毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

賢者を育む創価教育

2022年11月28日 | 妙法

随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 賢者を育む創価教育2022年11月28日

  • わが地域から世界市民の英知の連帯を
金色のイチョウの葉が喜びに揺れるよう(池田先生撮影。今月、都内で)
金色のイチョウの葉が喜びに揺れるよう(池田先生撮影。今月、都内で)

 命には、命を生み、養い、成就させ、勝ち栄えさせゆく「生養成栄」という本然の“教育力”がある。
 御本仏・日蓮大聖人は、森羅万象に脈打つ、この慈悲の力用へ、深く温かな眼差しを注いでおられた。
 「総勘文抄」には、「秋になって月光の縁にあえば、草木は皆ことごとく実が熟して、一切の有情を養育し、その寿命を延ばして長く養い、ついに成仏の徳用を顕す」(新729・全574、通解)と仰せである。
 「無心の草木」ですら、そうである。いわんや人間は「善知識の縁」を大切にして自他共に仏性を顕していこうではないかと、呼び掛けておられるのだ。

金色のイチョウ

 晩秋を迎え、東京・信濃町の総本部から程近い外苑のイチョウも美しく色づき、金色に輝いている。
 私も、折々にそんな黄金の景色をカメラに収め、ゆかりの友に贈ってきた。
 イチョウは、日本から帰国したドイツ人の医師・ケンペルが紹介して、欧州に知れ渡った。生命の讃歌の詩人・ゲーテも、イチョウを庭に植えて詠っている。
 「東洋からはるばると わたしの庭にうつされたこのいちょうの葉は 賢い者のこころをよろこばせる ふかい意味をもっているようです」
 春に生き生きと芽吹き、夏には鮮やかな緑の葉が茂り、秋は目映い金色に光って実りをもたらし、次世代へ命をつなぐ。そして冬の深まりとともに、葉は自らの滋養を枝に留めつつ舞い散り、巡り来る春に蘇生の新芽が再び輝き出すのだ。
 “永遠の生命”を求めてやまなかったゲーテにとって、その春夏秋冬のドラマは賢者の心を照らす光彩となったに違いない。
 真の賢者とは、誰か――。それは、大宇宙を貫く普遍の「生命の法則」を真摯に追求する人であろう。
 生命の真理を説き明かした妙法を信受して、行学の実践に励む人は誰もが「世界第一の賢者」となる。
 今回、「教学部任用試験(仏法入門)」に挑戦された皆様は、この誇りに胸を張っていただきたい。
 任用試験でも学んだ御聖訓に、「夏と秋と、冬と春とのさかい(境)には、必ず相違することあり。凡夫の仏になる、またかくのごとし。必ず三障四魔と申す障りい(出)できたれば、賢者はよろこび愚者は退く、これなり」(新1488・全1091)と仰せである。
 我らは試練の時こそ人間革命の好機と、旧友とも新たな友とも朗らかに語らいながら、“賢者の並木道”を喜び勇んで闊歩するのだ。

若き生命よ幸福に

 学会は、一九三〇年(昭和五年)の十一月十八日、「創価教育学会」として産声を上げた。何より教育から出発したことは、我らの永遠の誉れといってよい。
 「全ての子どもたちが幸福な人生を歩めるように」――この牧口常三郎先生と戸田城聖先生の願いと信念が、「創価教育学」に凝縮されている。世界恐慌に揺れ動く渦中に、最も苦しむ子どもたちに光を当て、その幸福こそを一切の原点、最第一とされたのだ。
 激動の時代ゆえに、常に新鮮な知識を身に付ける努力は当然として、どんな困難にも怯まず乗り越えていく生命力と知恵を培うことが、ますます大切な幸福の要件となろう。ここに、創価教育の主眼もある。
 「現代人の大きな錯覚のひとつは、知識と知恵を混同していることだ」とは、戸田先生の卓見であった。
 知識や情報を「何のため」に、「誰のため」に使うのか。いかに生かして価値を創造していくのか。
 現代にあって、両先生の悲願を継承する創価の人材群の貢献は、教育はもとより地域社会で、ケアや福祉活動等々、いやまして多角的な広がりを見せている。
 苦しんでいる人、虐げられている人、社会に居場所を見出せない人へ手を差し伸べ、励まし守っていく。自分だけではなく、他者の幸せ、すなわち自他共の幸福に尽くしていく――こうした「共生の社会」「平和の地球」を築きゆく知恵を磨き上げている人こそが、「真の幸福博士」なのだ。
 アメリカの教育哲学者デューイも、「知識偏重の教育」ではなく、「知恵の開発」を重視した。
 その上で彼は、「宗教的なもの」の重要性を訴えた。それは、人をよき目的に向かわせ、理想と現実を結ぶ働きともいえる。時には、「行動を導き、感情に熱を与え、知性に光を加え」、さらに知識等を求める万般の営みに具わる価値を開花させ、創造するのだ。
 この点を、私もハーバード大学での二回目の講演の折に言及した。
 よき宗教も、よき教育も、人間を「より強く、より善く、より賢く」するためにある。だからこそ、「宗教のための人間」ではなくして「人間のための宗教」を、そして「社会のための教育」ではなくして「教育のための社会」を、私たちは志向していくのである。

「英知をみがくは 何のため」――創価学園の卒業式で、愛する生徒たちと校歌を共に(2004年3月)
「英知をみがくは 何のため」――創価学園の卒業式で、愛する生徒たちと校歌を共に(2004年3月)
従藍而青と光る

 私は、創価学園の創立記念日を、一九六七年(昭和四十二年)十一月十八日と定めた。以来五十五年となる。
 それは、私が欧州統合の父・クーデンホーフ=カレルギー伯爵と対談し、世界の良識との対話を本格的に始めた秋であった。この三年後、わが学園で、伯爵が記念講演をしてくださったことも懐かしい。
 本年が開校五十年目となる関西創価学園の誕生も、私がイギリスの大歴史学者トインビー博士と、二十一世紀を展望する対談を進めていた時である。
 “道は私が開く。諸君は思う存分、学べ! 徹底して学べ! そして世界の未来を、地球の平和を頼む!”――対話を重ねる私の胸には、創価の平和・文化・教育の後事を託す学園生たちの顔が浮かんでいた。
 創価の学舎は今、日本の東西創価学園、札幌の幼稚園、創価大学・創価女子短期大学、そしてアメリカ創価大学と、世界に広がった。香港、シンガポール、マレーシア、韓国に幼稚園、ブラジルには創価学園が光る。
 また“姉妹校”のインドの創価池田女子大学も多彩な人材を送り出されている。
 いよいよ明年には、マレーシアに中高一貫の創価インターナショナルスクールも開校される予定だ。
 「世界中の子どもたちの幸福」を願われた牧口先生と戸田先生の喜びは、いかばかりであろうか。
 牧口先生は、「従藍而青」の前進を、創価教育の特色とされていた。
 その意味で、『創価教育学体系』が発刊された十一月十八日を、創価学園が「英知の日」と定め、学園生が「藍より青く」成長の節を刻んでいることが頼もしい。今年も記念の行事が、東西の学園、札幌の幼稚園で朗らかに開催された。
 “英知を磨くは何のため”と常に問い続け、挑戦し続ける負けじ魂ありてこそ、創価教育の真価は、未来永劫に輝きを増すのだ。

