています。

30年前とさほど変わらない状況

 1回目の講演を見直して感じたのは、30年前と現在の状況がさほど変わっていないということです。経済格差の拡大や資源を巡る国家間の紛争、気候変動の脅威などによって、社会の分断や不寛容の傾向が強まり、狭量なナショナリズムや暴力行為も顔をのぞかせます。池田先生が促された“全ての生命が密接に絡み合うことを認識し、他に貢献する”行動は非常に意義深く、社会の変革の道はそうした精神の発露にあると言えるでしょう。
  
 先生が示された視座から未来を見据えたときに、若者を変革の主体に位置づけることが肝要ではないかと感じます。池田先生の言葉には青年を勇気づける哲学があります。私は20代の時に先生の思想に出あい、現実に幸福をもたらす“生きた哲学”に感動しました。1回目のハーバード講演を初めて学んだ時には、一部の専門家にしか現実を変えられないと信じていた自身の認識が変わり、誰もが変革の主体者であるとの確信を強めました。

米マサチューセッツ州ケンブリッジ市に立つ池田国際対話センター。多彩な識者を招いてのシンポジウムの実施や書籍の発刊など幅広い活動を展開する
米マサチューセッツ州ケンブリッジ市に立つ池田国際対話センター。多彩な識者を招いてのシンポジウムの実施や書籍の発刊など幅広い活動を展開する
青年が友情を結び合う場に

 センターでは、対話を重視する池田先生の哲学を実践すべく、ボストン地域の学生や社会人との交流を深め、青年が友情を結び合う場を設けています。
 2017年に開始した「ダイアログ・ナイト(対話の夕べ)」はその代表例です。
  
 これは、若手の専門家や学生が「共に希望を生み出すための対話の役割」など、社会課題としてホットなテーマについて議論するものです。コロナ禍の中でも、オンラインを駆使しながら継続して実施してきました。ほかに、第一級の学者と若者が世代を超えて交流し、学び合うパネルディスカッションも行っています。
  
 これらは地球的課題を討議する画期的な手法であると思います。ある学識者は「学生と教師といった固定化した立場を離れて、青年と議論ができる素晴らしい機会」と評価していました。
  
 対話センターのあるボストン地域は10万人以上の学生が集まる、“青年の可能性”を育む場と言えるでしょう。専門性を有した学識者と将来を担う青年リーダーが対話し、平和の文化を築く――これがセンターの使命です。この実践を貫くことで、「ソフト・パワー」の源泉たる“友情”が生まれていくと確信しています。
  
 哲学者のエマソンやソローが青年時代を過ごし、アメリカにおける精神のルネサンスが始まった地域であるボストンから、先生が1回目のハーバード講演で訴えられた“内なる心を正しく開発するための哲学の復権”のうねりを広げるために、これからも努力を続けていく決意です。

プロフィル

 米ボストンで生まれ育つ。マサチューセッツ大学ローウェル校卒。2002年にボストン21世紀センター(現・池田国際対話センター)のスタッフとなり、プログラムディレクターなどを経て、21年から現職。


桂冠詩人40周年 勇気の舞 凱歌の行

2021年09月28日 | 妙法

〈桂冠詩人40周年 勇気の舞 凱歌の行進〉第8回 九州2021年9月28日

3:38

 本年は、「桂冠詩人」の称号が池田先生に贈られてから40周年。連載企画「勇気の舞 凱歌の行進」では、先生がつづった長編詩を紹介します。第8回は、九州の同志に詠んだ「正義の炎 大九州の魂は燃えたり」(2002年)です。

池田先生が何度も足を運んだ鹿児島・霧島。雲海に桜島が威容をのぞかせる。今年は長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」発表40周年。九州の友は今、圧倒的な対話拡大で、自身の広布の山を勢いよく踏破している(1990年10月、池田先生撮影)
池田先生が何度も足を運んだ鹿児島・霧島。雲海に桜島が威容をのぞかせる。今年は長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」発表40周年。九州の友は今、圧倒的な対話拡大で、自身の広布の山を勢いよく踏破している(1990年10月、池田先生撮影)
苦難の彼方に虹は輝く

 正義とは
 勝つことである。
 そしてまた
 幸福とは
 勝つことである。
  
 冬は必ず春となる。
 君よ
 今の苦難の彼方にも
 必ずや虹の輝く
 栄光満足の時が
 待っている。
  
 君よ
 断じて諦めるな。
 断じて臆するな。
 そしてまた
 決して前進を忘れるな。
 戦いをやめるな!
  
