毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

大目的に生き抜く幸福

2021年10月31日 | 妙法

大目的に生き抜く幸福 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2021年10月31日

 【写真説明】命が燃えていた。陽光に照らされ、鮮やかな青天と競うように、紅に、黄金色に、木々の葉が輝いていた――。2001年(平成13年)12月の小春日和に、池田大作先生が八王子市の東京牧口記念会館からシャッターを切った。
 日蓮大聖人は「春夏よりも秋冬は光あり」(御書1501ページ)と。寒さが厳しくなり、空気が澄む秋や冬ほど、光が冴える。同じように、人々が苦悩の闇に覆われる時ほど、仏法の大光はいやまして輝くことを示されている。
 社会に平和・幸福の慈光を送る。これが創価の偉大なる使命である。立正安国へ進むわが生命も完全燃焼させて、「創立の月」へ!
 

池田先生の言葉

 自分は
 何のために生きるか。
 使命とは、
 その自覚の異名である。
 自分の「命」を、
 いったい何に「使う」のか。
 大目的に生き抜く使命を
 深く自覚した瞬間から、
 境涯は大きく広がる。
  
 幸福は、
 いくら追いかけても、
 つかめるものではない。
 幸福は、
 ついてくるものである。
 妙法を持つ人に、
 福運を積んでいった人に、
 ついてくるものだ。
 必ず、ついてくるものだ。
  
 人間は、皆、
 幸福になるために
 生まれてきたのだ。
 仏法では
 「心こそ大切」と説く。
 魂が満たされなければ、
 真の幸福はない。
 だからこそ、
 皆を幸福にするために、
 わが生命を使うのだ。
  
 広宣流布のために
 戦いきった
 満足と歓喜ほど、
 誇り高いものはない。
 その功徳は無量である。
 学会のために戦う。
 広布のために戦う。
 その功徳によって、
 福徳と幸福の人生を歩む
 生命に変わっていく。
  
 悩みが悟りに変わり、
 幸福に変わる。
 悩み、悲しみが
 大きければ大きいほど、
 より大きな
 幸福に変えていける。
 これが題目の力である。
 ゆえに妙法を唱える人は、
 何ものも恐れない。
 恐れる必要がない。
  
 悔いなき人生――。
 それは、世間の評判や、
 他人が
 決めるものではない。
 全部、自分自身が
 決めるものである。
 勝負は途中の姿では
 決まらない。
 何があっても、
 最後に「勝った!」と
 確信できるのが
 「一生成仏」の信心だ。


高杉晋作

2021年10月30日 | 妙法

【ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】第13回 高杉晋作2021年10月30日

さあ、栄光の11・18「学会創立記念日」は目前。今再び、民衆凱歌を天空高く轟かせよう! 皆が創価の高杉晋作となって、新たな開拓闘争の勝利劇を!(1994年11月、池田大作先生が山口県内で撮影)
さあ、栄光の11・18「学会創立記念日」は目前。今再び、民衆凱歌を天空高く轟かせよう! 皆が創価の高杉晋作となって、新たな開拓闘争の勝利劇を!(1994年11月、池田大作先生が山口県内で撮影)
〈高杉晋作〉
人は窮地にあって活路を見いだす。
だから私は「困った」とは言わない。
真の楽しみは苦しみの中にあるのだ。

 「困ったという一言だけは断じて言うなかれ」。それが、彼の信念だった。
 
 困ったと嘆いて立ち止まっていても、何も始まらない。前へ踏み出してこそ、人生も時代も動きだす。「人間、窮地におちいるのはよい。意外な方角に活路が見出せるからだ」「私は知る 真の楽しみは苦中にあると」
 
 こう語ったこともある。「戦いは一日早ければ一日の利益がある。まず飛びだすことだ、思案はそれからでいい」と。
 
 彼の名は高杉晋作。幕末の思想家・吉田松陰の愛弟子であり、動乱期の長州(現在の山口県)に現れた希代の志士である。
 
 奇抜な発想と大胆な行動で乱世を疾駆した晋作の生涯は、今なお人々を魅了してやまない。

歴史回天の志士・高杉晋作(1839-67年)。相次ぐ試練を飛躍の糧とした英雄の生涯は、今を生きる人々の勇気を呼び覚ます©アフロ
歴史回天の志士・高杉晋作(1839-67年)。相次ぐ試練を飛躍の糧とした英雄の生涯は、今を生きる人々の勇気を呼び覚ます©アフロ