日常生活の中で

 この創価教育の精神を、使命の現場で体現しているのが、教育本部の先生方だ。今秋、各地で伝統の実践報告大会が行われた。岡山での全国大会では、子どもの幸福に尽くす教育実践に、来賓の方々から賞讃の声が寄せられ、感謝に堪えない。
 先生方は地域でも、「家庭教育懇談会」を行い、未来部担当者の方々と一緒に、子育て世代に安心と共感を広げて、子と親が共に育つ“共育の知恵”を分かち合われている。地域と社会の“教育力”向上に貢献する、地道にして偉大な取り組みと、労い讃えたい。
 先月、創価大学で行われた第一回「世界市民教育シンポジウム」で、デューイ研究の大家ジム・ガリソン博士は語られた。
 「世界市民の育成は、日常生活の中で行われるべきです。私たちは、家庭や地域社会で善良な市民であることを学ぶことによって、善良な世界市民としての習慣を身に付けることができるのです」
 “よき市民たらん”との信念を胸に、日々の生活の中で地域へ社会へ飛び込んでいく創価の連帯にこそ、時代が求める「世界市民教育」の力が横溢している。その確信と自負を忘れまい。

伝統ある米デューイ協会のガリソン会長から、池田先生に「終身名誉会員証」が(2008年8月、長野研修道場で)
伝統ある米デューイ協会のガリソン会長から、池田先生に「終身名誉会員証」が(2008年8月、長野研修道場で)
普賢菩薩の実践

 来月には、若き世界市民たる男女学生部が全国大会を開催する。私も大成功を祈り見守っている。
 法華経の最終章で、釈尊が普賢菩薩に語った最後の一言は、「当起遠迎、当如敬仏(当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし)」であった。
 大聖人は「御義口伝」で、この経文を「最上第一の相伝」と明言された(新1086・全781)。法華経の生命尊厳・人間尊敬の精神を体し、民衆を侮蔑し軽賤する増上慢とは対峙し、妙法の実践者を厳護する――真に“普く賢い”英知の発露が、ここにあろう。
 大聖人は佐渡流罪の大難の中、悠然と仰せられた。
 「生涯、本より思い切り了わんぬ。今に翻反ること無く、その上また遺恨無し。諸の悪人はまた善知識なり」(新1292・全962)
 この御聖訓通り、我らは邪宗門の忘恩非道をも世界宗教の飛翔の力に転じ、太陽の民衆仏法の大光を、地球民族へ贈り続けてきた。
 この「魂の独立」の気概を、若き創価の普賢菩薩は、尊き父母たちから厳然と受け継いでいくのだ。

三代の師弟の夢

 全ての生命に具わる「幸福の価値を創造する力」を引き出し、成就させること――この大理想を実現するために、創価教育はある。
 創価三代の師弟を貫く夢を、「わが夢」「わが誓い」として共に進む全ての不二の同志へ深謝は尽きない。
 教育こそ、人間を幸福にする知恵の源泉である。
 教育こそ、社会を繁栄させる創造の広場である。
 教育こそ、世界を平和に結ぶ共生の大海原である。
 ゆえに、偉大なる創価の教育力を限りなく! そう先師・恩師に誓いを捧げる「創立の月」である。
  
(随時、掲載いたします)

  
 <引用・参考文献>ゲーテの詩は『世界の詩集1 ゲーテ詩集』所収「銀杏の葉」手塚富雄訳(角川書店)。デューイについては魚津郁夫編『世界の思想家20 デューイ』(平凡社)。


創価学会は校舎なき総合大学 

2022年11月27日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第26回 創価学会は校舎なき総合大学 座談会編〈上〉2022年11月27日

 
ダンテやガリレオなど、数々の歴史的人物を輩出したイタリア・ボローニャ大学。1994年6月、池田先生は、400年ほどの歴史を有する同大学の大講堂で記念講演。大学首脳や教職員など、約1000人が集まった
ダンテやガリレオなど、数々の歴史的人物を輩出したイタリア・ボローニャ大学。1994年6月、池田先生は、400年ほどの歴史を有する同大学の大講堂で記念講演。大学首脳や教職員など、約1000人が集まった

 中世初期のヨーロッパには、主に3種類の「スコラ」と呼ばれる学校があった。①宮廷の貴族を教育する学校②有能な僧侶を育てる学校③修道院の付属学校、である。
 そこで学ぶのは、文法、修辞学、論理学、算術、天文、幾何、音楽の7科目。これらは、聖書を読むことや王権を維持するために必要とされた。
 しかし、学校に通う人の中には、新しい知識を求める青年もいた。この若者たちは最初、橋の上に集まったという。さまざまな人と出会う可能性があるからだ。そうして出会った若き探究者たちは、橋の上や広場で議論を交わした。
 やがて、ヨーロッパの各地で、教師と学生、両者を支える事務を担当する人々の「組合」が形成されるようになった。新たな学問の集積所の誕生である。それは「ウニベルシタス」と呼ばれ、「大学」を意味する英語の「ユニバーシティー」の語源となった。
 大学は、その起源をたどれば、制度から出発したのではない。建物があったわけでもない。教師と学生のほとばしる学問への情熱、人間的な結び付きが、大学という“知の水脈”を開いた。
 イタリアのボローニャ大学は、1088年の創立といわれ、“世界最古の総合大学”と称される。君主や教会が設立したのではなく、学生たちが優れた教師を探して誕生した“民衆立の大学”である。
 この歴史と伝統を誇る英知の学府で、池田大作先生は1994年6月、「レオナルドの眼と人類の議会――国連の未来についての考察」と題して、記念講演を行っている。
 
 「創価学会は、校舎なき総合大学」とは、第2代会長・戸田城聖先生の言葉である。
 創価学会の創立記念日は、11月18日。初代会長・牧口常三郎先生が戸田先生と共に、『創価教育学体系』第1巻を発刊したことを淵源としている。
 ある冬の夜、牧口先生と戸田先生は深夜まで語らいを続けていた。牧口先生は、自身の教育学説を残したいという意向を、戸田先生に明かした。
 しかし、一小学校の校長の学説が売れる見込みはなく、出版社が引き受けてくれることも困難に思われた。
 慎重になる先師に、戸田先生は「私がやります!」と決意を述べ、「私には、たくさんの財産はありませんが、1万9000円はあります。それを、全部、投げ出しましょう」と語った。
 小学校教員の初任給が、まだ50円前後の時代。牧口先生の教育学説を後世に残すため、戸田先生は一切を捧げる覚悟を、瞬時に定めた。
 「先生の教育学は、何が目的ですか」との戸田先生の問いに、牧口先生は「価値を創造することだ」と応じた。先師の答えを聞くと、戸田先生は提案した。
 「創造の『創』と、価値の『価』をとって、『創価教育学』としたらどうでしょうか」
 大学が教師と学生の語らいから始まったように、「創価」の二文字も「師弟の対話」から生まれた。
 この経緯を通して、池田先生は述べている。
 「価値を創造する。美と利と善を創り出す。深い深い哲学と人格のある名前です。お二人の人格が反映した名前です」 