 必ず勝つのだ。
 そして
 幸福を勝ち取るのだ。
 それが
 人間の人間としての道だ!
  
  ◆◇◆
  
 ああ
 いかなる非難の迫害が
 あろうとも
 「負けんとよ!」
 「負けちょられん!」と
 聞こえてくる
 火の国の
 偉大な友の声!
  
 そしてまた
 「頑張らんと」
 「頑張らんね」
 「きばれ!」という
 勇ましき青年たちの
 覇気と笑顔の声!
  
 さらに
 「嬉しかぁ」
 「楽しかぁ」
 あの肝っ玉の母たちの
 女王の微笑み!
  
 「それ よか」
 「それ いいっちゃが」
 「大丈夫たい!」
 「大丈夫くさ!」
 頼もしき
 九州男児の力強い声!
 美しき
 九州女子部の朗らかな声!
  
 九州は戦った。
 九州は走った。
 九州は勝った。
 九州には
 喜びの連鎖が響きわたった!
  
 ◆◇◆
  
 我らは
 火の国を愛する。
 火の国が大好きだ。
 極めて率直に
 この歴史的な火の国を
 守りたいのだ。
  
 私も
 そして
 あなたも
 九州に生き抜くことを
 祝福する。
  
 いかに
 孤軍奮闘の時があっても
 絶対に
 その険難の山を
 猛烈な勢いで
 乗り越えるのが
 九州の生命だ。

池田先生は会長辞任から1年後の1980年4月29日、第5次訪中を終え、長崎へ。佐賀、福岡と、同志に全力の励ましを送る。九州の天地に反転攻勢の師子吼を轟かせた(同年5月、福岡・九州文化会館〈当時〉で)
池田先生は会長辞任から1年後の1980年4月29日、第5次訪中を終え、長崎へ。佐賀、福岡と、同志に全力の励ましを送る。九州の天地に反転攻勢の師子吼を轟かせた(同年5月、福岡・九州文化会館〈当時〉で)

〈危機の時代を生きる

2021年09月25日 | 妙法

〈危機の時代を生きる〉 京都大学こころの未来研究センター 広井良典教授㊤2021年9月25日

  • 地球の有限性に向き合い、持続可能な発展を目指す

 経済の拡大・成長が行き詰まりを見せる現代にあって、どのような思想の転換が求められているのか。「有限性」をテーマに未来を展望する、京都大学こころの未来研究センターの広井良典教授へのインタビューを、上下2回にわたり掲載する。(聞き手=萩本秀樹、村上進)

 ――人口減少社会やポスト資本主義への洞察など、広井教授が深めてこられたテーマは、コロナ禍でさらに重要性を増しています。現在の危機をどのように見つめていますか。
  
 感染症とはそれだけで独立して存在する問題ではなく、世界の根本的な問題が一つの現象として生じたものであることが、改めて明確になったと思います。
 具体的にはまず、人間と生態系のバランスが崩れた結果として、感染症が頻発していることが、たびたび指摘されます。社会や文明の在り方を根本から改革しない限りは、たとえ一度は感染拡大が収まったとしても、感染症のパンデミックは繰り返すでしょう。
 
 もう一つ、コロナ禍によって顕在化した課題として、「一極集中型」社会の脆弱さを挙げたいと思います。東京のような大都市圏に人や企業が密集し、そこから地方に経済効果が波及するのが、今の日本社会の構造ですが、言うまでもなく“3密”が常態化し、感染症が容易に広がるのは、そうした大都市圏です。
 
