毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

「異体同心」で心を一つに

2023年04月22日 | 妙法

第28回 「総務の戦い④」 「異体同心」で心を一つに!2023年4月22日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【「若き日の日記」1959年(昭和34年)3月28日】
先生――私を、見守り給え。 
新しき時代と、社会は、われらで築くぞ。
1983年(昭和58年)の5月3日を記念して、池田先生がしたためた「東京凱歌」
1983年(昭和58年)の5月3日を記念して、池田先生がしたためた「東京凱歌」
真の味方づくり

 1959年(昭和34年)3月9日、池田先生は日記に記した。
 「夜、恩師の一周忌についての『大白蓮華』の原稿を書く。折伏・布教を忘れたら――創価学会の存在価値はなくなる
 戸田先生の一周忌となる同年4月2日を目前に控え、池田先生は全国各地での激励行を加速させていく。
 3月22日、愛知・豊橋に第一歩をしるした先生は、豊橋支部の幹部会で「四条金吾殿御返事」を講義。「いよいよ強盛の信力をいたし給え」(新1554・全1143)との御文を通し、「信心は、最後の最後まで戦うということなのです」と、執念の大切さを訴えた。
 翌23日、初めての滋賀指導に訪れ、大津市内の会場へ向かう。「妙一尼御前御返事」を講義し、“純粋な信心”“不退の信心”を貫くことを強調した。
 24日、先生が泊まっていた琵琶湖畔の宿舎に、同志が集ってきた。この時、先生は求道の友を励まし、同志の姿をカメラに収めた。後日、先生が撮影した写真は、全員に届けられた。それは、同志にとってかけがえのない宝となった。
 宿舎を出た先生は、徒歩で大津駅へ向かった。途中、同志の家へ立ち寄り、心の絆を結んだ。駅のホームでは、駆けつけてきた友らと出発時間のギリギリまで懇談を重ねた。
 関西指導にかける当時の思いを、先生は記している。「(戸田)先生が行けなかった土地へ、私が名代として派遣されたのだという決意で、大切な同志を激励した」
 恩師の名代として、一瞬に全精魂を注いで、友の心に発心の種子を植えた。
 滋賀を出発した後、励ましの舞台は福井に移った。これが福井初訪問である。先生は、武生市(現・越前市)での指導会に出席。確信の声が、会場に響いた。“広布のための一切の行動は、必ず無量の功徳が集まり、無辺の善根が広がっていく。忍耐強く、勇気をもって、楽しく前進してください”
 25日も、宿舎で激励が続いた。先生は率直な真情を語った。
 「学会が非難を浴びた時に、耐えていける人を味方というんだよ。私は、その真の味方をつくりに来たのです」

「いよいよ、峻厳なる信心を基(もとい)として、一致団結し、火の玉になって、勝って(戸田)先生にご報告しようではありませんか」――学会の春季総会で烈々と語る池田総務(1959年5月3日、東京・両国で)
「いよいよ、峻厳なる信心を基(もとい)として、一致団結し、火の玉になって、勝って(戸田)先生にご報告しようではありませんか」――学会の春季総会で烈々と語る池田総務(1959年5月3日、東京・両国で)
悔いなき真剣勝負