 

 

ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第26回 創価学会は校舎なき総合大学 座談会編〈上〉(1面から続く)2022年11月27日

 
池田先生ご夫妻が国際宗教社会学会のカール・ドブラーレ元会長(右端)と夫人のリリアン・ボワイエ博士と対談(1996年1月9日、八王子市の東京牧口記念会館で)。語らいは「セクトの概念」「宗教と国家・政党との関係」などを中心に、2時間余にわたって行われた
池田先生ご夫妻が国際宗教社会学会のカール・ドブラーレ元会長(右端)と夫人のリリアン・ボワイエ博士と対談(1996年1月9日、八王子市の東京牧口記念会館で)。語らいは「セクトの概念」「宗教と国家・政党との関係」などを中心に、2時間余にわたって行われた

 2007年、日本や中国、韓国、オーストラリアなどの首脳が集まって、東アジア首脳会議(EAS)が開催された。この場で、一つの計画が討議された。ナーランダ大学の設立である。
 同大学は、ナーランダー僧院の再興を企図して構想された。EAS加盟国の協力のもと、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン博士が指揮を執って設立され、14年に最初の授業が始まった。この年、セン博士はアメリカ創価大学の卒業式で記念講演を行っている。
 ナーランダー僧院は、5世紀から12世紀末までの間、インドの東部に存在した。最盛時には、1万人の学僧と千人の教授がいたという。
 僧院には、アジア各地から学僧が訪れた。仏教徒だけでなく、すべての人々に門戸が開かれ、東洋全域における精神の淵源地となった。1979年2月、池田先生はナーランダーの仏教遺跡を訪れ、往時を偲んでいる。
 僧院では最初、個室が与えられたという。しかし、研さんが進むにつれ、寝具や机などは、共同での使用になった。仏教の最先端の知識の習得にとどまらず、生活の中での他者との交流を通して、人格の錬磨がなされた。
 創価学会もその創立以来、人間と人間が触れ合い、語り合う「座談会」を重視してきた。
 牧口先生を投獄に至らせた起訴状には、41年5月から43年6月の2年余の間で、東京の一つの会場だけでも「二百四十余回に亘り」「座談会を開催し」たと記録されている。
 ある時、牧口先生は一人の青年からの“座談会よりも講演会形式にした方がいいのでは”との質問に対して、こう答えた。
 「いや、それは違う。人生に対する問題は対話でなくては相手に通じない。講演だけでは、聞く方は他人事にしか感じないものだ」
 だからこそ、牧口先生は座談会を大切にした。41年3月、治安維持法が改正され、言論弾圧は激しさを増した。その中で、先生は仏法の人間主義の哲理を、座談会で語った。
 香峯子夫人の母である白木静子さんは当時を振り返り、こう述べている。
 「戦時中の座談会は、警官立ち会いでありました。神札の話がでると『中止』と警官がいうので、ほかの話にきりかえて話をつづけられます」
 「お話が終わるまで何回か『中止』の声がかかり、その圧力の中で、先生は堂々と折伏を続けられました」
 43年7月、牧口先生と戸田先生の師弟は、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕・投獄される。翌44年11月18日、牧口先生は牢獄で殉教した。
 45年7月3日、生きて牢を出た戸田先生は、翌46年に「創価教育学会」の名称を、「創価学会」に改称する。学会の再建に立ち上がった戸田先生が、法華経の講義とともに力を注いだのが、座談会である。
 この年の11月17日、牧口先生の三回忌法要が営まれた。戸田先生は追悼の辞で、先師への深甚の感謝を語った。
 「あなたの慈悲の広大無辺は、私を牢獄まで連れて行ってくださいました」「その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味を、かすかながらも身読することができました。なんたる幸せでございましょうか」
 法要の後、戦後初となる創価学会の第1回本部総会が行われた。この総会直後から、戸田先生の法華経と御書の講義の受講者が急増。各地の座談会も活発に開かれるようになった。
 戸田先生は鶴見や小岩、蒲田、目白、中野など、寸暇を惜しんで座談会に出席した。年齢や職業の垣根なく、老若男女が集い、一切の形式抜きで、人生について赤裸々に語り合う――座談会は、市井に生きる庶民の「生命触発の場」であった。 

 1983年から91年まで、国際宗教社会学会会長を務めたカール・ドブラーレ博士。欧米を代表する宗教社会学者である。博士は、21世紀の宗教の条件を六つ、示している。
 ①共同体に基盤を置き、それを再活性化させ、人間同士の結合を成し遂げられる宗教かどうか。
 ②生きる活力を与え、躍動の力を生み出すものであるかどうか。
 ③単に個人の次元にとどまらず、社会への働きかけを強く行うかどうか。
 ④(利己的な)個人主義を規制し、社会的な責任感を強調するかどうか。
 ⑤寛容の立場に立つ宗教かどうか。
 ⑥自分たちの社会の発展だけを願うのではなく、地球的規模での世界共同体を目指す宗教かどうか。
 その上で博士は、創価学会はこの六つの条件を全て満たしている、と論じている。
 伝統宗教について研究してきた博士は、アメリカやアフリカなどの宗教にも関心を持つようになり、創価学会の研究も進めるようになった。
 84年の師走、都内の座談会に出席。体験発表やリーダーの話を克明に書き留め、終了後には「入会動機は何ですか」「具体的に何を祈るのですか」など、参加者に次々と質問した。
 自分の目で、創価学会の実像を見た博士は、座談会を高く評価した。
 「宗教には、人々に『安らぎを与える』『挑戦する意欲を与える』という二つの役割があります」
 「自分の人生の責任はすべて自分にあると教えることによってのみ、宗教が信徒に『挑戦する意欲を与える』ことが可能です。そのためには、リーダーの啓発的な指導と仲間のサポートが必要になります。その意味で座談会が重要なのです」
 96年1月9日、博士は池田先生と対談。この日は、夫人のリリアン・ボワイエ博士の誕生日だった。
 池田先生ご夫妻は、ケーキと花束を用意して、二人を迎えた。ドブラーレ博士は後に、こう振り返っている。
 「ご夫妻の心遣いに感動した妻は、花束を大切にベルギーまで持ち帰りました」「温かなお人柄は、素晴らしい思い出として私たち夫婦の心にいつまでも残っています」
 その時の語らいに、誠心誠意を尽くす――先生の姿は、各地で出席した座談会でも変わらなかった。
 (以下、次号に続く)

国際宗教社会学会元会長 ドブラーレ博士
21世紀の宗教の条件

 ①共同体に基盤を置き、それを再活性化させ、人間同士の結合を成し遂げられる
 ②生きる活力を与え、躍動の力を生み出す
 ③単に個人の次元にとどまらず、社会への働きかけを強く行う
 ④(利己的な)個人主義を規制し、社会的な責任感を強調する
 ⑤寛容の立場に立つ
 ⑥自分たちの社会の発展だけを願うのではなく、地球的規模の世界共同体を目指す


