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小説『新・人間革命』学習のために 第10巻

2020年05月29日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説『新・人間革命』学習のために 第10巻  2020年5月29日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを、巻ごとに紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第10巻を掲載する。次回の第11巻は6月5日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

 

信心に励む人は成仏の軌道に
 

 <1965年(昭和40年)1月、山本伸一は大阪から急きょ、鳥取の米子へ向かう。若き支部長の事故死によって多くの同志の胸に生じた、信心への疑いと迷いを晴らすためであった>

 真の信仰者として広宣流布に邁進している人は、いかなるかたちで命を終えようとも、成仏は間違いない。
 初期の仏典には、次のような話がある。

 ――摩訶男(マハーナーマ)という、在家の信者がいた。彼は、もし、街の雑踏のなかで、三宝への念を忘れている時に、災難に遭って命を失うならば、自分はどこで、いかなる生を受けるのかと、仏陀に尋ねる。

 すると、仏陀は言う。

 「摩訶男よ、たとえば、一本の樹木があるとする。その樹は、東を向き、東に傾き、東に伸びているとする。もしも、その根を断つならば、樹木は、いずれの方向に、倒れるであろうか」

 摩訶男は答えた。

 「その樹木が傾き、伸びている方向です」

 仏陀は、仏法に帰依し、修行に励んでいるものは、たとえ、事故等で不慮の死を遂げたとしても、法の流れに預かり、善処に生まれることを教えたのである。

 また、日蓮大聖人は、南条時光に、弟の死に際して与えられたお手紙で、「釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり」(御書1568ページ)と仰せになっている。信心に励んだ人の、成仏は間違いないとの御指南である。(中略)

 彼は、十八日、空路、大阪から米子に向かった。最も大変なところへ、自ら足を運ぶ――それが伸一の、指導者としての哲学であった。

 (「言論城」の章、20~22ページ)

 

学会活動は生命を鍛錬する場
 

 <伸一は8月15日、アメリカのロサンゼルスで行われた海外初の野外文化祭に出席。翌日の懇談会で、自身の幸福を築くための学会活動であることを確認する>

 「今回の文化祭は、(中略)極めて大変な条件のなかでの文化祭であったと思う。

 途中で、やめてしまおうかと思った人もいるかもしれない。だが、そんな自分と戦い、懸命に唱題し、それぞれの分野で、真剣に努力されてきた。

 まず、広宣流布の大きな布石となる文化祭のための唱題が、努力が、献身が、そのまま、大功徳、大福運となりゆくことは、絶対に間違いありません。これが妙法の因果の力用です。

 また、皆さんは、文化祭を大成功させるために、不可能と思われた限界の壁、困難の壁を、一つ一つ破ってこられた。そして、この文化祭を通して、自信と、信心への揺るぎない確信をつかまれたことと思う。

 実は、それが何よりも、大事なことなんです。

 人生には、さまざまな試練がある。病に倒れることもあれば、仕事で行き詰まることもある。

 その時に、悠々と乗り越えていくためには、生命の鍛錬が必要です。精神の骨格となる、信心への大確信が必要なんです。

 この文化祭に全力で取り組み、唱題を根本に、あらゆる困難を克服してこられた皆さんは、“仏法に行き詰まりはない”との体験をつかまれたと思います。

 こうした体験を、どれだけ積んできたかによって、仏法への揺るぎない大確信が育まれ、何があっても負けることのない、強い自身の生命が鍛え上げられていきます。

 そのための『場』となるのが、学会活動です。また、文化祭でもあります。つまり、自分の幸福の礎を築いていくための活動なんです」

 (「幸風」の章、133~134ページ)

 

民衆による民衆のための宗教

 <10月、フランスのパリを訪れた伸一は、ヨーロッパの拠点となる事務所の開所式に参加。世界広布の先駆を切る女性たちを励ましながら、民衆こそが広宣流布の主役であることを思う>

 アメリカでも、東南アジアでも、日蓮仏法を弘めてきたのは、キリスト教のような宣教師ではなかった。

 世界広布を担ってきたのは、“衣の権威”に身を包んだ僧侶たちではなく、在家である創価学会の、名もなき会員たちであった。しかも、その多くは女性たちである。

 なんの後ろ盾もない、不慣れな土地で、日々の生活と格闘しながら、言葉や風俗、習慣の違いを超えて、人びとの信頼と友情を育み、法を伝えてきたのだ。誤解や偏見による、非難もあったにちがいない。まさに、忍耐の労作業といってよい。

