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第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶 特別編「1960年5月3日」への道  2020年4月30日

2020年04月30日 | 人権

第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶 特別編「1960年5月3日」への道  2020年4月30日

  • 永遠なれ!「我らの五月三日」
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 「我らの五月三日」よ、永遠なれ!――池田大作先生の第3代会長就任から、5月3日で60周年を迎える。「師弟凱歌の記憶」特別編として、1960年(昭和35年)5月3日の会長就任式に参加した友の手記や証言等を交え、「5月3日への道」をたどる。

広布の歴史に永遠に輝く第3代会長就任式。音楽隊の勇壮な演奏が鳴り響く中、池田先生が入場。会場を埋め尽くした参加者が、その雄姿を見守る(1960年5月3日、東京・両国の日大講堂で)
広布の歴史に永遠に輝く第3代会長就任式。音楽隊の勇壮な演奏が鳴り響く中、池田先生が入場。会場を埋め尽くした参加者が、その雄姿を見守る(1960年5月3日、東京・両国の日大講堂で)
 

 1960年(昭和35年)の「5月3日」は日本晴れだった。
 
 夜来の雨は上がり、青く広い空に新緑が映える。東京・両国の日大講堂が、ひときわ輝いて見えた。
 
 新会長の池田先生がタクシーから降りると同志の歓声が上がる。
 
 香峯子夫人が、「會長」と書かれた菊花の胸章を胸に挿した。
 
 第3代会長就任式となる第22回春季総会は、正午に開会した。
 
 音楽隊による学会歌の演奏が轟く中、池田先生が入場。恩師・戸田城聖先生の形見のモーニングをまとっている。
 
 途中、先生は歩みを止め、前方に高く掲げられた、師の遺影を見上げた。
 
 壇上に立った池田先生は、力強く就任の第一声を放った。
 
 「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して、化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮を執らせていただきます!」
 
 会場を埋め尽くした同志が、頰を紅潮させ、雷鳴のような拍手で応える。
 
 世界広宣流布の使命を帯びて出現した不思議なる教団は、この日、この瞬間から、青年会長のもと、怒濤のごとき、本門の前進を開始したのである。

 

「一歩前進への指揮を執らせていただきます!」――第3代会長就任のあいさつに立つ池田先生
「一歩前進への指揮を執らせていただきます!」――第3代会長就任のあいさつに立つ池田先生
 

 第3代会長の誕生を、同志がどれほど待ち望み、どれほど喜んだか。
 
 参加者は振り返る。
 
 「両国駅から会場までの役員は、どの顔も、今日の喜びが満面にあふれて『おはようございます。ご苦労さまです』と元気いっぱい。言葉を掛けられただけで、ただ感激で、もう涙でした」(婦人部員=当時)
 
 「ろくな着物も持っていなかったので、私は長男の入学式でやっと作った黒のスーツ、主人は色あせたグレーの上下別々の背広を着て参加しました。でも心の中は金襴緞子の錦を着飾っているようでした」(同)
 
 「池田先生が真ん中の通路より入場されました。今までの興奮がいっぺんに爆発し、拍手と歓声で鉄傘(鉄骨の丸屋根)が吹き飛ぶようなすごいものでした」(壮年部員=当時)

 

第3代会長就任50周年を祝賀する本部幹部会の席で、1980年にしたためた「五月三日」の書を紹介する池田先生(2010年4月、八王子市の東京牧口記念会館で)
第3代会長就任50周年を祝賀する本部幹部会の席で、1980年にしたためた「五月三日」の書を紹介する池田先生(2010年4月、八王子市の東京牧口記念会館で)
 

 第2代会長・戸田城聖先生の逝去から2年。「ゆらぐ創価学会の屋台骨」「壊滅寸前の創価学会」等と一部マスコミが書き立てる中、学会を支え、前進の推進力となってきたのは若き池田先生だった。
 
 1958年(昭和33年)5月3日、戸田先生亡き後、初めての春季総会で先生は“七つの鐘”の構想を示した。当時は学会創立から28年。7年を一つの節として前進してきた学会が「第四の鐘」を経て、「第五の鐘となる、新たな七年」へ出発するとの宣言である。
 
 6月には、ただ一人の総務に就任。学会の運営の、実質的責任を担うことになった。翌59年(同34年)を「黎明の年」とすることを提案したのも先生である。今日まで続く年間テーマの始まりである。
 
 同年には、戸田先生の御書講義などの音声をレコードにして残すことを決定。
 
 夏の参院選では、主戦場の東京を激励に駆け巡り、前回は苦杯をなめた東京地方区をトップ当選、全国区5人を全員当選に導いた。
 
 ◇◆◇ 
 
 当時、先生は大田区小林町の自宅から国電(現JR)で信濃町の学会本部に通っていた。
 
 「先生が到着されるや、本部は偉大なモーターが動き始めるように、回転を始める」――会長就任直前の本部の模様を、当時の女子職員が証言している。
 
 先生は午前中、机上に積まれた手紙や書類の山に向かい、どんどん処理した。午後は、訪れる同志の激励に当たるのが常だった。
 
 「先生は1階の応接などで、一人一人、懇切丁寧に指導されていました。部屋に入り切れず、廊下まであふれた方々が、必死で先生の言葉に耳を傾けている情景が毎日のように見られました。夕方には必ず、座談会や御書講義に、青年部の会合にと出掛けられ、まさに休む間もない、戦いの毎日であられました」
 