 
 数え19歳でショウカソンジュクに入門。同志と切磋琢磨し、頭角を現す。師のもとで学んだのは、約1年。塾生は100人に満たず、講義室も当初は8畳一間と狭かったが、ここから若き逸材が歴史回天の舞台へ躍り出ていった。
 
 1859年10月、安政の大獄の余波を受けた松陰が、志半ばで刑死する。「ただ日夜我が師の影を慕い激歎仕るのみ」(ただ日夜、わが師の影を慕い、激しく嘆く)――晋作は血涙を絞り、耐え難い怒りと悲しみの心情を書き記した。
 
 4年後の正月、罪人として葬られていた松陰の遺骨を改葬することに。道中、番人が“ここは将軍が通る橋だから、不浄のものは通れない”と制止した。すると晋作は激怒し、「勤王の志士の遺骨を改葬するのに、何を言うか」と一喝。“偉大な師を侮辱する者は、命を賭しても許さない”――烈々たる気迫に番人は即座に退散していった。
 
 「自ら愧ず 未だ能く舊寃を雪ぐ能わざるを」(私は自らを恥じている。いまだに師の仇討ちを果たしていないからだ。必ず果たしてみせる)とは、晋作が墓前で詠んだ叫びである。
 
 師弟に徹する人生に、恐れも迷いもない。不二の弟子の胸には「師の仇討ち」への闘魂が、赤々と燃え上がっていた。
 

〈高杉晋作〉
置かれた境遇を嘆いていても、何も変わらない。
つまるところ 人生は心の持ち方一つで決まる。

 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」――時を逃さず、電光石火のスピードで打って出る。ここに“戦をすれば負け知らず”といわれた風雲児・高杉晋作の真骨頂がある。
 
 師・吉田松陰は「草莽崛起」を掲げた。“民衆が立ち上がれば、巨大な力を発揮する”との意味で、淵源は日蓮大聖人にあると、松陰は述べている。この構想を継承した晋作は、1863年6月に奇兵隊を創設。入隊条件は身分でも経歴でもなく、「志」があるか否かにあった。

松下村塾の史跡。「地を離れて人なく、人を離れて事なし」と吉田松陰。地域に根を張り、地域の人々とつながる――そこから、時代変革の大事業は生まれる
松下村塾の史跡。「地を離れて人なく、人を離れて事なし」と吉田松陰。地域に根を張り、地域の人々とつながる――そこから、時代変革の大事業は生まれる

 翌64年3月、脱藩の罪で投獄。場所はくしくも、生前の松陰が投じられた「野山獄」だった。
 
 「先生を慕うてようやく野山獄」と詠じた晋作の若き魂に、悲観や悲嘆は微塵もなかった。胸中には、たとえ牢につながれても、師の志を継いでいるとの自負が光っていた。
 
 3カ月の獄中生活に耐え抜いて出獄。その後、第1次長州征伐が起こると、幕府に屈した故郷の惨状を憂い、亡命先の九州から下関へ。「国を救い、正義を貫け」と、一人立ち上がった晋作に80人が呼応し、次いで決起した民衆のスクラムによって軍勢は3000人に。形勢は一変し、倒幕への流れが加速した。
 
 66年には第2次長州征伐が勃発。この時、長州軍はわずかな兵力ながら、団結の力で約15万の幕府軍を撃破した。“不可能を可能にした”痛快なる逆転劇が、明治維新への大転換を告げる暁鐘となったのである。
 
 だが、皆が喜びに沸く中、再び晋作を試練が襲う。不治の病とされた肺結核に倒れたのだ。
 
 「面白きこともなき世に面白く」。病床で詠んだ上の句に、見舞いに来た歌人が「すみなすものは心なりけり」と下の句を添えたのは有名な史実である。
 
 ――自身の置かれた境遇を嘆いていても、何も変わらない。人生は、つまるところ心の持ち方一つで決まるのだ――
 
 67年4月、近代日本の夜明けを見ることなく、27年余の生涯を閉じた晋作。師の理想を実現し、師の仇を討った彼は、亡くなる前、訪ねてきた同志にこう繰り返したという。「ここまでやったのだから、これからが大事じゃ。しっかりやってくれろ、しっかりやってくれろ」と。
 