 宗教の歴史には、武力や権力、財力などを背景にした布教も少なくなかった。しかし、それでは、どこまでも対話主義を貫き、触発と共感をもって布教してきた、日蓮大聖人の御精神を踏みにじることになる。「力」に頼ることなく、民衆が主役となって布教を推進してきたところに、日蓮仏法の最大の特徴があるといってよい。

 また、それ自体が、「民衆のための宗教」であることを裏付けている。

 伸一は、遠く異国の地にあって、広宣流布に生き抜こうとする、健気なる同志に、仏を見る思いがしてならなかった。

 (「新航路」の章、224~225ページ)

広布誓願の祈りが病魔を克服

 <伸一は11月、関西本部新館で奈良本部の同志と記念撮影に臨む。そこで、“病気の宿業は乗り越えられるのか”との質問に答える>

 「どんなに深い宿業だろうが、必ず断ち切っていけるのが、日蓮大聖人の大仏法です。(中略)

 本来、その宿業は少しずつしか出ないために、何世にもわたって、長い間、苦しまなければならない。

 しかし、信心に励むことによって、これまでの宿業が、一気に出てくる。そして、もっと重い苦しみを受けるところを、軽く受け、それで宿業を転換できる。『転重軽受』です。(中略)

 御本尊への、深い感謝の一念が、大歓喜の心を呼び覚まします。そして、この大歓喜が大生命力となっていくんです。

 唱題するにしても、ただ漫然と祈っていたり、御本尊への疑いを心にいだいて祈っていたのでは、いつまでたっても、病魔を克服することはできません。

 大事なことは、必ず、病魔に打ち勝つぞという、強い強い決意の祈りです。そして、懺悔滅罪の祈りであり、罪障を消滅してくださる御本尊への、深い深い感謝の祈りです。

 胃が癌に侵されているというのなら、唱題の集中砲火を浴びせるような思いで、題目を唱えきっていくんです。

 さらに、重要なことは、自分は広宣流布のために生き抜くのだと、心を定めることです。そして、“広布のために、自在に働くことのできる体にしてください”と、祈り抜いていくんです。広宣流布に生き抜く人こそが、地涌の菩薩です。法華経の行者です。広布に生きる時には、地涌の菩薩の大生命が全身に脈動します。その燦然たる生命が、病を制圧していくんです」

 (「桂冠」の章、300~302ページ)

 
創価教育の誓い

 <1965年11月、創価大学設立審議会が発足。牧口常三郎初代会長と戸田城聖第2代会長の悲願の実現へ、本格的な準備が始まる。「桂冠」の章には、山本伸一が両会長の構想実現を誓う場面が描かれている>

 伸一は、師の戸田から大学設立の構想を聞かされた折のことが、一日として頭から離れなかった。

 ――それは、戸田が経営していた東光建設信用組合が、経営不振から業務停止となり、再起を期して設立した新会社の大東商工が、細々と回転し始めようとしていた、一九五〇年(昭和二十五年)の十一月十六日のことであった。

 戸田のもとにいた社員たちも、給料の遅配が続くと、一人、また、一人と、恨み言を残して去っていった。伸一も、オーバーなしで冬を迎えねばならぬ、秋霜の季節であった。

 この日、伸一は、西神田の会社の近くにある、日本大学の学生食堂で、師の戸田と昼食をともにした。安価な学生食堂にしか行けぬほど、戸田城聖の財政は逼迫していた。

 彼にとっては、生きるか死ぬかの、戦後の最も厳しい“激浪の時代”である。

 しかし、戸田は泰然自若としていた。彼は、学生食堂へ向かう道々、伸一に、壮大な広宣流布の展望を語るのであった。

 食堂には、若々しい談笑の声が響いていた。

 戸田は、学生たちに視線を注ぎながら、微笑みを浮かべて言った。

 「伸一、大学をつくろうな。創価大学だ」

 伸一が黙って頷くと、戸田は、彼方を仰ぐように目を細めて、懐かしそうに語り始めた。

 「間もなく、牧口先生の七回忌だが、よく先生は、こう言われていた。

 『将来、私が研究している創価教育学の学校を必ずつくろう。もし、私の代に創立できない時は、戸田君の代でつくるのだ。小学校から大学まで、私の構想する創価教育の学校をつくりたいな』と……」