 地方分散の必要性は、コロナ前から指摘されていたことでもあります。実際に、私たちの研究グループが2017年に公表した、日本社会の未来に関するAI(人工知能)を用いたシミュレーションでも、「地方分散型」への移行が持続可能な未来への分岐点になるとの結果が出ました。その内容が、コロナ禍で浮き彫りになった課題と大きく重なったことは、私たちにとっても驚きでした。

生き方の分散

 ――都市から地方という側面にとどまらず、生き方全体を含む「包括的な分散型社会」への転換を提唱されています。
  
 コロナ禍を踏まえて昨年からは、「ポストコロナ」の未来に向けてのシミュレーションも行い、本年2月に結果を公表しました。高齢人口や有効求人倍率といった従来の指標に、小規模拠点をつなぐ「サテライトオフィス」導入企業数のような、コロナ禍で社会的な価値が高まった指標を加えて、コロナ後の時代に望ましい社会の在り方を分析したものです。
 そこで示されたのが女性の活躍、男性の育児参加、テレワークやリモートワークの推進などの重要性でした。都市から地方といった「空間的」な意味での分散にとどまらず、働き方や住まい方、ひいては生き方を含む、人生のデザインともいえる「包括的」な分散型社会への移行が大切であることが分かりました。
 
 今、日本で最も出生率が低いのは東京です。東京に人が集まれば集まるほど、日本全体の出生率が下がってしまう現実があります。
 一方で地方は、出生率は比較的高くても、女性にとっての活躍の場が少ない。期待を抱いて東京にやって来ると、東京では、仕事と家庭を両立させるような環境は非常に限られている。結果的に出生率も下がっていくという、ある種の悪循環の中に日本は置かれているのです。
 
 しかし、女性の活躍の場が増えれば、地方から東京に出て行かなくてもよくなります。東京でも、仕事と家庭の両立が進めば、出生率も回復します。女性の活躍をきっかけに、ウィン・ウィン(相互利益)の好循環が築かれていきます。
 また、テレワークやリモートワーク、長期休暇も兼ねて地方で仕事をするワーケーションといった、多様な生き方が促進されることで、生活の質が高められます。都市と地方が互いに栄え、日本の人口も回復していくというようなスケールの大きな未来を、シミュレーションは示したのです。
 
 山登りに例えれば、戦後の日本は、経済成長や人口増加といった山頂に向かって、集団で1本の道を登っていた時代でした。いわば「単一ゴール・集中型」の社会です。しかし、多様な人生100年時代にあって、画一的な経済発展モデルはもう成り立ちません。
 ただ、山頂に立てば視界は360度開かれているように、包括的な分散型社会は、それぞれが自分の好きな道を選び、登り下りができる社会です。単一ゴール・集中型ではなく、多様な生き方を促進することは、各人の創造性を発揮させ、結果として、経済成長や持続可能性にもプラスになると思うのです。

生命中心の経済

 ――成長一辺倒の画一的な経済モデルに代わる、「生命中心」の経済を提唱されています。
  
 17世紀にヨーロッパで科学革命が起こり、今日の私たちが「科学」と呼ぶものが生まれました。それ以降、「物質」「エネルギー」「情報」が普及していきましたが、それらはもう成熟段階に入っており、次なる社会コンセプトが見え始めている。それが「生命」であるというのが私の理解です。
 ここでいう生命は、生命科学という狭い意味にとどまらず、英語の「ライフ」のことです。ライフは、人生や生活を指します。また、地球の生態系や生物多様性のような広い意味での生命も含まれます。
 
 この生命を軸に、「生命関連産業」というものを考えると、少なくとも五つ――①健康・医療、②環境(再生可能エネルギーを含む)、③生活・福祉、④農業、⑤文化という分野があります。
 いずれも、生命に深く関連した経済活動の領域であり、こうした分野を発展させていくことが、ポストコロナの時代に重要になると考えます。
 