〈若き日の池田先生の誓い〉
晋作の如く、戦おう! 民衆を救うのだ。味方を増やすのだ。
いかなる苦闘も乗り越え、満天下に勝鬨をあげてこそ、まことの弟子である。
山口・萩市にある松下村塾の史跡を視察する池田先生(1964年8月)。56年11月、山口開拓指導の激闘の合間にも訪問。その折、先生は同志に、「吉田松陰だけが偉大であったのではない。弟子もまた、偉かったから、吉田松陰の名が世に出たんです。戸田先生が、どんなに偉大でも、弟子の我々がしっかりしなければ、なんにもならない」――と。寸暇を惜しんで、あるべき弟子の姿勢を伝えた
山口・萩市にある松下村塾の史跡を視察する池田先生(1964年8月)。56年11月、山口開拓指導の激闘の合間にも訪問。その折、先生は同志に、「吉田松陰だけが偉大であったのではない。弟子もまた、偉かったから、吉田松陰の名が世に出たんです。戸田先生が、どんなに偉大でも、弟子の我々がしっかりしなければ、なんにもならない」――と。寸暇を惜しんで、あるべき弟子の姿勢を伝えた

 恩師・戸田城聖先生は「歴史上、会って語りたい人物」の筆頭に高杉晋作を挙げた。吉田松陰との師弟の実像に、牧口常三郎先生と自分、自分と池田大作先生を重ね合わせた。
 
 松陰が松下村塾で講義を始めてから100年後の1956年(昭和31年)10月。戸田先生の命を受けた池田先生は、山口に開拓指導の第一歩をしるす。
 
 当時、先生は28歳。一瀉千里に激闘を制する決意を、日記にこうつづった。「来月より、山口県、全面折伏の指示あり。小生、総司令……。義経の如く、晋作の如く戦うか。歴史に残る法戦」(同年9月5日)と。
 
 後年、先生は述懐している。
 「戸田先生から『山口開拓闘争』の指揮を命じられた時、私は真っ先に岡山から下関へ走った。(中略)下関で決起した『晋作』の如く、戦おうと! 民衆を救うのだ。敵を倒すのだ。味方を増やすのだ!
 以来4カ月で、私は、この山口に、約10倍の正義の人材・拡大の歴史を創った。いかなる苦闘も乗り越え、満天下に勝鬨をあげてこそ、まことの弟子である」(本紙2007年12月19日付「随筆 人間世紀の光」)
 
 そして、晋作から学ぶ弟子の生き方を同志に伝えてきた。
 「(晋作は)死の前年には幕府軍に勝利を収め、倒幕・維新という、歴史回天への道を開いていったのである。大事なのは、弟子である。一切は、弟子で決まる。(中略)『師弟』を根幹にした異体同心の陣列こそ最強である。この方程式でやっていくならば、我々は百戦百勝である」(07年11月28日、広布第2幕 第3回全国青年部幹部会でのスピーチ)
 
 「晋作は、師の仇を討っていったのである。戸田先生は、日本の軍部政府によって獄死させられた牧口先生の仇を必ず討つと誓い、日本の広宣流布の基盤を築かれた。私は、全世界に妙法という平和の大哲理を弘めることで、戸田先生の仇を討った。
 師の仇は弟子が討つ――これが、創価の正義の血脈である」(08年7月16日、新時代第20回本部幹部会でのスピーチ)
 
 師弟ある限り、勝てぬ闘争はない! 越せぬ山坂はない!
 
 幾多の逆境にも負けなかった英雄の姿は、険難の峰に挑む我らの魂を鼓舞してやまない。

※高杉晋作の言葉や足跡等は、次の書籍などを参考にしています。
 頭山満・伊藤痴遊・田中光顕著『吉田松陰と長州五傑』(国書刊行会)、池田諭著『高杉晋作と久坂玄瑞』(大和書房)、一坂太郎著『晋作語録』(第三文明社)、同著『吉田松陰と高杉晋作の志』(KKベストセラーズ)ほか
※高杉晋作の言葉や足跡等は、次の書籍などを参考にしています。  頭山満・伊藤痴遊・田中光顕著『吉田松陰と長州五傑』(国書刊行会)、池田諭著『高杉晋作と久坂玄瑞』(大和書房)、一坂太郎著『晋作語録』(第三文明社)、同著『吉田松陰と高杉晋作の志』(KKベストセラーズ)ほか