一人の本物の弟子がいれば広布はできる

2022年11月25日 | 妙法

第23回 「水滸会・華陽会〈下〉」 一人の本物の弟子がいれば広布はできる2022年11月25日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【「若き日の日記」1959年(昭和34年)11月27日から】
この一生、妙法流布に捧げゆく命、
微少の風に紛動されて何かせん。
法力・仏力、われは信力・行力。
「水滸会」の第1回野外研修から30周年を刻む1984年の5月、池田先生が出席して記念集会が行われた(東京・奥多摩で)
「水滸会」の第1回野外研修から30周年を刻む1984年の5月、池田先生が出席して記念集会が行われた(東京・奥多摩で)
大事なのは裏方だよ

 「たまには自然の懐にいだかれて、浩然の気を養う伸び伸びした会合を行ってはどうか」。戸田先生の提案を受け、男子部の人材育成グループ「水滸会」の第1回野外研修が行われた。1954年(昭和29年)9月のことである。
 幾つかの候補地が挙がった。戸田先生は「最後の決定は、皆の希望に任せるから」と青年たちに委ねた。最終的に、東京・氷川のキャンプ場が選ばれた。
 4日午後3時、研修の参加者を乗せた2台のバスが学会本部を出発した。甲州街道を走り、八王子、拝島、青梅と通過して、氷川に到着したのは夕刻だった。午後7時、キャンプファイアがたかれた。食事を終えると、恩師と青年たちとの語らいが始まった。
 一人の青年が、「先生は、青年時代、どんなふうに勉強なさったか、それを教えてください」と質問した。戸田先生は自身の人生を振り返りながら、いかに勉強してきたかを述べ、「人生は勝負だよ。まず自分に勝てばよいのだ。諸君は、諸君の身についた方法で、勝てばよいのです」と語った。
 “父親と意見が合わない”と言うメンバーや、「理性」と「感情」について聞く友もいた。大切な水滸会員の質問に、恩師は明快に答え、こう呼びかけた。
 「今日から10年後に、みんなそろって、またここへ集まろうではないか。私はその時、諸君に頼むことがある」
 この恩師の一言について、池田先生は述べている。「私には明白だった。先生は、新たな社会建設のために、本格的な政治改革、教育改革の大構想をば、私をはじめとする青年に託そうとされていたのである」
 キャンプファイアが終わり、夜の帳が降りると、池田先生は一つ一つのテントを激励に回り始めた。野外研修の折、池田先生は青年たちに語っている。「大事なのは裏方だよ。陰で黙々と戦う青年が大事なんだ」
 一つの行事を無事故で終えるため、あらゆる点に心を配る。その責任を担い立つことに、青年の鍛えがある。先生は自ら先頭に立ち、その模範の姿を示したのである。

1961年11月5日に開催された第10回男子部総会の終了後、「水滸会」のメンバーに贈られたバッジ。「創価班」「牙城会」のバッジの源流ともいえる
1961年11月5日に開催された第10回男子部総会の終了後、「水滸会」のメンバーに贈られたバッジ。「創価班」「牙城会」のバッジの源流ともいえる
学会の指揮を執る日

 1955年(昭和30年)6月10日、華陽会が野外研修を開催。戸田先生と共に神奈川の三浦半島を訪れた。
 翌11日から1泊2日で、水滸会の第2回野外研修が行われた。山梨県の河口湖・山中湖で開かれたこの研修が、恩師が出席する最後の野外研修となった。
 58年(同33年)4月2日、戸田先生の不惜身命の生涯は幕を閉じた。この日、池田先生は日記にしたためた。
 「妙法の大英雄、広布の偉人たる先生の人生は、これで幕となる。しかし、先生の残せる、分身の生命は、第二部の、王仏冥合実現の決戦の幕を、いよいよ開くのだ。われは立つ」
 池田先生は悲嘆を払い、恩師の広布の構想を実現するため、立ち上がった。10日、男子部の幹部会に出席した池田先生は、烈々と訴えた。
 ――戸田先生が逝去して、世間ではさまざまに批判しているが、我々は“戸田先生が残された青年部の姿を見よ! これだけ立派に前進している姿を見よ!”との気概で前進していこうではないか!
 「5・3」を目前にした4月29日、池田先生は日記に記した。
 「実質的――学会の指揮を執る日となるか。胸苦し、荷重し。『第五の鐘』の乱打。戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」
 この誓いで迎えた5月3日、先生は本部総会で「七つの鐘」の指標を発表し、同志の胸中に希望の灯をともした。
 恩師亡き後、一部のマスコミは学会への猛烈な批判を開始した。学会の「空中分解」を予測する評論家までいた。
 だが先生は、そうした中傷を歯牙にもかけなかった。ただただ、戸田先生が示した300万世帯の実現へ向けて、一瀉千里に突き進んだ。同年6月、創価学会の総務に就いた池田先生は、青年の育成に総力を挙げた。水滸会の野外研修を提案し、7月に行われることになった。
 この第3回の研修も、恩師との思い出が刻まれた河口湖・山中湖で開催された。ただ、参加者には物見遊山の雰囲気が漂っていた。
 その空気を一変させたのが、池田先生だった。先生は繰り返し、師弟に生き抜く中に広布と人生の勝利があると訴えた。
 「水滸会……戸田先生を、追憶しながら、百名の同志と一泊。広布の人材にと誓い合う」「会員の顔、決意を秘めて喜々」(『若き日の日記』、1958年7月26日)
 翌59年(同34年)7月には、東京・氷川で、第4回の野外研修が開かれた。この時、池田先生は自らの誓いを語った。
 「これから私は、戸田先生の遺訓を実践していきます」

長野・霧ケ峰高原から見える富士山(1991年7月、池田先生撮影)。霧ケ峰高原は、1961年7月に「水滸会」「華陽会」の野外研修が行われた地。この時、先生は、水滸会に「自分を磨き、それぞれの分野で一流の人材に」と指導。華陽会には「幸福とは、外にあるのではない。私たちの心のなかにある。それを教えているのが仏法」と語った
長野・霧ケ峰高原から見える富士山(1991年7月、池田先生撮影)。霧ケ峰高原は、1961年7月に「水滸会」「華陽会」の野外研修が行われた地。この時、先生は、水滸会に「自分を磨き、それぞれの分野で一流の人材に」と指導。華陽会には「幸福とは、外にあるのではない。私たちの心のなかにある。それを教えているのが仏法」と語った
ありのままの姿で

