毎日が、始めの一歩!

日々の積み重ねが、大事な歴史……

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2017年11月22日 | 歴史

根が深く、しっかりしていてこそ、枝や葉も茂る。平和運動も同じである。多くの人が平和を願い、平和を叫びはする。しかし、根となる哲理なき運動ははかない。私たち創価学会の平和運動には、生命の尊厳を説き明かした、仏法という偉大なる哲理の根がある。
 人間一人ひとりを「仏」ととらえる仏法の法理に立てば、絶対に人の生命を、生存の権利を奪うことなどできない。また、イデオロギーも、民族も、国家も、宗教も超えて、万人が平等に、尊厳無比なる存在であることを説く仏法の視点には、他者への蔑視や差別はない。さらに、慈悲を教える仏法には、いかなる差異に対しても排他性はない。
 この生命尊厳の法理を、つまり、妙法という平和の種子を、人びとの心田に植え続けていくことこそが広宣流布の実践であり、それが、そのまま世界平和の基盤になることを、山本伸一は強く確信し、実感していた。
 次いで彼は、人生の目的とは真の意味で幸福になることであり、それには「死」という問題を解決することが不可欠であると述べた。
 この大問題を根本的に解決し、生命の永遠と因果の理法を説き明かしたのが日蓮大聖人の仏法である。その仏法に立脚してこそ、不動なる人生観を確立し、困難を乗り越える智慧と力を涌現させ、絶対的幸福境涯を開いていくことができるのである。
 伸一は、この日を起点に、さらに新たな二十年をめざしつつ、清らかな、麗しい創価家族として、所願満足の人生を送っていただきたいと望み、話を結んだ。
 総会の最後は、愛唱歌の合唱である。二十人の鼓笛隊が壇上に進み、演奏を開始した。メンバーは、バンクーバーやカルガリー、モントリオールなどからも参加しており、全カナダの鼓笛の友の演奏は、これが初披露となった。その中心者は、イズミヤ夫妻の長女カレンであった。新しい世代が育っていた。
 場内の同志は、総立ちとなり、肩が組まれた。スクラムは大波となって、右に左に揺れた。歌声は歓喜の潮騒となって轟いた。

 

 

 


牙城会

2017年07月06日 | 歴史

『「牙城会」がいい』

池田会長より 「広宣流布の牙城を守る人材育成の組織だから『牙城会』がいい」と、
          それまでの会館警備・当番の名称から「牙城会」として出発。
1971. 2.1 牙城会が結成される。
          このため、牙城会の任務スタート日が2月1日になっている。
9.1牙城会の日

1963年 9.1 広布の中心牙城である学会本部が落成。
1976年     「本陣を守護し、学会を厳護する」牙城会の使命と責任から、
           学会本部落成の日付を「牙城会の日」と制定。

牙城会バッジ
1971年、「G」をデザイン化した牙城会バッジが制定。

「G]の文字には、
 「学会」
 「厳護」
 「牙城会」
    の意義が込められている。

牙城会のテーマ
     厳護・常識・実践

牙城会 実践五項
    一、唱題根本
    一、絶対無事故
    一、時間厳守
    一、誠実な対応
    一、正確な連絡

牙城会 永遠の3指針
      信念の人
      努力の人
      忍耐の人

1980年 1.20
      関西戸田記念講堂に於いて行われた「第一回全国牙城会大会」の席上、
       池田先生より頂いた指針。

『「信念」「努力」「忍耐」とは、指導者としての素質の基本であるとともに、
  我が愛する牙城会への永遠の指針であります。』
 池田先生のメッセージより


1999年 8.21
「四六時中 広布のために 昼夜を分かたずの御健闘に対し 謹んで感謝 合掌 
 十方の仏菩薩よ 尊きこの方々を護れと祈りつつ」
 との万感の期待を込め、以下五項目の「牙城会の指針」が池田名誉会長より贈られた。 

牙城会 新・指針
    一、使命第一の牙城会
    一、冥の照覧の牙城会
    一、創価厳護の牙城会
    一、破邪顕正の牙城会
    一、健康第一の牙城会