文豪の魂光る「文学の城

2021年10月29日 | 妙法

フランス ビクトル・ユゴー文学記念館が開館30周年 文豪の魂光る「文学の城」2021年10月29日

  • ユゴー「戦闘の最後の勝利は、常にもぎとるようにして勝ち得られるものなのだ」
フランスのビエーブル市に立つビクトル・ユゴー文学記念館。淡いピンク色に彩られた姿が青空に映える。記念館の周りには風情ある庭が広がり、地域の憩いの場として親しまれている
フランスのビエーブル市に立つビクトル・ユゴー文学記念館。淡いピンク色に彩られた姿が青空に映える。記念館の周りには風情ある庭が広がり、地域の憩いの場として親しまれている

 池田先生によって創立され、1991年に開館した「ビクトル・ユゴー文学記念館」(フランス・ビエーブル市)。本年6月に誕生から30周年を迎え、記念の図録が刊行された。ここでは、世界的文豪の人間主義の大光を現代に広げる同記念館の概要と、フランス文化省文化財保護局のドゥニ・ラヴァル名誉総監査官、同記念館のフィリップ・モワンヌ館長の声を紹介する。

ビクトル・ユゴー文学記念館の開館30周年を記念して刊行された図録
ビクトル・ユゴー文学記念館の開館30周年を記念して刊行された図録

 パリから車で約30分。フランスが誇る文豪が愛してやまなかったビエーブルに、「ビクトル・ユゴー文学記念館」はたたずむ。
 
 敷地内の景色は四季折々に表情を変える。とりわけ万物が躍動する春が巡り来ると、思わず息をのむような景観が広がる。
 
 一面を覆う緑の絨毯に、黄色や白の鮮やかな彩りを加える花々。心地よく響き渡る鳥のさえずり――自然に包まれた歴史と文化の館は、おとぎ話の世界を彷彿とさせる。このほど刊行された記念の図録にも、随所にこの百花繚乱の絶景が紹介されている。
 
 同記念館の前身は「ロシュの館」と呼ばれ、多くの才能ある青年らが芸術や文学を語り合うサロンのような場所だった。この館の所有者と親交があった青年期のユゴーも、家族と共に幾度か足を運んだという。ロシュの館は詩人が心を癒やすとともに、創作に向けて詩想を練る場所でもあった。
 
 1991年6月21日、この美しき館に続々と人々が集まり、にぎわいを見せた。装いを新たにしたビクトル・ユゴー文学記念館の開館式である。これには、美術史家のルネ・ユイグ氏ら多数の来賓が出席。フランス大統領から祝福のメッセージも寄せられた。
 
 開館式に出席した池田先生は語った。「この記念館が、『自由』と『平等』と『友愛』の高貴なるフランスの魂を、世界へ、未来へ送りゆく『エスプリ(精神)の灯台』たることを祈ってやみません」
 
 没後130年以上を経た今もなお、小説や詩など、ユゴーが遺した情熱ほとばしる言々句々は、人々の心を奮い立たせてやまない。

ビクトル・ユゴー文学記念館を訪れた池田先生ご夫妻(1991年6月21日)。民衆を苦しめる悪と戦い、ペンを武器に正義を叫び続けた文豪の偉大な生涯に思いをはせた
ビクトル・ユゴー文学記念館を訪れた池田先生ご夫妻(1991年6月21日)。民衆を苦しめる悪と戦い、ペンを武器に正義を叫び続けた文豪の偉大な生涯に思いをはせた

 池田先生は若き日より、ユゴーの名著を繙いてきた。ある対談の折、その思いを語っている。「激動の19世紀を生きぬいた、最高峰の文豪を、青春時代、私は何回も読みました。魂の共鳴盤を激しくたたかれたような感動、衝撃は、今もって覚えています」
 
 先生が共鳴したもの――それは迫害を物ともせず、民衆に勇気を送り続けたユゴーの“正義のエスプリ(精神)”にほかならない。
 
 ユゴーは49歳の時に国外に追放され、その後、19年にも及ぶ亡命生活を送った。しかし、彼は決して立ち止まらなかった。苦境の渦中で、創作への炎はいやまして燃えた。世界中で愛される長編小説『レ・ミゼラブル』、邪悪と戦う『懲罰詩集』は亡命先で生み出されている。
 
 何よりユゴーの慈愛のまなざしは、社会の片隅に追いやられた人々に向けられていた。庶民を苦しめる悪とは断固として戦う! ペンを武器に、正義を叫び続けた。
 
 ユゴーの気迫は烈々たるものだった。小説『九十三年』の中で、文豪は訴える。「戦闘の最後の勝利は、つねにもぎとるようにしてかちえられるものなのだ」(辻昶訳『ヴィクトル・ユゴー文学館 第6巻』所収、潮出版社)と。
 
