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対談集『21世紀への対話』に学ぶ㊤

2020年08月30日 | 妙法

人間主義の哲学の視座〉 第2回 対談集『21世紀への対話』に学ぶ㊤ 〈人間主義の哲学の〉  2020年8月30日

  • テーマ 利他

 危機の時代に求められる哲理を、池田先生の著作から学ぶ「人間主義の哲学の視座」。第2回は、20世紀最大の歴史家であるイギリスのアーノルド・J・トインビー博士との対談集『21世紀への対話』をひもとく。前回(8月15日付、ロートブラット博士との対談集)に引き続き、「利他」をテーマに学ぶ。
 

 

対談の最終日に、近くのホーランド公園を散策する池田先生とトインビー博士(1972年5月9日)
対談の最終日に、近くのホーランド公園を散策する池田先生とトインビー博士(1972年5月9日)
 
【池田先生】利己性や欲望を克服するためには どうしても宗教が必要になってくる
 
かくせんそうと「成長のげんかい

 池田先生とトインビー博士の対談がロンドンの博士の自宅で行われたのは、1972年と73年。語らいは延べ10日間、計40時間にも及んだ。
 当時、ベトナム戦争は泥沼化の様相を呈し、人類は依然、東西両陣営による核戦争の危機にさらされていた。
 人口増加と経済成長による地球環境の汚染と破壊も深刻の度を増し、72年に発刊されたローマクラブのリポート『成長の限界』では、100年以内に地球が成長の限界に達するとの予測が示され、世界に衝撃を与えていた。
 多くの識者が悲観的な人類絶滅論を唱える中で、二人は人類が自らの選択で未来を切り開く可能性に言及する。
 
 
 トインビー 今日の状況はたしかに未曽有のものです。かつて人類は、人間の力ではどうにもならない自然の力によって、幾度か絶滅の脅威にさらされてきました。しかし、人類が、自分自身で行ったこと、ないしは行い損なったことによって、直接その未来が決せられることを知ったのは、今度が初めてなわけです。
 
 池田 今日の人類絶滅論が内包している終末観は、人間自身のもつ力に対する認識にかかわるものです。すでに現代人は、科学を武器として、地球全体さえ動かしかねない力をもっています。この力によって自分がつくった文明に裏切られ、まさにその文明によって死に追いつめられているという、想像だにしなかった事態に、現代人は当面しているわけです。
 かつての終末論には、自然災害によって物質的な貧困に追い込まれ、死に絶える、という思想がありました。ところが、現代の人類絶滅論は、人口や食糧の問題もありますが、それよりも、物質的な豊かさのなかに死に絶えていくのではないかという恐怖をはらんでいます。
 
 トインビー まさにおっしゃる通りです。しかしながら、人類の生存を脅かしている現代の諸悪に対して、われわれは敗北主義的あるいは受動的であってはならず、また超然と無関心を決めこんでいてもなりません。
 これらの諸悪が、もしも人間に制御できない力から生じたものであったなら、たしかに現代の人間に残された道は、諦観や屈服だけしかないかもしれません。しかし、現代の諸悪は人間自身が招いたものであり、したがって、人間が自ら克服しなければならないものなのです。

 
 
 発刊から45年となる対談集『21世紀への対話』は、これまで29言語で出版され、世界で広く読み継がれている。
 なぜ世界の知性が、この対談集にヒントを求めるのか。
 その一つに、危機と人類について、根源的かつ普遍的な次元から、議論を交わしていることが挙げられる。
 

 

イギリス・ロンドンにある自宅の書斎で机に向かうトインビー博士
イギリス・ロンドンにある自宅の書斎で机に向かうトインビー博士
 
文明それ自体のてんかん

 トインビー博士から対談を要請するエアメールが届いたのは、69年秋。
 「現在、人類が直面している諸問題に関して、二人で有意義に意見交換できれば幸いです」「私たちの対話が実現すれば、英日両国のみならず、人類全体の未来に、きっと恩恵をもたらすものとなるでしょう」
 この69年、博士は4月に満80歳の誕生日を迎えるとともに『回想録』を出版。その中で、生ある限り、人類の未来に思いを馳せること、次の世代の運命に関わりを持つことが自身の責任であると強調している。そこに、生涯にわたる若さの源泉があるとも述べた。
 
 
 池田 もし人間が英知を働かせて全力を尽くすならば、私は、地球の汚染を進めてきた文明それ自体の本質的な転換も可能になるものと信じます。また核兵器を永久に使用しないですむ道も、必ずや開けるはずです。しかし、人間が英知を曇らせ、欲望とエゴイズムの虜となり、そこからくる空しさをいだき続けるかぎり、人類絶滅論を取り払うことはいつまでもできないでしょう。
 