 とりわけ先生は、青年を大切にした。
 
 以下は、当時の一男子部員の述懐である。
 
 59年秋のある日。父から継いだ事業の借財に悩んでいた彼は、先輩に“池田総務に相談しては”と勧められ、本部に向かった。
 
 いつも指導を受ける人でいっぱいと聞いていたが、応接の扉を勢い込んで開けると、2、3人しかいない。
 
 あわてて出ようとすると「やあ、どうした、いいんだよ」の声。池田先生だった。
 
 先生は、経済の苦境、仕事と活動の両立の悩みに耳を傾けると、師のもとで苦闘した体験を語り、こう激励してくれたという。
 
 「若いうちに苦労することは、それがそのまま、人生の財産になるのだよ。負けちゃいけない。歯を食いしばって頑張るんだ」「ところで、友達はいるかい。信心を貫き通すには良い友達を持つことだ」
 
 指導を受けたいと、小林町の自宅を夜遅く訪ねる同志もいた。先生は、仕事に個人指導に会合に精魂を使い果たし、疲労困ぱいのはずだが、「どうしたんだい」と温かく迎え入れてくれた。団らんの場であるはずの自宅もまた、広布の“戦場”となったのである。

 

就任式で使用された演台と、同機種のマイク。恩師・戸田先生の遺影を背にした、池田先生の写真と共に、創価文化センターに展示されている(現在は休館中)
就任式で使用された演台と、同機種のマイク。恩師・戸田先生の遺影を背にした、池田先生の写真と共に、創価文化センターに展示されている(現在は休館中)
 

 先生は戸田先生の膝下で、誰よりも厳しい薫陶を受けてきた。
 
 蒲田の二月闘争、札幌夏の陣、大阪の戦い、山口開拓指導と、ひとたび広布の戦の庭に立てば、必ず師匠の期待に応え、勝利の歓喜の渦を巻き起こした。
 
 そして師匠亡き後も、命を削って同志に希望を送り続けてきた。事実の上から、戸田先生を継ぐ指導者は、先生以外にあり得ないと誰もが思った。
 
 60年を迎える頃には、青年部を中心に、第3代会長推戴の声が澎湃とわき起こってきた。何より同志は、「信心の師匠」を求めていたのである。
 
 4月の戸田先生の三回忌を機に、当時の首脳は会長推戴で一致。3月末から繰り返し就任が要請された。
 先生はその都度、固辞した。当時の真情が随筆につづられている。
 
 「せめて、戸田先生の七回忌までは、との思いであった。また、当時、私は、大阪の事件の被告の身であった。会長になって、万が一にも、有罪判決となれば、学会に傷をつけてしまう。断じて無罪を勝ち取るまでは、お受けできないと、私は決めていた」
 
 それでも首脳は引かなかった。
 
 4月13日に重ねての要請。先生は一晩、回答を保留したが、14日午前、本部の応接室でさらに就任を懇請されると、ついに受諾した。
 
 午前10時10分。壁にある牧口先生と戸田先生の写真が、じっと見守っていた。
 
 この日の日記に、先生はつづった。「万事休す。この日――わが人生の大転換の日となれり。やむをえず。やむをえざるなり。戸田先生のことを、ひとり偲ぶ。ひとり決意す」
 
 15日にはこう記した。「戸田会長に、直弟子として育てられたわれだ。訓練に訓練をされてきたわれだ。なんで戦いが恐ろしかろう――ご恩を返す時が来たのだ。日本の歴史、世界の歴史を創りゆく戦いなのだ」
 
 19日、学会本部で全国代表幹部会が開かれ、第3代会長就任が発表。週刊だった本紙は4月22日付で報じている。
 
 喜びは大波となって、全国へ広がっていった。

 

長編詩「輝き光れ! 我らの五月三日」
我ら創価の友はいかなる試練に直面しても
常に原点の五月三日から元初の太陽を心に燃やして
勝利へ出発するのだ。
長編詩「輝き光れ! 我らの五月三日」
我ら創価の友はいかなるれんちょくめんしても
常に原点の五月三日からがんじょの太陽を心にやして
勝利へ出発するのだ。
大輪の菊花があしらわれた「會長」の胸章を、香峯子夫人が池田先生の胸に挿す
大輪の菊花があしらわれた「會長」の胸章を、香峯子夫人が池田先生の胸に挿す
 

 当時、年2回開かれていた本部総会は、各支部の持ち回りで運営され、この年の春季総会は、川崎支部が担当することになっていた。2月から準備を進めていた同支部の友にとって、総会が会長就任式になることは予想外の出来事であった。
 
 “一つの支部に任せて大丈夫か”と懸念の声も上がったが、池田先生の「今まで、一生懸命やってきているのだから」との一声で、そのまま運営を託されることになった。
 
 “とんでもない使命だ! 一生に一度あるかないかだ!”――準備に一段と力が注がれていった。
 
 支部拠点で、講堂正面に掲げる総会の大看板、戸田先生の和歌を大書した垂れ幕、新会長が上る特設階段などが次々と出来上がる。
 
 女子部員は先生の胸章にするため、季節外れの菊花を探し求め、婦人部と青年部は、日大講堂の柱や床を懸命に磨き上げた。
 
 ◇◆◇ 
 
 5月3日は、美しい五月晴れとなった。多くの人が、はやる気持ちを抑え切れない。始発電車で吉祥寺駅を出た人は、両国の日大講堂に着くと、既に長い列ができていたと話す。
 
 午前7時15分に入場開始。整理役員の証言によれば、“8時にはもう整理もほぼ終わり、開会を待つばかり”だった。開会は正午だが、午前9時頃に到着した人はもう、場外から耳を傾けるしかなかった。
 