 ここまで語ると、戸田は険しい顔になった。

 「しかし、牧口先生は、牢獄のなかで生涯を閉じられた。さぞ、ご無念であったにちがいない。私は、構想の実現を託された弟子として、先生に代わって学校をつくろうと、心に誓ってきた。牧口先生の偉大な教育思想を、このまま埋もれさせるようなことがあっては、絶対にならない。そんなことになったら、人類の最高最大の精神遺産をなくしてしまうようなものだ。

 人類の未来のために、必ず、創価大学をつくらねばならない。しかし、私の健在なうちにできればいいが、だめかもしれない。伸一、その時は頼むよ。世界第一の大学にしようじゃないか!」

 この時の戸田の言葉を、伸一は、決して、忘れることはなかったのである。
 だが、既に、その戸田も世を去っていた。創価教育の学校の設立は、牧口から戸田へ、戸田から伸一へと託され、今、すべては、彼の双肩にかかっていたのである。

 伸一は、先師・牧口の、そして、恩師・戸田の構想の実現に向かい、いよいよ第一歩を踏み出せたことが嬉しかった。(中略)

 師匠が描いた構想を現実のものとし、結実させてこそ、まことの弟子である。その不断の行動と勝利のなかにのみ、仏法の師弟の、尊き不二の大道がある。金色に輝く、共戦の光の道がある。

 (293~296ページ)

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 聖教電子版の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」第10巻「解説編」の池田博正主任副会長の紙上講座と動画を閲覧できます。

 第10巻「解説編」はこちら


第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」 第7回「永遠なれ 友好の『金の橋』

2020年05月28日 | 妙法

第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」 第7回「永遠なれ 友好の『金の橋』」2020年5月28日

“新しい時代の扉は、待っていては開きはしない”――英国領だった香港の羅湖駅から徒歩で中国へ(1974年5月)
“新しい時代の扉は、待っていては開きはしない”――英国領だった香港の羅湖駅から徒歩で中国へ(1974年5月)
 
 池田先生の初訪中は1974年5月30日。まだ中国への直行便がない時代だった。

 
 なぜ中国へ行くのか。小説『新・人間革命』「友誼の道」の章には、中国への第一歩に当たり、アジアの平和と民衆の幸福を願い続けた戸田先生の真情を、山本伸一が述懐する場面が描かれる。不二の弟子として、何をなすべきか――「思索を重ねた結果、中国と友好を結び、確かなる交流の道を開かねばならぬと、心に深く決意したのである」と。
 
 初訪問に先立つこと6年、池田先生は68年9月8日に「日中国交正常化提言」を発表。「アジアの繁栄と世界の平和のため、その最も重要なかなめ」として、日本と中国の関係改善を訴えた。
 
 提言発表後、学会本部には嫌がらせや脅迫の電話、手紙が相次いだ。中国との友好を口にすれば、身の危険も覚悟しなければならない時代だった。しかしその後も先生は、新聞連載中の小説『人間革命』で日中平和友好条約の締結を提唱。歴史と未来への大局観に基づく信念は揺るがなかった。

 

周恩来総理が愛用したペーパーナイフ㊧と鄧穎超夫人が愛用した筆立て。ともに鄧夫人から贈られた
周恩来総理が愛用したペーパーナイフ㊧と鄧穎超夫人が愛用した筆立て。ともに鄧夫人から贈られた
 

 それらの行動を、じっと見つめていたのが周恩来総理であった。74年12月5日、先生の2度目の訪中の折に「池田会長には、どんなことがあっても会わねばならない」と、病身を押して一期一会の会見。共に繁栄するアジアの未来を展望した総理の思いは、池田先生に託された。
 
 以来、約半世紀。池田先生の訪中は10度に及ぶ。山あり谷ありの日中関係にあって、先生は平和・文化・教育の交流をたゆみなく推進し、青年部や婦人部などの派遣団交流をはじめ、幾重にも民間交流を進めてきた。