 ユゴーは民衆勝利を信じ抜く「行動の人」「不屈の人」だった。それは、池田先生の信念でもある。両者には、一人の人間の限りない可能性を信じる「人間主義の精神」が強く響き合う。

ビクトル・ユゴー文学記念館の図書室。大文豪の“精神の結晶”ともいうべき資料が収集されている
ビクトル・ユゴー文学記念館の図書室。大文豪の“精神の結晶”ともいうべき資料が収集されている
国宝5点など約7000点の資料を所蔵

 ビクトル・ユゴー文学記念館は現在、文化法人「フランス創価文化協会」が所有し、公益事業として運営。国内外に散逸していたユゴーゆかりの品々を収集する。
 
 記念の図録にも多くの資料が紹介されているが、同記念館では『レ・ミゼラブル』の直筆校正刷り全8冊など、フランスの国宝5点をはじめとする約7000点を所蔵。来館者は、ユゴーが滞在した当時の雰囲気を感じながら展示を鑑賞することができ、“文豪の魂との語らいのひととき”を持つことができる。
 
 また、偉人の人生を伝える展覧会や、学生の授業の一環としての団体来館も好評である。貴重な歴史的建造物として各種メディアで紹介されるなどして、反響を呼んでいる。
 
 開館から30年。同記念館はこれからも、文豪の魂の大光を社会に広げる「文学の城」として、一段と輝きを放つだろう。

ベルタル「ビクトル・ユゴーの肖像」(1867年、ビクトル・ユゴー文学記念館蔵)
ベルタル「ビクトル・ユゴーの肖像」(1867年、ビクトル・ユゴー文学記念館蔵)
ユゴー直筆の『レ・ミゼラブル』の校正刷り。フランス国宝(同記念館蔵)。創作に魂を注いだ文豪の息遣いを今に伝える
ユゴー直筆の『レ・ミゼラブル』の校正刷り。フランス国宝(同記念館蔵)。創作に魂を注いだ文豪の息遣いを今に伝える
哲学的叙情詩の最高傑作として知られるユゴー直筆の『静観詩集』の校正刷り。フランス国宝(同記念館蔵)
哲学的叙情詩の最高傑作として知られるユゴー直筆の『静観詩集』の校正刷り。フランス国宝(同記念館蔵)
フランス文化省文化財保護局 ドゥニ・ラヴァル名誉総監査官 二人の哲学は世界の希望

 ビクトル・ユゴー文学記念館の特徴の一つは、ユゴーの精神など内面を重視している点です。ユゴーの業績の歴史的事実を知ることも必要ですが、彼の民衆を救おうとする人間主義の魂を学ぶことは、さらに重要なのです。
 
 例えば、同記念館が開催した“偉人展”シリーズは、ユゴーと他の哲学者を比べることで、来館者が偉人たちの精神性を、より深く学べるものでした。
 
 この素晴らしい施設を、日本人である池田博士がフランスに創立されたことで、両国友好の懸け橋になったと感じます。
 
 また、池田博士とユゴーは、多くの共通する哲学を有しています。特筆すべきは、両者が人間の無限の可能性に焦点を当てていることです。
 
 博士は人間革命の思想を強調し、個人の精神の改革が社会の変革をもたらすと主張しました。ユゴーも、一人一人の庶民がもつ力を発揮させるために筆を執り、民衆を鼓舞しました。
 
 二人の文豪に共通する人間への愛情、不正義と戦う情熱は今後の世界を照らす“希望の光”となるでしょう。
 
 これからも、記念館がユゴーの精神の力を、多くの人に広めていかれることを期待しています。

ビクトル・ユゴー文学記念館 フィリップ・モワンヌ館長 地域貢献に高い評価の声

 ビクトル・ユゴー文学記念館には、美術史家のルネ・ユイグ氏らフランス各界の著名人や世界の識者をはじめ、約28万人が来館しています。
 
 私を含めスタッフは、この30年、来館した一人一人に丁寧な対応を心掛けてきました。また、所蔵品を国内外の美術館や博物館、図書館に貸し出すなど、ユゴー関連の展示の開催にも協力してきました。こうした積み重ねによって信頼は広がり、地元ビエーブル市からも“記念館が地域の発展に貢献している”と高く評価されています。
 
