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小説「新・人間革命」学習のために 第21巻

2020年11月20日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第21巻 2020年11月20日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第21巻を掲載する。次回の第22巻は12月4日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

 
団結は一人一人の勝利の姿すがた

 <1975年(昭和50年)1月26日、世界51カ国・地域のメンバーの代表がグアムに集い、第1回「世界平和会議」が開催され、SGIが結成された。山本伸一は、会議に参加できなかった韓国のメンバーのことを考え、首脳幹部と語り合いながら、団結の大切さに思いを巡らす>
 
 日蓮大聖人は「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」(御書1337ページ)と述べられている。広宣流布のために心を一つに合わせ、信心に励むなかに、仏法という生命の大法の血脈が流れ通うとの御断言である。
 
 われらの団結とは、縦には広宣流布の師匠と弟子との不二の結合である。そして、横には同志との連帯である。いわば、師と同志という縦糸と横糸の異体同心の団結によって、広宣流布は織り成されるのだ。
 
 (中略)
 
 仲良く団結しているということは、それ自体、一人ひとりが自身に打ち勝った勝利の姿であるといえる。わがままで自分中心であれば、団結などできないからだ。
 
 創価学会は、広宣流布を推進する仏意仏勅の団体である。「われらは創価学会仏である」とは、軍部政府の弾圧という法難に遭い、御書を身で読み、獄中で悟達を得た戸田城聖第二代会長の大確信である。いずこの国も地域も、その尊き組織を、私利私欲の徒輩に利用され、攪乱されるようなことがあっては絶対にならない。
 
 御聖訓には「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食」(御書957ページ)と。
 
 広宣流布とは、この破壊の動き、「魔」の働きとの永遠の戦いなのだ。
 
 (「SGI」の章、98~99ページ)

 

大切なことは具体的な行動

 <4月、中国を訪問した伸一は、宿舎で中日友好協会の張香山副会長らと懇談した>
 
 永続的な平和友好をどう築くかという観点から、日中間の諸問題、また、中ソの関係、さらに、アジア、世界の諸問題について、活発に意見を交換した。
 
 伸一の主張――。それは「中国は、ソ連とも、また、アメリカとも、平和友好の道を歩むべきである」ということであった。
 
 中国側も率直に、内外の諸情勢に関する見解を述べ、困難はあるが平和の大道をめざす考えであることを語った。
 
 伸一は、さらに踏み込んで話を進めた。
 
 「そこで大事なことは“では、どうすれば、戦争を回避できるのか。目的と手段を混同しないで、いかにすれば平和という目的に近づけるか”ということです。つまり、抽象的な展望ではなく、具体的に中国が何をするかです」
 
 語らいが、単に状況の分析や批評、あるいは抽象的な結論に終わってしまうならば、問題解決への本当の進展はない。大切なことは、今日から何をするか、今から何をするかである――伸一は、常にそれを心がけ、自らの信条としてきた。時は、瞬く間に流れていってしまうのだ。
 
 (中略)伸一は自身の決意と、今後、行うべきテーマを明快に語った。
 
 「私は、一民間人として世界平和への底流をつくる意味から、さらに民衆間の交流を進めていきます。特にこれからは、長く侵略や抑圧に苦しんできた国々も回り、幾重にも平和と友好の橋を架けてまいります。私たち人類は、いつまでも対立と反目、そして戦争を繰り返していては、絶対にならないと思います。それを変えたいんです」
 
 (「人間外交」の章、151~152ページ)

 
座談会場は生命せいほうしょ

 <5月、創価大学で、「5・3」記念式典が開催され、席上、座談会場などの会場提供者への表彰が行われた>
 
 山本伸一は、会場提供者の苦労を、よく知っていた。
 
 彼自身、青年時代からアパートの自室を、座談会場などとして提供してきた。何人ものメンバーが訪ねてくるので、“駐輪などで、周囲に迷惑はかからないか。声が外に漏れていないか”と、心を配った。参加者のなかには、注意を呼びかけても、大声で話しながら来る人や、足音を響かせて廊下を歩く人もいた。
 
 伸一は、会合の前後には、隣人たちに、あいさつをして回るように心がけてきた。
 
 また、彼は、自分が座談会など、個人の家を使っての会合に出席した折には、家の方々に必ず丁重に御礼を述べた。そして、その家に受験生や病人などがいることがわかると、会場として使用することは、しばらく控えるようにしてきた。やむなく使わせてもらった場合にも、早めに切り上げ、皆が長居をしないように努めた。
 
 さらに、会場提供者と話し合い、使用した部屋はもとより、トイレ、玄関などの清掃も、皆で手分けして行うようにしてきたのである。
 
 ともあれ幹部は、会場提供者に最大の配慮と感謝を忘れてはならない。
 
 会場があるから広宣流布が進むのである。仏法が説かれ、功徳が語り合われ、発心を誓い合う場となる会場は、さながら現代における霊鷲山会であり、虚空会といってよい。そこは生命蘇生の宝処なのである。
 
 (「共鳴音」の章、232~233ページ)

 
みんしゅうの心つなぐ文化交流を

 <5月、モスクワ大学から名誉博士号を贈られた伸一は、同大学の文化宮殿で、「東西文化交流の新しい道」と題して記念講演を行った>
 
 伸一は、シルクロードが八世紀ごろから次第にすたれ、ヨーロッパと極東地域を結ぶ海上ルートが確立されていった経過を語った。そして、話を現代に移し、今や交通網、通信網は目覚ましい発達を遂げ、物と物、情報と情報の交換はあるものの、人間と人間、なかんずく心と心の交流の希薄さを、大きな問題点として指摘したのである。
 
