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〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 負けじ魂のバトンを君に

2022年06月30日 | 妙法

きょう、学生部結成65周年 正義の若人よ「声の力」で時代を開け2022年6月30日

4:25

 広宣流布と立正安国の先駆常勝をわれらの手で!――きょう30日は、学生部結成65周年の記念日である。
 
 社会にはいまだコロナ禍が影を落とし、世界情勢は緊迫の度を増している。先の見通せない時だからこそ、苦難を乗り越えるための深き哲学と、友情と平和の連帯が求められている。
 
 学生部の友は、結成記念の6月を「先駆の対話拡大月間」と定め、キャンパスや地域で友人に希望の励ましを送り、正義の語らいを大きく広げてきた。
 
 拡大の上げ潮の中で迎える結成65周年の佳節。友が常に立ち返るのは、権力の魔性との闘争の中で誕生した学生部の原点である。

首都圏の男子学生部の友。勇気の言論で、師弟の勝利劇をつづりゆく!(5月、東京戸田記念講堂で)
首都圏の男子学生部の友。勇気の言論で、師弟の勝利劇をつづりゆく!(5月、東京戸田記念講堂で)

 1957年(昭和32年)6月30日、第2代会長・戸田城聖先生のもとに、約500人の代表が集い、結成大会が行われた。席上、戸田先生は民衆の信頼に応える人材に育つことを期待し、学問に励み、広布へ雄々しく立ち上がってほしいと訴えた。
 
 学会に牙をむいた権力との攻防の渦中にあった北海道から、池田大作先生は「新しき世紀を担う秀才」たる学生部に祝電を寄せた。その3日後、池田先生は大阪府警に不当逮捕される。「大阪事件」である。
 
 正義を掲げ、庶民を守り抜く社会の指導者を育むために結成されたのが学生部なのである。
 
 師匠が熱願した妙法の学徒の人材群は今、各地で先駆の誇りに燃えて躍動する。

希望と福智の語らいで仏縁を大きく広げる中部女子学生部の友(5月、中部池田記念会館で)
希望と福智の語らいで仏縁を大きく広げる中部女子学生部の友(5月、中部池田記念会館で)

 福岡の紺谷泰瑶さん(大学4年)は、新入会の友だ。学生部の会合に参加し、同世代の仲間と触発し合う姿に感動し、今年3月に入会した。祈りを根本に挑戦する中で、第1志望の企業の内定を勝ち取り、その喜びのままに、勇気の対話を広げている。
 
 東京の木幡美智子さん(大学4年)は、関西創価小学校に入学して以来、大学まで創価一貫教育で学ぶ。小学生の時、池田先生と出会いを刻んだことを原点に鍛えの青春を歩んできた。本年4月には、友人に御本尊流布し、弘教の歓喜を胸に、親子三代で地元・大阪をはじめ兵庫などで仏縁を拡大する。
 
 池田先生は、結成65周年を迎える男女学生部に呼び掛けた。
 「真の知性とは、行動の人です。正義の若人は黙してはならない。苦悩や不安が渦巻く時代だからこそ、仏の仕事を為す『声の力』で、人間革命のスクラムを広げ、未来を開こう!」
 
 師の期待を胸に田島学生部長、先﨑女子学生部長は決意する。
 「各地で勇躍前進するメンバーと共に、先駆の使命を果たし抜き勝利の突破口を必ずや開いてまいります!」

 

 

 

2022年6月30日〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 負けじ魂のバトンを君に

さわやかに、勢いよく、奔流のように――スクリューのオブジェの周囲に、何本もの水の柱が高く噴き上がった(池田先生撮影。1986年6月、兵庫・神戸市内のポートアイランド南公園で)
さわやかに、勢いよく、奔流のように――スクリューのオブジェの周囲に、何本もの水の柱が高く噴き上がった(池田先生撮影。1986年6月、兵庫・神戸市内のポートアイランド南公園で)
今日も仏の仕事を続けよう

 今日六月三十日は、若き普賢菩薩の陣列たる学生部の結成六十五周年の記念日である。今年は、私が学生部に行った「御義口伝」講義から六十年ともなる。
 真剣に研鑽した愛弟子たちと、御書に仰せのごとく「同じしらが(白髪)」(新1838・全1509)になるまで、師弟して共に戦えることは、この上ない喜びである。
 皆、生々世々の友である。
 ある日の講義の折、「楽天的であることは、指導者の要件でしょうか?」という質問が上がった。学生部らしい問いである。
 私は言った。
 ――わが一念に、戦いを絶対に勝ち抜くという用心と気概がなくてはならない。それがない楽観主義では、民衆の心を真に考えていない指導者となる。
 例えば、自身が悪口を言われ、難を受けた。それでも広宣流布のため、人びとの幸福勝利のために、微笑みながら、凜然と進む。それが真の楽観主義だ、と。
 今、学びに学んで、労苦を厭わず民衆の大地に飛び込み、平和のため、未来のために金の汗を流す従藍而青の男女学生部が、どれほど人類の希望となり、英明な大指導者と育ちゆくか。私は楽しみでならない。

その人が勝利者

 我らの勇気の行進は、妙法で結ばれた世界中の宝友の祈りと、いつも共にある。
 先日も、イタリア婦人部の皆さんが、日本の女性部へエールを込めて、素晴らしい愛唱歌「平和の使者」の動画を送ってくれた。
 「心を合わせよう
 声を合わせよう
 波を起こしていこう
 平和と幸福の波を」と。
 思えば、三十年前(一九九二年)の六月、ルネサンスの都フィレンツェを訪問中、女性メンバーたちの凜々しき決意の冊子に、私は感謝を込めて書き記した。
 「負けない人 その人は勝った人
 唱題の人 その人は幸の永遠の人
 広布に生きる人 その人は三世の長者の人」
 時代の試練にも負けじ魂朗らかに、イタリアの天地に躍動する同志の歌声と笑顔は、何と崇高なことか!
 日蓮大聖人は、弘安元年(一二七八年)の七月三日、妙法尼御前に仰せられた。
 「この法華経には、我らが身をば法身如来、我らが心をば報身如来、我らがふ(振)るま(舞)いをば応身如来と説かれて候えば、この経の一句一偈を持ち信ずる人は、皆この功徳をそな(具)え候」(新2098・全1402)
 まさしく今、創価の女性たちは、尊き心身に仏の大生命力を漲らせ、人間尊敬の振る舞いで、平和と幸福の波を起こしている。
 人生円熟の輝きを放つ、多宝の母たちをはじめ、大切な一人ひとりの無事安穏と健康長寿、福徳無量と所願成就を祈り、私と妻は題目を送り続ける日々である。猛暑の中、体調には、くれぐれも気をつけていただきたい。