 トインビー われわれが当面する人為的な諸悪は、人間の貪欲性と侵略性に起因するものであり、いずれも自己中心性から発するものです。したがって、これらの諸悪を退治する道は、自己中心性を克服していくなかに見いだせるはずです。
 経験の教えるところによれば、自己中心性の克服は、困難で苦痛をともなう課題です。しかし、同じく経験のうえからいえば、人類のなかにはすでにこの目標を達成した人々も何人かいるのです。もちろん、彼らも完全にはできませんでしたが、それでも彼ら自身の生き方を大きく変革しましたし、さらにそうした彼らの実例に啓発された人々の行動をも変革するに至っています。

 
 
 「文明はそれ自体の力だけではなく、高等宗教の力に頼ることによって初めて救われる」と結論するトインビー博士にとって、宗教は最重要の課題であった。人類の生存を深刻に脅かす諸悪と対決し、克服する力を大乗仏教に見いだし、それゆえ、急速に発展していた学会に、“生きた仏教”として深い関心を抱いていたのである。
 
 
 トインビー 今日の状況はたしかに危機的ですが、しかし私の信ずるところでは、われわれのもつ自由も、人為的な諸悪を退治するに足る、十分大きなものです。とはいっても、この自由も絶対的なものではありません。われわれは自らの宿命を向上させることはできても、宿命自体を捨て去ることはできないからです。
 
 池田 つまるところ、問題は人間が自分自身の宿命をいかに転換し、向上させていくかにあるわけです。これには、人間生命に内在する利己性や種々の欲望にどのように対処するか、ということが含まれるでしょう。このことからも、人類が生き延びるためには、科学とともに、どうしても宗教が必要であることが明らかになってくると思います。
 
 ◇ 
 
 池田 そして、その宗教とは、一人の人間生命は地球よりも重く、しかもこの生命の尊厳は、自然との調和によってはじめて維持できるという原理を、一人一人に実感させることができる宗教でなければならないと思います。
 
 トインビー その通りです。人類の生存に対する現代の脅威は、人間一人一人の心の中の革命的な変革によってのみ、取り除くことができるものです。そして、この心の変革も、困難な新しい理想を実践に移すに必要な意志の力を生み出すためには、どうしても宗教によって啓発されたものでなければならないのです。

 

 

対談者のプロフィル

 アーノルド・J・トインビー イギリスの歴史家。1889年4月14日、ロンドン生まれ。オックスフォード大学卒業。ロンドン大学教授、王立国際問題研究所研究部長などを歴任。西欧中心ではない独自の歴史観で文明の興亡の法則を体系化。「20世紀最大の歴史家」と称される。30年かけて書き上げた『歴史の研究』は不朽の名著として名高い。ほかに『試練に立つ文明』など著書多数。池田先生との対談は『21世紀への対話』(英語版タイトル『CHOOSE LIFE』〈生への選択〉)として発刊された。


本部幹部会への池田先生のメッセージ 2020年8月27日

2020年08月27日 | 妙法

本部幹部会への池田先生のメッセージ 本部幹部会への池田先生のメッセージ 2020年8月27日

2007年8月の本部幹部会でスピーチする池田先生(八王子市の東京牧口記念会館で)
2007年8月の本部幹部会でスピーチする池田先生(八王子市の東京牧口記念会館で)
 
我らは「だいほうつう」のせいがんで結ばれた家族

 一、初めて「広宣流布大誓堂」を会場とする本部幹部会の開催、おめでとうございます。
 「霊山一会、儼然として未だ散らず」(「霊山一会儼然未散」<御書757ページ>)――この仰せさながら、「大法弘通慈折広宣流布」の大願で結ばれた我ら創価家族の集いは、なんと壮大にして、なんと自在な会座でしょうか!
 