 当館の使命は、来館者に大文豪ユゴーの人間主義の精神を伝えることにあります。そのために、代表作品の初版本や直筆書簡などを展示しています。なかでもユゴーが逝去3日前に記した「愛するとは、行動することである」との直筆草稿は、フランスの国宝に指定されています。
 
 訪れた方からは、「偉大な文学者と対話をした気持ちになれました」などの感動の声が寄せられています。
 
 池田先生は開館式で「時代はいやまして、ユゴーの人間主義の炎を必要としております」と語られました。ユゴーと先生が共有する理想の実現へ、記念館の発展に尽力してまいります。


 「迫害と人生」40周年

2021年10月28日 | 妙法

創価大学での記念講演 「迫害と人生」40周年2021年10月28日

  • 本格的な反転攻勢へ「未来への勝利宣言」
1981年10月31日、創価大学の中央体育館で行われた池田先生の記念講演。壇上をはじめアリーナ席も学生で埋まった
1981年10月31日、創価大学の中央体育館で行われた池田先生の記念講演。壇上をはじめアリーナ席も学生で埋まった

 本年は創価大学の創立50周年。この半世紀の間、創立者の池田大作先生は、入学式や卒業式で祝辞を贈り、1973年の「スコラ哲学と現代文明」、2003年の「人間ゲーテを語る」など、折に触れて講演や特別文化講座を行ってきた。
 その中で、先生が「深く思い出に残る一つ」と振り返る講演がある。

 40年前の1981年10月31日、第11回創大祭の開幕を記念して、烈々たる気迫で語り掛けた講演「歴史と人物を考察――迫害と人生」である。

3日前の決定

 創大祭の準備に奔走する学生たちに、講演の開催が正式に知らされたのは、わずか3日前の10月28日だった。同時に、講演のタイトルも伝えられた。

 「迫害と人生」――。

 当時の学生自治会のリーダーは述懐する。「池田先生ご自身のことを話されると直感しました。並々ならぬご決意、時代が動きだす雰囲気を感じました」

 第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、2年半前の79年4月24日、先生は創価学会の第3代会長を辞任。“会員の前で指導してはいけない”“聖教新聞に出てはいけない”等と宗門に行動を制限されていた。一方、一部マスコミは、売らんがための捏造・中傷記事を流し続けていた。

 そうした中でも先生は、入学式や卒業式、滝山祭や創大祭等に駆け付け、学生の中に飛び込んで激励を続けた。

 学生たちは今こそ、先生の期待に応えて、学び鍛え、成長しようと誓いを深めた。

 81年4月2日の開学10周年には、『創立者の語らい』を刊行。
 学生は、こうした先生の発言・スピーチの編さん・学習に取り組みつつ、創立者による新たな指標を待望していた。

 前年の創大祭でも学生たちは、先生に講演を要請している。実現には至らなかったが、それでも「何としてもお話ししていただける機会を」と諦めない。「どうすれば講演していただけるか」を日夜、語り合った。

 そんな学生の一途な心を全身で受け止め、講演の実現に誰よりも奔走し続けてくれたのが、当時、創大職員の池田城久氏だった。

 81年の夏、学生は再び講演を要望した。その強い思いに、先生は講演を決断する。「私のことはいい。どんなことにも耐え得る。しかし、創立者を案じて心を痛める学生諸君を、励まさずにはおれなかった」

 10月28日に講演開催が正式に伝えられると、準備は急ピッチで進んだ。

 当初、会場には300人ほどが入る教室を予定していたが、少しでも多くの学生に聴講してもらおうと中央体育館に変更した。

 先生の会長辞任直後の79年5月3日、創価学会の本部総会が開かれた場所である。それは歓声も拍手もない、何かに怯えたような、形式的な会合だった。

“本当の話をするよ”

 迎えた10月31日。講演の舞台となる、創大祭のオープニングセレモニーは午前11時に始まった。

 “あくまで学生を中心としてほしい”との先生の意向に沿って、アリーナ席も、壇上の椅子席も、ほとんど学生で埋め尽くされた。
 講演直前、先生から学生の代表に「本当の話をするからね」との伝言が届く。

 式典の途中、先生が壇上に入場。ある学生は、先生の持つ原稿に、真っ赤な直しが入っているのを目撃している。直前まで、筆を入れていたのだ。

スピーチする池田先生。46分の講演中、会場はしわぶき一つなかった
スピーチする池田先生。46分の講演中、会場はしわぶき一つなかった
巨大な障害が自らを鍛える

 先生は冒頭、固唾をのむ聴衆の気持ちをほぐすように「芝生の上で秋の日射しをうけながら、五、六人の学生と語り合うような気持ちで思い付くままに語らせていただきます」と話し掛ける。
 そして、こう言葉を続けた。
  