 1959年(昭和34年)3月25日、池田先生は、京都の福知山に入った。
 約1800人が集った指導会で、先生は「四条金吾殿御返事(此経難持御書)」を講義。自身の苦闘を信心で乗り越えた体験を通して、「皆さん方も本気になって信心し、大きな体験をつかんでいただきたい。体験は確信につながります」と力説した。
 講義の後、質問会が行われた。男性が「妻が学会活動に反対です」と悩みを打ち明けた。先生は端的に語った。
 「奥さんに優しくしてあげてください。あなたに原因があるのです」
 身近にいる家族が、学会理解を深められるかどうかは、自身の一念と振る舞いにかかっている――そのことを、先生は強調したのである。
 翌26日、岐阜へ向かった。先生は岐阜市内の指導会で、京都に続いて、「四条金吾殿御返事(此経難持御書)」を講義し、烈々と語った。
 「世のために尽くそうとする人が必ず迫害を受ける時代です。いわんや宗教革命をやろうという私たちです。難があって当然です。三障四魔と戦うことが、仏法なのです。仏法は勝負です
 中部・関西指導から帰京した先生は、日記につづった。
 「地方指導より帰る。豊橋、大津、福井、福知山、そして岐阜と」「真剣勝負の日程に悔いなし」(『若き日の日記』、1959年3月28日)
 恩師の一周忌の「4・2」を目指し、先生は真剣勝負の激励とともに、聖教新聞の充実にも力を注いだ。3月20日付、27日付、4月3日付の本紙に、「一周忌を迎えて」と題する池田先生の記事が掲載された。その中で、先生は万感の思いを述べている。
 「戸田先生が御逝去あそばされてから一年、短いと言えば短かったが、これくらい長く重く感じられた一年はなかった。しかし、戸田先生の御生存中と全く同じように先生の思想、先生の声、先生の心をまざまざと感ずるのである」
 池田先生の心には、常に戸田先生がいた。胸中の恩師と対話し、恩師の精神を五体にみなぎらせ、全国を駆けた。
 4月5日、先生は中国・九州指導へと出発。6日、山口・岩国で開かれた指導会で、「四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)」を講義した。
 質問会も行われ、大学受験に失敗し、“どうしたらいいか分からない”との相談があった。先生は質問者を温かく包み込むように語った。
 「受験に失敗したからといって、クヨクヨする必要はありません」「自分自身を変革していくのが、この信心です。生涯、御本尊から離れず、気を大きく持って進んでいってください」
 7日、大分空港(当時)に降り立った。記念すべき大分への第一歩。先生は、高崎山で青年部員が待っているとの報告を受けると、ただちに足を運んだ。
 高崎山は、野生のサルで有名な場所である。大きなサルばかりがエサを取り、小さなサルのエサまで横取りする瞬間があった。その様子を見ながら、先生は言葉に力を込めた。
 「動物の世界は力の強い方が勝つ。ましてや、人間の世界は権力の世界だ。権力の横暴に、ずっと庶民は泣いてきた。だから、私は戦うんです」
 そして、青年たちへの思いを語った。
 「君たち青年の成長を見守ることが、私の心であり、使命なのです」

最後まで全力を
第1回東京総会に際し東京の同志が設置した「七つの鐘」のオブジェを、力強く打ち鳴らす池田先生(2001年4月、東京戸田記念講堂で)
第1回東京総会に際し東京の同志が設置した「七つの鐘」のオブジェを、力強く打ち鳴らす池田先生(2001年4月、東京戸田記念講堂で)