 生命関連産業は、比較的小規模で、地域に密着したローカルな性格が強いことに気が付くと思います。地域再生に寄与する効果が見込まれますが、一方で、そうした小規模でローカルな産業が、現実に経済を回せるのかという疑問が生じるのも、当然です。
 しかし、実は日本では、サービス業をはじめとする第3次産業が、雇用の70%を占めています。製造業などの第2次は25%、農業などの第1次は4、5%となっています。
 地方を活性化するというと、大きな工場ができて、何百人、何千人の雇用が一気に生まれるという製造業的なモデルで考えがちですが、現実には、すでに第3次産業が大半を占め、小さな産業が積み重なって経済が回っているのです。そういった視点や発想の転換が必要であると思います。
 
 コロナ禍の中で、国家の経済成長というマクロの視点だけでなく、生命の充実や幸福度を高めていくことを目指す、ミクロな視点に立った経済構造が求められているといえます。

創造性の発揮

 ――生命関連産業への転換は、資本主義の暴走を食い止めるという視点もあると思います。現実に資本主義が行き渡った生活の中にあって、いかに生命中心の社会へと移行することができるでしょうか。
  
 経済思想家の斎藤幸平さんが書いた『人新世の「資本論」』が昨今、話題になっています。マルクスの思想の本質に立ち返り、資本主義に代わって「脱成長」を訴える内容ですが、こうした書籍が大反響を起こすこと自体、時代の変化を象徴する例だと思います。
 
 私自身の「ポスト資本主義」の構想には、三つの柱があります。市場経済、コミュニティー、政府であり、それぞれ、「私」「共」「公」という領域に言い換えられます。
 斎藤さんは「コモン=共」の再生を軸に論を展開していますが、私は「私」と「公」も合わせた三つが全て重要で、どれ一つ欠けてもいけないと考えます。
 
 私の理解では、市場経済そのものは古代から人間社会に存在した、つまり、資本主義の誕生よりもはるかに昔からあったものであり、二つはイコールではありません。むしろ、市場経済に「限りない拡大・成長への志向」がプラスされたものが資本主義であるとすれば、その拡大・成長路線が成り立たなくなっているのは、今日の気候変動を見ても明らかです。
 
 その意味で、私は大きくいえば「脱成長」の立場であるといえますが、ただ経済成長をやみくもに否定するつもりはありません。たとえばGDP(国内総生産)といった量的拡大を唯一絶対の目標にするような在り方ではなく、「持続可能な発展」「定常化社会」を目指すという考えです。
 「一本道」を皆で登るのではなく、一人一人が創造性を発揮する。そうすることで、結果的に、持続可能な発展ができることもあるのではないでしょうか。

死の意味を問う

 ――近著『無と意識の人類史』では、そうした持続可能な発展、ポスト資本主義の人類の未来について、「有限性」をテーマに論じられています。
  
 現代は二つの有限性に、根本的なレベルで向き合っている時代だと考えます。
 
 一つは、すでに申し上げている「地球環境の有限性」です。環境や資源が有限であるという事実を直視し、いかに生きていくかが人類に問われています。
 そしてもう一つは、「生の有限性」です。近年、人間の寿命は無限に延ばせるといった“現代版「不老不死」”ともいえるような議論や、脳内の情報を全てコンピューターに入れ、移すことで意識を永続化できるといった議論が真面目に行われています。
 
 全てを否定するわけではないですが、私には、身体や意識を永続化させることが人間を本当に幸せにするかどうか、疑問です。
 そこには、資本主義のように無限の拡大を目指す思想が根底にあるように映るのですが、むしろ私は、人間の一生は有限であることを、積極的に捉えるべきだと考えています。
 一人一人の人生は有限であっても、無数の世代間のつながりの中で、人間がつくる価値や文化などは無限に広がっていきます。むしろ、物質的な有限性を認識するからこそ、有限にとどまらない無限の価値を創造していくことができるとさえいえます。
 