 59年9月、「関西華陽会」が誕生。発足式に出席した池田先生は、「一切法は皆これ仏法なり」(新714・全564)との御聖訓を拝し、「仏法に通達する人は、世間法でも勝たなければならない」と訴えた。
 その後、先生は関西訪問の折に、関西華陽会の集いに出席した。ある時には、『三国志』の「桃園の義」を通して、メンバーに語った。
 「華陽会員は、ありのままの姿で、お互いを尊敬しあっていきなさい。いかなることがあっても、同志を裏切らず、会員の模範として頑張りなさい」
 また、先生が関西華陽会のメンバーに、「リーダーと部員はどこが違うか、分かるかい?」と尋ねた後、次のように語った。
 「会合も、折伏も、教学も、部員もリーダーも、やることは変わらない。ただ一つだけ違うところがある。それは、リーダーは人を育てなければならないという点です。リーダーは人をどれだけ育てられるかが勝負です」
 池田先生は第3代会長に就任後も、水滸会の野外研修(千葉・犬吠埼〈60年〉、長野・霧ケ峰〈61年〉など)と、華陽会の野外研修(千葉・富津〈60年〉、長野・霧ケ峰〈61年〉など)を続けながら、青年への薫陶を重ねた。青年を育みながら、青年が青年と連帯し、広布の裾野を広げていく流れを開いていった。
 62年(同37年)11月、学会は300万世帯を突破した。池田先生は、先師・恩師の悲願だった“創価教育の城”の設立準備や、東洋学術研究所(現・東洋哲学研究所)の発足などに尽力し、人間文化の新たな潮流を広げながら、戸田先生の七回忌である64年(同39年)を迎えた。
 この年は、戸田先生が水滸会のメンバーに「10年後に、みんなそろって、またここへ集まろう」と語ってから10年後に当たっていた。
 同年7月18日、水滸会のメンバーは東京・氷川のキャンプ場に、華陽会の友は東京・梅沢のキャンプ場に集い、野外研修が開かれた。先生は両方の研修に出席し、後継の青年に励ましを送った。
 獄中でも青年の気概で学び続けた牧口先生は、青年をこよなく愛した。戸田先生もまた、青年を信じ、青年に広布の一切を託した。
 先師・恩師の心を深く知る池田先生もまた、青年の育成に身命を賭してきた。先生は、四半世紀にわたって執筆を続けた小説『新・人間革命』全30巻の締めくくりの場面で、水滸会での恩師の言葉をつづっている。
 「中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる」
 そして、こう続けた――。「さあ、共に出発しよう! 命ある限り戦おう! 第二の『七つの鐘』を高らかに打ち鳴らしながら、威風堂々と進むのだ」
 私たちは、本年スタートした第2の「七つの鐘」の「第四の鐘」(2029年まで)を進む。創価の青年の“対話の鐘”“希望の鐘”が鳴り響いている。

「華陽会」の野外研修で励ましを送る池田先生(1964年7月、東京・梅沢キャンプ場で)
「華陽会」の野外研修で励ましを送る池田先生(1964年7月、東京・梅沢キャンプ場で)
【池田華陽会への指導】
白蓮華のように気高き誓願を胸に、正義の前進を!
昇りゆく太陽とともに、悔いなき青春勝利の日々を!
(『華陽の誓い』まえがきから)

逆境を勝ち越えた英雄たち】第25回 チャールズ・チャップリン

2022年11月20日 | 妙法

ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】第25回 チャールズ・チャップリン2022年11月20日

イギリス・ロンドンのシンボルであるタワー・ブリッジ(1989年5月、池田大作先生撮影)。この街で生まれたチャップリンは、試練に負けず俳優の夢を実現し、人々の心に“平和の橋”“希望の橋”を架けた
イギリス・ロンドンのシンボルであるタワー・ブリッジ(1989年5月、池田大作先生撮影)。この街で生まれたチャップリンは、試練に負けず俳優の夢を実現し、人々の心に“平和の橋”“希望の橋”を架けた
<チャールズ・チャップリン>
宇宙にある力が地球を動かす。 
君の中にある力と同じだ。
それを使う勇気と意志を持つんだ。

 本年は、喜劇王チャールズ・チャップリンの没後45年。日本では今月、彼の代表作を一挙に紹介する映画祭が開幕した。

 上映作品の一つで、“チャップリンの映画人生の集大成”と呼ばれる「ライムライト」(1952年公開)。足が動かなくなって絶望するバレリーナを、彼扮する芸人が励ます場面がある。

 「君は戦おうとしない。たえず病気と死を考えている。死と同じく生も避けられない。生命だ、命だ。宇宙にある力が地球を動かし木を育てる。君の中にある力と同じだ。その力を使う勇気と意志を持つんだ」

 多くの作品を通して、人間の持つ偉大な可能性を訴えたチャップリン。彼のメッセージは混迷の現代社会を照らす灯となって、世界中に勇気と希望を送り続ける。

トレードマークのちょびひげに山高帽、ステッキを身に着けたキャラクター「チャーリー」に扮するチャップリン(1889―1977年)。国や世代を超えて愛されている(時事)
トレードマークのちょびひげに山高帽、ステッキを身に着けたキャラクター「チャーリー」に扮するチャップリン(1889―1977年)。国や世代を超えて愛されている(時事)

 1889年4月、チャップリンはイギリス・ロンドンで生まれた。両親は舞台で活躍していたが、父の酒癖の悪さが原因で翌年に離婚。兄と共に母の女手一つで育てられた。

 彼が5歳の時のこと。過労で喉に異変が生じていた母が、舞台上で声を出せなくなってしまう。場内に飛び交う罵声やヤジ。どうにか事態を収めようと、劇場の支配人は付き添いで来ていたチャップリン少年をステージに立たせた。

 緊張の中、チャップリンが当時の流行歌を歌うと、そのかわいらしさに観客は大喜び。予期せぬ形で実現した初舞台は、鮮烈な思い出として少年の記憶に刻まれた。

 結局、この日を境に母は職を失い、家族の生活は困窮を極めた。それでも、母はいつも明るく振る舞い、時にはパントマイムなどをして、子どもたちを楽しませた。

 それが「俳優になるという最終目標だけは、一度として見失わなかった」という彼の原動力となったのだろう。打ち続く経済苦や母の病などの苦境も、チャップリンはたくましい楽観主義で、その一つ一つを乗り越えていく。身なりは粗末でも、心には夢への情熱の炎が赤々と燃えていた。

 10代になると、自らを売り込みながら、さまざまな劇団を渡り歩くように。その中で類いまれな才能が磨かれ、やがてアメリカで舞台に立つチャンスが来た。この巡業が大成功を収め、映画界の目に留まった彼は、ハリウッドの会社にスカウトされ、1914年2月、24歳で銀幕デビュー。喜劇王の階段を駆け上がっていった。

<チャールズ・チャップリン>
お互いの不幸ではなく、幸せのために生きよう。
幸福を生み出せるのは、
あなた方、普通の人々なのです!