さあ平和と幸福の波を!
若き生命の連帯は無限の希望。華陽姉妹、女性部に慈眼を注ぐ(2009年6月4日、信濃町の現・創価池田華陽会館で)
若き生命の連帯は無限の希望。華陽姉妹、女性部に慈眼を注ぐ(2009年6月4日、信濃町の現・創価池田華陽会館で)
立正安国の月へ

 今年も、「立正安国の月」にして「師弟の月」「青年の月」、そして「関西の月」である七月が巡り来る。
 わが師・戸田城聖先生は、一九四五年(昭和二十年)の七月三日、軍部政府による二年間の弾圧を耐え抜き、生きて出獄された。
 先生に私が初めてお目にかかったのは、その二年後(一九四七年)のことである。先生は座談会で「立正安国論」を講義され、呼び掛けておられた。
 「私は、この世から一切の不幸と悲惨をなくしたい。これを広宣流布という。どうだ、一緒にやるか!」
 この師弟の共戦を誓願し、「人間革命」即「立正安国」の平和運動に身を投じて、七十五星霜となる。
 私が事実無根の罪により、大阪の地で投獄されたのは、先生との出会いから十年後(一九五七年)の七月三日である。
 「もし恩を知り心有る人々は、二つ当たらん杖には一つは替わるべきことぞかし」(新2084・全1450)との御金言を体し、師弟不二の信心で、一切を変毒為薬した難であった。
 “大阪事件”から十年、関西の久遠の友と、この共戦譜を振り返る機会を得た。
 それは、一九六七年(昭和四十二年)の六月、関西本部幹部大会の折である。

常勝の心を継承

 当時の大阪府立体育館に勇み集った大阪、兵庫をはじめ全関西の同志と、私は語り合った。すなわち――
 ◎恩師がどれほど関西を愛し、東京と両眼、両肺のごとく大事にされていたか。
 ◎一九五六年(昭和三十一年)、異体同心の団結を合言葉に皆が一丸となり、弘教の金字塔を打ち立てる中で、世間をアッと驚かせる大勝利を飾ったこと。
 ◎翌年、“大阪事件”が起き、約二週間の勾留中、戸田先生には断じて累が及ばぬように盾となり、そして私が出獄した七月十七日に、中之島の中央公会堂で正しい仏法の勝利を宣言する大阪大会が開かれたこと。
 ◎四年半に及ぶ法廷闘争を貫き、一九六二年(昭和三十七年)一月、無罪判決を勝ち取り、満天下に正義を示したこと――等々。
 “常勝関西”の底力と戦いと伝統よ、永遠なれ!と、不屈の負けじ魂のバトンを託す語らいであった。
 「この関西の地より病人と貧乏人をなくしたい」との恩師の悲願を伝えつつ、私は断言した。
 「誰が何と言おうが、信心を貫き通した人が、真実の幸福と、真実の勝利とを満喫し、所願満足の人生を生き切っていけることは、絶対に間違いない!」
 そして私と関西の友は、「日蓮、一度もしりぞ(退)く心なし」(新1635・全1224)との御文のままに、追撃の手をゆるめることなく邪悪と戦い、断固前進しようと誓い合ったのだ。

希望掲げ大前進

 「常勝関西たれ」とのモットーを確認し合ったのも、この大会であった。
 この年、私は年頭に兵庫、大阪を訪れて以来、猛然と全国の友のもとへ走った。七月半ばまでの訪問先は、東京各地、埼玉をはじめ、二十六都道府県に及んだ。また関西には四度、神奈川に三度、愛知は四度、福岡へ三度と、足を運びもした。
 関西とともに――
 「全国の模範・東京たれ」
 「常に先駆の九州たれ」
 「広布の堅塁・中部たれ」
 「人材の牙城・東北たれ」など、各地にモットーを贈ったのも、この年である。
 そして今や、日本全国で、
 「三代城の北海道」
 「敢闘精神の関東」
 「正義の太陽・東海道」
 「師弟の信越」
 「誓願の北陸」
 「轟く歓喜の中国」
 「志の天地・四国」
 「広布の先進地帯・沖縄」と、全方面が桜梅桃李の持ち味を生かしながら、「水魚の思いを成して」(新1775・全1337)、創価の凱歌へ共進しているのだ。

大歴史家の指針

 モットーといえば、半世紀前、イギリスの歴史家トインビー博士をお訪ねし、始まった対話の中で、博士の座右の銘を伺った。
 すると、八十三歳の碩学は、即座に「ラボレムス」とのラテン語を挙げられ、「さあ、仕事を続けよう」という意味です、と教えてくださったのである。
 帰国後、この珠玉のモットーを、真っ先に伝えて、分かち合ったのは、わが戦友である壮年部であった。
 意気、天を衝く夏季講習会でのことである。
 「さあ、今日も戦おう!」
 「さあ、我らの仏の仕事を続けよう!」
 “生涯青年”の気迫で、健康を大切にしながら、はつらつとした生命の息吹を湛えゆく賢者の人生を、と約し合ったことが懐かしい。
 トインビー博士は、ある時、後輩たちに「次の仕事にとりかかる適切な時は、明日でもなければ来週でもない。今すぐなのである」ともアドバイスされている。
 そして、アメリカの慣用語を添えられた。
 「right now」――行動するのは、「今」がまさにその時なのだ。
 「創価の四条金吾」たる、我ら黄金柱の壮年部の心意気にほかならない。