 7日夜、大分市内で指導会が開催され、八女支部や福岡支部などから同志が集った。終了後も、別府の宿舎で激励が続く。
 その場にいた青年は、緊張で顔がこわばっていた。先生は青年に語った。
 「私がいる時は、安心していいんだよ。楽をしていいんだよ。むしろ私がいない時にこそ、緊張感をもって、同志のためにしっかりと戦ってもらいたいんだ」
 師が見ている時は誰でも頑張れる。師が見ていない時、誓いを果たそうとする自分自身なのかどうか――青年は、先生の励ましに決意を深くした。
 8日、先生は宮崎に移動し、指導会に出席。翌9日、青島にも足を運び、友を激励する。その日の夜、鹿児島での野外指導会に臨み、10日には福岡での指導会で御書講義を行った。
 11日に帰京すると、13日に千葉市の指導会へ。14日は千葉・船橋市の指導会で渾身の励ましを送った。16日には、神奈川・横須賀の指導会で御書の「異体同心事」を講義。団結の重要性を語った。
 この4月、統一地方選挙が行われた。同志の真心の支援によって、全国で293人の地方議員が誕生した。
 「選挙のベテランたちを『あッ』といわせるに充分な成績だった」と書く週刊誌があった。「創価学会の進出がめざましく、各区とも当選者が増加している」と報道する一般紙もあった。
 恩師亡き後、“学会は空中分解する”との中傷が吹き荒れた。だが、そんな世間の風評を打ち破り、学会は新たな黎明の時を迎えつつあったのである。
 総務就任1周年となる6月には、参議院議員選挙が行われた。3年前の56年(同31年)、先生の指揮のもと、大阪は“まさかが実現”との勝利の歴史を刻んだ。一方で、東京は苦杯をなめた。同志は、“今度こそ”と対話にまい進した。
 先生は、東京各区を激励に回った。
 ある時は、わずか一日の間で、文京、台東、墨田、葛飾、江戸川へ。またある時は、自転車や軽トラックの助手席に乗り、“一対一の激励”に奔走した。
 各地を駆けながら、模造紙に「団結」などの書をしたため、雪辱に燃える本陣の友の魂を鼓舞した。号令主義ではなく、広布の最前線を率先して歩く。一人の励ましに力を注ぎ、皆の力を引き出す。それは、「大阪の戦い」と同じ方程式であった。
 「東京の戦い」の最終盤、先生は、中野、杉並、練馬の友の集いに出席し、「最後まで全力を尽くして勝利を勝ち取っていこう」とエールを送った。香峯子夫人も、大田・蒲田の同志のもとへと足を運び、友の奮闘をたたえた。
 4月に行われた統一地方選の東京区議選で、学会が支援する候補者は全員当選を果たした。さらに、6月の参院選東京地方区ではトップ当選。2位に大差をつけての圧勝だった。「東京凱歌」の歴史が刻まれたのだ。
 新聞各紙には「なぜ強い創価学会」などの見出しが躍った。56年に続き、世間が驚く勝利劇をつづったのである。
 「東京の戦い」の時、先生は訴えた。
 「今回の戦いは、雪辱戦です。断じて勝たねばならない。そのためには異体同心で、東京が心を一つにして、団結しなければなりません。
 みんなが『勇気、正義、信念の人』であることを証明しなければなりません。広宣流布のために、一人一人が師子の道を歩まねばなりません。
 私たちの戦いです。私たちの信心の戦いです。題目をあげ抜いて、心を一つにして戦えば必ず勝てる!」

「第2東京大文化祭」に出席し、両手を広げながら、同志の奮闘をたたえる池田先生(1998年12月5日、東京体育館で)。先生は、健闘する友へ句と和歌を贈った――「天晴れて 東京第二は 大勝利」「万歳と 勝ち鬨送らむ 全世界 遂に立ちたり 緑の東京」
「第2東京大文化祭」に出席し、両手を広げながら、同志の奮闘をたたえる池田先生(1998年12月5日、東京体育館で)。先生は、健闘する友へ句と和歌を贈った――「天晴れて 東京第二は 大勝利」「万歳と 勝ち鬨送らむ 全世界 遂に立ちたり 緑の東京」

ビクトル・ユゴー2

2023年04月08日 | 妙法

HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第30回 ビクトル・ユゴー2023年4月8日

未来の勝者よ、立ち上がるのだ。
今日の課題は何か。戦うことだ。
明日の課題は何か。勝つことだ!
池田大作先生が創立したフランス・ビエーブル市の「ビクトル・ユゴー文学記念館」。大文豪の小説の下書き原本や直筆書簡など、貴重な資料が所蔵されている
池田大作先生が創立したフランス・ビエーブル市の「ビクトル・ユゴー文学記念館」。大文豪の小説の下書き原本や直筆書簡など、貴重な資料が所蔵されている

 新たな船出の4月が始まった。
 「人生は航海なり」――こう謳ったのは、かの大文豪ビクトル・ユゴーである。
 昨年、生誕220周年を迎えた彼の生涯は、相次ぐ艱難の波浪を乗り越え続けた闘争のドラマに彩られている。
 「諸君は未来の勝者であるのだ。あくまでも戦え」
 「今日の課題は何か。戦うことだ。明日の課題は何か。勝つことだ!」
 「昼となく夜となく戦い続けるのです。山も平野も森も戦うのです。立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい! 戦いの手を休めてはなりません」
 フランス革命直後の動乱を駆け抜けたユゴーの言々句々には、民衆が主役の時代を築こうとする闘魂がたぎっている。
 1802年2月、フランス東部のブザンソンで生まれたユゴー。幼い頃に両親は別居し、母に育てられた。母はユゴーと2人の兄に読書を奨励し、息子たちが作家になることを夢見ていた。ユゴー少年の楽しみは、自作の詩を母にほめてもらうことだったという。
 青年に成長した彼は、その才能を遺憾なく発揮する。15歳で権威あるアカデミー・フランセーズの詩のコンクールに応募し、選外佳作に。その後、兄弟で雑誌を発刊し、20歳で初の詩集を著すなど、創作活動に没頭した。
 庶民目線で人間の心に焦点を当てた作品は、伝統や形式を重視する当時の社会にあって、批判されることも多かった。しかし、ユゴーは怯むことなく信念を主張し、“自由の旗手”として衆望を集めていく。
 やがて挑戦の舞台は政界へ(45年)。貧困の解決、教育権の独立や自由民権の擁護など、大衆の地位を向上させるため、激しい言論戦を展開。大統領ルイ・ナポレオンを支持するが、独裁への野心が見えるや、猛烈に攻撃した。
 権力と野望が渦巻く世界で、理想に生きるユゴーを阻もうとする者は少なくなかった。「光り輝くもののまわりには必ず、雑音を放つ黒雲が群がるものです」とは、彼の体験に基づく言葉である