 チャップリンが生きたのは、2度の世界大戦が起きた激動の時代でもあった。

 軍靴の響きが高まる中、「笑いと涙とが、憎しみと恐れの解毒剤になることを信じて疑いません」と語る彼が発表した作品に「独裁者」(1940年公開)がある。

 映画の最終盤、ヒトラーを彷彿させる独裁者とうり二つのユダヤ人の“床屋”が、ひょんなことから間違えられ、代わりに群衆を前に演説することに――。

 「わたしたちは、お互いの不幸ではなく、お互いの幸せのために生きたいと思っています。憎んだり、軽べつしたりしたいのでありません。だれがこの地球の上に住んでも良いのです」

 「幸福を生み出す力をもっているのは、あなた方、普通の人々なのです! あなた方は、人生を自由で、美しくまたすばらしい冒険にあふれたものにする力を持っています」

ナチス・ドイツのヒトラーを痛烈に皮肉った映画「独裁者」。笑いを武器に戦争と戦った©Bettmann/Getty Images
ナチス・ドイツのヒトラーを痛烈に皮肉った映画「独裁者」。笑いを武器に戦争と戦った©Bettmann/Getty Images

 製作中から激しい妨害を受けながらも「独裁者」を完成させ、ユーモアを武器に平和と自由のために戦い抜いたチャップリン。だが戦後の冷戦期に入ると、アメリカに吹き荒れたマッカーシズム(共産主義者追放運動)の嵐に苦しめられる。長年、米国内で活動してきたにもかかわらず、自らを「世界市民」と位置付け、国籍はイギリスのままだったことから“赤”のレッテルが貼られ、国外追放されてしまったのだ(52年)。

 それでも、彼の偉大な功績が色あせることはなかった。54年、ベルリンで開かれた世界平和会議で国際平和賞を受賞。その後、英・オックスフォード大学の名誉博士号、フランスの国家勲章、パリ市の最高名誉市民の栄誉を受けた。

 さらにアメリカから再び認められ、追放から20年後に渡米。ハリウッドへの多大な貢献がたたえられ、アカデミー特別賞が贈られた。88歳の生涯で手がけた映画は80本以上。亡くなる2年前の75年には、英国王室からナイトの爵位が授けられている。 

映画「モダン・タイムス」の一場面。機械化による大量生産のために、人間性が脅かされることをコミカルに描いた©Hulton Archive/Getty Images
映画「モダン・タイムス」の一場面。機械化による大量生産のために、人間性が脅かされることをコミカルに描いた©Hulton Archive/Getty Images
<チャップリンを語る池田先生>
百千万億劫の功徳を、ともどもに
大輪の花と光り輝かせていくための、
今世の信心の闘争だ。だからこそ
何があっても、かの喜劇王のごとく
「明朗王」として進むのだ。

 池田先生も若き日から喜劇王に魅せられ、「青年時代に見た傑作の数々が忘れられない」と述べたことがある。そして折々にチャップリンの人生を通し、同志に励ましの言葉を語り、つづってきた。

1989年5月、ロンドン郊外のタプロー・コート総合文化センターで、メンバーに手品を披露する池田先生。滞在中には、チャップリンのものまねを行い、イギリス広布に駆ける同志を励ます一幕もあった
1989年5月、ロンドン郊外のタプロー・コート総合文化センターで、メンバーに手品を披露する池田先生。滞在中には、チャップリンのものまねを行い、イギリス広布に駆ける同志を励ます一幕もあった

 また彼の令孫で、俳優のキエラ・チャップリンさんとも交流がある。かつて届いた手紙には、こう記されていた。

 「私は、イギリスSGIの友人から、会長が最愛の祖父の言葉を通して、多くの人々を激励されていることを何度も伺いました。祖父の言葉を、会長のような方に語り継いでいただき、私にとって、これほど、喜ばしいことはありません」「祖父が知れば、とても誇りに思うと確信します」

 先生が特にチャップリンについてスピーチしたのは、1990年の年末から91年の年頭である。

 90年の暮れ、学会破壊を企てた第2次宗門事件が勃発。先生はチャップリンのものまねをして会場を沸かせ、宗門の独裁者を笑い飛ばした。

 91年1月6日の第37回本部幹部会では、次のように訴えている。

 「チャップリンはつねに語っていた。『生きることはすばらしい!』。そして『笑うことはすばらしい!』と。『笑うこと、人生におけるもっとも厳しい事態をも笑い、死すらも笑うことのなかには、健康なものがある。笑いは強壮剤であり、気晴らし、苦痛の放棄である。それは、この世でもっとも健康的なものである』――。

 何があろうと、笑いとばす強さ、朗らかさ、心のゆとり。そこに『生命の健康』がある、と。真剣と深刻とは違う。勇敢と悲壮とは違う。大勇の人は、明るい。確信の人は、冷静である。知性の人には笑顔の余裕がある。(中略)

 まさしく闊達な『笑い』こそは、不屈なる“心の勝者”の証である」

 さらに1月23日の第15回全国婦人部幹部会では、名作「街の灯」でチャップリン演じる放浪者が、同じ人間として、悩める大富豪を激励する場面を紹介しつつ、こう呼びかけている。

 「悩める人間がそこにいる。――チャップリンは、声をかけずにいられない。これこそ、『人間』である。そして、まさにわが学会の世界であり、仏法の世界である。(中略)

 また、大聖人が繰り返し強調しておられるように、御本尊の前には皆、平等である。いかなる差別もないし、あってはならない。ありのままの『人間』同士の、平等な、仏法の民主の世界なのである。

 だからこそ、チャップリンと同じく、世界の人々が学会に共感した。共感があったから、正法がこれほどまでに広がった。学会の前進が正しいがゆえに、仏法を信奉する人々が世界中に急増したのである」

 90年12月9日、池田先生は後継の青年部に万感の期待を語った。

 「信仰だけは、『強き信心』に生きぬけと申し上げたい。

 結局、最後に幸せになった人が得である。また、勝利した人が得である。途中のよしあしや楽しさに幻惑され、それと最終章の厳しき勝負とをはきちがえてはならない。このことを教えるのが真実の仏法である。百千万億劫の功徳を、ともどもに大輪の花と光り輝かせていくための、今世の信心の闘争なのである。ともあれ、いかに悲しく、また苦しいことがあっても、かの喜劇王チャップリンのごとく、『明朗王』として生きぬいていかれんことを」(第3回男子青年部幹部会・創価班、牙城会総会でのスピーチ)と。

 「青年・凱歌の年」へ、新たな広布の劇が始まった。その主人公は私たち一人一人である。

【引用・参考】G・サドゥール著『チャップリン』鈴木力衛・清水馨訳(岩波書店)、パム・ブラウン著『伝記 世界を変えた人々12 チャップリン』橘高弓枝訳(偕成社)、ラジ・サクラニー著『チャップリン』上田まさ子訳(佑学社)、大野裕之著『チャップリン再入門』(日本放送出版協会)、映画「ライムライト」チャールズ・チャップリン監督、映画「独裁者」同、ほか
【引用・参考】G・サドゥール著『チャップリン』鈴木力衛・清水馨訳(岩波書店)、パム・ブラウン著『伝記 世界を変えた人々12 チャップリン』橘高弓枝訳(偕成社)、ラジ・サクラニー著『チャップリン』上田まさ子訳(佑学社)、大野裕之著『チャップリン再入門』(日本放送出版協会)、映画「ライムライト」チャールズ・チャップリン監督、映画「独裁者」同、ほか

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第11回本部幹部会〉 原田会長のあいさつ(要旨)2022年11月19日

  • 友が増えれば、世界も未来も広がる

 一、「青年・飛躍の年」を見事に勝ち飾っての「第11回本部幹部会」の開催、誠におめでとうございます(拍手)。
 
 折伏・弘教、聖教新聞の購読推進、そして教学部任用試験と、この下半期も全てに勝利し、「11・18」を迎えることができました。全同志の皆さまに心より御礼申し上げます(拍手)。
 