 (中略)伸一は、これまでに会った、世界の心ある識者、指導者は、東西文化交流の早期実現を強く念願し、その声は世界の潮流となってきていることを述べ、こう力説した。
 
 「民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり、人間と人間との心をつなぐ『精神のシルクロード』が、今ほど要請されている時代はないと、私は訴えたいのであります。
 
 それというのも、民衆同士の自然的意思の高まりによる文化交流こそ、『不信』を『信頼』に変え、『反目』を『理解』に変え、この世界から戦争という名の怪物を駆逐し、真実の永続的な平和の達成を可能にすると思うからであります。
 
 民衆同士の連帯を欠いた単なる政府間協定が、一夜にして崩れ去り、武力衝突の悲劇へと逆転した歴史を、われわれ人類は何回となく経験してきたのであります。同じ過ちを繰り返してはなりません」
 
 (中略)
 
 「相手の中に“人間”を発見した時こそ、お互いの間に立ちふさがる一切の障壁は瞬くうちに瓦解するでしょう。実際、私は今、皆さんとともに話し合っています。交流しています。皆さんとは、平和を共通の願いとする友と信じます。皆さんはいかがでしょうか!」
 
 大きな賛同の拍手が湧き起こった。
 
 (「宝冠」の章、379~381ページ)

 

私のれきしょ
音楽隊の演奏に、力強く指揮を執る戸田先生と池田先生(1958年3月、静岡県内で)
音楽隊の演奏に、力強く指揮を執る戸田先生と池田先生(1958年3月、静岡県内で)

<1975年(昭和50年)2月1日、山本伸一は「日本経済新聞」紙上に「私の履歴書」と題する自伝の連載を開始する>
 
 「私の履歴書」は、体験をもとにした平和への叫びとなっていた。
 
 伸一は、生涯、平和を叫び抜くことこそ、戦争の時代に育った自分たちの世代の、責任であると考えていたのだ。いかなる時代に生まれたか――それもまた、宿命であり、使命である。
 
 「私の履歴書」には、伸一が戸田の経営する出版社に勤め、戸田の事業が破綻していくなかで、師を守り支えた青春の苦闘も記した。峯子との結婚にいたるいきさつも、選挙違反という無実の罪を着せられ、不当逮捕された大阪事件も、ありのままにつづった。
 
 連載は、伸一の第三代会長就任後の、世界平和への軌跡をたどり、この一九七五年(昭和五十年)一月にグアムで開催された世界平和会議までを記して終わっている。
 
 彼は自分の来し方を通して、創価学会の真実の姿と、師である戸田城聖の偉大さを、読者が少しでも理解してくれればと願いながら、ペンを執ったのである。伸一の初めての自伝であり、しかも一般紙の連載とあって、反響は大きかった。(中略)
 
 そのなかには、「連載の随所から、戸田城聖氏という師匠をもてたことへの筆者の感謝が伝わってきます。戸田氏の偉大さを初めて知りました」など、戸田への賞讃の声も少なくなかった。
 
 伸一は、何よりも、それが嬉しかった。師を宣揚し、その真実と正義を伝え抜くことは弟子の責任であり、義務であると、彼は考えていたからだ。師への賞讃は、弟子の勝利である。伸一は、“戸田先生の正義を世に示し、師匠を宣揚するために、書いて書いて書きまくろう!”と決意していた。
 
 学会が、どんなに高く評価されようが、師匠が正しく理解され、讃えられなければ、そこには師の精神の継承はない。学会精神とは、牧口常三郎の、そして、戸田城聖の生き方のなかに脈動しているものであるからだ。いや、仏法そのものが、人の生き方のなかにあるといえよう。ゆえに、日蓮大聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と仰せなのである。
 
 観念的な理論のなかには、仏法の脈動はない。
 
 (「人間外交」の章、121~122ページ)


 

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 聖教電子版の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」第21巻「解説編」の池田博正主任副会長の紙上講座と動画を閲覧できます。

 第21巻「解説編」はこちら


小説「新・人間革命」に学ぶ 第25巻 御書編 2020年11月17日

2020年11月17日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第25巻 御書編 2020年11月17日

  • 連載〈世界広布の大道〉絵・間瀬健治
 
絵・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第25巻の「御書編」。小説で引用された御書、コラム「ここにフォーカス」と併せて、識者の声を紹介する。挿絵は内田健一郎。

 
行動で手本しめし青年を育成
【御文】

 人のものををしふると申すは車のおもけれども油をぬりてまわり・ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり(御書1574ページ、上野殿御返事)

【通解】

 人がものを教えるというのは、車が重かったとしても油をることによって回り、船を水にかべて行きやすくするように教えるのである。

 
【小説の場面から】

 <1977年(昭和52年)3月11日、山本伸一は福島県を訪問。県長らに、青年育成の要諦について語った>
 
 「弘教に限らず、あらゆる活動を進めるうえで大事なのは、“なんのためか”を明らかにし、確認し合っていくことです。それによって皆が、軌道を外れることなく前進することができるし、力を発揮することができる。
 
 でも、全く弘教をしたことがない青年に、折伏の意義を教え、『頑張ってください』といえば、実践できるかというと、そうではありません。それだけでは、多くの人が、“自分にはできない”と思うでしょう。したがって、実際に、仏法をどう語っていけばよいのか、教えていかなければならない。それには、先輩である壮年や婦人は、自分はこうして折伏してきたという、ありのままの体験を語っていくことです。
 
 また、青年と共に仏法対話し、実践のなかで、具体的にどうすればよいか、手本を示しながら教えていくことも必要です。つまり、青年たちが、“そうか。こうすればいいのか。これならば私にもできる。よし、やってみよう!”と思えるかどうかなんです。
 
 人は、“とても自分には無理だ”と思えば、行動をためらってしまう。しかし、“できそうだ”と思えば、行動することができる」
 
 (中略)行動をためらわせているものは何かを見極め、それを取り除き、勇気を奮い立たせることが、激励であり、指導である。
 
 (「福光」の章、21~22ページ)
 

 
しょうがい、広布のはんたれ!
 