 私は、十代の時に読んだある西洋の哲学者の「波浪は障害にあうごとに、その堅固の度を増す」との格言が胸に迫り、大好きでありました。言うなれば、この格言を土台として、人生を歩んできたとも言えるかもしれません。
 長い人生行路にあって、偉大なる作業をしていくためには、それなりの限界や絶望の時もあるかもしれないし、巨大なる幾多の障害もあるに違いない。その時こそ、いやまして、自らが逞しく光り鍛えられていくことを、忘れてはならないと思います。

迫害の構図

 そして、作家ツヴァイクの言葉を引きつつ、“苦難こそ、人間の人生や運命を、闇から暁へ、また混沌から秩序へ、破壊から建設へと飛躍させる回転軸”であると述べ、古今東西の偉人の人生をひもときながら、正義と真実の人が虐げられる「迫害の構図」を明確にしていった。

 日本では菅原道真。藤原氏の讒言で左遷されたが、その悲劇のゆえに、学識と文才は不滅の光を放っている。

 2人目は『万葉集』を代表する歌人・柿本人麻呂。流罪に遭い、刑死したとの説がある。

 脱藩の罰で幽閉中に名著『日本外史』を書いた、江戸期の漢学者・頼山陽。

 幕末の吉田松陰は30歳を前に殉難したが、門下の志士たちが維新の夜明けを開いた。

 中国では、戦国時代の楚の詩人・屈原を挙げた。妬まれ失脚してなお、君主と国を思い、血涙を流して圧巻の詩「離騒」を書いている。

 宮刑の屈辱を忍びながら、中国最大の歴史書『史記』を完成させた前漢の司馬遷。

 インドでは、弾圧に非暴力で抵抗し、祖国を独立に導いたマハトマ・ガンジーに言及した。

 フランスでは、亡命期に『レ・ミゼラブル』等の傑作の数々を記した文豪・ユゴー。

 教会と政治権力に抗して『エミール』『社会契約論』を著し、そのために逃亡生活を強いられた思想家・ルソー。

 その一生をほとんど酷評と嘲笑の中で過ごした近代絵画の父・セザンヌ――。

頼山陽
頼山陽
吉田松陰
吉田松陰
司馬遷
司馬遷
ガンジー
ガンジー
ルソー
ルソー
「後世の歴史は事の真実を糾弾する」

 先生は、こうした史実を通して、民衆の犠牲の上に君臨する権力者が、野望と保身と羨望から、民衆のリーダーを躍起になって排斥しようとする――これが「必然の理」であり、古今を通じて変わらぬ「迫害の構図」であると結論した。
 そして最後に、こう真情を吐露する。
  
 私も一仏法者として一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし、僭越ながらこの“迫害の構図”に照らしてみれば、迫害こそむしろ仏法者の誉れであります。人生の最高の錦であると思っております。後世の歴史は、必ずや事の真実を厳しく糾弾していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます。

「宣言」から「行動」へ

 先生は原稿にあった「審判」という言葉を敢えて「糾弾」と読み換えた。

 講演会に参加した、ある学生が振り返る。
 「審判を待つのではなく、糾弾するのだ、君たちの生き方で正義を示すのだと、託された思いがしました」

 会場には、普通の大学祭に見られる、お祭りのような雰囲気はみじんもなかった。むしろ、張り詰めた空気に満ちていた。咳払いや物音一つしない。

 46分の講演が終わると、中央体育館は、感動と誓いのこもった、嵐のような拍手に包まれた。講演を終えて控室に戻った先生の服は、汗でびっしょり濡れていたという。

創立50周年を迎えた創価大学(東京・八王子市内)
創立50周年を迎えた創価大学(東京・八王子市内)
不二の同窓よ! 永遠に私と一緒に

 池田先生が、この講演に込めた決意は何であったか。

 「未来に向けての勝利宣言を、愛する創大生と共に、とどめた」と、小説『新・人間革命』第30巻〈下〉の「勝ち鬨」の章にはつづられている。

 先生は随筆に記した。「十一月には、私は東京と関西で『嗚呼黎明は近づけり』の歌の指揮を執り、四国では、青年と共に『紅の歌』で新時代の暁鐘を打ち鳴らした」。「宣言」の後に、本格的な反転攻勢の「行動」を開始したのである。