 同志は全国から集い、日本返還前の沖縄からも、59人が船で駆け付けた。鼓笛隊や音楽隊の演奏などの晴れがましい光景に、旅の疲れも吹き飛んだという。
 
 正午。学会歌のトランペットが高らかに鳴った。
 
 正面には戸田先生の遺影と共に、2首の和歌が掲げられた。
 
 「いざ往かん 月氏の果てまで 妙法を 拡むる旅に 心勇みて」
 
 「一度は 死する命ぞ 恐れずに 佛の敵を 一人あますな」
 
 力強い手拍子と歌声に包まれて、就任式が始まった。
 
 池田先生は、就任の第一声に続き、戸田先生の七回忌までに、恩師から託された会員300万世帯を達成する決意を語った。新しき時代の黎明を告げる大師子吼であった。
 
 感動と決意のうちに就任式の幕は閉じ、続いて行われた祝賀会も終わって、先生が退場しようとした時のことである。
 
 青年たちがワーッと歓声を上げながら駆け寄った。
 
 「万歳! 万歳!」
 
 胴上げが始まった。池田先生の体は、高窓から注ぐ光を浴びて、何度も宙に躍った。小説『人間革命』第12巻「新・黎明」の章の最後を飾る名場面である。

 

「万歳! 万歳!」――就任式終了後、第3代会長誕生の歓喜に満ちた青年たちが、池田先生を胴上げする
「万歳! 万歳!」――就任式終了後、第3代会長誕生の歓喜に満ちた青年たちが、池田先生を胴上げする
 

 ――その夜。「大阪の戦い」を共に勝ち抜いた白木義一郎・文夫妻が、ひと言だけでもお祝いをと、小林町の先生宅を訪れた。日中の興奮と打って変わって、留守かと思うほど静かだったという。玄関先だけで辞去しようとする夫妻を、先生が招き入れた。
 
 「いいじゃないか。誰か来ないかなあと思っていたんだよ。よく来たね。本当によく来たね」
 
 「今日は、家ではお赤飯も炊いてくれないのだよ。(香峯子夫人を指して)この人がね。今日は池田家のお葬式の日だといって……」
 
 白木夫人が語っている。「いつどんな時でも笑顔をくずされない奥さまが、この日に限って笑顔をお見せになりませんでした。その奥さまの姿と、先生の言葉に、何か胸をつかれる想いでした」
 
 ◇◆◇ 
 
 あの歴史的な一日から60年。池田先生は、戸田先生に託された構想を全て実現し、創価の連帯は192カ国・地域に広がった。創価学会は世界宗教として、全地球の平和と民衆の幸福に貢献する時代に入った。
 
 今、池田門下の我々は、いかなる決意で「2020年5月3日」を迎えるのか。
 
 先生は呼び掛けている。
 
 「おお/我らの五月三日!/永遠に忘れ得ぬ/五月の三日よ!」
 
 「我ら創価の友は/いかなる試練に直面しても/常に原点の五月三日から/元初の太陽を心に燃やして/勝利へ出発するのだ。/目標と定めた/新たな五月の三日へ/完勝の旗を打ち立てゆくのだ」(長編詩「輝き光れ! 我らの五月三日」)

 

 
池田先生と歩んだ60年

 池田先生は、学会が1959年(昭和34年)から「年間テーマ」を掲げて前進することを提案。学会の同志は、この年間テーマと共に、人間革命と師弟共戦の歴史を刻んできた。本年までの全ての年間テーマは以下の通り。


〈My Human Revolution〉 小説「新・人間革命」学習のために 「白樺の友」編  2020年4月30日

2020年04月30日 | 人権

〈My Human Revolution〉 小説「新・人間革命」学習のために 「白樺の友」編  2020年4月30日

看護者の皆さん ありがとうございます!
 

 今回の「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」は、「白樺の友」編として、第14巻「使命」の章につづられた看護に携わる友への励ましを掲載する。次回は「ドクター部」編を、5月8日付2面に予定。※第8巻の掲載は、5月15日付の予定です。

 

碑の起工式

 1978年(昭和53年)6月23日、池田先生は、「白樺の碑」「華冠の碑」の起工式で、白樺の友に和歌を贈った。
 白樺の
  真白き生命を
   つつみたる
  天使の胸に
    幸ぞ光れと

 

喜びの結成
 

 1986年(昭和61年)3月21日、「白樺会」が結成。池田先生は、この日を記念して詠んだ。 
 生命を
  こよなく愛し
    慈しむ
  あゝ白樺の
    悲母に幸あれ

 