【御文】

 受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり(御書1136ページ、四条金吾殿御返事)

【通解】

(法華経を)「受ける」ことはやさしく、「たもつ」ことはむずかしい。ゆえに、成仏は持ち続けることにある。

 
【小説の場面から】

 <5月19日、山口県を訪れた山本伸一は、山口開拓指導を共に戦った草創の同志たちと懇談した>
 
 「当時、四十代、五十代であった方々が、今は六十代、七十代となり、人生の総仕上げの時代に入った。したがって、“総仕上げ”とは、いかなる生き方を意味するのか、少しお話しさせていただきます。(中略)第一に、報恩感謝の思いで、命ある限り、広宣流布に生き抜き、信仰を完結させることです。役職は変わったとしても、信心には引退も、卒業もありません。“去って去らず”です。
 
 そうでなければ、これまでの決意も誓いも、人にも訴えてきたことも、結局は、すべて噓になってしまう。後退の姿を見れば、多くの後輩が失望し、落胆します。そして、それは、仏法への不信の因にもなっていきます。(中略)
 
 学会員は皆、長年、信心してきた先輩たちが、どんな生き方をするのか、じっと見ています。ゆえに、学会と仏法の、真実と正義を証明していくために、幹部だった人には、終生、同志の生き方の手本となっていく使命と責任があるんです。
 
 もちろん、年とともに、体力も衰えていくでしょう。足腰も弱くなり、歩くのも大変な方も増えていくでしょう。それは、自然の摂理です。恥じることではありませんし、無理をする必要もありません。ただ、どうなろうとも、自分なりに、同志を励まし、法を説き、広宣流布のために働いていくんです」
 
 (「共戦」の章、149~150ページ)
 

 
ここにフォーカス さいしゃに希望とどけたれんさい

 2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生。あまりにも多くの生命が突然失われ、それまでの日常が一変しました。福島では原発事故の影響もあり、先が見えない日々が続きました。
 
 そんな中、同年9月1日から、福島を舞台とした、「福光」の章の連載がスタートしました。
 
 「春を告げよう!/新生の春を告げよう!/厳寒の冬に耐え、/凍てた大地を突き破り、/希望の若芽が、/さっそうと萌えいずる春を告げよう!」
 
 この一節で始まる同章は、被災した方々の大きな希望となりました。「第1回を読み、泣けて仕方がなかった」――連載開始直後から、東北をはじめ、多くの読者から感想と決意が寄せられました。他県での避難生活を余儀なくされた福島の婦人は、「“師匠は、福島の勝利、東北の勝利を信じ、見守ってくださっている”と思うと、感激の涙で文字が見えなくなりました」と前進を誓いました。
 
 「福光」の章には、リーダーの在り方、青年の育成、団結の要諦など、学会活動の基本姿勢が描かれています。
 
 震災という最も苦しい時に、東北の同志は同章を学び、苦難を一つ一つ乗り越えてきました。その不屈の前進は、世界中の“「新・人間革命」世代”にとっても、模範の生き方として輝いています。


〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 創立の魂を永遠に 11月16日

2020年11月16日 | 妙法

〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 創立の魂を永遠に 11月16日

不退の「誓」を立てよ!

我らは勝った。勝利と歓喜の金字塔を打ち立てた! 同志の喜びが弾ける創立の月――東京・神宮外苑のイチョウの金色の葉が、千の手、万の手となって喝采を送っているかのよう(14日、池田先生撮影)
我らは勝った。勝利と歓喜の金字塔を打ち立てた! 同志の喜びが弾ける創立の月――東京・神宮外苑のイチョウの金色の葉が、千の手、万の手となって喝采を送っているかのよう(14日、池田先生撮影)

 今、夜明け前、東天に鮮烈に輝く星がある。「明けの明星」たる金星だ。時に月と仲良く並んで、日の出を待ち受けることもある。
 法華経の会座に、「普香天子(明星天子)」として、「宝光天子(太陽)」と「名月天子(月)」と共に眷属を率いて連なる諸天善神である。
 この「三光天子」たちも、人知れず寒風を突いて、聖教新聞を配達してくださる気高き“無冠の友”の方々へ、福徳の慈光を注いでいるであろう。
 どうか、風邪などひかれませんように! 
 心からの感謝を込め、健康長寿と絶対無事故、そして、ご一家の安穏と栄光を、皆で祈りたい。

 