 なかんずく従藍而青の青年部の勇気光る成長と前進を、初代・牧口常三郎先生と二代・戸田城聖先生も、うなずき合って見守っておられることでしょう。

 

後継の青年を先頭に希望の新出発――広宣流布大誓堂の「三代会長記念会議場」で開かれた本部幹部会
後継の青年を先頭に希望の新出発――広宣流布大誓堂の「三代会長記念会議場」で開かれた本部幹部会
 

 一、創立満90年の秋を前に、今再び、命に刻みたい師弟の原点があります。
 それは第2次世界大戦の渦中にあった1944年の11月、先師・牧口先生の「死身弘法」の殉教と時を同じくして、恩師・戸田先生が「不惜身命」の獄中闘争を貫き、「われ地涌の菩薩なり」と悟達された事実であります。
 
 この荘厳なる生死不二の師弟の一念によって呼び出された地涌の菩薩の陣列こそ、創価学会にほかなりません。
 学会員の一人一人が久遠元初からの「広宣流布」「立正安国」の誓願を抱き、この世の悲惨と不幸をなくすため、大変な時に大変な場所を自ら願い求めて、地よりか涌きたる菩薩なのであります。

 

りきゆうは宇宙大

 一、妙法を唱え弘めゆく地涌の菩薩が、どれほど無限の力を持っているのか。
 御本仏・日蓮大聖人は「生死一大事血脈抄」等の諸御抄で、地涌の菩薩は大宇宙に満ちあふれる本源的な慈悲の力用を発揮して、必ずや全民衆と地球社会を救い切っていけると、大きく五つの次元から示してくださっております。
 
 すなわち、地涌の菩薩は妙法蓮華経の五字の力を体現して――
 
 第一に、火が物を燃やして熱と光をもたらす如く、苦しみや悩みを燃焼させて幸福前進の智慧に変え、生老病死の闇を常楽我浄の光明で照らし晴らせる。
 
 第二に、水がもろもろの穢れを浄める如く、宿業の垢も時代の濁りも浄化できる。
 
 第三に、風が塵や埃を払うが如く、一切の障魔を打ち払うとともに、人々の魂に生き生きと活力を吹き込むことができる。
 
 第四に、大地が草木を生み育む如く、揺るがぬ境涯で命を慈しみ、桜梅桃李の平和と共生と安心・安定の社会を築いていける。
 
 第五に、天が万物に慈雨を注ぐ如く、生命を平等に潤し蘇生させてゆく価値創造ができる。
 
 大聖人は、まさに宇宙大のスケールで励ましてくださっているのであります。
 
 初代・二代に連なる三代の私は、信ずる正義・共戦の師子たちと自行化他の題目を唱え抜き、この妙法の尽きることのない大功力を涌現して、あらゆる三障四魔を勝ち越え、世界広宣流布の大道を創り開いてきました。

 

遠大な広布の旅へ希望の出発 ふうどうどうと「き友」のスクラム広げ

 一、創立90周年から100周年への10年は、一人一人が「人間革命」の勝利の実証をいやまして打ち立て、いかなる「大悪」も「大善」に転じて、いよいよ人類の「宿命転換」を、断固として成し遂げていくべき勝負の時であります。
 来る「世界青年部総会」は、その遠大な師弟旅の希望の出発であります。
 
 さあ、愛する若き創価の世界市民を先頭に、皆が地涌の大生命力を出して、善き友のスクラムを広げながら、師弟の誓いを威風堂々と果たし切っていこう!
 かけがえのない、わが宝の同志に一人ももれなく健康あれ、安穏あれ、幸福あれ、和楽あれ、栄光あれ!と祈りに祈って、私のメッセージといたします(大拍手)。


師弟凱歌の記憶 特別編「広布の言論戦へ 嵐の船出」

2020年08月24日 | 妙法

第3代会長就任60周年記念 師弟凱歌の記憶 特別編「広布の言論戦へ 嵐の船出」 2020年8月24日

  • 「聖教創刊原点の日」70年
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 8・24「聖教新聞創刊原点の日」満70年を記念し、「師弟凱歌の記憶」特別編として、本紙の創刊と発展を巡る師弟のドラマを追う。

 

「無冠」1969年(昭和44年)新年号に池田先生が寄せた詩「無冠の友よ」の自筆原稿(冒頭部分)。「おお 誇り高き 無冠の友よ/静寂の朝――/暁天をあおぎ 広布の便りを/携えて走る。今日も、明日も。/君等こそ、如来の使いの姿であり/真実の 民衆の王者だ。」
「無冠」1969年(昭和44年)新年号に池田先生が寄せた詩「無冠の友よ」の自筆原稿(冒頭部分)。「おお 誇り高き 無冠の友よ/静寂の朝――/暁天をあおぎ 広布の便りを/携えて走る。今日も、明日も。/君等こそ、如来の使いの姿であり/真実の 民衆の王者だ。」
 