青年よ共に立て
「勇舞」――友よ、勇み舞いゆけ! 池田先生が雄渾な筆をふるわれた書
「勇舞」――友よ、勇み舞いゆけ! 池田先生が雄渾な筆をふるわれた書

 大聖人が文応元年(一二六〇年)の七月十六日、国主を諫暁された「立正安国論」は、問答の最初に主人が「しばしば談話を致さん」(新25・全17)と語り掛け、最後は客が正義の対話を誓う言葉で結ばれる。
 「国のため、法のため、人のために」(新49・全35)――生命尊厳の哲理を語らずにはいられない。仏法中道の智慧と慈悲の精神を、一人でも多くの人に知らしめたい。民衆に奉仕する正しき信念の人材を、社会に送り出したい。このやむにやまれぬ大情熱こそ、我らの挑戦の原動力である。
 男子部、女子部(華陽姉妹)が結成された、誉れの「青年の七月」へ、地涌誓願の一人ひとりが、勇敢に快活に勇舞を広げている。
 ある時は若者世代が抱える課題や社会の難題を語り合い、ある時は友の悩みに耳を傾け涙し、ある時は心の握手を固く交わして共に立ち上がるのだ。これほど尊貴な青春讃歌はない。
 妙法尼御前への仰せには「百千万年くら(暗)き所にも灯を入れぬればあか(明)くなる」(新2100・全1403)とも示されている。
 深い闇に覆われた世界は、太陽の仏法の叡智の光明を渇望してやまない。
 頼もしき後継の青年群を先頭に、我ら創価家族の友情と信頼、共感と触発、そして開拓と連帯で、縁する友の心に光を送ろう!
 そして、「天晴れぬれば地明らかなり」(新146・全254)と、国土を照らし、希望の未来を明るく創り開こうではないか!

(随時、掲載いたします)

 〈引用文献〉トインビーの「次の仕事に……」の言葉は『回想録Ⅰ』山口光朔・増田英夫訳(オックスフォード大学出版局)。


誓願を果たす時は「今」 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」

2022年06月26日 | 妙法

誓願を果たす時は「今」 池田大作先生の写真と言葉「四季の励まし」2022年6月26日

 【写真説明】山下公園の芝生と街路樹の緑がみずみずしい。その向こうには、はるか太平洋へと続く横浜港の海が広がる。2001年(平成13年)5月、池田大作先生が神奈川文化会館から撮影した。
 この訪問の折、先生は、神奈川から世界広布への航海を開始した歴史に触れ、訴えた。「21世紀の日本の進路を、『人道』へ、『平和』の方向へと向けていきたい」「皆さま方の、たゆみない日々の行動こそ、その根本の力である。民衆の叫びほど、強いものはない」
 創価の師弟による立正安国の大闘争の軌跡が刻まれた7月は、もう間近。誓願の炎を燃やし、確信の声で、平和の明日を開こう!
 

池田先生の言葉

 我らには、
 果たすべき誓願がある。
 勝つべき闘争がある。
 その成就の力を具えて、
 生まれてきたのだ。
  
 険しい使命の難関が
 打ち続くことは、
 もとより覚悟の上である。
 その時こそ、
 まことの信心が試される
 勝負の時といってよい。
 全て、皆が永遠に
 仏になりゆくための
 仏道修行だからである。
  
 同じ広布の戦でも、
 喜んで動けば、
 功徳は大きい。
 自らの足で立ち、
 自らの声で語るのだ。
 友のために祈り、
 励ましていくのだ。
 自分が生き生きとすれば、
 皆も元気になる。
 皆が勝利し、
 皆が幸福になる道を
 開いていくのだ。
  
 声が大事である。
 声が弾丸である。
 声が剣である。
 しゃべるのだ。
 声の力で、
 相手の心を開き、
 心に響かせていくのだ。
 また、勇気と誠実で
 会って語れば、
 越えられない壁など
 絶対にない。
  
 自らの仏性に目覚め、
 広宣流布の使命に
 決然と
 「一人立つ」勇者がいれば、
 新たな変革の波が起こる。
 自分が変われば、
 地域が変わり、
 世界が変わる。
  
 満々たる生命力の
 題目の声を!
 友を励ます
 勇気と希望の声を!
 時代変革の
 正義と真実の声を!
 さあ、平和社会の建設へ、
 民衆の幸福拡大へ、
 「立正安国」の
 大願に燃えて、
 声を張り上げて
 打って出ていくのは、
 「今」この時なのだ。

 

栄光の共戦譜〉第6回 1965年(昭和40年)「勝利の年」

2022年06月24日 | 妙法

栄光の共戦譜〉第6回 1965年(昭和40年)「勝利の年」2022年6月24日

  • すべては「一人」から始まる

 池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の“師弟の足跡”がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる“学会の原点”を確認していく。第6回は、「勝利の年」と銘打たれた1965年(昭和40年)を掲載する。

「1・15」中等部結成記念日
「9・23」少年少女部結成記念日
中等部員の手を取り、励ましを送る池田先生(1975年8月、東京・八王子市で)
中等部員の手を取り、励ましを送る池田先生(1975年8月、東京・八王子市で)

 1964年(昭和39年)、池田先生は、青年部幹部との協議の場で語った。
 「みんなが賛成ならば、高等部、中等部を結成しようと思う」
 日本・世界の未来を見据えたとき、学会の使命は、中学・高校生を育成する範を示すことだと、先生は考えていた。
 同年6月7日、高等部が結成を迎えた。池田先生の第3代会長就任後、最初に誕生した部となった。翌65年(同40年)1月15日には、全国各地で中等部が結成された。先生は中等部員に対し、「勤行をしっかりしましょう」「勉強をしっかりしましょう」「正しく、強く、明るい毎日を送りましょう」等の指針を贈った。
 創価の後継たちへの育成が本格化し、8月には、「少年部をつくってはどうか」と提案。9月23日、少年部結成の集いが各地で開催され、この日が、少年少女部の結成記念日となったのである。
 先生は決して、未来部員を子ども扱いしなかった。時に優しく、時に厳しく、“後継の宝”への薫陶を重ねた。
 5年後の70年(同45年)、「言論問題」の嵐が吹き荒れた。困難な状況が学会を取り巻く中にあって、先生が絆を強めたのは、使命深き未来部員たちだった。
 同年6月、未来部の代表と語らいながら、先生は「大阪事件」に言及。「民衆を守り、幸福にするために、みんな、しっかり勉強してほしい」と訴えた。
 「言論問題」の渦中、先生は記者会見でこう宣言している。「学会がどうなるか、二十一世紀を見てください。社会に大きく貢献する人材が必ず陸続と育つでしょう。その時が、私の勝負です!」
 後継者の育成は、学会の未来を決する。“創価の師子”たる未来部員、そして未来部出身者の成長の姿こそ、師弟勝利の証しである。

