インタビュー アルピニスト・野口健さん――自然と人間を守る2021年8月9日
- 企画連載 私がつくる平和の文化Ⅲ 第8回
「私がつくる平和の文化Ⅲ」の第8回は、アルピニスト(登山家)の野口健さんです。登山だけでなく、山の清掃活動や子どもたちへの環境教育、さらに被災地支援などを行う野口さんに、現場に身を置くことの大切さや、より良い社会を築く鍵などについて聞きました。(取材=木﨑哲郎、歌橋智也)
――野口さんは1999年、25歳でエベレスト登頂に成功し、当時の7大陸最高峰の世界最年少登頂記録を樹立しました。
エベレストの頂上は、卓球台二つ分くらいの広さです。遮るものがないので日差しが強く、北はチベットの平らな高原、南は何重にも連なるインドの山脈。壮大な眺めでした。青春の夢がついに現実となった瞬間でした。
僕はアメリカで生まれ、外交官だった父のもと、幼少時代からサウジアラビア、日本、エジプト、イギリスと各国を転々としました。なかなか勉強に集中できず、荒んだ生活を送るようになり、何とか進学した高校では、けんかをして停学になる始末でした。
そんなある日、書店で偶然、手にしたのが、登山家である植村直己さんの『青春を山に賭けて』という本でした。落ちこぼれで自信のなかった植村さんが登山を通して自分の価値を見いだしていく。その内容に感動し、「自分も山に登りたい」と志を立てたのです。
その後、富士山をはじめ国内の山々を登り、17歳の時、アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロを登頂。この時、「世界7大陸の全ての最高峰に立つ」との夢を抱き、挑戦を始めたのです。
――野口さんは登山活動のかたわら、シェルパ(ヒマラヤに住む民族で、登山隊の荷揚げ・案内人)の支援に力を注がれています。
幼い頃、父に世界各地へ連れていってもらいました。ただそれは普通の家族旅行とは異なるものでした。例えばエジプトに行った時は、観光地として誰もが行くようなピラミッドではなく、カイロ郊外のスラム街を訪れるのです。
父は言いました。「世の中にはレコードのようにA面とB面がある。A面は、放っておいても目に見える。でもB面は、あえて行かなければ見えない。世の中の大事なテーマはB面にあるんだよ」
ヒマラヤ登山におけるB面が、まさにシェルパの存在でした。登山家が登頂に成功しても、それを命懸けで支えるシェルパに光が当たることはありません。事実、その陰で数多くのシェルパが事故などで命を落としています。
1995年、ヒマラヤで雪崩が発生し、13人の日本人が亡くなるという痛ましい事故が発生しました。この時、私の友人を含む多くのシェルパも犠牲になったのですが、日本で報道されたのは、日本人の登山者とその家族ばかり。シェルパが取り上げられることは、ほとんどありませんでした(=その後、野口さんの尽力で一部メディアで報道された)。
シェルパの生活は貧しく、生計を立てるために、危険を冒してでも山に登らざるを得ない。不慮の事故で亡くなった場合、残された家族はどうなるのか。僕にとっては見過ごせない問題でした。
そこで2001年に「シェルパ基金」を立ち上げ、遺族の子どもたちへの教育援助を始めたのです。世界中の登山家が賛同し、寄付をしてくれました。
ある遺族の少年は、この基金で学校に通い続けることができ、後年、日本へ留学。その時、わざわざ僕に会いに来てくれたのです。「今の自分があるのは、野口さんや日本の人たちのサポートのおかげです。心から感謝しています」と日本語で話してくれました。本当にうれしかった。今でも忘れることはできません。
――感動的なお話です。野口さんは、エベレストや富士山の清掃活動にも尽力してこられました。
実をいうと、最初から環境問題に関心があったわけではないんです。きっかけは「見てしまった」ことなんです。エベレストに登るたびに、ごみが目について仕方がなかった。日本語が書かれたごみもたくさんあり、ひとごとではありませんでした。海外の登山家からも「日本人はだらしない」「ヒマラヤをマウント・フジのようにするな」などと言われ、悔しい思いをしていました。それを見返すために清掃活動を始めたのです。
ただ、富士山については最初、ピンと来ませんでした。当時の僕はまだ、雪で覆われた富士山しか登ったことがなく、富士山が汚いなんて、思いもよらなかったのです。それで、夏に登ってみるとごみだらけ。青木ケ原樹海なんて、不法投棄されたタイヤの墓場でした。注射器などの医療廃棄物もあり、異臭が漂っていました。
そこで、2000年から富士山清掃活動を開始しました。当初はやってもやっても、ごみは減らなかったのですが、協力者の増加とともに4年目あたりから減り始め、今では、5合目から上は、ほとんどごみはなくなりました。