 人間は誰もがいつかは死ぬ一方で、死を受け入れることは簡単ではありません。だからこそ、「死」というものの意味を自分のものにできれば、生きていくことの意味やエネルギーにつなげていけるのではないか。そうした思いで、今も「生の有限性」というテーマの探求途上にいます。

「物質的価値」から「精神的価値」へ

 ――気候変動やコロナ禍の中で、私たちはまさに「地球環境の有限性」「生の有限性」に直面しています。広井教授は、人類が精神革命の中で、新たな発展と生存の道への転換を図ってきたと言われています。
  
 人類は人口と経済の「拡大・成長」「成熟」「定常化」というサイクルを3度繰り返し、現代は「第3の定常化」への移行期にいるというのが、私の考えです(注=図「人類史における拡大・成長と定常化のサイクル」を参照)。
 
 第1のサイクルでは、約5万年前に起きた「心のビッグバン」を経て、「第1の定常化」に移行したと考えられます。この頃、洞窟壁画のような絵画や装飾品、芸術的な縄文土器などが一気に現れました。それらは生活に必要な実用性を超え、人間の“心”の充実に価値を見いだしたと見ることができ、自然信仰を軸とした宗教の原初的な形態が大きく関わったと考えられます。
 
 また、第2のサイクルにおいては、ドイツの哲学者ヤスパースが「枢軸時代」、科学史家の伊東俊太郎が「精神革命」と呼んだ紀元前5世紀ごろが、「第2の定常化」への移行期となりました。この時期、インドでは釈尊の仏教、中国では儒教や老荘思想、ギリシャではソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学、中東ではキリスト教やイスラムの原型である旧約思想など、現在に続く普遍宗教・思想が、“同時多発的”に起こりました。
 
 次いで、近代化によって第3のサイクルが始まります。市場化、産業化、情報化・金融化の中で、人類は、地球資源を際限なく大量消費してきました。そして今、私たちは「第3の定常化」への移行期に立っていると考えています。
 
 第1、第2のサイクルを見て分かるのは、拡大・成長から成熟、そして定常化への移行期は、進歩が止まったり停滞したりするのではなく、むしろ、文化的にも極めて創造的な「イノベーションの時代」であったということです。
 
 特に紀元前5世紀の「枢軸時代・精神革命」は、森林の減少といった地球環境や資源の限界にぶつかり、「物質的な量的拡大」から「精神的・文化的発展」へ、舵を切った時代であったといえます。
 資源が枯渇する時代というのは、争いが起こりやすい状況です。その中で、生存のために発展の方向を切り替えたといえますし、それは何かを我慢するという消極的な転換ではなくて、新たな発展の在り方に、喜びやプラスの価値を見いだす転換であったのです。
 
 仏教をはじめとする普遍宗教・思想は、まさにそうした背景の中で生まれ、個人という領域を超越し、社会全体の文化的な発展と成熟を支えてきました。一方で、現代社会に至っては、既成の思想や宗教的価値観が対立し、分断を引き起こしていることも事実です。
 
 その意味で、「第3の定常化」への移行期である今こそ、「心のビッグバン」や「枢軸時代・精神革命」に匹敵するような、新しい思想が誕生する必要があるのではないでしょうか。既成の価値観の分断を超える新たな思想という観点で、私は「地球倫理」というものがキーワードになるのではないかと考えています。
 (㊦は26日付に掲載予定)

 <プロフィル>
 ひろい・よしのり 京都大学こころの未来研究センター教授。1961年、岡山県生まれ。東京大学・同大学院修士課程修了後、厚生省(当時)勤務、千葉大学法経学部教授等を経て、2016年から現職。専門は社会保障や環境、医療・福祉、都市・地域に関する政策的研究から、ケア、死生観などを巡る哲学的考察まで幅広い。『コミュニティを問いなおす』で大佛次郎論壇賞受賞。その他に『定常型社会』『ポスト資本主義』『人口減少社会という希望』『無と意識の人類史』など著書多数。