逆境ぎゃっきょうに光を増す

 希望は人生の宝なり。
 勇気は勝利の力なり。
 この「希望」と「勇気」を、逆境であればあるほど、いよいよ強く明るく賢く発揮していく方途を教えてくださったのが、日蓮大聖人である。
 御書には仰せである。
 「月はよい(宵)よりも暁は光まさり・春夏よりも秋冬は光あり、法華経は正像二千年よりも末法には殊に利生有る可きなり」(一五〇一ページ)
 月は、闇が最も深い暁ほど、また寒さが厳しく、空気が澄んでいる秋や冬ほど、光が冴える。同じく、人びとが苦悩の闇に覆われる末法ほど、妙法の功徳はいやまして輝くと示されている。
 日本も世界もコロナ禍が打ち続き、先行きの見えない不安に襲われる中にあって、わが創価家族は祈りを絶やさず、励ましの声を惜しまず、一人また一人と、友の心に、同志の胸に、希望と勇気の光を届けてきた。
 まさに「時」を逃さず、「信心即生活」「仏法即社会」の大使命を果たし抜いているといってよい。
 創立九十周年を飾る今、誉れの同志は、地域と社会の依怙依託として一段と輝きを増し、友情と信頼を勝ち結んでいる。
 その福運も、どれほどの豊かさと広がりをもって顕れることだろうか。
 創立の師・牧口常三郎先生も、戸田城聖先生も、さぞ、お褒めであろう。
 「君も勇敢であった」「あなたも忍耐強かった」「私も負けなかった」「私たちは断固と勝った!」
 全世界の宝友と互いの奮闘を労い讃え合いながら、我らの「創立の日」を祝賀しようではないか!

 

だいなんこうべを上げ

 「11・18」は、牧口先生が、日本の軍国主義の横暴に屈せず、不惜身命死身弘法の殉教を遂げられた日でもある。
 先生の信念は、不当に逮捕され、牢につながれても、微動だにしなかった。一年四カ月に及ぶ過酷な獄中闘争の間、家族に宛てられた手紙には、「災難と云ふても、大聖人様の九牛の一毛(=ほんのわずか)です」等と綴られている。
 先生ご所持の御書には、「開目抄」の一節「大願を立てん」の箇所に二重線が引かれ、欄外に大きく赤い文字で「大願」と記されていた。
 「創立」の魂とは、「誓」を「立」てることだ。
 牧口先生は、いかなる状況にあっても、人類の幸福と平和を実現するという創立の誓願を絶対に手放されなかった。
 どんな大難の嵐が吹き荒れようとも「風の前の塵なるべし」(御書二三二ページ)との大確信で、勇猛精進され続けたのである。
 インド独立の父マハトマ・ガンジーも、植民地支配からの解放を求めて非暴力・不服従の運動を起こし、何度も投獄された。中でも、有名な「塩の行進」を敢行したために牢獄に入ったのは、学会創立の年と同じ、一九三〇年であった。
 ガンジーは、獄中から弟子に「誓願の重要性」について書き送っている。
 「誓いをたてるというのは、不退転の決意を表明すること」「なすべきことを、なにがなんでも遂行する――これが誓願です。それは不抜の力の城壁になります」
 過日の「世界青年部総会」で、五大州の創価の青年たちは、三代を貫く誉れの「誓」を胸に刻み、創立百周年へ出発してくれた。これほど嬉しく、頼もしいことはない。
 必ずや世界広宣流布を成し遂げてみせる!――この誓願に地涌の青年が一人立つところ、いずこであれ、「人間革命」と「宿命転換」の新たな劇が幕を開けるからだ。
 試練の時代に敢然と躍り出る、わが後継の愛弟子たちへ、私は若き日に書き留めた戸田先生の指導を贈りたい。
 「苦しみが大きければ、大きいほど、その後にくる楽しみも大きい。苦しさと、真正面からぶつかって、南無妙法蓮華経と唱え切りなさい。苦しいときも、楽しいときも、御本尊を忘れるな」と。

 

未来を見つめて
1930年11月18日、発刊された『創価教育学体系』を手に取る牧口・戸田両先生。この日を「創立の日」として、師弟二人から始まった学会は世界へ飛翔した(内田健一郎画)
1930年11月18日、発刊された『創価教育学体系』を手に取る牧口・戸田両先生。この日を「創立の日」として、師弟二人から始まった学会は世界へ飛翔した(内田健一郎画)

 学会創立の原点の書『創価教育学体系』は、世界大恐慌の苦難の時代に、牧口・戸田両先生も自ら人生の辛苦を耐え抜き、発刊された。
 牧口先生は、価値創造の教育によって、若き命が一人ももれなく幸福を勝ち開き、やがて「人類の永遠の勝利」をもたらしゆくことを願われた。
 戸田先生も、教育の英知を光源として宗教の独善を退け、普遍的な平和の光で「地球民族」を結ぶことを展望された。
 今、コロナ禍で、教育の場が、かつてない制約を受ける中、創価大学、東西の創価学園、アメリカ創価大学、ブラジル創価学園、また札幌、香港、シンガポール、マレーシア、韓国の創価の幼稚園では、皆が負けじ魂を燃え上がらせ、学び、鍛え、凜々しく、たくましく成長してくれている。
 かのトインビー博士も創価教育に大きな期待を寄せてくださっていた。
 博士が絶賛し、「イスラム世界の英知」とも評される大歴史家にイブン・ハルドゥーンがいる。十四世紀に大流行した疫病(黒死病)の脅威と向き合った学者でもあった。
 十六歳の時に両親を黒死病で失うなどの悲嘆を乗り越え、あらゆる経験を後世のために書き残すという“終生の使命”を自覚したのだ。主著『歴史序説』で、その労作業の意義を誇り高く語った。「かならずや後世の歴史家が見倣うべき手本となるであろう」と。
 自身の悲哀や艱難を越え、「未来のために」との誓いを貫く時、青年は限りなく強くなる。偉大な智慧、偉大な創造、偉大な連帯を築けるのだ。
 今、創価の若人たちが世界の諸課題に挑み、人びとの心を、分断から協調へ、不安から安心へ、不信から信頼へと転じゆく知性と誠実の対話を、一人また一人と拡大する――この粘り強い開拓こそ、後世の人類の希望となり、鑑となると、私は確信してやまない。

 