毅然とした優しさが希望に

 白樺は「パイオニアツリー(先駆樹)」と呼ばれる樹木の一種で、伐採後の荒れ地や山火事のあとなどでも、真っ先に育つ、生命力の強い木であるといわれている。また、あとに生えてくる木々を守る、「ナースツリー(保護樹)」としても知られている。
 彼(山本伸一=編集部注)は、人びとの生命を守りゆく看護婦グループに、最もふさわしい名前であると考え、「白樺グループ」と命名したのである。
 “看護婦さん”というと、伸一には忘れられない、青春時代の思い出があった。
 それは、国民学校を卒業し、鉄工所に勤めていた時のことである。戦時下の軍需工場での労働は、かなり過酷なものがあった。
 伸一の胸は、結核に侵されていた。(中略)
 そんなある日、高熱に加え、血痰を吐き、医務室に行った。憔悴しきった伸一の姿を見ると、医務室の“看護婦さん”は、素早く脈をとり、体温を測った。四十代半ばの小柄な女性であった。
 彼女は、心配そうな顔で言った。
 「これじゃあ、苦しいでしょう。ここには満足に薬もないし、レントゲンも撮れないから、すぐに病院へ行きましょう」(中略)
 道すがら、彼女は転地療法を勧めたあと、屈託のない顔で語った。
 「戦争って、いやね。早く終わればいいのに……。こんな時世だけど、あなたは若いんだから、病気になんか負けないで頑張ってね」
 診察を終えると、伸一は、何度も頭を下げ、丁重にお礼を述べた。“看護婦さん”は、さらりと言った。
 「気にしなくていいのよ。当たり前のことなんだから」
 社会も人の心も、殺伐とした暗い時代である。親切を「当たり前」と言える、毅然とした優しさに、力と希望をもらった気がした。それは、伸一にとって、最高の良薬となった。
 彼女の優しさは、「戦争はいや」と、戦時下にあって堂々と言い切る勇気と表裏一体のものであったにちがいない。一人の生命を守り、慈しむ心は、そのまま、強き“平和の心”となる。(99~102ページ)

 

宗教的な信念こそ献身の力
ちから

 医療に人間の血を通わせるうえで、看護婦の果たす役割は、極めて大きいといえよう。看護婦は、人間と直接向き合い、生命と素手でかかわる仕事である。その対応が、いかに多大な影響を患者に与えることか。
 体温を測るにせよ、注射一本打つにせよ、そこには看護婦の人間性や心が投影される。患者はそれを、最も鋭敏に感じ取っていく。
 そして、看護婦の人間性や患者への接し方は、どのような生命観、人間観、いわば、いかなる信仰をもっているかということと、密接に関係している。
 ナイチンゲールは「ともかくもその人の行動の動機となる力、それが信仰なのです」と述べている。真に献身的な看護には、宗教的な信念ともいうべき、強い目的意識が不可欠であろう。
 仏法は、慈悲、すなわち、抜苦与楽(苦を抜き楽を与える)を説き、その実践の道を示した教えである。
 さらに、仏法は、生命は三世永遠であり、万人が等しく「仏」の生命を具えた尊厳無比なる存在であることを説く、生命尊厳の法理である。
 まさに、仏法のなかにこそ、看護の精神を支える哲学がある。
 その仏法を持ったメンバーが、自身を磨き、職場の第一人者となっていくならば、人間主義に立脚した、患者中心の看護を実現しゆく最強の原動力となることを、伸一は、強く確信していたのである。(105~106ページ)

 

“白樺”は菩薩の心輝く集い
 

 〈1969年(昭和44年)6月6日、「白樺グループ」の結成式が行われた。その模様を聞くと、山本伸一は万感の思いを語った〉
 「この会合はささやかだが、やがて歳月とともに、その意義の大きさがわかってくるよ。メンバーは皆、本当に大変ななかで懸命に信心に励んでいる。(中略)
 三交代という不規則な勤務のうえに、常に人間の生死と直面している。疲労も激しいだろうし、緊張感もストレスも、相当なものがあるだろう。
 会合に出席するのも必死であるにちがいない。急患があったりすれば、参加できなくなることもあるだろう。
 しかし、そのなかで、広宣流布の使命の炎を赤々と燃やして、頑張り通してこそ、真実の仏道修行がある。それによって、自らの人間性も磨かれ、人の苦しみ、悲しみが共有できる。菩薩の心、慈悲の心を培うことができる。
 『極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず』(御書329ページ)と仰せの通りだ。
 冬を経ずして春は来ない。花には忍耐という大地がある。労苦なくしては勝利もないし、人生の幸福もない。
 皆がともに勝ちゆくために、同じ看護婦として互いに励まし合い、支え合い、使命に生きる心を触発し合っていくことが大事になる」
 それから伸一は、未来を仰ぎ見るように顔を上げ、目を細めた。
 「これで、苗は植えられた。二十年、三十年とたてば、このグループは、必ず大樹に育つよ。
 もともと、病に苦しんでいる人のために尽くそうと、看護婦の仕事を選んだこと自体、菩薩の心の人たちなんだ。みんなが、自身の使命を自覚し、自身に挑み勝っていくならば、『白樺グループ』は、最も清らかで、最も強く、一番、信頼と尊敬を集める、功徳と福運にあふれた女性の集まりになるよ。楽しみだ、楽しみだね……」(111~113ページ)

 

命を守ろうとの一念は感応
のう

 「白樺グループ」では、看護の基本は、生命の法則を知ることであるとの考えのうえから、教学の研鑽に力を注ぐことにした。
 (中略)
 仏法の研鑽は、皆に自身の使命の深い自覚を促し、人間主義の看護の実現をめざす原動力となっていった。
 「一念三千」や「色心不二」「依正不二」「九識論」等の法理を学び、生命と生命は互いに相通じ合うという「感応妙」の原理を知ると、メンバーの患者への接し方は大きく変わっていった。
 ある人は、交通事故にあい、ほとんど意識がなくなった八歳の女の子の健康回復を、懸命に祈りながら、日々、手を握っては、励ましの言葉をかけ続けた。
 「必ず治るから、頑張ろうね」「早く元気になって、また学校に行きましょうね」
 だが、反応はなく、一週間、二週間とたっても変化は見られなかった。しかし、三週間目から、容体は好転し始め、やがて、視線が反応するようになった。
 ある日、少女の体を拭いていると、突然、少女が言葉を発した。
 「お姉ちゃん、ありがとう。私、学校に行けるようになるからね」
 彼女は、跳び上がらんばかりに驚いた。本当に、生命は感応し合っていたのだ。
 こうした体験は、彼女一人ではなかった。皆が同様の体験をもち、看護する人の一念の大切さを痛感していった。だからメンバーは、患者のことを必死で祈った。
 “このまま死なせるものか!”
 “この命を必ず守らせてください!”
 その心で、看護にあたった。(115~116ページ)