「現場を見る」ってすごく大事で、自分の目で見て、知ってしまうと、人って「自分にも何かできないか」と思うものです。どこか気持ちの中で「背負う」んでしょうね。そこから「じゃあ、ごみを拾おう」となる。私の活動の原動力も、そこにあります。
――教育を受けられない子どものために学校を建設する活動も継続されています。08年には「マナスル基金」を設立し、ネパールのサマ村に学校をつくりました。
マナスル山麓のサマ村は標高3600メートルほどの高地にあり、首都カトマンズから歩いて10日ほどの場所にあります。今も村人は自給自足の生活を送っています。
ある時、村の子どもたちに「みんなの夢は何?」って聞いてみたんです。すると皆、キョトンとしている。通訳のシェルパが「そんな質問、むだだよ。この村に夢なんて概念はないから」というのです。当時、村には電気もテレビもなく、大半の村人は外の世界を知らない。ヤクを放牧して芋を栽培する。それが全てだったんです。
子どもは、自ずと夢を持つもの――その認識が正しくないことに気付かされました。僕自身、植村さんの本のおかげで登山家になることができた。本を読み、教育を受けることは、本当に大事なんですね。それで、寄付を募って村に学校をつくったんです。日本で使われなくなったランドセルを集め、プレゼントもしました。
ひとたび学校ができると、村の雰囲気はガラッと変わり、明るくなりました。村外からもたくさんの子どもが学びに来ています。数年後に訪れた時、もう一度、子どもたちに夢を聞いてみたんです。すると、「学校の先生になりたい!」「ヘリコプターのパイロットになりたい!」と、楽しそうに答えてくれたのです。すごいと思いました。人は教育によって可能性を大きく開くことができるんだと、改めて実感しました。
――日本では子どもたちへの環境教育にも力を入れていますね。
子どもの成長に大きな影響を与えるものに「体験」があると思っています。体験に勝るものはありません。何か忘れられないような体験をすれば、子どもたちは行動を起こします。
小笠原諸島で、こんなことがありました。東京から南へ約1000キロに位置するこの島では、島民が乗らなくなった多くの車が不当に廃棄されていました。車を処分するには、船に乗せて内地まで運ばないといけません。お金がかかるのでナンバープレートだけ外して山の中に捨ててしまうんです。私有地に捨てられたごみは地主が対処することになっており、行政も手を付けませんでした。
そこで、私が主宰する環境学校で学んだ島の子どもたちが「あの車を片付けたい」と、自ら立ち上がりました。手書きでポスターを作り、島にある数少ない信号機の前で街頭演説みたいなことを始めたのです。その熱意が島民の心に届き、最後は行政も動かし、車の撤去作業が始められたのです。
子どもたちが地域や世界に目を開き、行動を起こすきっかけをつくるのは大人の大事な役目です。子どもは自ら体験をすると、それに興味を持ち、もっと知りたい、もっと探究したいとなる。これが本来の学びにつながるのです。
――現在、気候変動や自然災害など、さまざまな課題があります。地球社会を守るために大事なことは何でしょうか。
地球温暖化は、登山家としても肌身で実感しています。氷河がものすごい勢いで溶けていて、ヒマラヤの川の水量は増えるばかりです。エベレストのふもとのイムジャ湖という氷河湖も、いつ決壊してもおかしくない状況です。洪水が起きてしまえば、周辺の村は水没してしまうでしょう。何とか食い止めなければいけません。
振り返れば、富士山の清掃も当初は多くの人に批判されました。自分が拾うごみより、捨てられるごみの方が圧倒的に多かった。でも、清掃活動への参加者は年々増え、今では「ごみがないじゃないか」と文句を言われるほどです。
物事の変化は、じわじわと進んでいくものです。5歩進んだと思ったら、4歩下がってしまう時もある。でも「0」にはならない。最初の一歩は残っています。それを足掛かりに、次の一歩を踏み出す。そうやって「続ける」中で、大きな変化になっていくのです。僕はこれからも、自分にできることをコツコツとやり続けていきます。そうやって皆ができることをやり、協力していけば、きっとすごい力が生まれると信じています。
<プロフィル> のぐち・けん 1973年、米ボストン生まれ。亜細亜大卒。99年、25歳で7大陸最高峰の世界最年少登頂記録(当時)を樹立。富士山清掃活動をはじめ、シェルパ基金設立、被災地支援などを行う。著書多数。
「環境」を大切にすることは、「生命」を大切にすることであり、「未来」を大切にすることである。
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豊かな森林も、一本の木の苗から始まる。滔々たる大河も、一滴の水から始まる。よりよい社会の建設も、一人の人間から始まるのだ。
(池田先生のエッセー集『未来への選択』から)