創価の正道せいどうに生き抜き ていきょうせん
音楽隊・鼓笛隊の熱演を讃えて。師の拍手はまた、広布と人生の激戦を勝ちゆく全同志に――(2002年11月17日、八王子市の創価大学池田記念講堂で)
音楽隊・鼓笛隊の熱演を讃えて。師の拍手はまた、広布と人生の激戦を勝ちゆく全同志に――(2002年11月17日、八王子市の創価大学池田記念講堂で)
 
一人ひとりがほとけの「曠大こうだい」をたいげん

 明二〇二一年、我らは、御本仏・日蓮大聖人の「御聖誕八百年」の大佳節を迎える。
 大聖人は「報恩抄」で、「源遠ければ流ながし」との譬喩に続けて仰せだ。
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながる(流布)べし」(御書三二九ページ)と。
 この御本仏の無量無辺の「慈悲曠大」を、健気な母たちをはじめ、無名の民衆が真っすぐに受け継ぎ、百九十二カ国・地域へ、妙法を弘め抜いてきたのが、創価学会である。
 あの地も、この国も、まさに尊き“一粒種”の一人、ごく小さな集いから全てが始まった。“ガンジスの大河も一滴から”という言葉の通りだ。
 しかし、それは、微弱な“一滴”では断じてない。「大海の始の一露」(同一二四一ページ)である。「大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり」(同一二〇〇ページ)と仰せの如く、無限にして尊極の可能性を具えた一人ひとりの生命なのだ。
 誰もが、経済苦、失業、病気、家庭不和等々、あらゆる苦悩を抱えながら、宿命の嵐と戦っている。社会全体が戦乱や災害、疫病等に脅かされる場合もある。苦難の中で生きねばならないのが、人間の厳しき現実だ。
 戦後、学会が再建の歩みを開始した当時、「幸福」という言葉など自分には無縁だ、と人生を絶望していた庶民は少なくなかった。その凍え切った心の中に、人間の尊厳の熱と輝きを蘇らせ、胸を張って立ち上がる勇気を鼓舞してきたのが、学会の父母たちである。
 今この瞬間にも、「何としても、この人を励ましたい」「苦しむあの人を助けたい」と自行化他の題目を唱え、行動する同志がいるではないか。
 自らも苦悩の中でもがき戦いながら、縁を結んだいかなる友も放っておけない、一緒に勝利しようと懸命に励ます心は、すでに仏の「慈悲曠大」と一体であり、その振る舞いは「人を敬う」不軽菩薩そのものである。
 末法の一切衆生を救わんとの大聖人の大慈大悲を源として、「不軽」そして「地涌」の振る舞いを地域に社会に広げ、永遠なる人類の幸福と平和の大潮流を起こしていく。ここに、広宣流布の大いなる意義があるのだ。

 

おうの心で!

 牧口先生が殉教されたのは、一九四四年十一月十八日の朝六時過ぎであった。しかし、その死は、奇しくも同じ獄中で地涌の使命を覚知された戸田先生の新たな生の出発と結びついている。広布に一人立つ闘魂が、妙法の誓火をつなぐのだ。
 「妙とは蘇生の義」(御書九四七ページ)である。
 師弟は不二であるゆえに、後継の弟子は、創立の師の「師子王の心」を、わが命に、毎日毎朝、蘇らせて立つのである。
 牧口先生の如く、戸田先生の如く、我らは「広宣流布の闘士」として、すなわち「正義と人道と平和の価値創造者」として、日に日に新たに、師弟の共戦譜を勝ち光らせていこうではないか!
  
(随時、掲載いたします)

 

 <引用文献>ガンジーの言葉は『獄中からの手紙』森本達雄訳(岩波書店)、イブン・ハルドゥーンは森本公誠著『イブン=ハルドゥーン』(講談社)。


小説「新・人間革命」に学ぶ 第25巻 名場面編 2020年11月11日

2020年11月11日 | 妙法

小説「新・人間革命」に学ぶ 第25巻 名場面編 2020年11月11日

  • 連載〈世界広布の大道〉

絵・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第25巻の「名場面編」。心揺さぶる小説の名場面を紹介する。挿絵は内田健一郎。

ちゅうに燃え立つ広布のとうこん

 〈1957年(昭和32年)7月、青年部の室長の山本伸一は、大阪事件で不当逮捕される。文京支部に所属する福島の同志は、支部長代理を務める伸一が打ち出した“一班一〇闘争”(班10世帯の弘教)の大勝利を、いっそう固く誓い合い、奮闘した〉

 メンバーのなかに、一カ月前に、勤めていた会社が倒産してしまった壮年がいた。二人の子どもは病弱で、生活は逼迫していた。その彼が、弘教のために、二十キロほど離れた友人宅を訪れた。話に夢中になり、終列車を逃してしまった。やむなく、列車の線路に沿って歩き始めた。

 彼は、この日、仏法対話の最後に、友人が放った言葉が、胸に突き刺さっていた。
 「人の家に、宗教の話なんかしに来る前に、自分の仕事を見つけてこいよ。それに、そんなに、すごい信心なら、なぜ、子どもが病気ばかりしているんだ!」(中略)
 友人は、終始、薄笑いを浮かべ、蔑むような言い方であった。

 夜道を歩き始めると、無性に悔しさが込み上げ、涙があふれて仕方がなかった。涙に濡れた頰に、ピシャリと水が滴り落ちた。雨だ。あいにく傘は持っていなかった。雨は、次第に激しくなっていった。(中略)