 

 ※『新・人間革命』の本文は、聖教ワイド文庫の最新刷に基づいています。

 

 【おことわり】小説では、当時の時代状況を反映するため、「看護師」を「看護婦」と表記しています。


〈忘れ得ぬ旅 太陽の心で――池田先生の連載エッセーから〉ロンドン  2020年4月27日

2020年04月27日 | 妙法

〈忘れ得ぬ旅 太陽の心で――池田先生の連載エッセーから〉ロンドン  2020年4月27日

ロンドンを滔々と流れるテムズ川と、イギリスの国会議事堂であるウェストミンスター宮殿(1989年5月、池田先生撮影)
ロンドンを滔々と流れるテムズ川と、イギリスの国会議事堂であるウェストミンスター宮殿(1989年5月、池田先生撮影)
ロンドンを滔々と流れるテムズ川と、イギリスの国会議事堂であるウェストミンスター宮殿(1989年5月、池田先生撮影)

 世界が新型コロナウイルスの猛威と闘っている。イギリスも感染拡大は深刻だ。池田先生は、これまで同国を7度訪れ、20世紀最大の歴史家トインビー博士と対談を行うとともに、現地の人々と深い交友を結んできた。未曽有の事態に直面している現在もメッセージなどを寄せ、同志を激励し続けている。月刊誌「パンプキン」誌上の先生の連載エッセー「忘れ得ぬ旅 太陽の心で」を紹介する本企画。今回は「ロンドン――歴史を輝かせる不屈の息吹」を掲載する(潮出版社刊の同名のエッセー集から抜粋)。侵略者の脅威、経済の停滞……。国難ともいえる危機と苦難を敢然と乗り越えてきたイギリスに脈打つ「不屈の精神」に光を当てたこのエッセーを、今、家族を守り、友を励まし、社会を支えるために奮闘する方々に贈りたい。
 

 
 

 大空へ
  嵐にめげず
    みどり樹の
   伸びゆく姿
     われは待ち見む
  
 ロンドンは北緯五十一度。北海道よりも、さらに高い緯度に位置します。
 冬は日の暮れるのも早く、冬至の頃には午後四時前に日没を迎えるといいます。春本番の訪れも五月になります。
 長く厳しい冬を越えた分、陽光はまばゆく、緑は冴え、生きとし生けるものが躍動します。世界でも、最も輝きわたる季節の一つではないでしょうか。
 「三月の風と/四月の雨が/五月の花を/連れてくる」――これは、イギリスの伝承童謡「マザー・グース」の有名な一節です。
 この「五月の花」すなわち「メイフラワー」として皆に親しまれているのが、サンザシです。
 イギリスを代表する花であり、花言葉は「希望」です。
 逆境を朗らかに耐え、試練の風雨さえ、はつらつと魂の糧にし、時を待ち、時を創り、やがて「希望」の花を咲き薫らせていく。イギリスには、そうした不屈にして快活な友がたくさんいます。

 

挑戦への応戦
 

 〈池田先生を5月のロンドンに招いたのは、トインビー博士である。語らいは1972年と73年の5月、ロンドンの博士の自宅で行われた。先生は博士とベロニカ夫人の足跡に言及するとともに、対談を陰で支えた友の勝利劇を紹介。女性たちの「太陽の心」には、悲哀を希望に転じゆく力があると訴えた〉
  
 共々に
  いざや此の世の
       華の旅
  
 大著『歴史の研究』をはじめ、独創的な文明史観の地平を開拓し、平和と人道の信念の言論を貫いたトインビー博士は、幾多の圧迫に晒されました。最愛のご子息を不慮の死で失われてもいます。
 しかし、さまざまな困難からの「挑戦」に対する「応戦」にこそ、人間の前進があるという歴史観に立つ博士は、自ら“苦悩からも、必ず何かをつかみとってみせる”という信条で生き抜いてこられました。
 その博士を、夫人も同じ心で厳然と支え抜きました。だからこそ、博士は「かくも親しき伴侶を持てる者にとって、追放も追放とはならない。妻の愛情があるところ、いたるところが祖国である」と言い切ることができたのでしょう。
 新たな道を開きゆく人生には、それだけ大きな苦難も待ち構えています。その一つ一つを、共に励まし、共々に越えゆくなかで、家族の愛情と信頼は、最も深く強く尊く、生きる喜びの花また華を咲かせてくれるのではないでしょうか。

 

20世紀を代表するイギリスの歴史家、アーノルド・J・トインビー博士(左から2人目)と語り合う池田先生。ベロニカ夫人(右端)と香峯子夫人も共に(1972年5月、ロンドンにある博士の自宅で)
20世紀を代表するイギリスの歴史家、アーノルド・J・トインビー博士(左から2人目)と語り合う池田先生。ベロニカ夫人(右端)と香峯子夫人も共に(1972年5月、ロンドンにある博士の自宅で)
 