「7・15」聖教新聞の日刊化
聖教新聞を開く池田先生と香峯子夫人(1980年10月、アメリカ・マリブ研修センター〈当時〉で)
聖教新聞を開く池田先生と香峯子夫人(1980年10月、アメリカ・マリブ研修センター〈当時〉で)

 「本紙日刊は、いよいよきょうから始まりました」――1965年(昭和40年)7月15日付の本紙で、聖教新聞の日刊化が告知された。
 51年(同26年)4月20日、戸田先生が第2代会長に就任する直前に創刊された聖教新聞は、ブランケット判の月3回刊。発行部数は5千部だった。
 広布の伸展とともに、64年(同39年)9月には200万部を突破。週3回刊となっていた。この年の秋から、日刊化に向けて準備が進められた。
 当初、日刊化は翌65年10月から開始される予定だった。だが、広布の前進が加速していることから、3カ月早められたのである。
 同年6月、聖教新聞社を訪問した池田先生は、急ピッチで作業に当たる職員たちを激励した。こまやかな新聞評も行い、「聖教は、思想と哲学の電源地であり、世界最強の言論城にしていかなければならない」と聖教の使命を訴えた。
 日刊化によって、先生の言論の戦いは、さらに激しさを増した。65年元日から本紙でスタートしていた小説『人間革命』の連載回数は、週3回から週7回へと大幅に増えた。早朝や深夜に原稿用紙に向かう日が続いた。
 やがて聖教新聞の発行部数は、三大紙と肩を並べるまでに飛躍的に増加。日刊化と相前後し、「ワールド・トリビューン」「ノーバ・エラ」(後のブラジル・セイキョウ)など、各国語の機関紙誌が世界各地で誕生し、“思想と哲学の光”は世界に広がっていった。
 「日本中、世界中の人に読ませたい」――この戸田先生の熱願を継いだ池田先生の激闘によって、聖教新聞は大きく発展した。聖教電子版は現在、210を超える国と地域からアクセスされている。

「8・17」メキシコ初訪問
メキシコの友を激励する池田先生(1996年6月29日、ベラクルス国際空港で)
メキシコの友を激励する池田先生(1996年6月29日、ベラクルス国際空港で)

 池田先生は、1965年(昭和40年)8月14日、北・中米訪問に出発した。この日は、その18年前、初めて出席した座談会で戸田先生と出会った日だった。
 17日、池田先生はメキシコを初訪問した。先生にとって、同国訪問は特別な意味を持っていた。58年(同33年)3月、恩師は、病床で愛弟子に世界広布の構想を託した。亡くなる前月のことである。
 「メキシコへ行った夢を見たよ。待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな、世界へ。広宣流布の旅に……」「君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ……」
 戸田先生がメキシコに関心を募らせたのは、牧口先生が『人生地理学』の中で同国について触れたことにあった。
 戸田先生が夢にまで見たメキシコ訪問――。池田先生は恩師の思いを胸に、3日間の滞在で、一人一人の心に広布の灯をともしていった。
 「さあ、メキシコ広布の新しい幕を開きましょう!」
 「一つの火が燃えれば、野原を焼き尽くすように、すべては、一人から始まる」
 先生が第一歩を刻んだ「8月17日」は後に「メキシコの日」となった。メキシコの同志は、その原点を節目として、友情の連帯を広げてきた。
 昨年の同日には、メキシコ創価学会として、SGI(創価学会インタナショナル)とICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が共同制作した「核兵器なき世界への連帯――勇気と希望の選択」展のバーチャル展示会が、メキシコ創価学会のホームページ上で開幕。積極的な平和発信は大きな反響を呼んだ。
 師と刻んだ原点を胸に、広布の“新しい幕”を開いていく――その連続闘争の中で、黄金の共戦譜は輝きを増す。

◆年表◆
1965年

 〈1月1日〉
 聖教新聞で小説「人間革命」の連載を開始
  
 〈1月15日〉
 全国各地での中等部結成式に、勤行、勉学の大切さなど5つの指針を贈る
  
 〈1月16日〉
 九州・関西・中国・中部指導(~20日。福岡、大阪、鳥取、岐阜、愛知)
  
 〈3月7日〉
 中国・関西・中部指導(~12日。広島、大阪、兵庫、愛知、静岡、山梨)
  
 〈5月3日〉
 会長就任5周年の第28回本部総会(東京)
  
 〈5月18日〉
 東北第3本部落成入仏式(秋田)
  
 〈5月28日〉
 中国・関西・中部指導(~6月2日。岡山、大阪、京都、愛知)
  
 〈6月23日〉
 関西・中部指導(~26日。大阪、兵庫、愛知)
  
 〈7月9日〉
 関西・中部指導(~10日。大阪、愛知)
  
 〈7月11日〉
 第8回学生部総会(東京)
  
 〈7月15日〉
 聖教新聞が日刊化
  
 〈8月10日〉
 高・中等部メンバーとの記念撮影の折、少年部の結成を提案(静岡)
  
 〈8月14日〉
 北・中米訪問(~25日。アメリカ、メキシコ)
  
 〈9月23日〉
 全国各地で少年部が結成される
  
 〈10月3日〉
 関西・中部指導(~4日。大阪、愛知)
  
 〈10月19日〉
 欧州訪問(~31日。フランス、西ドイツ、イタリア、ポルトガル)
 フランスでヨーロッパ本部事務所の開所式
 ヨーロッパ総合本部の設置、アフリカ支部の結成を発表
 遠路、各国から集った友の質問に答えつつ、欧州・アフリカ広布の伸展をたたえる(20日)
  
 〈11月23日〉
 第14回青年部総会(東京)
  
 〈11月26日〉
 第1回創価大学設立審議会(東京)
  