 二時間ほど歩いたころ、文京支部の会合で山本伸一に激励されたことを、ふと、思い起こした。
 「折伏に行って、悪口を言われ、時には、罵詈罵倒されることもあるでしょう。また、悔しい思いをすることもあるでしょう。それは、すべて、経文通り、御書に仰せ通りのことなんです」(中略)

 壮年は、伸一の指導を思い返すうちに、“山本室長は、今ごろ、どうされているのだろうか”と思った。(中略)
 “室長は、学会の正義を叫び、必死に獄中闘争を展開されている……。その室長と比べれば、自分は、なんと恵まれた環境にいるんだろう。こんなことで、弱気になったり、負けてしまったら、室長は慨嘆されるにちがいない。負けるものか!”(中略)

 雨は、一段と激しく降り続いていた。しかし、壮年は、意気揚々と大股で歩きだした。そして、雨に負けじと、学会歌を歌い始めた。
 広宣流布への闘魂は、この雨のなかで、強く、激しく、燃え上がったのである。
 (「福光」の章、72~74ページ)
 

 

学会はそんごくしょみんの団体

 〈56年(同31年)秋から山口開拓指導が展開され、山本伸一の激励で数多くの同志が立ち上がった。防府で行われた座談会では、伸一はさまざまな質問に答え、活況を呈した〉

 伸一が語るにつれて、参加者の疑問は氷解し、会場は、希望と蘇生の光に包まれていった。

 質問が一段落したころ、口ヒゲをはやした一人の壮年が発言した。友人として参加していた地域の有力者であった。
 「わしは、ここにおる者のように、金には困っとらん。今、思案しとるのは、これから、どんな事業をしようかということじゃ。ひとつ、考えてくれんか!」(中略)

 伸一の鋭い声が響いた。
 「学会は、不幸な人びとの味方です。あなたのように、人間を表面的な姿や立場、肩書で見て、蔑んでいるような人には、いつまでも、学会のことも、仏法もわかりません!」

 地域の有力者は、伸一の厳しい言葉にたじろぎ、あっけに取られたように、目をぱちくりさせていた。

 伸一は、諄々と語り始めた。
 「ここにおられる同志の多くは、経済的に窮地に立ったり、病で苦しまれています。しかし、その苦悩をいかに乗り越えていこうかと、真剣に悩み、考えておられる。しかも、自ら、そうした悩みをかかえながら、みんなを幸せにしようと、冷笑されたり、悪口を言われながらも、日々、奔走されている。(中略)

 本当に人間が幸福になるには“心の財”を積むしかない。心を磨き、輝かせて、何ものにも負けない自分自身をつくっていくのが仏法なんです。その仏法を弘め、この世から、不幸をなくしていこうというのが、学会なんです」(中略)

 話が終わると、大拍手に包まれ、友人のほとんどが入会を希望した。有力者の壮年も感服し、入会を決意した。(中略)

 有力者の壮年は、興奮を抑えきれない様子で語った。(中略)
 「すごい青年がいるもんじゃ。一言一言、胸をドンと突かれるようで、後ろにひっくり返りそうで、こうやって、手を畳について、体を支えておったんじゃ。こりゃあ、本当にすごい宗教かもしれんぞ!」
 (「共戦」の章、136~138ページ)
 

 

どうはげましが心を動かす

 〈酒田英吉も、山口開拓指導の折に、山本伸一の激励を受けた一人だった。彼は山本室長に会うため、40キロほどの道のりをバイクで駆け、伸一のいる旅館に向かった〉

 彼(酒田英吉=編集部注)が旅館に到着すると、座談会が行われていた。(中略)

 目の不自由な一人の婦人が手をあげて質問した。――子どもの時に失明し、入会して信心に励むようになって一カ月ぐらいしたころ、少し視力が回復した。しかし、このごろになって、また、元に戻ってしまった。果たして、目は治るのかという質問である。(中略)

 伸一は、その婦人の近くに歩み寄って、婦人の顔をじっと見つめた。そして、彼女の苦悩が自分の苦悩であるかのように、愁いを含んだ声で言った。
 「辛いでしょう。本当に苦しいでしょう」

 彼は、婦人の手を取って、部屋に安置してあった御本尊の前に進んだ。
 「一緒に、お題目を三唱しましょう」
 伸一の唱題の声が響いた。全生命力を絞り出すような、力強い、気迫のこもった、朗々たる声であった。婦人も唱和した。

 それから、伸一は、諄々と語っていった。
 「どこまでも御本尊を信じ抜いて、祈りきっていくことです。心が揺れ、不信をいだきながらの信心では、願いも叶わないし、宿命の転換もできません。(中略)
 あなたは、自分も幸せになり、人びとも幸せにしていく使命をもって生まれた地涌の菩薩なんです。仏なんです。一切の苦悩は、それを乗り越えて、仏法の真実を証明していくために、あえて背負ってきたものなんです。(中略)
 何があっても、負けてはいけません。勝つんですよ。勝って、幸せになるんですよ」

 誰もが、伸一のほとばしる慈愛を感じた。婦人の目には、涙があふれ、悲愴だった顔が明るく輝いていた。

 酒田は、指導、激励の“魂”を見た思いがした。“指導というのは、慈悲なんだ。同苦する心なんだ。確信なんだ。その生命が相手の心を揺り動かし、勇気を呼び覚ましていくんだ!”
 (「薫風」の章、277~279ページ)
 

 

青年よ、未来のために学べ

 〈77年(同52年)5月、山本伸一はオープン間もない熊本文化会館へ。到着後すぐに、石碑の除幕式に臨んだ〉

 歴代会長の文字を刻んだ石碑、熊本文化会館の由来の碑が次々と除幕された。

 「じゃあ、県の青年部長! この碑文を皆さんに読んで差し上げて!」
 突然の指名であった。県青年部長の勝山平八郎は、驚き慌てた。しかし、「はい!」と言って、碑の前に進み出た。(中略)