 トインビー博士との対談を、毎日、真剣に支えてくれた友人たちがいます。対話が終わると、その日のうちにテープを再生し、タイプライターで打って、まとめてくれたのです。この陰の労作業なくして、博士との語らいが対談集に仕上がることはありませんでした。
 演劇の仕事に携わっていた一人の女性は、全力でタイプを打ち上げると、それから仕事場である劇場に駆けつけていきました。この一日一日を青春の宝の歴史として、喜び勇んで若い力を発揮してくれたのです。
 彼女は、その後、当時はまだ男性中心で仕切られていた演劇界でステージマネジャーの一人となりました。
  
 イギリスが誇るシェークスピア劇の一節には、「これからはどんな苦しみも耐え抜こう、苦しみのほうで『もうまいった』と悲鳴をあげて息絶えるまで」とあります。
 彼女は、シングルマザーとして、必死に仕事と子育てに励み、地域貢献にも積極果敢に取り組みました。それは、経済問題など言い知れぬ不安との戦いでもありました。
 しかし、「困難を人のせいにしない」「愚痴を言わない」「自信を持つ」と心に決め、すべてを自らの「人間革命」の劇としてきたのです。最高峰の音楽演劇学校の運営役員、大学の演劇学部の理事も歴任し、多くの青年たちを育成していきました。
  
 陰の大功労者であった一人の女性の勝利劇が、私も妻も、何より嬉しく、感謝と敬愛の大喝采を送っています。
 すでに十八世紀に、イギリスの女性人権運動の先覚者メアリ・ウルストンクラフトは、女性は太陽であると訴えました。女性たちの「太陽の心」は、人生劇場にあっても、現実社会という劇場にあっても、暗を明に変え、苦しみを楽しみに変え、悲哀を希望に、そして分断を和楽に転じゆく力に満ちています。

 

今日より明日へ

 〈池田先生は最後に、世界の歴史を動かし、時代の流れを見つめてきたロンドンの歩みなどに触れつつ、慈悲と勇気の心で悔いなき人生をと呼び掛けた〉
  
 歴史上、征服や大火など数知れぬ苦難を乗り越えながら、独立心を燃え上がらせ、人間の権利と尊厳を強く求めてきたのが、ロンドンの人々です。
  
 第二次世界大戦下、ナチスの猛爆撃にも断じて怯みませんでした。あのテムズ川が、いつも静かに豊かに水を湛えて、悠然と流れるように、ロンドンの街と人々は、いかなる艱難にも絶対に負けずに、前へ前へ進み抜いていくのです。

 

市民の憩いの場ともなっている、イギリスSGIのタプロー・コート総合文化センターの庭園(同)
市民の憩いの場ともなっている、イギリスSGIのタプロー・コート総合文化センターの庭園(同)
 

 私が多くのイギリスの友と出会いを結んだタプロー・コート総合文化センターは、もともとロンドンでの最初のオリンピック(一九〇八年)の成功に尽くしたデスボロー卿の館でした。数多の文化人が訪れたことでも知られています。
 その一人の劇作家オスカー・ワイルドは綴っていました。「人生というものは慈悲の心なしには理解できない、深い慈悲の心なしには生きていけない」
 昨日よりは今日、今日よりは明日と、一歩一歩、自分らしく、人のため、後輩たちのために行動する。その努力の足跡が、悔いなき人生を輝かせます。
 だからこそ「今」を戦い、「今日」を全力で生きたいものです。慈悲の心、勇気の心を燃え立たせて!
  
 負けるなと
  天の声あり
     君の旅
  
(『忘れ得ぬ旅 太陽の心で』第1巻所収)

 

 ※マザー・グースの一節は『マザー・グース3』寺山修司訳(新書館)。トインビーの言葉は『トインビー 歴史と現代・未来 G・R・アーバンとの対話』山口光朔訳(社会思想社)参照、『歴史の研究 第14巻』松永安左ェ門監修・下島連他訳(「歴史の研究」刊行会)。シェークスピアは『シェイクスピア全集Ⅱ』小田島雄志訳(白水社)、メアリ・ウルストンクラフトは『女性の権利の擁護』白井堯子訳(未来社)参照、オスカー・ワイルドは『オスカー・ワイルド全集Ⅲ』西村孝次訳(青土社)。


「命こそ宝」の思想を世界へ 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」 2020年4月26日

2020年04月26日 | 妙法

「命こそ宝」の思想を世界へ 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」 2020年4月26日

 【写真の説明】新緑の中、ツツジの花が鮮やかに咲いている。2009年(平成21年)5月、池田大作先生が八王子市の東京牧口記念会館でカメラに収めた。
 開花の陰には、しっかりした枝や幹などがあり、嵐にも揺るがぬ根がある。私たちの生活もまた、陰の人々の不断の努力に支えられている。
 今、新型コロナウイルスの感染が拡大する中、昼夜を分かたず生命を守る現場で闘う医療関係者をはじめ、社会のあらゆる分野で、欠くことのできない尊い使命を担う方々がいる。その一人一人の奮闘と献身に、心からの感謝をささげたい。
 「ツツジ」の語源の一つに「続き咲き木」と。私たちを支え続けてくれる周囲の全てへの感謝を忘れず、健やかな日々を送っていこう。
 

 