 ※年表は『栄光の共戦譜』から転載


第18回「大阪事件〈下〉」 「最後は勝つ

2022年06月22日 | 妙法

第18回「大阪事件〈下〉」 「最後は勝つ」――師の言葉胸に関西へ2022年6月22日

  • 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
イラスト・間瀬健治
イラスト・間瀬健治
【関西への指針】

  偉大なる
   大関西の
    わが弟子は
   正義の剣持ち
    断固と勝ちゆけ
 (長編詩「永遠の常勝関西を讃う」から)

本部幹部会・関西総会に出席し、常勝関西の友をVサインでたたえる池田先生(2007年11月、大阪市の関西池田記念会館で) 
本部幹部会・関西総会に出席し、常勝関西の友をVサインでたたえる池田先生(2007年11月、大阪市の関西池田記念会館で) 
◆吠えてこそ師子◆

 65年前の1957年(昭和32年)7月17日、29歳の池田大作先生は日記にしたためた。
 「中之島の中央公会堂にて、臨時の大阪大会あり」「万雷の拍手に迎えられ、更に広布の前進を、決意す。生涯の、記念の日となる。諸天の加護に、感謝す」(『若き日の日記』、1957年7月17日)
 この日、権力の横暴を糾弾する「大阪大会」が開催された。雷鳴轟く豪雨の下での、熱気に満ちた大会。その14日前、事実無根の選挙違反容疑で不当逮捕された先生は、獄中闘争の後、17日に釈放された。そして夕刻、大阪大会に出席したのである。
 戸田城聖先生は、愛弟子を守るため、大阪に乗り込み、大会で力説した。「正義は勝つというが、必ずしも勝つとは限りません。戦わなければ正義も敗れる。学会は、正義なればこそ、負けるわけにはいかん。断じて勝たねばならない。だから戦っていくんです。師子はね、吠えてこそ師子なんです」
 池田先生は、学会の正義を宣揚し抜くことを深く決意し、翌日、「必ずや、われらは、真実が勝利する時代を創らん」(同、同年7月18日)とつづった。
 7月29日、先生は起訴された。検察が起訴した刑事事件の有罪率は、当時、99%を超えていた。いったん起訴されると、無罪を勝ち取るのは不可能に近かった。
 初公判が行われたのは、3カ月後の10月18日。「裁判が十八日である。無罪を祈念し奉る」(同、同年10月13日)――先生は、裁判を通してえん罪を晴らすことを固く心に期していた。
 大阪地方裁判所に初めて出廷した際、池田先生の頭を駆け巡ったのは、わが身の行く末でなく、戸田先生のことだった。恩師の衰弱は著しかった。
 第2回の公判が行われた翌58年(同33年)3月6日は、恩師の逝去1カ月前である。この時、1カ月で20万人が集う大講堂落慶の祝賀行事が静岡で催され、「3・16」の式典も控えていた。その運営の全責任を担っていたのが、青年室長の池田先生だった。
 公判の前日、池田先生は、裁判のため大阪に行くことを、病床に伏す恩師に告げた。

大阪大会で登壇する戸田先生(1957年7月17日、中之島の大阪市中央公会堂で)
大阪大会で登壇する戸田先生(1957年7月17日、中之島の大阪市中央公会堂で)
◆「俺も、戦うぞ」◆

 戸田先生は、布団の上に身を起こすと、毅然と語った。
 「裁判は、容易ならざる戦いになるだろう。いつまでも君を悩ませることになるかもしれぬ。しかし、最後は勝つ。金は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか。真実は必ず明らかになる」
 過酷な法廷闘争は、釈放から4年半にわたって続いた。84回の公判で、先生は23回出廷している。
 裁判の初期、先生は危惧を記した。
 「午前十時より午後四時まで、公判。一口もしゃべることなく、終わる。ただ、非常に不利の感じを受く」(『若き日の日記』、1958年〈昭和33年〉9月25日)
 しかし、先生の勝利への確信が揺らぐことはなかった。「最後は勝つ」との恩師の言葉が心に刻まれていたのである。
 裁判長が先生に対し、法廷に毎回出てこなくても結構であると、伝えた時のこと。先生は答えた。
 「私の大事な大事な関西の同志がおりますから、まいります」
 法廷闘争の渦中、先生が何よりも大切にしたのは、愛する関西の友への激励だった。裁判の前後、あの地この地で同志と出会いを結んだ。
 57年(同32年)10月18日の初公判の日は、夜、神戸で開催された大会に参加し、同志を鼓舞した。この日の日記で、烈々たる共戦の思いをつづっている。「今こそ、信心の前進の秋と知れ。友よ、次の勝利に、断固進もう。俺も、戦うぞ」(同、57年10月18日)

兵庫池田文化会館から撮った神戸の街並み(2000年2月、池田先生撮影)
兵庫池田文化会館から撮った神戸の街並み(2000年2月、池田先生撮影)

 翌19日には、京都の宇治方面に赴き、20日には神戸の同志と懇談。関西の友と絆を強めた。
 61年(同36年)9月22日は、午後から出廷を控えていた。この6日前、第二室戸台風が高知の室戸岬に上陸し、近畿地方に甚大な被害をもたらした。先生は矢継ぎ早に手を打ち、関西創価学会は、迅速な救援活動を行っていた。そうした状況の中、22日午前、先生は被災した大阪・西淀川区に足を運んだ。
 屋根まで浸水し、ぼうぜん自失の中で、泥だらけになった家屋を片付けていたある男性。先生が突然、激励に訪れ、家族で驚いた。「誰よりも先に立ち上がるんだよ」との温かい励ましに、困難を乗り越えようとの勇気が湧いた。
 先生の来訪を耳にしたある女性は、信心反対の夫にそのことを伝えると、「(池田)会長がこんなところに来るはずはない」と一蹴された。
 しかし、実際に激励に訪れた先生が、「おケガはありませんか」「災害に負けてはなりません。変毒為薬ですよ」と、集まった同志に真心の言葉を掛ける姿に、夫は深く感動。その後、入会を果たしたのである。
 個人会場を訪問した先生は、帰る間際に言った。「裁判所にまいりますので、これで失礼させていただきます」
 先生は、自らが大変な状況に置かれながらも、わが身を顧みることなく、“苦労する友のもとへ”“大変な地域へ”と駆けていった。