 由来を読む勝山の、大きな声が響いた。
 「熊本文化会館 由来
 懐かしき雄大なる阿蘇の噴煙……」

 (中略)三行ほど読んだ時、言葉がつかえた。「法旗翩翻と」の「翩翻」の読み方が、頭に浮かんで来ないのだ。思い出すまでに、二、三秒かかった。さらに、その数行あとの「聳ゆ」でつまずき、最後の段落の「冀くは」で、また、口ごもってしまったのである。

 読み終わった勝山の額には、汗が噴き出ていた。伸一は、勝山に言った。(中略)
 「県の中心会館となるのが熊本文化会館なんだから、碑文は事前によく読んで、しっかり、頭のなかに刻みつけておくんです。急に言われて、上がってしまったのかもしれないが、そういう努力、勉強が大事なんです。

 戸田先生の、青年に対する訓練は、本当に厳しかった。(中略)
 お会いした時には、必ず、『今、なんの本を読んでいるんだ』とお聞きになる。いい加減に、本の名前をあげると、『では、その作品は、どんな内容なんだ。内容を要約して言いなさい』と言われてしまう。ごまかしなんか、一切、通用しませんでした。
 戸田先生が厳愛をもって育んでくださったおかげで、今日の私があるんです。青年は、未来のために、どんなに忙しくても、日々、猛勉強するんだよ」

 青年部のメンバーは、全員が創価学会の後継者であり、次代の社会を担うリーダーたちである。(中略)

 それだけに伸一は、教養を深く身につけ、一流の人材に育ってほしかった。だから、あえて、厳しく指導したのだ。
 (「人材城」の章、308~310ページ)


小説「新・人間革命」学習のために 第20巻

2020年11月07日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第20巻  2020年11月7日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第20巻を掲載する。次回の第21巻は20日付2面の予定。挿絵は内田健一郎。

 
社会の建設は仏法者の使命

 <1974年(昭和49年)6月、初訪中した山本伸一は、北京市郊外にある頤和園で、中国仏教協会の副会長である趙樸初と語り合う。その対話は、昆明湖の湖上の船や、万寿山のふもとの食堂で進められた>

 趙は日中戦争の時代、人民の救済に苦闘した体験を語り始めた。
 「道端で、飢えと寒さ、病気などで多くの人びとが死んでいきました。大部分が赤子であり、農民でした。皆、貧しい人たちでした。しかし、そうした姿を見ても、戦時下の古い社会では、救う手立てはありませんでした」

 仏教界も腐敗堕落し、むしろ、人民大衆を苦しめる存在に堕していた。彼は、ひときわ強い口調で訴えた。
 「本来、仏教の精神は人民に奉仕することにあるはずです。人民が苦しんでいる。しかし、何もしない。そんなことが許されるでしょうか!」

 伸一の目が光った。間髪を容れずに答えた。
 「おっしゃる通りです。人民のため、社会のために身を挺して戦う――それが菩薩であり、仏です。仏法者の在り方です。その行動のない仏教は、まやかしです」
 力強い声であった。

 釈尊は、生老病死の四苦から、人間を解放するために立ち上がった。苦悩からの根本的な解放を説いているのが、仏法である。その実践の根幹をなす精神は、趙副会長の言葉を借りるなら、「人民への奉仕」といってよい。

 日蓮大聖人は、苦悩する人びとを救済し、幸福の道を開こうと、大難を覚悟で立正安国の戦いを起こされた。仏法という慈悲の哲理を、さらに、生命尊厳の思想を根底にした、平和社会の建設を叫ばれたのである。

 仏法者の使命は、「広宣流布」という宗教改革に始まり、「立正安国」という社会の建設にいたるのだ。

 (「友誼の道」の章、74~75ページ)

 
はげまし」はなんに勝つちから

 <6月、伸一は中国・上海市の虹橋人民公社へ。そこで働く青年たちと語り合った>

 一人の青年が、自分の体験を語った。
 「私は農業に従事していますが、農作業を始めたころは、天秤棒を使って土を運ぼうとしても、すぐにバランスが崩れ、歩くに歩けませんでした。その時に、私をなぐさめ、勇気づけ、畑仕事を一生懸命に教えてくれたのが、かつて貧農であった人でした。(中略)この素朴な触れ合いを通して、私は人間の真心を、すばらしさを実感し、この人たちに奉仕しようと決めました」(中略)

 親元を離れ、ここで初めて農作業を経験したという女性も、体験を語り始めた。
 「最初は激しい労働に疲れ果て、体も痛み、食べ物も喉を通りませんでした。そんな日が続き、農業などやめて、両親のもとに帰りたいと思うようになりました」

 彼女は「その迷いを先輩に聞いてもらい、弱い心に打ち勝って、自分を強くすることができました」と言う。
 
 先輩は、解放前、多くの人民が餓死し、虐殺されていった様子を、自分の生々しい体験を通して語り、こう訴えた。
 「人民が苦汁をなめた時代に、絶対に逆戻りさせてはならない。そのために苦労に耐えて、人民のための社会を、さらに完成させていくのよ」(中略)

 彼女は、「人民に奉仕する」自分をつくるには、よき先輩の触発が大事であると強調した。人間は一面、弱いものだともいえる。一人になれば、何かあると、思想も、信念も、揺らぎがちなものだ。それだけに、自分を励まし、啓発してくれる人が必要となる。

 (「友誼の道」の章、140~141ページ)