 晴れの日も雨の日も、本紙を配達してくださる「無冠の友」の軽やかな足音とともに朝が明ける。
 
 “希望の頼り”を届ける尊き同志への尽きせぬ感謝を、池田先生はこう述べている。
 
 「私も妻も、毎朝、新聞が届けられる時間になると、よく二人で合掌して感謝している。『今ごろ、新聞が届いたかもしれないね。ありがとう』と。また、新聞を手に取るときも、『配達をされる無冠の友の皆さま、ありがとう』と。いつもそういう思いでいる」
 
 師と同志の祈りと努力によって、2万560号の歴史を紡いできた聖教新聞。今や「聖教電子版」を通じて、205カ国・地域で日々、同時に読まれる時代となった。
 
 池田先生はつづる。
 
 「恩師・戸田先生も、『大作、「日本中、世界中の人が読む聖教にしよう」と語り合った通りになったな』と、呵々大笑されているに違いない」

 

南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃のために戦ったネルソン・マンデラ氏を歓迎する池田先生(1990年10月、旧・聖教新聞本社で)。先生は聖教を舞台に、世界の指導者と平和への語らいを繰り広げてきた
南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)撤廃のために戦ったネルソン・マンデラ氏を歓迎する池田先生(1990年10月、旧・聖教新聞本社で)。先生は聖教を舞台に、世界の指導者と平和への語らいを繰り広げてきた
嵐の中で恩師が弟子にたくした創刊構想

 広宣流布のための機関紙を持つ構想は、創価の師弟が大試練の渦中にある時に生まれた。
 
 1950年(昭和25年)8月24日、戸田先生は東京・虎ノ門の喫茶店で、ある新聞記者と向き合っていた。その傍らには、22歳の池田先生がいた。折からの経済不況で、経営する信用組合の破綻が決定的になった。その噂を察知した記者が、スクープを物にしようと近づいてきたのである。
 
 この前日、池田先生は、訪ねてきた記者と会っていた。先生は訴えた。
 
 ――もとより、戸田先生は逃げも隠れもしない。だがいい加減なことを書かれてしまえば混乱し、清算事務も危機に陥ってしまう。
 
 理を尽くし、誠実に、長時間にわたって事情を説明した。また、敬愛する師の人間像についても語った。そして、翌24日、戸田先生を交えて会見することを約束したのだ。
 
 戸田先生は、悠然と記者に対した。事態打開の道筋を語り、必ず社会的な責任を果たすことを言明。無用な混乱を招かぬ為に、報道はしばらく控えてほしいと、率直に伝えた。
 
 記者は、困惑しながらも、意を決するように言った。「わかった。よし、待ちましょう……」。社会不安をあおるような記事が出ることはなかった。

 

 その帰り道、戸田先生は、歩きながら池田先生に言った。「これからは“文”の戦いだ」「一つの新聞をもっているということは、実に、すごい力をもつことだ。学会も、いつか、なるべく早い機会に新聞をもたなければならない。大作、よく考えておいてくれ」
 
 この日夜、戸田先生は、事業のことが波及しないよう考慮し、学会の理事長辞任の意向を発表した。
 
 池田先生は、この日で入信満3年。棘の道を進む中で、師の言葉を余さず生命に刻んだ。
 
 この8月24日が、後に「聖教新聞創刊原点の日」として輝く、歴史的な一歩となる。

 

せい鶴見にえんじょう」のかげにあった闘争
戸田先生と池田先生の師弟の語らいによって生まれた聖教新聞。創刊号には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍った(小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)
戸田先生と池田先生の師弟の語らいによって生まれた聖教新聞。創刊号には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍った(小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)
 

 いざ事業が危機に陥ると、多くの人々が戸田先生のもとを去っていった。池田先生は、ただ一人になろうとも、活路を開くために戦い抜くと誓っていた。
 
 先生は、その決意を一首の歌に託して、戸田先生に贈った。
 
 「古の
   奇しき縁に
     仕へしを
   人は変れど
     われは変らじ」
 
 苦境の時代、池田先生が仕事で毎日のように訪れた地がある。神奈川の横浜市鶴見区だ。
 
 草創の広布を開いた柱の一つ「鶴見支部」の拠点もあった。先生は激務の間隙を縫うように、愛する同志を励ましていった。
 
 病床に伏す壮年の手を取って「苦難が多ければ多いほど、幸せも多いです」と御本尊への確信を語る一方、継ぎはぎだらけの“もんぺ”をまとった女性たちには“この信心で、貴婦人になっていきましょう”と明るく声を掛けた。
 
 誰もが貧しく、皆、生活闘争に真剣だった。
 
 先生自身、冬でもコートがなく、レインコートを着て鶴見に来ていた――ある友は、そんな様子を記録している。恩師の仕事の重責を担いつつ、広布開拓に死力を尽くす闘争が、同志の心に火を付けた。
 