 ――講演から40年。丹木の丘のキャンパスは飛躍的に発展し、創価教育の学びやも、卒業生の活躍の舞台も世界に広がる。だが創立者と創大生の心の距離は変わらない。本年の創立50周年に寄せて池田先生は呼び掛けた。

 「さあ、創価の学友よ! 不二の同窓よ! 貢献と勝利の人生を、威風も堂々と飾っていってくれ給え! 永遠に私と一緒に!」

※頼山陽の肖像は近現代PL/アフロ。吉田松陰はアフロ。司馬遷、ルソーはakg-images/アフロ。ガンジーの写真はTopFoto/アフロ。


桂冠詩人40周年 勇気の舞 凱歌の行進

2021年10月25日 | 妙法

桂冠詩人40周年 勇気の舞 凱歌の行進〉第13回 中国2021年10月25日

3:10

 本年は、「桂冠詩人」の称号が池田先生に贈られてから40周年。連載企画「勇気の舞 凱歌の行進」では、先生がつづった長編詩を紹介します。第13回は、中国方面の同志に詠んだ「完璧なる勝利へ 栄光の劇を!」(2003年)です。

歴史の流転を見守ってきた広島城(1991年3月10日、池田先生撮影)。第2次宗門事件の渦中、先生は第1回中国総会に出席。「『まことの時』。今が、その『時』である。私どもは進む。大聖人の仰せの通りの道を行く。絶対に正義であるゆえに、恐れないし動じない」と指導した
歴史の流転を見守ってきた広島城(1991年3月10日、池田先生撮影)。第2次宗門事件の渦中、先生は第1回中国総会に出席。「『まことの時』。今が、その『時』である。私どもは進む。大聖人の仰せの通りの道を行く。絶対に正義であるゆえに、恐れないし動じない」と指導した
人間主義の針路を示せ

 中国よ!
 おお
 偉大なる中国よ!
 君たちの活動の姿を
 連想すると
 私の心は嬉しい。
 私の心は躍る。
  
  ◆◇◆
  
 中国が生んだ吉田松陰は
 こう賞讃されている。
 「彼が一生は、
  教唆者に非ず、率先者なり。
  夢想者に非ず、実行者なり。
  彼は未だ嘗て
  背後より人を煽動せず、
  彼は毎に前に立って
  これを麾けり」
 これが
 真の革命家の方程式だ。
  
 すべての戦野とともに
 忘れ得ぬ
 あの山口開拓闘争もまた
 私たちは
 その精神で戦った。
 折伏の波は広がり
 人材の石垣は築かれ
 盤石の基盤は成った。
  
  ◆◇◆
  
 中国の友よ!
 今再び
 新しい開拓の
 その時が到来した。
  
 かつて
 岡山地区が
 折伏の金字塔を
 打ち立てたごとく!
 中国総支部が
 連続の全国制覇を果たし
 三百万の達成へと
 怒濤の前進を
 成し遂げたごとく!
 人材山脈の大中国が
 広宣の新時代の開拓に
 今こそ先駆するのだ。
  
 歴史の夜明けの旭日は
 いつも中国から昇る。
 「環日本海の世紀」の
 希望と友情の光源は
 鳥取であった。
 そして島根であった。
 人間共和の光彩は
 我らの山光の天地より
 燦然と煌めき始めたのだ。
  
 そしてまた
 壊れた磁石のような
 迷走する日本の行く手に
 確固たる人間主義の針路をば
 永遠なる平和の都・広島が
 厳然と示しゆくのだ。
  
  ◆◇◆
  
 おお
 信心の帝王たる
 偉大なる中国の友よ!
  
 勝利の讃歌の音律と
 交差しながら
 白い光線を浴び
 無数の天からの
 加護と祝福を受けつつ
 永遠に
 楽しき栄光の劇を
 展開していくのだ!

※吉田松陰を評する言葉は徳富蘇峰著『吉田松陰』(岩波書店)

1995年5月7日、第1回「中国青年平和総会」に池田先生が出席(東京牧口記念会館で)。先生は「みずから動き、みずから学び、苦労しながら自分自身をつくり上げた人こそが、最後の勝利者となる」と
1995年5月7日、第1回「中国青年平和総会」に池田先生が出席(東京牧口記念会館で)。先生は「みずから動き、みずから学び、苦労しながら自分自身をつくり上げた人こそが、最後の勝利者となる」と