池田先生の言葉

 健康は
 全ての価値創造の礎と
 いってよい。
 肉体的にも精神的にも
 健康であってこそ、
 最高に価値ある人生を
 送っていける。
  
 生老病死
 人生の根本課題である。
 誰人も、病気との闘いは
 避けられない。
 恐れなく
 病魔に立ち向かう中で、
 わが生命が
 どれほど尊厳であるかに
 目覚めることができる。
 どこまでも妙法と共に
 生き抜かんとする心に、
 永遠の仏の生命を
 感得できるのだ。
  
 自分が“医師”となり、
 “看護師”となって
 賢く健康を守ることだ。
 健康は智慧である。
 賢明な智慧があれば、
 病気を未然に
 防ぐこともできる。
 健康即勝利の
 賢者の一日一日を、
 晴れ晴れと
 送っていきたい。
  
 現実に、
 治療が困難な場合でも、
 限りある「生」を、
 題目を唱え抜き、
 他の人々にも勇気を送り、
 尊き使命の人生を
 生き抜いていく人もいる。
 そうした人生は、
 病気の意味を
 転換することができる。
 これが
 変毒為薬の信心であり、
 真の健康の智慧である。
  
 「健康」「生命」に
 勝る宝はない。
 「命こそ宝」との思想を
 広げていく――
 「健康な地球」も、
 この一点から出発する。
 その意味で、
 医師や看護師の皆さんが
 果たす役割は
 極めて大きい。
 健康も平和も目的は一つ
 ――民衆の苦を
 取り去ることだ。
 人類は、この目的のもとに、
 人種や民族、
 思想や利害を超えて
 団結しなければならない。


マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第7巻 2020年4月24日

2020年04月24日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第7巻 2020年4月24日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを、巻ごとに紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第7巻を掲載する。次回の第8巻は30日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

 

仏法は不信を信頼に転じる力
ちから

 <1962年(昭和37年)10月、指導会で山本伸一は核戦争の根源的解決の道を示す>
 
 「どうすれば、核戦争をなくしていくことができるのか。その本当の解決の道は、仏法による以外にありません。仏法は、一切衆生が皆、仏であると教えている。万人に仏性があり、自分も相手も、仏の生命を具えていると説く、仏法の生命哲学こそ、人間の尊厳を裏付ける大思想です。その教えが流布されるならば、必ずや、戦争を防ぐ最大の力となります。
 
 また、誰でも信仰に励み、実際に、仏の生命を涌現していくならば、破壊や殺戮に走ろうとする、自身の魔性の生命を打ち破ることができる。
 
 悲惨な核戦争の根本原因は、“元品の無明”という生命の根源的な迷いにある。この無明の闇から、不信や憎悪、嫉妬、あるいは、支配欲、殺戮の衝動など、魔性の心が生じる。
 
 この“元品の無明”を断ち切り、“元品の法性”という、真実の智慧の光をもって、生命を照らし、憎悪を慈悲に、破壊を創造に、不信を信頼に転じゆく力こそが、南無妙法蓮華経であります。また、それが人間革命ということです。ユネスコ憲章の前文には『戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない』とあります。大事な着眼です。
 
 では、どうすれば、本当に崩れることのない“平和のとりで”が築けるのか。
 
 それを可能にするのが仏法であり、現実に、行ってきたのが創価学会です。(中略)
 
 私たちがめざす広宣流布の道は、遠く、はるかな道のように思えるかもしれませんが、その道こそが、世界に永遠の平和を築く直道なのです。今こそ、仏法という“慈悲”と“平和”の大思想を、友から友へと伝え、私たちの力で、絶対に核戦争を回避していこうではありませんか。それが、われわれの使命です」
 
 (「文化の華」の章、79~80ページ)
 


 

互いの尊敬が生む鉄の団結
 

 <63年(同38年)1月、アメリカで伸一は団結の要諦を語る>
 
 「大聖人は『法に依って人に依らざれ』との経文を通して、信心の在り方を指導されています。
 
 私どもの信心は、どこまでも『法』が根本です。広宣流布という崇高な大目的を成就するために、みんなが心を合わせ、団結して活動を進めていく必要があるのです。
 
 もし、中心者が嫌いだからとか、自分の方が信心が古いからといって、あの人のもとでは活動できないという人がいたならば、その人は『法』が根本ではなく、『人』に対する自分の感情が根本になっているんです。
 
 また、それは、わがままです。わがままは、自分の心に負け、信心の軌道を踏み外した姿です。結局は、その人自身が不幸になります。反対に、中心者を守れば、自分が守られる。これが因果の理法です。
 
 一方、幹部になった人は、絶対に威張ったりせずに、よく後輩の面倒をみていただきたい。皆に奉仕するために幹部はいるんです。広宣流布に戦う人は、皆、地涌の菩薩であり、仏です。
 
 その方々を励まし、尽くした分だけ、自身も偉大な福運を、積んでいける。
 
 ともかく、皆が同志として尊敬し、信頼し合って、また、足りない点は補い、守り合えれば、鉄の団結が生まれます。その団結が、最大の力になる。御書には『異体同心なれば万事を成じ同体異心なれば諸事叶う事なし』(1463ページ)と仰せです。広宣流布に向かって、心を一つにすれば、すべてに大勝利できる」
 
 (「萌芽」の章、126~127ページ)
 

 