 そんな秋霜烈日の50年(同25年)12月、東京・新橋駅近くの食堂で、戸田先生は再び池田先生に言った。「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
 
 その2カ月後には、「いよいよ新聞を出そう。私が社長で、君は副社長になれ。勇ましくやろうじゃないか!」と――。

 

「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を期す」
 

 寒い冬を越えた51年(同26年)3月11日、複雑な手続きなどを全て処理し、戸田先生の信用組合は正式に解散。嵐の中に一筋の光が差し込んだ。
 
 相前後して、恩師のもとに池田先生らが集まり、機関紙発刊への企画会や打ち合わせが何度も開かれる。
 
 紙名を検討した際には、「文化新聞」「創価新聞」「世界新聞」、さらには「宇宙新聞」の案が出され、最終的に「聖教新聞」の名称が決まった。
 
 先生は、日記に記した。
 
 「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を心に期す。広宣流布への火蓋は遂にきられた。決戦に挑む態勢は準備完了」(3月17日)
 
 同年4月20日、待望の聖教新聞が創刊された。旬刊(10日に一度の発行)2ページ建て。発行部数は5000部だった。
 
 創刊号1面のトップ記事は、「信念とは何ぞや?」と題する戸田先生の論文。下段にもまた、戸田先生の小説『人間革命』が掲載された。
 
 2面には「聖火鶴見に炎上」の見出しが躍り、折伏・弘教をリードする鶴見支部の奮闘が紹介された。その記事に、池田先生の名は出てこない。しかし躍進の陰に、先生の激闘があったことを、支部の誰もが知っていた。

 

広布の伸展しんてんと共に
創刊まもない聖教新聞の編集室があった東京・新宿区の市ケ谷ビル(右端、小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)。戸田先生と池田先生がしばしば訪れた「市谷食堂」が近くにあった
創刊まもない聖教新聞の編集室があった東京・新宿区の市ケ谷ビル(右端、小説「新・人間革命」の挿絵から。内田健一郎画)。戸田先生と池田先生がしばしば訪れた「市谷食堂」が近くにあった
 

 5月3日、戸田先生が学会の第2代会長に就任。同月末、聖教新聞の編集室は新宿・百人町から、市ケ谷駅近くのビルに移転する。
 
 机を二つ並べれば埋まるような狭い部屋。取材のためのカメラは旧式のものが1台あるだけ――そんな小さな一室で生まれた新聞が広布の原動力になった。
 
 戸田先生自ら、「寸鉄」などに筆を振るった。
 
 池田先生も書いた。人物紹介の記事。偉人に学ぶ啓発的な記事……。
 
 2年後には週刊に。さらに4ページ、6ページ、8ページ建てと紙面を増やし、広布の伸展と共に、聖教新聞も発展の一途をたどったのである。
 
 池田先生が第3代会長に就任すると、そのスピードは加速。5000部で始まった聖教新聞は、創刊わずか10年後には100万部を超えている。

 5月3日、戸田先生が学会の第2代会長に就任。同月末、聖教新聞の編集室は新宿・百人町から、市ケ谷駅近くのビルに移転する。
 
 
 池田先生が第3代会長に就任すると、そのスピードは加速。5000部で始まった聖教新聞は、創刊わずか10年後には100万部を超えている。

「一万号 ついに登れり 聖教山 万歳」――1990年(平成2年)7月19日付で本紙が1万号を迎えた際に池田先生が贈った句。「聖教の皆様 本当に御苦労様です。 合掌」との言葉と共に
「一万号 ついに登れり 聖教山 万歳」――1990年(平成2年)7月19日付で本紙が1万号を迎えた際に池田先生が贈った句。「聖教の皆様 本当に御苦労様です。 合掌」との言葉と共に
 

 聖教新聞は、わが愛する同志への手紙――池田先生はこの思いで、小説『人間革命』などの原稿執筆に当たりつつ、全てのスタッフ、関係者に厳愛の指導、励ましを送り続けてきた。
 