 <ご感想をお寄せください>
 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613


ソフト・パワーの時代と哲学

2021年09月24日 | 妙法

池田先生のハーバード大学講演30周年 1991年9月26日「ソフト・パワーの時代と哲学」2021年9月24日

分断から調和を築くために―
池田博士が唱える内発の力の薫発を
ラングリー博士
ハーバード大学ケネディ政治大学院のウィナー講堂で池田先生が講演(1991年9月26日)。先生は93年9月、「21世紀文明と大乗仏教」と題し、同大学で2度目の講演を行っている
ハーバード大学ケネディ政治大学院のウィナー講堂で池田先生が講演(1991年9月26日)。先生は93年9月、「21世紀文明と大乗仏教」と題し、同大学で2度目の講演を行っている

 池田大作先生が1991年9月26日に米ハーバード大学で「ソフト・パワーの時代と哲学」と題して講演を行ってから、あさって26日で30周年となる。
 講演の2年前の89年にベルリンの壁が崩壊し、米ソ首脳が冷戦終結を宣言。激動の時代にあって、軍事力や権力など外圧的なハード・パワーよりも、知識や文化など、相手を魅了して行動を促すソフト・パワーに光が当たり始めていた。これらの概念を提唱した同大学のジョセフ・ナイ博士らから池田先生に招聘状が寄せられ、同講演が実現した。
 先生は講演で、人間の精神性や宗教性に根差した哲学によって、内発の力、自己規律の心を育むことの重要性に言及。異文化の衝突等に直面した時に忍耐や熟慮を重ねることで、良心の内発的な働きが鍛え上げられ、人々を分断する悪を最小限度に封じ込めることができると訴えた。
 今回、3人の識者がこの講演の現代的意義を語った。
 マサチューセッツ大学ボストン校名誉教授のウィンストン・ラングリー博士は、講演で言及された「縁起」の思想に触れ、あらゆるものとの関係性を見いだし、人々を結ぶ池田先生の行動について述べた(2面に全文を掲載)。
 ジョージ・メイソン大学のスーザン・アレン准教授は「内発的な力が育まれた個人が世界を変えゆく時代が今、希求されている」と強調する(後日掲載)。
 池田国際対話センターのケビン・マー所長は、講演の柱である「対話」を、さまざまな形で実践する同センターの活動などを紹介している(後日掲載)。
 分断が世界の課題となる今、「内発の力」に解決の方途を探った同講演の持つ価値は、いやまして大きい。

 

 

ハーバード大学講演30周年に寄せて① 米マサチューセッツ大学ボストン校 ラングリー名誉教授2021年9月24日

  • 世界を結ぶためには人類の“全て”を考えねばならない――池田博士はその信念で行動

 私たちは今、人類の歴史の節目・岐路に立っているのかもしれません。強大な軍事力を背景にした“新しい冷戦”が始まろうとしているからです。
 
 軍事などの「ハード・パワー」が台頭すると、自己規律や人間関係を育む内発的な力が弱まるものです。そうなると、“対話”は、自分自身を省みるものではなく、他者に屈辱を与えるものになってしまい、共存ではなく分断が進んでしまいます。こうした現状にあって、池田博士が1991年の講演で言及された“内発の力を薫発する重要性”を意識することには大きな意義があります。
 
 池田博士の語る縁起の思想では、あらゆる物事が関係性の中で存在することが主張されています。人間も、自分一人ではなく、複数のつながりの中に存在し、他者も環境も人間の“生”に不可欠と考えるのです。
 
 縁起の思想に基づけば、人間は一人で未来を追求することはできず、共に手を取り合わなければならないことを思い知らされます。この気づきが、分断から調和を導く源泉になります。
 