 
「そこに、人間がいるから」

 <5月、伸一はモスクワ大学の招待を受け、ソ連訪問を正式に決定。彼は、訪ソに同行するメンバーに語った>

 「私は、なんのためにソ連に行くのか。それは、なんとしても第三次世界大戦をくい止めたいからです。だから中国に続いて、ソ連に行き、それから、アメリカにも行きます。日蓮大聖人のお使いとして、生命の尊厳と平和の哲学を携えて、世界平和の幕を開くために行くんです。
 平和のための、失敗の許されぬ、真剣勝負が待っている。大胆に、勇気をもって、新しい歴史を開かねばならない。臆病では、戦いはできません」

 烈々たる決意の言葉であった。ソ連訪問の準備は、着々と進められていった。しかし、伸一の訪ソに賛成する人は、ほとんどいなかった。(中略)

 財界のある重鎮は、伸一のことを心配して、切々と訴えるのであった。
 「共産主義の国は、次第に行き詰まってきています。付き合っても、決していいことはないでしょう。訪ソは、おやめになった方がよい。
 それにしても、どうしてソ連などに行こうと思われたのですか」

 心配してくれる気持ちに感謝しながら、伸一は明快に答えた。
 「そこに、人間がいるからです。人間に会いに私は行くのです。共産主義の国であろうが、資本主義の国であろうが、そこにいるのは、平和を願う、同じ人間ではないですか。ですから私は、その人間の心と心に橋を架け、結ぶために行くんです。それが平和への、最も確かな道であるというのが私の信念です」

 (「懸け橋」の章、166~168ページ)

 

身近な人からせいじつな対話を

 <9月、伸一はソ連を初訪問。10日、彼が宿舎のホテルに戻ると、部屋の鍵を管理している係の婦人が、微笑みを浮かべて語り掛けてきた>

 「今日はクレムリンで最高会議を訪問されたのですね。さっき、テレビのニュースでやっていましたよ」
 通訳が、その言葉を伸一に伝えた。

 伸一も笑顔で答えた。
 「そうなんです。そのあと、無名戦士の墓にも行き、献花をしてきました」
 婦人は、大きく頷いた。

 最初、彼女たちは、笑顔を見せることはなく、応対はいたって事務的であった。西側陣営の来訪者とあって、緊張していたのかもしれない。

 伸一と峯子は、毎日、鍵を預けたり、受け取ったりするたびに、あいさつを交わし、対話を心がけてきた。身近な人との触れ合いのなかにこそ、人間外交の第一歩があるからだ。(中略)

 伸一は言葉をついだ。
 「無名戦士の墓で、涙ぐんでたたずんでいる、老夫婦の姿を目にしました。胸が痛みました。もう戦争は、絶対に起こしてはならないというのが、私の願いであり、決意なんです」

 すると婦人は視線を落とし、ポツリと言った。
 「私の夫も、戦争で死んだのです……」

 そして、伸一に願いを託すように訴えた。
 「戦争のない世界にしてください」

 ソ連の人びとも、戦争の被害者であり、強く平和を求めている。そして、ソ連にあっても、戦争の最大の被害者は、女性と子どもなのだ。

 伸一は、婦人の言葉を全生命で受け止めた。
 「戦います。平和のために! あなたも、平和のために立ち上がってください。今の叫びが世界を動かしていきます」

 (「懸け橋」の章、205~207ページ)

 

教育の原点
東京・八王子市にある創価大学のキャンパス(2019年11月撮影)
東京・八王子市にある創価大学のキャンパス(2019年11月撮影)

 <1974年(昭和49年)12月、山本伸一は、北京大学の招待を受け、中国を再び訪問。2日、同大学の主催で、歓迎宴が行われた。「信義の絆」の章には、伸一が教育の重要性について語る場面が描かれている>

 「私自身、教育こそ、最後の事業であるとの信念から、最大限の努力を払ってまいりました。
 なぜならば、創価学会の目的は『平和』と『文化』の推進にあり、そのために最も重要な意義をもつものが『人間教育』であるからです。

 世界の恒久的な平和の建設、民族と民族の協調、国家間の平等互恵、人間が人間らしく生きていける社会の創造というものは、『教育』の基礎の上に行われるものであります。

 教育こそ、常にみずみずしさと新しい飛躍へのバイタリティーを社会に豊かに満たしていく、人間文化の泉であると、私は固く信じております」

 ここで彼は、創価大学について語っていった。
 「私が創立した創価大学は、『人間教育の最高学府たれ』『新しき大文化建設の揺籃たれ』『人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ』の三項目をモットーに掲げています。

 このモットーは“若い世代が常に民衆の側に立ち、新しい未来を切り開いていってほしい。民衆を守り、平和を守り、平和な世界へより大きな貢献をしてもらいたい”という、私の期待と希望を込めたものであります。

 この精神は、北京大学の精神にも通じているでありましょう。

 私たちは、『平和』という共通の目標のもとに、未来を開く教育交流を通して、日中両国の青少年が世々代々の友好を維持、発展させていくよう、一層の努力をしていくことを、固くお約束いたします」

 平和は、人類の悲願である。
 本来、それを実現していくことこそ、最高学府の最も重要な使命であるはずだ。

 たとえ、どんなに優秀であっても、世界の民衆が戦争や飢餓、貧困、差別などに苦しんでいることに無関心で、痛みさえも感じない、冷酷なエリートしか輩出できないならば、それは既に教育の破綻である。

 ゆえに、人間教育が一切の根本となるのだ。

 人間をつくれ!
 慈愛と正義の心を磨け!
 そこに教育の立ち返るべき原点がある。

(311~313ページ)
 


 

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