 

池田先生が1981年に揮毫した書「金乃橋」
 
池田先生が1981年に揮毫した書「金乃橋」

 先生は語る。――民衆は海であり、民衆交流の海原が開かれてこそ、あらゆる交流の船も行き交うことができる。――いかなる風雪があろうと、“海”さえあれば、船は前進し、往来は続いていく。ゆえに民衆交流こそ、揺るがぬ平和を築く王道である――と。
 
 原点を忘れず、先人の労苦に学ぶ。次世代にその志があれば、友好の「金の橋」は万代に続く。


池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞くⅡ部〉第5回 

2020年05月25日 | 妙法

〈池田先生の会長就任60周年 青年部が原田会長に聞くⅡ部〉第5回 人間讃歌の時代開く大文化運動㊥ 2020年5月25日

〈出席者〉西方男子部長、大串女子部長、樺澤学生部長、林女子学生部長
 
音楽で世界の民衆の心結ぶ
 

 ◆西方 1963年(昭和38年)10月18日、池田先生は民主音楽協会(民音)を創立されました。以来、半世紀を超え、昨年もおよそ50人の駐日大使が民音文化センターに来館されるなど、文化・芸術交流の一大拠点となっています。
  
 ◇原田 小説『新・人間革命』第8巻「清流」の章に書かれている通り、先生が民音設立の構想を練られたのは、61年2月にインド、ビルマ(ミャンマー)、タイ、カンボジアへ平和旅に向かわれていた時です。
 特にビルマは、先生の長兄が戦死された地でもありました。先生は、人類が悲惨な戦争と決別し、平和を築き上げていくには、何が必要なのかを考え続けておられました。
 そして、民衆と民衆の相互理解を図ることが不可欠であると思索を深め、そのためにも、音楽などの芸術、文化の交流が大切になると結論されます。この時、先生は、学会が母体となって、音楽、芸術の交流などを目的とした団体をつくろうと決意されたのです。
 音楽で、世界の民衆の心と心を結び、平和社会の建設を――この遠大な目的を掲げ、民音は産声を上げたのです。
  
 ◆大串 50年先、100年先を遠望しての布石だったわけですね。民音はこれまで、110カ国・地域の団体や演奏家らと交流を結んできました。日中関係が困難な時であった、2014年(平成26年)10月には、舞劇「朱鷺」がプレビュー上演されました。

 

中国・上海歌舞団による舞劇「朱鷺」の民音公演。2015年、約10万人の観客を集め、大感動を呼んだ
中国・上海歌舞団による舞劇「朱鷺」の民音公演。2015年、約10万人の観客を集め、大感動を呼んだ
 

 ◇原田 これは、民音と中国の文化交流が40周年となることを記念して、中国人民対外友好協会、上海歌舞団などと民音が共同制作したものです。
 ご存じの通り、12年から、日中関係は厳冬ともいえるほど冷え込んでいたのですが、プレビュー公演は安倍首相も観覧し、直後の11月の日中首脳会談では、そのことが話題になり、雰囲気が和らいだと聞きました。
 私は、この話を聞くにつけても、文化のもつ偉大な力を感じます。
 民音は、国交正常化3年後の1975年以降、中国から40を超える文化団体を招へいし、2100回以上の公演を行っています。こうした「文化交流」は、日中友好において大きな役割を果たしてきたと、中国の方々が語っています。
 先生は74年の初訪中の折から、中国側の要人に対して、「文化の交流」を力強く訴えられました。そこには、「文化交流とは、まさに相互理解の懸け橋であり、平和の先駆けである」との一貫した信念がありました。
 実際、先生は、世界中に、その文化交流、民衆交流の道を切り開かれてきました。

 

先生が築かれた友情の絆の強さ
 

 ◆大串 民音は、これまで、ミラノ・スカラ座、ハンブルク・バレエ、モスクワ児童音楽劇場、シルクロード音楽の旅、南アフリカのドラケンスバーグ少年合唱団、ヨルダン国立芸術団をはじめ、世界中の著名な団体の公演を実現してきました。
  