 広告、印刷、輸送、さらには通信員、販売店、無冠の友(配達員)などへの、先生のこまやかな激励が絶えることはなかった。
 
 新聞は「総合力」の結晶である。執筆から印刷、そして配達まで、膨大な作業が日々続く。誰一人として欠けても、読者には届かない。その厳しい事実を先生は熟知していた。
 
 家計を支えるため、小学6年次から3年間、新聞配達をした。
 
 終戦直後、18歳の頃には印刷会社に身を置いた。営業に回って受注を取り、印刷現場では活字を一字一字拾って、刷り上がりの校正作業まで携わったという。
 
 49年(同24年)1月からは戸田先生が経営する日本正学館の一員となり、少年雑誌『冒険少年』『少年日本』の若き編集長として奮闘。作家や挿絵画家のもとに足を運び、締め切りと格闘した。時には、「山本伸一郎」のペンネームで少年少女のために自ら健筆を振るった。
 
 活字メディアで発信する責任の大きさも、目立たぬ陰の辛苦も、先生自身が、ひしひしと体感してきたことである。

 

 
民衆城を守る“武器”として

 聖教新聞は、民衆に勇気と希望を送る「人間の機関紙」である。一方で、民衆を虐げる言動とは断固戦う“武器”とも“弾丸”ともなる。
 
 1981年(昭和56年)12月、先生は大分へ。約300人の友と、竹田市の岡城址で記念撮影を行った。大分は、宗門僧が謀略の限りを尽くした第1次宗門事件の震源地の一つであり、最も苦しんだ地域の一つが竹田だった。
 
 池田先生は撮影後、熊本に向かう車中で提案した。“写真は、できるだけ大きく! 2面から3面にわたって掲載しよう。写真が真ん中で切れてもいい”――その言葉に、紙面のレイアウトを担当する記者は驚いた。
 
 12月14日付の本紙。2ページにまたがる特大の記念写真が紙面に掲載され、感激が広がった。
 
 宗門僧の過酷な非難・中傷に耐え抜き、戦い、勝利した仏子たちを、庶民の英雄たちを、最大に賞讃し、宣揚したかったのだ。先生の熱情が、新聞制作の枠をも飛び越えた。その後、同様の記念撮影は、熊本、神奈川などでも行われ、“民衆の大勝利宣言”となる写真が紙面を飾った。先生は、聖教紙上で共戦の同志を鼓舞しながら、新時代を開くべく、反転攻勢の大波を起こしていったのである。

 

明春の創刊70年へ共戦のを!
東京・信濃町の「創価学会 世界聖教会館」。2019年11月18日にオープンした
東京・信濃町の「創価学会 世界聖教会館」。2019年11月18日にオープンした
 

 昨年11月に「世界聖教会館」がオープンした。池田先生ご夫妻は先立って9月、10月と2度訪問。勤行・唱題して、聖教新聞の世界的発展と無冠の友の無事故・幸福を祈念した。
 
 同会館の「聖教新聞 師弟凱歌の碑」には、こうある。「広宣流布とは言論戦である。仏法の真実と正義を叫ぶ、雄渾なる言葉の力なくして、創価の前進はない」
 
 不二の師弟が、嵐の渦中で聖教新聞の創刊を構想して70年。明年4月20日には創刊70周年となる。
 
 聖教新聞は、永久に師弟共戦の師子吼を放つ。
 
 世界宗教へと飛翔する創価学会の誇り高き機関紙として、人間主義の論調を世界中に発信しゆく。


きょう「8・24」 池田先生が全同志に和歌

2020年08月24日 | 妙法

きょう「8・24」 池田先生が全同志に和歌2020年8月24日

 きょう8月24日は、池田大作先生が1947年(昭和22年)に入信して73年。恩師・戸田城聖先生と機関紙発刊の構想を語り合った50年(同25年)の「聖教新聞創刊原点の日」から満70年を迎える。池田先生は、記念日に当たって、全国・全世界の同志に3首の和歌を詠み贈った。

 

 この時を
  願い涌現の
   後継なれば
  若き誓火で
   闇うち晴らせ
 
 妙法の
  大良薬を
   地球民族へ
  いのちの医王ぞ
   創価の師弟は
 
 霊山の
  一会ここにと
   聖教は
  世界むすべや
   平和の仏智で


小説「新・人間革命」学習のために 第17巻

2020年08月21日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第17巻  2020年8月21日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第17巻を掲載する。次回は「世界青年部総会特集<北米編>」を28日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。

 
のうが深いほどだいな使命が

 <1973年(昭和48年)3月、第二東京本部の幹部会に出席した山本伸一が会場を出ると、十数人のメンバーが駆け寄ってきた。町田から来たという婦人は、伸一に、自身の来し方を報告した>
 