〈HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第30回 ビクトル・ユゴー(1面から続く)2023年4月8日

 
1991年6月21日、フランスのビクトル・ユゴー文学記念館を訪れた池田先生ご夫妻。正義の闘争を貫いた大文豪の生涯をしのんだ
1991年6月21日、フランスのビクトル・ユゴー文学記念館を訪れた池田先生ご夫妻。正義の闘争を貫いた大文豪の生涯をしのんだ
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【ユゴーを語る池田先生】
「思いもおよばぬ巨大な姿を、あなたが目覚めるという、あっと驚く奇跡を見せてやりなさい」
偉大な力があるのは「民衆」である。
日蓮仏法は「民衆のための仏法」である。
【ユゴー】
逆境にあっては、
まさに、かく叫ばねばならぬ、
「希望! 希望! また希望!」と。

 1851年、ルイ・ナポレオンがクーデターを起こし、ユゴーたち共和派は追放された。殺される者も出る中、ユゴーはフランスを出国することに。実に20年近くに及ぶ亡命生活の始まりだった。しかしその間も、彼が戦いをやめることはなかった。
 政府の圧政を痛烈に批判、風刺した『小ナポレオン』や『懲罰詩集』を出版。不朽の名作である小説『レ・ミゼラブル』など、ユゴーの作品の多くは、この激動期に生まれている。
 『レ・ミゼラブル』には、つづられている。「小さな奮闘のうちにこそ多くの偉大なる行為がなされる」と。
 そして、亡命の地でユゴーは堂々と訴えた。
 「逆境を好ましく思う。自由のため、祖国のため、正義のために、自分がなめる辛酸という辛酸を好ましく思う。わたしの良心は喜々としている」
 「逆境にあっては、まさに、かく叫ばねばならぬ、『希望! 希望! また希望!』と」
 「あと千人しか残らなくなっても、よし、私は踏みとどまろう! あと百人しか残らなくなっても、私はなおスラ(古代ローマの独裁官=編集部注)に刃向かおう。十人残ったら、私は十番目の者となろう。そして、たったひとりしか残らなくなったら、そのひとりこそはこの私だ!」
 70年9月、ルイ・ナポレオンがプロイセン軍に敗れた3日後、再びパリの地に立ったユゴー。彼を待っていたのは「ユゴー万歳!」という、市民らの絶大なる歓呼の声だった。
 帰国すると、ただちに普仏戦争終結のために筆を振るった。創作意欲は衰えることなく、不滅の名著『九十三年』をはじめとする作品を次々と発表。ペンの闘争は臨終の直前まで続き、亡くなる3日前には「愛するとは、行動することである」と記している。
 85年5月、83歳で命尽きるまで正義の炎を燃え上がらせた文豪のひつぎは、凱旋門の下に安置され、葬儀は国葬として執り行われた。国民的英雄を見送ろうと集まった人々は200万人に上ったといわれている。
 迫害の烈風にも揺るがず、見事な逆転劇で人生を飾った“ビクトル”の名は、今なお“勝利の人”として、文学史のみならず世界史に燦然と輝きを放っている。