 ◇原田 民音の文化交流の歴史には、池田先生が各国の芸術家と結ばれた強い友情と信頼の絆があってこそ築かれてきたものが多くあります。
 昨年、民音のタンゴ・シリーズが、50回の節目となる公演を行いました。アルゼンチン共和国の公共メディア・コンテンツ庁からは、民音創立者である池田先生に「芸術と平和の青の賞」が贈られています。同国の「芸術・文化の普及」と「世界に友情と平和を広げた功績」がたたえられたものです。
 アルゼンチンでは、40、50年代がタンゴの黄金時代でした。しかし70年代、偉大なマエストロ(巨匠)たちが亡くなったことで、国内での演奏の機会が減り、多くの楽団が解散の危機に陥ります。その70年に、民音の公演が始まったのです。多くの楽団が、日本に行くために再結成されました。アーティストたちは日本で演奏することが楽しみでした。それは今も変わりません。“アルゼンチン・タンゴの再興は、池田先生と民音によって成し遂げられた”と断言する専門家もいるのです。
  
 ◆林 『新・人間革命』第30巻<下>には、タンゴの巨匠といわれる方たちとの感動的な交流もつづられています。
  
 ◇原田 私が特に印象深いのは、84年に民音の招へいで初来日した巨匠マリアーノ・モーレス氏です。この日本公演では、最愛の息子であるニト・モーレス氏も、父と共にステージに立つ予定でした。しかし来日直前に、息子さんに悪性のがんが見つかり、急きょ取りやめになったのです。日本公演が始まって1カ月後、息子さんは30代の若さで帰らぬ人となりました。
 先生は88年にモーレス氏と出会いを結ばれました。氏を皆で歓迎したロビーには、氏と亡くなった息子さんが共演した名曲「さらば草原よ」が流されていました。モーレス氏は「そうです。この曲です!」と感動の面持ちで語られました。
 先生はモーレス氏ご夫妻を、全魂を込めて励まされました。「息子さんは今も、お父さん、お母さんのそばにおられますよ。ご家族を見守り、支えておられます。生命は永遠です。永遠の父子です。寂しいようであっても、生命の次元では決して寂しくないのです」
 さらに一枚の色紙をモーレス氏に贈られました。そこには、先生の言葉とともに、自らの筆で富士山を描かれ、一つの点が打たれていました。
 そばにいた私たちも、“どのような意味なのだろうか”と思っていたところ、先生はモーレス氏に力強く言われました。「これはご子息です」と。
 モーレス氏は深い眼差しで、色紙を見つめておられました。“厳然と見守る息子さんのために、いかなる風雪にも微動だにしない富士のごとき境涯に”との思いが込められていたのだと思います。立場や肩書を超え、目の前の一人を励まさずにおかない先生の真心に、皆が深く感動しました。

 

アルゼンチン・タンゴの巨匠モーレス氏夫妻と和やかに語らう池田先生(1988年4月、旧・聖教新聞本社で)
 
アルゼンチン・タンゴの巨匠モーレス氏夫妻と和やかに語らう池田先生(1988年4月、旧・聖教新聞本社で)

 ◆西方 現在、モーレス氏のお孫さんが歌手として活躍しており、当時を振り返り、「池田先生の真心と配慮を、祖父がどれほど喜んだことか。先生の励ましがなければ、祖父の人生は全く違うものになっていたでしょう」と語られています。
  
 ◇原田 93年2月には、先生が出席され、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで第11回「世界青年平和文化祭」が行われました。会場は、市内の由緒ある劇場の一つであるコリセオ劇場です。ここでは、地元メンバーの強い要請で、マリアーノ・モーレス氏と、もう一人の巨匠オスバルド・プグリエーセ氏が共演しました。
 プグリエーセ氏は文化祭の4年前の89年に民音公演のために来日されています。引退公演という位置付けでした。夫妻で来日された氏を、先生は真心から歓待されました。
 先生の飾らない人柄と平和への信念に、すっかり魅了されたプグリエーセ氏は後に、「トーキョー・ルミノーソ(輝く東京)」との題名が付けられた献呈曲を作り、先生に贈られます。氏の夫人は、“プグリエーセが特定の誰かのために曲を作って贈ったというのは、後にも先にも、先生お一人だけだった”と語っていました。
 この89年の引退公演を大成功で終え、“もう舞台に上がることはないだろう”といわれていた氏が4年後、87歳にして、再びスポットライトの中に姿を現したのです。
 どちらか一方が、舞台に立つだけでも大変な出来事なのに、二人が同じ舞台でコラボすることなど奇跡だと、参加者も大変に驚いていました。立場や感情などの一切をかなぐり捨て、ただ池田先生との友情のために――この思いで、お二人は文化祭に出演を果たしてくださったのです。