 「私が入会したのは、結婚前でしたが、その時は父母も、姉たちも大反対でした。家から閉め出されてしまったこともありました。
 
 “なぜ、学会のすばらしさがわからないのだろう”と思うと、悔しくって、何度泣いたかわかりません」
 
 「そう。大変だったんですね」
 
 彼女は、満面に笑みを浮かべて言った。
 
 「でも、今はそうしたことが、一番誇らかで、愉快な思い出になっています」
 
 「そうなんだ。そうなんだよ。厳しい試練の冬も、勝利の春が来れば、すべては喜びに変わる。涙あっての笑いです。労苦あっての歓喜です。苦闘している時には、“なんで自分ばかり、こんなに大変な思いをしなければならないのか”と思うこともあるでしょう。しかし、それは、自ら願い求めた使命の舞台なんです。
 
 苦悩が深ければ深いほど、それだけ偉大な使命を担っているということなんです。
 
 つまり、あなたは、どんなに厳しい家庭の状況であっても、家族の一人が立ち上がれば家庭革命はできる、一家和楽は実現できるということを証明してみせたんです。
 
 同じような状況で、悩み、苦しんでいる人が、その事実を知れば、皆が“私にもできるんだ!”と希望をもつでしょう。勇気をもつでしょう。
 
 ご家族の学会への無理解というのは、あなたがその使命を果たすための舞台だったんです」
 
 婦人は、何度も頷きながら、伸一の話を聞いていた。
 
 「人生の充実感や痛快さは、幾つ苦難を乗り越えてきたかによって決まります。いかに年齢を重ねようが、苦闘がなければ精神は空疎です。自分の幸福のため、充実のために、自ら戦いを起こすことです。そして、自身の挑戦のドラマをつくるんです」
 
 (「本陣」の章、93~95ページ)
 

 <

 
青春はこんなんこくふくするかつりょく

 <4月、大阪に創価女子学園が開校。創立者の伸一は、入学式で祝辞を述べ、青春についての洞察を語る>
 
 「私は、青春時代というのは、無限の可能性を前にして、非常に不安定で落ち着きがなく、鋭敏な神経が常に働いているというのが実情であろうと思う。
 
 未来の夢が、大きければ大きいほど、心労も大きい。しかし、若い皆さんは傷つきやすく、弱いように見えますが、決して、そんなものではない。どんな困難をも乗り越えていける活力、生命力をたたえているのが青春です。どうか、そのことに自信をもっていただきたいのであります。
 
 感情の振幅の激しさから、時に絶望に陥ることもあるかもしれない。しかし、皆さんの生命の底には、それを跳ね飛ばして克服するだけの力がある。これが、青春というものの本体であると私は叫びたい。これが、青春の特権です」
 
 伸一は、いつの間にか叫ぶような、祈るような思いで訴えていた。
 
 「人が老いて青春を懐かしむのは、まさに、この青春の活力を懐古しているということを知っていただきたい。ゆえに、苦悩や困難を決して避けるようなことをしてはならない。堂々と、それに挑戦し、立派に克服する皆さんであってください。
 
 ともかく、青春は無限の歓喜とともに、また、必ず心労がある。悩みがある。これは表裏一体であることを忘れてはならない。
 
 それを知って戦っていくところに、輝かしい青春時代があります」
 
 (「希望」の章、135~136ページ)
 

 
何があろうと“どうの信心”を

 <伸一は3月の本部幹部会で、皆が「開目抄」の「我並びに……」の一節を生命に刻むよう提案。翌月、東京・日大講堂での本部幹部会では、その一節を皆で拝読する声が響いた>
 
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234ページ)
 
 いかなる難があったとしても、疑うことなく信心を貫いていくならば、必ず成仏できることを断言なされた御文である。
 
 ――天の加護がなくとも疑ってはならぬ! 現世が安穏でないからといって嘆いてはならぬ! 疑いを起こさず、師弟の約束を守り抜くのだ!
 
 そこには、弟子たちの成仏を願われる、師匠・日蓮大聖人の魂の叫びがある。
 
 伸一は、前月の本部幹部会でも、この御文を拝読し、力を込めてこう訴えた。
 
 「ここには、信心の極意が示されております。
 
 この一節を、生涯にわたって、生命の奥底に刻み込んでください。
 
 日蓮大聖人の仰せ通りに仏法を実践している教団は、創価学会しかありません。
 
 それゆえに、必ず諸難が競い起こる。しかし、何があっても広宣流布の根本軌道を踏み外すことなく、揺るがぬ信心を貫き、悠々と明るく進んでいっていただきたいのであります」
 