「七月の おお十七日の 炎をば 君の胸にも あなたの胸にも 合掌」――1991年の7・17「大阪の日」記念幹部会を祝し、池田先生が贈った和歌
「七月の おお十七日の 炎をば 君の胸にも あなたの胸にも 合掌」――1991年の7・17「大阪の日」記念幹部会を祝し、池田先生が贈った和歌

 勝ち負けは 人の生命の 常なれど
 最後の勝をば 仏にぞ祈らむ
 【「若き日の日記」1957年(昭和32年)12月22日から】

◆正義の逆転劇を!◆

 裁判は重大な局面を迎えていた。
 61年(同36年)9月22日、被災者たちを見舞った後に出廷した第76回公判で、池田先生が主任検事への証人尋問を行ったのである。
 罪を認め、検察側の言う通りの調書に応じれば、学会本部の手入れや戸田先生の逮捕はない――主任検事が約束したことを、池田先生は、その時のやりとりから明確に示し、一つ一つ追及していった。すると主任検事は、「覚えていない」「記憶にない」と逃げ、裁判長の前で醜態をさらした。
 11月1日の第80回公判で、先生に関する4通の検察調書は、強要による自白の疑いがあるとして、全部、却下になった。1%の逆転勝利へ、大きく状況が変化した瞬間だった。
 12月16日、先生は最終陳述で力説した。「(戸田先生は)『裁判長に真実をわかってもらえれば、それでいいじゃないか』と言われ、やがて、亡くなりました。取り調べがいかに不当であっても、裁判が公正であれば、人びとは冤罪に泣かずにすみます」
 翌62年(同37年)1月24日、「大阪事件」の無罪判決前夜、池田先生は、兵庫の尼崎市体育会館(当時)で開催された関西男子部幹部会に出席。「初めて裁判のことについて私は口をきる」と前置きし、大阪事件について語った。
 善良な市民を苦しめる権力の魔性とは断固戦い抜くとの決意を披歴し、こう訴えた。
 「日本国中の人びとが、安心して幸福に暮らしていける世の中を築き上げようではありませんか!」
 法廷闘争の“正義の逆転勝利劇”は、一つの側面からいえば、57年10月18日の兵庫に始まり、62年1月24日の兵庫で結ばれた戦いだったともいえよう。
 そして翌25日、最終公判となる第84回公判が大阪地方裁判所で行われ、無罪が言い渡されたのである。

無罪判決の日、大阪地裁に向かう直前に、駆け付けた友と言葉を交わす池田先生(1962年1月25日)
無罪判決の日、大阪地裁に向かう直前に、駆け付けた友と言葉を交わす池田先生(1962年1月25日)

 大阪事件の本質とは何だったのか。
 後年、先生は記している。
 「なんら共通の目的も理念もなく、ただ利害と学会憎しの感情が生み出した、攻撃の包囲網といえよう。
 これこそ、障魔の連合であり、現代における法難の形態ともいうべきものが、そこにあった。創価学会は、そのなかで戦い、勝つことを、永遠に宿命づけられているのである」
 無罪判決の後、先生は旧関西本部へ向かった。「大法興隆所願成就」の関西常住の御本尊の前に端座し、感謝の祈りをささげた。さらに、その場にいた関西の同志の病気平癒を祈り、「大丈夫だよ」と万感の励ましを送った。
 この日、先生は語った。
 「戦いは終わったのではない。むしろ、これから始まるのだ」
 大阪事件の勝利のドラマは、先生の不惜身命の“一対一の激励”とともにあった。その真心は関西中を包み、さらなる堅固な常勝の基盤を築き上げていったのである。
 「最後は勝つ」――大阪事件の大闘争の折、恩師は愛弟子に語った。先生はその言葉を証明した。そして、愛する関西の同志に深き使命を託した。
 「必ず勝つ! 最後は勝つ! この負けじ魂こそが、関西魂だ。常勝魂だ。そして、わが学会魂である」

「大阪城を見ると、滝の如く、胸が高鳴る。巌の如く、信念の自分に還る」――“常勝の空”にそびえ立つ大阪城を池田先生が撮影(2000年12月)。「大阪事件」の舞台となった大阪府警は、かつて大阪城内にあった。大阪城を望む地に、「関西池田記念大講堂」が建設されることが昨年、発表。関西の友は今、正義と勇気の対話に奔走する
「大阪城を見ると、滝の如く、胸が高鳴る。巌の如く、信念の自分に還る」――“常勝の空”にそびえ立つ大阪城を池田先生が撮影(2000年12月)。「大阪事件」の舞台となった大阪府警は、かつて大阪城内にあった。大阪城を望む地に、「関西池田記念大講堂」が建設されることが昨年、発表。関西の友は今、正義と勇気の対話に奔走する

第21回 21世紀は女性の世紀 ④池田先生ご夫妻と兵庫の友

2022年06月19日 | 妙法

〈ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史〉第21回 21世紀は女性の世紀 ④池田先生ご夫妻と兵庫の友2022年6月19日

  • 日本一 世界一なる 兵庫かな 見よやあの地区 見よやこの支部
「1月24日」のメモ

 その日、池田大作先生は、兵庫婦人部長(当時)の西村尚子さんに一枚のメモを渡した。1985年1月24日のことである。
 メモは、先生の口述を香峯子夫人が筆記したもの。「兵庫婦人部の日 3月16日」と書かれていた。衝撃にも似た感動が、西村さんの五体を貫いた。さらに、三つの指針も記されていた。
 「清新な信心と幸の生活を作る兵庫」
 「希望の人生と求道常楽の兵庫」
 「あなたも私も仏子の兵庫」
 3月16日は、恩師・戸田城聖先生が池田先生をはじめとする青年たちに後事の一切を託した“広宣流布の記念式典”が行われた日である。西村さんは、兵庫の使命の重大さを痛感した。
 「兵庫婦人部の日」の制定が正式に発表されたのは、西村さんがメモを受け取ったその日に、兵庫池田講堂(現・西宮平和講堂)で行われた兵庫代表者会議である。
 先生は席上、「兵庫は日本一だ」と何度も語り、「人材も日本一、福運も日本一、仲の良さも日本一と誇れる素晴らしき兵庫を」と呼び掛けた。
 この日から23年前の62年1月24日、尼崎市体育会館(当時)で関西男子部幹部会が開かれた。先生は「善良な市民を苦しめている権力とは、断固、一生涯戦う」と宣言した。翌25日、先生に「大阪事件」の無罪判決が出された。
 先生が師子吼を放った「1月24日」から、「素晴らしき兵庫」の建設へ、友は新たな師弟共戦譜をつづり始めた。