 池田先生にとって、ユゴーの作品は「青春時代の、戦い生き抜く力となった大切な書」であった。
 病弱だった少年期にも、一身をなげうって恩師を支えた青年期にも、火を吐くようなユゴーの言論に魂を震わせた。
 その小説を教材に“戸田大学”で人権や革命などについて学んだこともある。
 1991年には、彼の精神の大光を永遠にとどめ、全世界に広げるため、文豪ゆかりのフランス・ビエーブル市に「ビクトル・ユゴー文学記念館」を創立した。
 2004年から翌05年には、先生が創立した東京富士美術館の海外文化交流特別展として、ユゴー生誕200周年(02年)を記念する「ユゴーとロマン派展」を開催。同展は関西などを巡回し、反響を呼んだ。
 彼の箴言を通し、先生が同志に贈った指針にこうある。
 「ユゴーは呼びかけた。
 『ああ! 民衆よ!』
 『思いもおよばぬ巨大な姿を見せてやりなさい。あなたが目覚めるという、あっと驚く奇跡を見せてやりなさい』
 『立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい!』
 偉大な力があるのは、権力者でもなければ、有名人でもない。『民衆』である。
 民衆よ、小さくなるな。民衆が動く、巨大な姿。それを敵に見せつけるのだ!――と。
 日蓮大聖人の仏法は、『民衆のための仏法』である。
 民衆よ立ち上がれ!
 これがユゴーの叫びであり、戸田先生の叫びであり、創価学会の叫びである」(01年5月21日、第6回本部幹部会でのスピーチ)
 「恩師・戸田先生は烈々たる気迫で青年に語られた。
 『勝つことが正義である。ゆえに正義は、絶対に負けてはならない』と。
 妙法は、究極の正義の力である。不滅の勝利の原動力である。
 道理の上で正義であることを、現実に打ち立てることだ。
 ゆえに、この仏法を持った我々は、断じて勝たねばならない。勝たなければ、正義ではない。負ければ、正義ではない。(中略)
 ユゴーは叫んだ。
 『幸福の戦、偉大の戦、正義の戦、美の戦、真理の戦、悪を排し理想を求める善の戦の他には、戦なるものはあるまい』
 人生は戦いである。生きることは、あらゆる現実との戦いである。そのなかにあって、私たちは、最極の『使命の闘争』をしている。それが『広宣流布』である」(04年7月31日、全国最高協議会でのスピーチ)
 さあ、我らの「5・3」へ――新たな民衆凱歌を轟かせる「天の時」は来た。
 池田先生が戸田先生のもとで学んだ小説『九十三年』。その中でユゴーは訴えた。
 「戦闘の最後の勝利は、つねにもぎとるようにしてかちえられるものなのだ」

 【引用・参考】『ユーゴー全集』全6巻・神津道一ほか訳(本の友社)、『ヴィクトル・ユゴー文学館』全10巻・辻昶ほか訳(潮出版社)、辻昶著『ヴィクトル・ユゴーの生涯』(同)、『人間と文学を語る』(同、『池田大作全集』第106巻所収)ほか


ビクトル・ユゴー2

2023年04月08日 | 妙法

HEROES 逆境を勝ち越えた英雄たち〉第30回 ビクトル・ユゴー2023年4月8日

未来の勝者よ、立ち上がるのだ。
今日の課題は何か。戦うことだ。
明日の課題は何か。勝つことだ!
池田大作先生が創立したフランス・ビエーブル市の「ビクトル・ユゴー文学記念館」。大文豪の小説の下書き原本や直筆書簡など、貴重な資料が所蔵されている
池田大作先生が創立したフランス・ビエーブル市の「ビクトル・ユゴー文学記念館」。大文豪の小説の下書き原本や直筆書簡など、貴重な資料が所蔵されている