 自己を大きな関係性の中に位置づけ、内省していけば、人間の潜在的な豊かさが発揮され、個人、生活、社会のあらゆる分野に波及していくでしょう。
 
 そうした中で浮かび上がるのが対話の重要性です。対話は人間の交流を活性化し、自分と他者の共通性を発見する一歩です。個々人の共通性を発見することが、国や社会を形作る礎となります。
 
 また、衝突に対処するための自己規律も重要です。池田博士は講演で、高い自己規律の一例として、内省の末に武士道が形成された江戸時代の日本が、犯罪等が少なく社会が安定していたことに言及されています。

対話センターの取り組みの意義
池田国際対話センターの文明間フォーラムに出席したラングリー博士。参加者との対話に花を咲かせた(2018年11月)
池田国際対話センターの文明間フォーラムに出席したラングリー博士。参加者との対話に花を咲かせた(2018年11月)

 今秋、イギリスで国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)が開かれます。例年、この会議では議論や対話によって大きな成果が得られています。内発の力や規律の精神が、国際会議で実践されている好例でしょう。
 
 私が長年にわたって学生と共に学び、研究を行うボストンで、広く対話活動を推進するのが池田国際対話センターであり、その取り組みの意義は大きいと感じます。
 
 ボストンは、一流大学が集まった学術の中心地であり、世界中から訪れた学生が暮らしています。池田博士がこの場所にセンターを創立されたのは、青年のリーダーシップを育むことを重んじられる故でしょう。加えて、ボストンは、世界を舞台に活動するNGOと社会との交流の場としても機能しています。
 
 このような知的資本が集積する場所で、相互の関わりが増えていけば、「ソフト・パワー」の普及に重要な役割を果たすことができるはずです。
 
 対話センターが、キリスト教文化が色濃いアメリカの地で、仏教の精神を基礎に置いて活動を続けていること、また、イデオロギーにとらわれず、人間主義を掲げて行動する池田博士の哲学が、センターの在り方に反映されていることも特筆に値します。対話センターの今後の活動に、期待します。

印象的な出会い
ラングリー博士(左から2人目)と握手を交わす池田先生。マサチューセッツ大学ボストン校から先生に、300番目となる名誉学術称号が贈られた授与式の席上、博士との出会いを結んだ(2010年11月、創価学会恩師記念会館で)
ラングリー博士(左から2人目)と握手を交わす池田先生。マサチューセッツ大学ボストン校から先生に、300番目となる名誉学術称号が贈られた授与式の席上、博士との出会いを結んだ(2010年11月、創価学会恩師記念会館で)

 最後に、池田博士の振る舞いに感銘した点をお伝えしたいと思います。博士はどのような国や地域を訪問された際も、その土地の歴史から話を始められます。これは、どのような地域であっても、固有の魅力を有し、価値があり、互いに関係していることを物語っています。ローカルとグローバルをつなげ、豊かな関係性を結び合う言動なのです。
 
 私が東京でお会いした時、池田博士は周囲の人々がリラックスできるように語り掛け、発言しやすいように振る舞うなど、こまやかな気遣いを見せておられたことが大変に印象的でした。
 
 地域や人々がそれぞれで独立するのではなく、全てが結び付いている調和した世界を築くには、人類の“全て”を考慮に入れなければならないとの信念を、自ら実践されているのだと感じました。あらゆるものとの関係性を見いだしていく内発的な姿勢こそ、博士から学ぶべきことではないでしょうか。

プロフィル

 ウィンストン・ラングリー 米ハワード大学で国際関係論の博士号を取得。マサチューセッツ大学ボストン校の学事長・教務担当副学長を歴任。2010年11月にモトリー学長と共に来日し、池田先生に「名誉人文学博士号」を授与した。現在は同校の名誉教授で、ジョン・W・マコーマック大学院のシニアフェローを務める。国連の開発途上国への援助の在り方を経済、社会、人権の観点から研究。女性の権利の研究にも実績がある。近著は、『WAR BETWEEN US AND CHINA』(邦訳は未刊)。