神戸ポートタワーが青空に映える(1995年10月、池田先生撮影)
神戸ポートタワーが青空に映える(1995年10月、池田先生撮影)
決意のアルバム

 1991年7月、それまで3分県の布陣だった兵庫が6分県に発展した。
 藤田康子さんは、姫路県の婦人部長に就いた。同県のリーダーらは、新出発の決意を込めてアルバムを作成し、池田先生に届けた。
 新体制の発足から2カ月が経過した9月15日、藤田さんに一本の電話がかかってきた。「アルバムに、先生がご揮毫を認めてくださいました」との連絡だった。数日後、アルバムが戻ってきた。そこには、こう記されていた。
 「悔なき人生を おくりゆける人は 三世の幸福者であり 三世の長者である」。この言葉に続いて、「九月十五日 大作」とあった。さらに、左下のスペースには、「KANEKO」とつづられていた。
 先生ご夫妻の文字に、藤田さんの目は釘付けになった。“先生、奥さまの「姫路、頑張れ! 兵庫、負けるな!」とのエールだ”。湧き上がる感謝は、広布前進の力となった。
 当時、第2次宗門事件の真っただ中。藤田さんは師の励ましを胸に、一人一人と語り合い、「先生と共に、学会と共に、悔いなき人生を送ろう」と訴え続けた。
 昨年2月、肝細胞がんの手術を受けた。病が判明した時、藤田さんは「悔いなき人生を送る」との決意を一層、強くした。その誓いのまま、兵庫の地を駆け巡っている。

1991年9月15日、池田先生が姫路の友から届いたアルバムに、「悔なき人生を おくりゆける人は 三世の幸福者であり 三世の長者である」と揮毫。さらに、もみじや草花の絵があしらわれ、左下には「KANEKO」とのサインがつづられた
1991年9月15日、池田先生が姫路の友から届いたアルバムに、「悔なき人生を おくりゆける人は 三世の幸福者であり 三世の長者である」と揮毫。さらに、もみじや草花の絵があしらわれ、左下には「KANEKO」とのサインがつづられた
「やあ! お帰り!」

 それは突然の出来事だった。1989年10月17日、長瀬昭子さんは、西本時代さんが運転する車に乗っていた。
 赤信号で停車していると、後ろの車が、猛スピードでぶつかってきた。飲酒運転だった。
 翌18日、事故の報告を受けた池田先生は、即座に励ましの和歌を詠んだ。
 西本さんには「偉大なる 母の法難 耳にして 驚き祈らむ ひたすら無事をば」と送り、長瀬さんには「偉大なる 母の法難 耳にして 祈りに祈らむ 完治の笑顔を」と認めた。
 当時、二人は圏婦人部長として、互いに切磋琢磨しながら、広布拡大に挑戦していた。だが、事故に遭った後、“リーダーとして、同志の皆さんに申し訳ない”との思いが心を占め、悶々とした日々が続いた。
 事故から1年が過ぎた90年10月21日、二人に転機が訪れる。関西に滞在中の池田先生と懇談の機会に恵まれた。その日、関西文化会館に向かうと、先生はドクター部のメンバーの家族を励ましていた。
 「人生にはいろんなことがある。しかし、決して負けてはいけない。必ず宿命転換できる。どこまでも明るくいくんだよ」
 二人が近くで待っていると、香峯子夫人がそばに来た。
 事故からしばらくの間、長瀬さんは右腕に麻痺が残った。しかし、懸命にリハビリに励み、動くようになった。そのことを報告すると、夫人は先生に「ここに宿命転換をされた証明者がいます」と語った。先生は二人の方を向くと、両手を大きく広げた。
 「やあ! お帰り!」
 師は待っていた。二人が元気に戻ってくることを――。「お帰り」の一言は、暗雲が覆っていた二人の心に、まばゆい太陽の光となって差し込んだ。
 以来、この出会いを宝として、広布一筋の人生を歩んできた。今、立正安国の勝利劇をつづろうと、対話拡大に率先している。

兵庫池田文化会館の周辺に集まった求道の友に、三色旗を振って応える池田先生ご夫妻(1991年10月16日、同会館で)。この日に行われた関西総会で、先生は「関西は日本の『心臓部』である」と力説した
兵庫池田文化会館の周辺に集まった求道の友に、三色旗を振って応える池田先生ご夫妻(1991年10月16日、同会館で)。この日に行われた関西総会で、先生は「関西は日本の『心臓部』である」と力説した
感謝のある人は幸せに

 第1次宗門事件の折、播磨方面は宗門の悪僧らによる学会攻撃が、関西の中で激しかった地域の一つである。
 その嵐が吹き荒れていた渦中の1978年11月13日、池田先生は加古川文化会館を初めて訪問した。
 会館に到着すると、先生はすぐに同志の輪の中へ。握手を交わし、激励を重ねた。リーダーには「会員中心」の指揮を、と強調した。
 島津淳子さんは、館内の一室で役員に就いていた。そこにも先生は姿を現し、陰の戦いに徹する献身に、心からの感謝を伝えた。
 会館の2階では、婦人部の合唱団が練習していた。先生は香峯子夫人と共に足を運び、メンバーを励ました。
 加古川支部結成17周年を記念する勤行会で先生は、「きょうは、おそばでも食べているような気持ちで楽しく語り合いましょう」と切り出した。
 そして、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし」(新1623・全1192)との御聖訓を拝し、「いかに三障四魔三類の強敵が競い起こったとしても、“法華経に勝る兵法なし”の信心があれば、すべてに打ち勝っていける」と訴えた。
 勤行会の終了後、香峯子夫人は島津さんに声を掛けた。懇談の中で、夫人が語った「感謝のある人は幸せになります」との言葉を、島津さんは胸に深く刻んだ。
 師への感謝、学会への感謝――。先生の加古川初訪問を原点として、報恩の人生を進んだ。地域活動にも率先。健康体操を通して、近隣同士の絆を育んでいる。