 

庶民が“下駄”で行ける場を作る

 ◆樺澤 先生は、「民音を設立した目的は、あくまでも、民衆の手に音楽を取り戻すことにある」ともつづられています。
  
 ◇原田 発足当初から、「庶民が“下駄履き”で行けるコンサートをつくろうよ!」と、先生は何度も言われました。その願いを実現させ、「民衆の喜びの讃歌」である音楽が、日本の津々浦々で花開いている時代を、先生は作られたのです。
 世界一流のバレエにしろ、オペラにしろ、まるで“高嶺の花”のような存在であったものを、先生が創立された民音の招へいによって、私たちは親しむことができました。それは、日本の文化交流においても、大変に意義のあるものであったと思います。
 たとえば、世界最高峰の大歌劇団ミラノ・スカラ座の日本公演は、16年という長い歳月にわたる交渉の末、81年9月に実現しました。ある専門家からは、「完璧な舞台です。よくぞ、これだけの舞台を招へいしてくださった」と感謝の声が寄せられました。“民衆が最高の芸術に触れる機会を提供したい!”との先生の巌のごとき信念が、不可能と思われていたスカラ座の日本公演を実現させたのです。
  
 ◆林 近年は、テレビの人気番組で、「民音音楽博物館」が相次いで紹介されています。また、世界聖教会館と民音の間にある信号機の地名板は「民音音楽博物館」となっています。


  音楽文化の殿堂・民音文化センター(東京・信濃町)。「民音音楽博物館」は同センターの1階、2階、地下1階に

音楽文化の殿堂・民音文化センター(東京・信濃町)。「民音音楽博物館」は同センターの1階、2階、地下1階に
 

 ◇原田 博物館には、古典ピアノや民族楽器など各国の貴重な楽器をはじめ、著名な音楽家の楽譜等が収蔵されています。
 30万点に及ぶ音楽資料が所蔵され、“民間では国内最大級の規模”と評される「音楽ライブラリー」も併設されています。
 東京都の登録博物館に認可されており、世界でも数少ない音楽博物館の一つです。
 中学・高校の総合学習や修学旅行などでも見学に訪れ、全国の学校に親しまれています。学芸員実習の受け入れ先として、学生たちの支援も行い、福祉施設や地域の老人会の見学先としても多くの人が訪れています。
 東日本大震災では、「歌を絆に」をテーマに、被災3県の小中学校で東北希望コンサートを開催。一回一回が本当に感動的で、その数も昨年までで116校81回に及びます。
  
 ◆樺澤 人々に希望と勇気を送り、心の絆を結ぶ音楽の役割は、本当に偉大です。
  
 ◇原田 法華経寿量品に「諸天撃天鼓 常作衆妓楽」(諸天は天鼓を撃って 常に衆の妓楽を作し)とあります。天人(歓喜に満ちた人々)が、「天の鼓」を打って、常に、さまざまな音楽を奏でる姿――それは、幸福の時、うれしい時、心の底から音楽があふれてくることを示しているともいえます。先生は、この経文を通し、「民衆のにぎやかな歌声のあるところ、自由があり、躍動がある。音楽には強制はない。文化に暴力はない。すべて人間性の開花につながる」と言われています。
 音楽、芸術を通し、「平和・文化・世界の道」を開く民音の使命は、ますます大きいのです。