 また、広布部員の申し込みにつきましては、コロナ禍の中、とりわけ地区部長・地区女性部長の皆さまに、多大なご尽力を賜りました。あらゆる戦いに陣頭指揮を執っていただきながらの推進に、深く深く感謝申し上げます。
 
 今月下旬からは、振り込みが開始されます。広布部員の皆さまには、どうか一切無事故で、福徳あふれる、すがすがしい財務となりますよう、よろしくお願い申し上げます。
 
 一、さて、明2023年は、テーマを「青年・凱歌の年」とすることが発表されました。
 
 明年で10周年となる広宣流布大誓堂の完成に当たり、池田先生は「師と弟子が 大誓願の 凱歌城」と詠まれました。わが地域に、勝利の歌声が響き渡る人材城を築きゆくことこそ、師弟共戦の証しにほかなりません。
 
 そこで明年は、「青年・凱歌の年」とのテーマのもと、青年を先頭に、一人一人が青年の心で、5・3「創価学会の日」を立正安国の凱歌、11・18「創価学会創立記念日」を広布拡大の凱歌をもって飾ってまいりたい。
 
 「青年」とは、「新たな出会いを求める人」の異名ともいえます。池田先生は、こう指導されています。
 
 「何歳になっても、新しい出会いを求め、友人をつくっていくことだ。友が増えれば、世界が広がる。未来が広がる」と。
 
 新たな友を増やし、世界を広げ、未来を広げるところに、自身の境涯が広がり、「年はわこうなり、福はかさなり候べし」(新1543・全1135)という生涯青春の大道が開けるのであります。
 
 コロナ禍によって、全世代を通じて他者とのコミュニケーションが激減し、孤独感がまん延する今こそ、「古き友人を大切にし、新しい友人をつくろう」を合言葉に、はつらつと新たな友情を求め、結んでいきたい。
 
 また、2023年は、池田先生による小説『人間革命』の完結、そして小説『新・人間革命』の起稿から30周年でもあります。
 
 先生は綴ってくださいました。
 
 「『人間革命』『新・人間革命』は、わが全宝友と分かち合う黄金の日記文書なり、との思いで、私は綴ってきた。ゆえにそれは、連載の完結をもって終わるものでは決してない。我らは、これからも、未来永遠に、師弟共戦の『誓願』という主題を貫徹しながら、自他共の生命に栄光凱歌の日記文書を厳然と刻みゆくのだ! 『人間革命 光あれ』と」
 
 師弟共戦の誓願とは、すなわち広宣流布であります。一人一人が折伏・弘教の実践を通して、「広宣流布」即「人間革命」の「わが栄光凱歌の日記文書」を、悔いなく綴っていきたい。

わが地域に師弟の凱歌城を

 一、本日は皆さまに、うれしいご報告があります。「常勝関西」の新たな拠点となる「関西池田記念大講堂」の基本構想がまとまりましたので、ここで発表させていただきます。
 
 はじめに建設地は、大阪城を間近に望み、交通の便もよく、古くから桜の名所として知られる、大関西の中心拠点にふさわしい、素晴らしい場所です。
 
 この関西池田記念大講堂は「関西方面本部」としての機能を備えた一大拠点となります。約5000人を収容できる大講堂を備え、「大法興隆所願成就」の関西本部常住御本尊が御安置されます。
 
 外観は、「常勝不敗の錦州城」にふさわしい質実剛健なデザインとしつつ、周辺の景観を踏まえて検討しました。
 
 敷地内には、大正時代から保存されてきた歴史的建造物と庭園があり、これらについては、その文化的価値を踏まえ、保存・再整備することとし、引き続き、地域・社会と共有できるよう、活用方法の検討を進めていきます。
 
 この関西池田記念大講堂の建設は、創立100周年への記念事業として進められ、「大阪の戦い」から70周年の節目となる2026年の秋に完成する予定です。
 
 関西の皆さん、大変におめでとうございます(拍手)。
 
 大講堂建設構想が発表された1995年7月3日、池田先生は詠まれました。「常勝の その名も名高き 関西は 世界一なる 凱歌の城かな」
 
 先生が関西の同志と共に「凱歌の城」を築かれたように、私たちもまた、「世界一」と誇れる師弟の凱歌城を、先生と共に、それぞれ、わが地域に築いていこうではありませんか(拍手)。

11・18「創価学会創立記念日」を祝賀する第11回本部幹部会。「広宣流布大誓堂」完成10周年となる明年へ、新たな飛躍を誓い合った(12日、巣鴨の東京戸田記念講堂で)
11・18「創価学会創立記念日」を祝賀する第11回本部幹部会。「広宣流布大誓堂」完成10周年となる明年へ、新たな飛躍を誓い合った(12日、巣鴨の東京戸田記念講堂で)

 一、今、弘教・拡大や任用試験、「SOKAユースフェスタ」などを通して、新たな人材が陸続と広布の本舞台に躍り出ています。この時に当たって確認し合いたいのは、会合は「手段」であり、会員一人一人の成長と幸福こそ「目的」である、という点であります。
 
 例えば現在、オンライン会合が普及した地域では、これまで仕事や育児などで会合に参加できなかった若いメンバーが、創価家族の輪の中で、広布の人材として生き生きと成長してきております。そうした方々は、多忙な中、オンラインだからこそ参加できているのであり、それを旧来の固定観念のまま、一律に大きな会合で集めようとしても、それは本末転倒、手段が目的となってしまいます。
 
 池田先生は、このようにご指導くださっています。「会合は手段です。それが会合をこなすだけの組織になっては本末転倒です。苦しんでいる人がいないか、行き詰まっているところはないか、サーチライトを当てて、探し出すのです。問題は必ずある。そこへただちに飛んでいって指導し、『励まし』を贈ることです」と。
 
 もちろん、重要な戦いの節目では大きな会合も必要です。しかし、どこまでも人材育成の基本は「一対一」。この一点を銘記し、全幹部が一人一人の激励へ歩きに歩いていきたい。
 
 さあ、明年の完全勝利へ向けて、青年の息吹で、草の根の友好拡大に、勢いよく飛び出していこうではありませんか(拍手)。

 

〈栄光の共戦譜〉第11回

2022年11月15日 | 妙法

〈栄光の共戦譜〉第11回 1970年(昭和45年)「革新の年」2022年11月15日

師弟の誓いを断じて果たす  

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第11回は、「革新の年」と銘打たれた1970年(昭和45年)を掲載する。

「5・3」750万世帯達成の本部総会
300万世帯達成が発表された本部幹部会で登壇する池田先生(1962年11月、東京体育館で)。この8年後に750万世帯を突破する
300万世帯達成が発表された本部幹部会で登壇する池田先生(1962年11月、東京体育館で)。この8年後に750万世帯を突破する