大好きな丹波

 1982年4月17日、池田先生と兵庫の各部代表のリーダーとの懇談会が開かれた。
 その場で、吉竹としゑさんは、「明日の18日、丹波の総会を開催します」と伝えた。先生は「分かっているよ。大成功を祈っています」と語った。
 としゑさんと夫の五雄さんは、丹波地方の一粒種。自宅を広布の会場として提供した。畳を替えるたび、畳店から「なんでこんなに、お宅の畳は隅から隅まで傷むんですか」と不思議がられた。
 多くの同志の依怙依託となり、ひたすら丹波広布の原野を開拓した。旧習の深い地で、地域の有力者にも次々と学会理解の輪を広げた。
 吉竹さん夫婦の苦闘を、先生ご夫妻は誰よりもたたえてきた。78年、先生は「山奥に 福運一灯 久遠の幸」と詠み贈っている。
 師に見守られて迎えた総会は、2600人が集い、爆発的な盛り上がりを見せた。先生は、「2600人とは、よく集まったね。これで丹波は一つの突破口を開いたよ」と伝言を送った。
 総会から7カ月後の11月15日、丹波の婦人部総会が行われた。先生ご夫妻は友に寄せる真情を、メッセージにつづった。
 「兵庫第一に大好きな丹波の皆様」
 「どうか、素晴らしい信心第一、家庭第一、健康第一で兵庫第一の、いな日本第一のお幸せなお一人お一人になられますことを祈って、東京の地よりメッセージを送ります」
 メッセージは、香峯子夫人の手書きだった。
 この婦人部総会から今年は40周年。先生ご夫妻の深き慈愛は、今も丹波の女性たちを優しく包んでいる。

万感の和歌

 1994年5月、兵庫県の総会が東京牧口記念会館で行われた。
 池田先生は和歌を贈った。
 「わが天地 誉れの兵庫に 生まれけむ 三世の友との 広宣誓いて」
 「行くならば 栄光輝く この道を 兵庫の友と 歩む楽しさ」
 さらに、万感の思いを詠んだ。
 「日本一 世界一なる 兵庫かな 見よやあの地区 見よやこの支部」

池田先生ご夫妻が神戸市中央区の同志が作製した「フラワーカー」に“記念乗車”(1991年10月16日、兵庫池田文化会館で)。花馬車は、かつての神戸の異人館街を駆けたものを復元した。先生は友の真心に感謝して、「勝ちにけり フラワーロードの 晴れの城」と詠んだ。兵庫の友は“常勝の花道”を痛快に進む
池田先生ご夫妻が神戸市中央区の同志が作製した「フラワーカー」に“記念乗車”(1991年10月16日、兵庫池田文化会館で)。花馬車は、かつての神戸の異人館街を駆けたものを復元した。先生は友の真心に感謝して、「勝ちにけり フラワーロードの 晴れの城」と詠んだ。兵庫の友は“常勝の花道”を痛快に進む
【アナザーストーリーズ】
一切は一念の変革から

 今から55年前の1967年、兵庫本部(現・灘文化会館)が誕生した。同本部で、兵庫の主要行事が開かれ、池田先生は友との出会いを刻んできた。
 ある時、香峯子夫人が出席しての懇談会が行われた。その場に、小嶋悦子さんも集った。
 小嶋さんは、新たな役職に就いたばかり。組織には年長者が多く、どのように活動を進めていけばいいか分からなかった。
 その苦悩を率直に打ち明けた。すると、夫人は「私もそうでしたよ」と寄り添い、優しく語り掛けた。
 「ご年配の方は人生経験、生活の知恵が豊かです。そのことを学ぼうとする姿勢が大切です。信心のことは、御書を通して、しっかりお話しするようにしてください」
 夫人の励ましに、小嶋さんの心はすっきりとした。御書の研さんに挑戦し、メンバーと一方通行ではなく、双方向の関係を築いた。気心が知れてくると、組織の雰囲気は自然と明るくなった。
 心が変われば、行動が変わる。自身の一念の変革から一切は始まる――この確信を、小嶋さんは55年前の夫人との出会いでつかんだ。

明石から勝利の証しを

 「いい子だね」
 池田先生は、溝垣慶子さんが抱いていた、生後7カ月の長男・雅人さんの頬をなでた。1986年11月10日、関西文化会館の周辺でのことである。
 先生と溝垣さんが語らっていると、雅人さんが、握っていた先生の指を口の中に入れてしまった。「すみません!」と謝る溝垣さんに、先生は笑顔を浮かべて、「あれ、乳歯が生えてきているね」と。
 香峯子夫人は「おなかがすいているんじゃないかしら」と語り、手元にあった饅頭を取り出した。「これは、赤ちゃんには無理よね」。すると、先生が「それなら、お母さんにあげよう」と、饅頭を溝垣さんに手渡した。
 この出会いの翌月、雅人さんの難聴が判明した。検査を続ける中で、医師から「5歳になったら、手術をしましょう」と言われた。
 母として、手術は避けたかった。溝垣さんは必死に祈り、宿命転換を懸けて、学会活動に励んだ。
 2歳、3歳、4歳と、雅人さんの難聴は続いた。ところが、5歳の時、聴力が突然、回復した。医師は首をかしげた。手術の必要はなくなった。溝垣さんは、信心の力を心から実感した。
 次男の高志さんは、先天性の弱視で生まれた。その試練も、溝垣さんは夫・好人さんと共に乗り越えた。
 現在、雅人さんはITエンジニアとして、高志さんは中学校の教員として、社会で奮闘を重ねる。
 あの時の先生の励ましがあったから、今の家族がある――溝垣さんの感謝は尽きない。その師恩に報いるには、広布勝利の証しを打ち立てることと決め、使命の天地である明石、そして兵庫を奔走している。 

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