第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」 第6回「民衆に捧げる栄冠」

2020年05月25日 | 妙法

第3代会長就任60周年記念「師弟凱歌の記憶」 第6回「民衆に捧げる栄冠」2020年5月25日

モスクワ大学の総長室で行われた名誉博士号授与式(1975年5月)。池田先生は、ホフロフ、ログノフ、サドーヴニチィの歴代総長と深い親交を。創価大学とモスクワ大学の学生の往来は、これまで500人を超える
モスクワ大学の総長室で行われた名誉博士号授与式(1975年5月)。池田先生は、ホフロフ、ログノフ、サドーヴニチィの歴代総長と深い親交を。創価大学とモスクワ大学の学生の往来は、これまで500人を超える
 

 大学や学術機関が優れた人物に対して授与する名誉学術称号は、その機関が“この人に学べ”という模範と認め、威信をかけて贈る「知性の宝冠」である。
 
 池田先生が受けた最初の名誉学術称号は、M・V・ロモノーソフ記念モスクワ国立大学の「名誉博士号」。本年で創立265年を迎えた、ロシア最古の知の殿堂からの栄誉である。受章者には、ゲーテ、シラー、ダーウィンら、人類史に輝く偉人が名を連ねる。
 
 市街の中心部からも見える同大学の本館は、高さ240メートル、32階建て。最高峰にふさわしい威厳をたたえるが、開学当初の大学は、薬局だった建物を改装した小さな校舎だったという。“あらゆる階層の人に開かれた大学に”との創立者・ロモノーソフの理想が灯る学舎は、時を経てゴルバチョフ元ソ連大統領らノーベル賞受賞者をはじめ幾多の英才を育んできた。
 
 先生への名誉博士号授与は、同大学哲学部から発議があり、教授会の決定をみたもの。1975年5月27日、ホフロフ総長(当時)ら大学首脳、教授や学生の代表が見守る中、本館9階にある総長室で厳粛に行われた。

 

モスクワ大学から贈られた「名誉博士号」の学位記
モスクワ大学から贈られた「名誉博士号」の学位記
 
平和と友好の活動を讃え

 贈られた学位記には「文化と教育の分野における実り多い活動、並びに諸国民の平和と友好の深まりをめざす積極的な活動を讃え」と。折りしもこの年は、SGIが発足した年。かつて“貧乏人と病人の集まり”と揶揄された創価学会が、池田先生のリーダーシップのもと、人類を結ぶ平和・文化・教育の一大民衆運動を世界に本格的に広げゆく暁鐘の年であった。
 
 先生は授与式を振り返り、つづった。草創のころより、地位も栄誉も求めず、世のため、人のためにひたむきに汗を流してきた人々の、身を惜しまぬ敢闘があって今日のSGIの発展がある――と。「尊い労作業を、陰の労苦を、誰が忘れよう。私がいただいた称号や勲章は、すべて、それらの人々のものである。私は、ただ、営々黙々とこの運動を担い、支えてこられた無位無冠の人々のために、今後も働きゆくのみである」
 
 モスクワ大学からは2002年6月、重ねて「名誉教授」の称号も贈られた。池田先生の人間主義の行動に贈られた「知性の宝冠」は現在、396に及んでいる。


こんなに便利! 聖教電子版

2020年05月25日 | 妙法

こんなに便利! 聖教電子版 多彩なコンテンツを活用しよう  2020年5月25日

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 私は毎日、聖教電子版の「クリップ」「マーカー」を活用しています。感動した記事や友人・部員さんに伝えたい記事を、すぐにクリップ保存。そうすると、いつでも、何度でも読み返すことができるんです。クリップした記事には、色付きマーカーで線を引くこともでき、自身の研さんに大いに役立っています。
 これまでは、新聞の切り抜きでカバンがいっぱいになり、整理や読み返すことができずにいましたが、電子版のおかげで、これまで以上に、聖教新聞を深く学び、伝えることができるようになり、本当にうれしいです。(壮年部、40代)

 私は毎日、聖教電子版の「クリップ」「マーカー」を活用しています。感動した記事や友人・部員さんに伝えたい記事を、すぐにクリップ保存。そうすると、いつでも、何度でも読み返すことができるんです。クリップした記事には、色付きマーカーで線を引くこともでき、自身の研さんに大いに役立っています。
 これまでは、新聞の切り抜きでカバンがいっぱいになり、整理や読み返すことができずにいましたが、電子版のおかげで、これまで以上に、聖教新聞を深く学び、伝えることができるようになり、本当にうれしいです。(壮年部、40代)

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