学会員こそ世界市民の模範
はん

 <“創価学会が人間と人間を結ぶ宗教であることを実感した”と語るメンバーに伸一は、真の国際人としての要件とは何かを訴える>
 
 「戸田先生が『地球民族主義』と言われた通り、創価学会は、やがて、国家や民族、人種の違いも超えた、世界市民、地球市民の模範の集まりになっていくだろう。
 
 仏法の哲理が、それを教えているからだ。
 
 また、学会員は、本来、本当の意味での国際人であると思う。
 
 国際人として最も大事なポイントは、利己主義に陥ることなく、人びとを幸福にする哲学をもち、実践し、人間として尊敬されているかどうかである。
 
 仏法を持ち、日々、世界の平和と友の幸福を祈り、行動し、自らの人間革命に挑む学会員は、まさに、その条件を満たしている。
 
 語学ができる、できないということより、まず、これが根本条件だ。
 
 ともかく、友を幸福にしようというメンバーの心が友情を織り成し、世界に広がっていくならば、それは人類を結ぶ、草の根の力となることは間違いない」
 
 (「早春」の章、238~239ページ)
 

 
 

真の女性解放の先駆者
しゃ

 <63年2月、伸一が示した指針「婦人部に与う」が婦人部幹部会で発表された>
 
 婦人部の幹部の朗読が始まると、参加者は瞳を輝かせて、聞き入っていた。
 
 最後の「創価学会婦人部こそ、妙法をだきしめた、真の女性解放の先駆者である」との一節では、誰もが電撃に打たれたような思いにかられた。彼女たちの多くは、経済苦や病苦にあえぎながら、自身の、わが家の宿命転換を願い、ただ幸福になりたいとの一心で、懸命に信心に励んできた。
 
 しかし、信心の目的は、それだけではなく、「女性解放」という、もっと大きく崇高な使命を果たすためであることを自覚したのである。
 
 「女性解放」とは、単に制度などの社会的な差別からの解放にとどまるものではない。いっさいの不幸からの解放でなければならない。彼女たちは、自らの体験を通して、その唯一の道が日蓮仏法にあることを確信することができた。
 
 生活という大地に根を張った婦人たちが、時代の建設に立ち上がってこそ、初めて、社会を蘇生させることができる。自分たちの生きゆく社会を、楽しい、平和なものにしていくことが、広宣流布である。この「婦人部に与う」を受けて、清原かつは、この日、次のようにあいさつした。(中略)
 
 「山本先生は、この『婦人部に与う』のなかで、私たちこそ『真の女性解放の先駆者』であると述べられております。つまり、自分や一家の幸福を築いていくことはもとより、広く社会に目を開き、すべての女性を、宿業の鉄鎖から解放していくことが、創価学会婦人部の使命なのであります。
 
 要するに、私たちには、学会員である人も、ない人も、その地域中の人びとを幸福にしていく責任があるということです。
 
 そう考えるならば、地域にあって、自分の受けもっている組織は、小さな単位であるブロックという組織でも、私たちの使命は、限りなく大きいと思います」
 
 (「操舵」の章、340~341ページ)
 

 

創価教育の思想と精神

 〈「文化の華」の章には、教育部の結成の様子とともに、創価教育の思想と精神が記されている。〉
 
 本来、教育の根本の目的は、どこに定められるべきであろうか。
 
 牧口常三郎は「教育は児童に幸福なる生活をなさしめるのを目的とする」と断言している。“国家の利益”ではなく、“児童の幸福”こそ根本だというのである。
 
 牧口は、この信念から、創価教育の眼目は、一人ひとりが“幸福になる力を開発する”こととした。そして、この幸福の内容が「価値の追求」であり、人生のうえに創造すべき価値とは、「美・利・善」であると主張した。
 
 つまり、牧口は、価値創造こそ人生の幸福であり、さらに、社会に価値を創造し、自他ともの幸福を実現する人材を輩出することが、教育の使命であると考えていたのである。彼は『創価教育学体系』の緒言で、「創価教育学」を世に問う熱烈な真情を、こう記している。
 
 「入学難、試験地獄、就職難等で一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくないと思ふと、心は狂せんばかりで、区々たる毀誉褒貶の如きは余の眼中にはない」
 
 そこには、子どもへの、人間への、深い慈愛の心が熱く脈打っている。この心こそ教育の原点といえる。
 
 そして、その教育を実現していくには、教育法や教育学の改革はもとより、教育者自身の人間革命がなければならない。
 
 子どもたちにとって、最大の教育環境は教師自身である。それゆえに、教師自身がたゆまず自己を教育していくことが不可欠となるからだ。
 
 教師は「教育技師」であると主張する牧口は、「教育は最優最良の人材にあらざれば成功することの出来ぬ人生最高至難の技術であり芸術である。是は世上の何物にも替へ難き生命といふ無上宝珠を対象とするに基づく」と述べている。
 
 さらに、教師たるものの姿を、こう論じる。
 
 「悪人の敵になり得る勇者でなければ善人の友とはなり得ぬ。利害の打算に目が暗んで、善悪の識別の出来ないものに教育者の資格はない。その識別が出来て居ながら、其の実現力のないものは教育者の価値はない」
 
 牧口が提唱した、創価教育の精神を、現実に、縦横無尽に実践したのが、若き戸田城聖であった。彼の私塾・時習学館からは、人間性豊かな、実に多彩な人材が育っている。山本伸一は、教育部員に、この先師・牧口常三郎、恩師・戸田城聖の志を受け継いでほしかった。
 
 彼は、混迷の度を深める社会の動向に、鋭い目を注ぎながら、教育部の使命の重大さを痛感していた。
 
 (「文化の華」の章、15~17ページ)

 

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