 今、創価学会は「広布第二章」の大空に飛翔した。それは、本格的な社会建設の時代の到来である。
 
 (中略)学会が、社会の建設に力を注げば注ぐほど、その前進をとどめようとする迫害も、激しさを増すことは間違いない。
 
 それだけに伸一は、必死になって、確固不動なる信心の「核」を、一人ひとりの胸中に、つくり上げようとしていたのである。
 
 そして、「開目抄」のこの一節を、全同志が座右の銘として、生命に刻むことを提案したのだ。
 
 (「民衆城」の章、265~266ページ)
 

 

ろうこそ仏法者のほこりと栄光

 <6月、「群馬・高原スポーツ大会」の会場に到着した伸一は、陰の力に徹する役員を激励する>
 
 彼は、すぐに控室には入らず、建物の脇をのぞいた。そこに、身を隠すように立っていた一人の青年がいた。
 
 “やはり……”と思った。
 
 設営や警備など、役員の青年たちは、最も苦労しながら、自分は決して表面に出ることなく、目立たぬように陰の力に徹しようとするのが常であるからだ。
 
 伸一は、陰の力として誠実に奮闘してくれている人に光を当て、讃えることこそ、わが使命であると自覚し、常にあらゆる人に炯々たる眼を注いでいた。
 
 人間主義とは、具体的にいえば、その気遣いの心である。皆の献身的な尽力を当然であるかのように考えることは、官僚主義といってよい。
 
 伸一は、青年に笑顔を向け、手を差し出した。
 
 「役員だね。おめでとう!」
 
 彼は、阿相良正という建設会社を営む青年で、会場の整備責任者であった。突貫工事で会場の整備を成し遂げ、この日、役員として参加していたのである。
 
 阿相は、感動で頭の中が真っ白になった。
 
 「先生! ありがとうございます」
 
 こう叫ぶ阿相に、伸一は言った。
 
 「役員として陰で黙々と頑張ってくれている人がいるから、行事の成功もある。また、そういう青年たちがいるから学会は盤石なんです。
 
 大変だろうが、『陰徳あれば陽報あり』(御書1178ページ)です。労苦は必ず報われるのが仏法です。『冥の照覧』を信じてください。本当にありがとう!」
 
 広宣流布のための労苦は、すべて、自身の福運となり、宿命転換の力となり、人間革命への飛躍台となる。ゆえに、われらは、勇んで今日も、使命の道を行く。
 
 信心とは、峻厳なる生命の因果の理法への深き確信である。したがって仏法者は、自分は楽をし、要領よく立ち回ろうとする者を最も哀れに思う。そして、労苦にこそ、無上の誇りと、未来の燦然たる栄光を見いだすのだ。
 
 (「緑野」の章、388~390ページ)
 

 

人間精神の復興運動

 1973年(昭和48年)の新年勤行会で伸一は、同年のテーマである「教学の年」の意義を訴えた。
 
 ◇ 
 
 「『広布第二章』の本格的なスタートとなった本年を、私どもは『教学の年』としました。それは、なぜか――。
 
 『広布第二章』とは、生命の尊厳や慈悲など、仏法の哲理を根底とした社会建設の時代です。言い換えれば、創価学会に脈打つ仏法の叡知を社会に開き、人類の共有財産としていく時代の到来ともいえます。そのためには、原点に立ち返って、社会を建設し、文化を創造していく源泉である、仏法という理念を、徹底して掘り下げ、再構築していかなくてはならない。ゆえに、本年を『教学の年』としたんです。
 
 大聖人は『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ』(御書1361ページ)と仰せです。
 
 行学の『行』とは、広宣流布を推進していく実践です。『学』とは仏法哲理の研鑽であり、理念の深化です。この二つは車の両輪の関係にある。
 
 新しき発展のためには、教学の研鑽に励み、仏法の理念を究めていくことが不可欠になる。
 
 (中略)教学という理念がない実践は、社会の人びとを納得、共感させる説得力をもちえず、自己満足に終わってしまう。また、実践のともなわない教学は、観念の遊戯であり、現実社会を変革する力とはなりません」
 
 創価学会が広宣流布の世界的な広がりを可能にしたのは、どこまでも御書を根本とし、確固たる理念をもち、正しき軌道を決して違えることがなかったからである。
 
 伸一は、その仏法の哲理を時代精神にしていくために、自ら先頭に立って教学の深化を図るとともに、広く社会に展開していく決意を固めていたのだ。(中略)
 
 核兵器の脅威をはじめ、人類の滅亡の危機が叫ばれる今こそ、恒久平和の実現のために、人間精神の復興運動を起こさねばならないと、彼は痛感していたのだ。
 
 (「本陣」の章、9~11ページ)

 

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