 新たな船出の4月が始まった。
 「人生は航海なり」――こう謳ったのは、かの大文豪ビクトル・ユゴーである。
 昨年、生誕220周年を迎えた彼の生涯は、相次ぐ艱難の波浪を乗り越え続けた闘争のドラマに彩られている。
 「諸君は未来の勝者であるのだ。あくまでも戦え」
 「今日の課題は何か。戦うことだ。明日の課題は何か。勝つことだ!」
 「昼となく夜となく戦い続けるのです。山も平野も森も戦うのです。立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい! 戦いの手を休めてはなりません」
 フランス革命直後の動乱を駆け抜けたユゴーの言々句々には、民衆が主役の時代を築こうとする闘魂がたぎっている。
 1802年2月、フランス東部のブザンソンで生まれたユゴー。幼い頃に両親は別居し、母に育てられた。母はユゴーと2人の兄に読書を奨励し、息子たちが作家になることを夢見ていた。ユゴー少年の楽しみは、自作の詩を母にほめてもらうことだったという。
 青年に成長した彼は、その才能を遺憾なく発揮する。15歳で権威あるアカデミー・フランセーズの詩のコンクールに応募し、選外佳作に。その後、兄弟で雑誌を発刊し、20歳で初の詩集を著すなど、創作活動に没頭した。
 庶民目線で人間の心に焦点を当てた作品は、伝統や形式を重視する当時の社会にあって、批判されることも多かった。しかし、ユゴーは怯むことなく信念を主張し、“自由の旗手”として衆望を集めていく。
 やがて挑戦の舞台は政界へ(45年)。貧困の解決、教育権の独立や自由民権の擁護など、大衆の地位を向上させるため、激しい言論戦を展開。大統領ルイ・ナポレオンを支持するが、独裁への野心が見えるや、猛烈に攻撃した。
 権力と野望が渦巻く世界で、理想に生きるユゴーを阻もうとする者は少なくなかった。「光り輝くもののまわりには必ず、雑音を放つ黒雲が群がるものです」とは、彼の体験に基づく言葉である。


桜舞う「4・2」――師弟の絆は永遠に

2023年04月02日 | 妙法

桜舞う「4・2」――師弟の絆は永遠に 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2023年4月2日

 【写真説明】厳寒の季節を越えて、桜が咲いた。爽やかな春空の下、命を燃やして――。それを見守るかのように、第2代会長・戸田城聖先生の胸像が立っていた。2008年(平成20年)4月、東京・八王子市の牧口記念庭園で、池田大作先生が恩師を偲びつつ、カメラを向けた。
 きょう4月2日は、戸田先生の祥月命日。先生が逝いて65年となる。かつて池田先生は詠んだ。
「師弟不二 三世に薫る 桜花」
 師を思えば力が湧く。師との誓いを果たさんとする中に充実も喜びもある。それが創価の誉れの生き方である。桜花彩る「4月2日」から凱歌の太陽輝く「5月3日」へ、師弟の底力を示す時が来た。
 

池田先生の言葉

 「本物の道」が一つあれば、
 人生に迷うことはない。
 それが「師弟の道」である。
 師匠の道を歩み、
 師匠の道を広げながら、
 そこに
 さまざまな花を咲かせ、
 実を結ばせていく。
 それが弟子の道である。
  
 偉大な師匠と
 同じ時代に生まれ、
 同じ理想を目指し、
 同じ祈りで
 邁進しゆく人生ほど、
 素晴らしいものはない。
 ありがたいものはない。
  
 師弟の一念が合致して、
 祈り切っていくところに、
 計り知れない力が出る。
 「祈り」は即「行動」だ。
 ゆえに
 広布と人生の勝利のため、
 一つ一つ祈り、真剣勝負で
 行動していくのだ。
  
 どこまでも
 「師弟の道」を根本に、
 弟子が互いに励まし合って
 いく中にこそ、
 異体同心の団結が
 結ばれる。
 「師弟不二」と
 「異体同心」こそが、
 仏法を実践する
 最重要の原理であり、
 人間革命の急所なのだ。
  
 仏法の師弟の絆は、
 三世永遠である。
 この絆は誰人も
 壊すことはできない。
 常に、師と共に
 使命の天地に生まれ、
 元初の誓願を
 果たしていくのだ。
 苦悩渦巻く娑婆世界を、
 常楽我浄の仏国土へと
 忍耐強く
 変革していくのだ。
  
 どこまでも勇敢に、
 一つ一つ勝ち切っていく。
 そこに
 無量の功徳が集まり、
 無辺の善根
 広がっていく。
 わが親愛なる同志よ、
 友情を広げゆこう! 
 正義を語り抜こう!
 そして「5・3」を
 晴れ晴れと勝ち飾り、
 洋々たる広布の新航路を、
 共々に開いていこう!