 池田先生の第3代会長就任10周年を刻む1970年(昭和45年)の1月28日、学会本部で開催された総務会で、会員750万世帯の達成が報告された。
 66年11月末、学会は600万世帯を成就し、69年5月3日、先生は翌年の5月3日までの指標として750万世帯を掲げた。
 70年に入り、「言論問題」によって、学会に対する理不尽な非難中傷の嵐が吹き荒れた。創価の師弟は逆境をはね返し、目標よりも3カ月以上も早く“拡大の金字塔”を打ち立てたのである。
 75万世帯の弘教という目標が発表されたのは、51年5月3日、戸田先生の第2代会長就任式だった。若き池田先生が広布の大波を起こす中、57年12月、師弟の誓願は成就する。
 60年5月3日、第3代会長に就任した池田先生は、恩師の遺言である300万世帯を誓いに立て、わずか2年後の62年に達成。
 750万世帯は、戸田先生が宿願とした75万世帯の10倍の勢力であり、日本一の大教団へと発展した学会の、「宗教界の王者」の証しにほかならなかった。
 70年4月2日、戸田先生の十三回忌大法要が営まれ、池田先生は亡き恩師に報告した――「先生! 広宣流布の流れは、遂に渓流より大河の流れとなりました」
 学会は「創業の時代」「建設の時代」から、いよいよ「完成期」に入ろうとしていた。5月3日の本部総会で、先生は同志に新たな広布観を示した。
 「広宣流布は、流れの到達点ではなく、流れそれ自体であり、生きた仏法の、社会への脈動なのであります」
 さらに、広布の基盤が盤石に整ったことから、「ブロック」組織への移行が発表された。紹介者と新入会者というつながりである従来の「タテ線」を基調にした組織から、現在につながる、地域を基盤とした「ヨコ線」へと活動の舞台が移ったのである。
 先生は、学会員が中心になって、地域社会に、人間と人間の、強い連帯のネットワークをつくり上げなければならないと考えていた。それこそが、現代の社会が抱える、人間の孤立化という課題を乗り越え、社会が人間の温もりを取り戻す要諦だと、先生は学会のみならず、社会全体の未来を見据えていた。
 創価の同志は、そうした師匠の思いに呼応し、使命の地域で平和と友情のネットワークを広げてきた。地域を照らす対話運動の社会的意義について、多くの識者も共感の声を寄せる時代となった。
 コロナ禍によって、社会的孤立の深刻化が懸念されている。人間と人間の“心の絆”を強めゆく創価の同志の実践は、輝きを増している。

「6・27」未来会を結成

 「学会がどうなるか、二十一世紀を見てください。社会に大きく貢献する人材が必ず陸続と育つでしょう。その時が、私の勝負です!」
 1970年(昭和45年)5月、学会を揶揄するような、意地の悪い質問も飛び交う記者会見の場で、池田先生は毅然と語った。「言論問題」の渦中だった。
 この障魔の嵐の中にあって先生は、“自分の手で、本物の人材を育てよう”と、6月27日に神奈川・箱根の研修所(当時)で、未来を担い立つ高・中等部、少年・少女部の代表と共に、野外での研修会を行った。
 集まった鳳雛たちに対し、先生は「民衆を守り、幸福にするために、みんな、しっかり勉強してほしい」と訴えた。さらに、将来、次代を担う文学者、科学者などが誕生しゆくことを望んだ。
 そして、学会の未来を託す後継者として、参加者によって「未来会」が発足。以後、全国各地で同会が結成されていった。師匠の手作りによって、広布のリーダーや、各分野で活躍する社会の第一人者が巣立っていったのである。

1979年1月、東北各地で未来会が結成され、青森の結成式は青森文化会館(当時)で行われた
1979年1月、東北各地で未来会が結成され、青森の結成式は青森文化会館(当時)で行われた

 師の未来部に対する期待に応え、“未来の宝”の成長を図るための取り組みとして、この年、小・中学生文化新聞(当時)主催で、第1回となる作文コンクールが行われた。
 11月29日、聖教新聞社で開催された授賞式の終了後、社内を見学する未来っ子たちのもとへ、先生が激励に訪れた。
 「あっ、池田先生だ!」
 皆の瞳が輝いた。先生は抱きかかえるように励ましを送り、作文コンクールの歴史に心温まるドラマが刻まれた。
 作文コンクール以降、読書感想文や絵画展もスタート。E―1グランプリも含め、各種コンクールは未来部の伝統となっている。
 先生は、未来部育成における地域の同志の使命を強調している。
 「『未来』を担い立つ子どもたち、青年たちのために、深き慈愛をもって道を創りゆく、創価家族の献身こそ、『仏の御心』を体現した姿にほかならない」
 創価家族の真心からの励ましこそ、“後継の宝”を育む、かけがえのない陽光である。

第4回の絵画展を池田先生ご夫妻が丹念に鑑賞。少年少女たちの力作をたたえた(1990年1月、横浜市の戸田平和記念館で)
第4回の絵画展を池田先生ご夫妻が丹念に鑑賞。少年少女たちの力作をたたえた(1990年1月、横浜市の戸田平和記念館で)
◆年表◆
1970年

 〈1月1日〉
 聖教新聞に詩「革新の響」を発表
  
 〈1月28日〉
 学会本部で総務会を開催
 学会世帯数750万世帯の達成を発表
  
 〈2月9日〉
 小説「人間革命」第6巻の聖教新聞連載を開始。体調が優れないため、口述をテープレコーダーに吹き込み、連載を続ける
  
 〈4月2日〉
 戸田先生の十三回忌大法要(静岡)
  
 〈5月3日〉
 第33回本部総会(東京)
 「広宣流布は流れの到達点ではなく流れそれ自体」であり、また「“妙法の大地に展開する大文化運動”である」と定義づける。
 言論の自由を守り抜くことを総意として確認し、創価学会と公明党の関係について、学会は支持団体であり、組織的には双方を明確に分離すると表明。
 さらに21世紀を展望し、人間が科学技術の奴隷となるのではなく、科学技術を使いこなしていく「人間の世紀」としなければならないと強調。創価学会は人間生命の開拓による新しい文化の母体として社会に貢献していきたいと方向性を述べた。
 また、従来の紹介者と新入会者とのつながりを基調とした組織(「タテ線」)から、地域を基盤としたブロック組織(「ヨコ線」)への移行等を発表。組織が整備され、「支部―地区―班―組」から「総ブロック―大ブロック―ブロック」などとなる
  
 〈6月27日〉
 高・中等部、少年部の野外研修で東京未来会第1期を結成
 民衆を守り、幸福にするために、しっかり勉強してほしいと語る(神奈川)
  
 〈8月31日〉
 関西指導(~9月3日。大阪、京都)
  
 〈9月13日〉
 富士合唱団の第1回定期演奏会(東京)
  
 〈10月8日〉
 ’70東京文化祭(東京)
  
 〈10月18日〉
 九州指導(~20日。福岡)
  
 〈11月2日〉
 創価学園の第1回鳳友祭(東京)
  
 〈11月3日〉
 第1回学術部総会に詩「熱原の三烈士」を贈る
  
 〈11月12日〉
 関西指導(~14日。大阪)
 ’70関西文化祭(12日)
  
 〈11月29日〉
 小学生文化新聞および中学生文化新聞主催の第1回作文コンクール授賞式の出席者を激励(東京)
  
 〈12月6日〉
 第19回男子部総会に詩「青年の譜」を贈る
  
 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載