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弥三郎殿御返事

2017年06月07日 | 歴史

〈教学〉 6月度座談会拝読御書 弥三郎殿御返事 2017年6月6日

御書全集 1451ページ10行目~12行目
編年体御書1022ページ5行目~7行目
後世にまで残る偉大な歴史を
「勝つ」と決めて全力を尽くす
 
本抄について

 本抄は、建治3年(1277年)8月4日、日蓮大聖人が56歳の時に身延においてしたためられ、弥三郎という門下に宛てられたお手紙です。
 弥三郎については御書の内容から武士ではないかと思われますが、住んでいた場所など詳しいことは不明です。伊豆の門下・船守弥三郎とは別人とされています。
 本抄は、弥三郎が出家の念仏者と法論を行うに際し、主張すべき内容や心構えについて大聖人に御指南を仰いだことに対して答えられたものと考えられています。
 初めに、日本国の人々が、主師親の三徳を具える釈迦仏を差し置いて阿弥陀仏を崇めているのは大謗法であり、それゆえに飢饉や疫病が起こり、他国から攻められるのであると言われています。
 次に、そのことを指摘する大聖人に対して、2度の流罪など、さまざまな迫害が加えられたことを述べられ、心ある人ならば自分たちのために大聖人が難に遭ってくれたのだと考え、
 その迫害の一部でも引き受けるべきであると仰せです。
 最後に法論に当たって述べるべき内容と心構えを示されています。すなわち、所領を惜しんだり、妻子を顧みたりするのではなく、ひとえに思い切るべきであると言われています。
 そして、今まで生きてきたのは、今回の法論に遭うためであると思い定めて戦い抜くよう励まされています。

拝読御文

 但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり

諸仏の“入其身”

 日蓮大聖人は今回、拝読する御文のすぐ後で、「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」(御書1451ページ)と仰せです。
「釈迦仏・多宝仏・十方の仏たちよ! 集い来って、わが身に入りかわり、私を助け給え」と心に念じなさい、との意味です。
 ここに説かれているのは、「善」の「入其身」ですが、法華経勧持品第13には「悪」の「入其身」である「悪鬼入其身」が説かれています。
「悪鬼は其の身に入って」と読みますが、これは「悪鬼」が、さまざまな衆生の身に入り、正法を護持する者をそしり、辱め、仏道の実践を妨害することをいいます。
 「悪鬼」とは、誤った宗教・思想、また人の苦悩の因となって、精神を乱す源をいいます。
 日蓮大聖人は例えば、第六天の魔王が法華経の行者を迫害するために、智者や権力者の身に入ると述べられています。
 これに対して、「釈迦・多宝・十方の仏」、すなわち諸仏が「入其身」すれば、仏の所従(=家来)である諸菩薩・諸天等が従い、法華経の行者を守護することは間違いありません。
 池田先生は述べています。「広布の誓願を貫く生命にはありとあらゆる仏が入其身する。それほど、尊貴な我らである。ゆえに、諸天善神が守りに護らないわけがない。
 大宇宙の善の働きを、全て味方にしながら、満々たる仏の力で堂々と進みゆくのだ
 “ここぞ”という勝負所では、わが身に、諸仏を「入其身」させる強盛な一念で祈り、行動していくことが大切になるのです。

瀬田川・宇治川

 今回の御文で言われる「勢多」とは瀬田川のことです。琵琶湖から流出して大阪湾に注ぐ淀川は、最も上流の部分を瀬田川といい、途中から宇治川と呼ばれます。
 瀬田川・宇治川は、古来、京都の南東の防衛線とされ、東国の軍勢にとって瀬田川・宇治川を渡れるかどうかが、京都を攻略する際のポイントになっていました。
 例えば、寿永3年(1184年)、源範頼と源義経の軍勢が、京都に入っていた木曽義仲の軍勢と戦った「宇治川の合戦」でも、ここが勝敗の分かれ目になりました。
 この時、義経軍に属する佐々木高綱と梶原景季の二人が先陣争いを演じたことは『平家物語』などに記されています。
 先に川を渡って先陣争いに勝った佐々木高綱は、優れた武士として、後の世まで名を残しました。
 この時、宇治川を渡りきった義経の軍勢が義仲軍を破り、勝利を収めました。
 また、鎌倉幕府と朝廷が戦った承久3年(1221年)の「承久の乱」の際も、北条泰時が率いる幕府の軍勢が、朝廷方の防戦をしのいで宇治川の渡河に成功し、
 勝利しました。幕府は、この乱に勝ったことで、全国各地に勢力を広げました。
 このように瀬田川・宇治川は戦いの勝負を決する場所とされてきたのです。
 ◇ 
 日蓮大聖人は弥三郎に対して、今回の法論こそが勝負を決する瀬田川・宇治川に当たり、名を上げるか下すかの分かれ目であると言われています。
 全力を尽くして戦い、断じて勝利していくよう、弥三郎を激励されているのです。

「今年の世間」

 拝読御文では「今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに」(御書1451ページ)として、本抄が書かれた建治3年(1277年)に多くの人命が失われたことを述べられています。
 すなわち本抄に「諸人現身に大飢渇・大疫病・先代になき大苦を受くる」(同1450ページ)とあるように、この年は深刻な飢饉があり、また疫病の大流行が見られました。
 疫病は建治3年の春から翌・建治4年の2月中旬まで、社会の各層に広がりました。この疫病について建治4年2月に書かれた「松野殿御返事」には次のように述べられています。
 “去年の春から今年の2月の中旬まで、伝染病が国中に充満した。10軒に5軒、また100軒に50軒まで、家族が皆、伝染病で死んでしまったり、また、病にはかからなかった者も、
 心は大苦悩にあっているので、病に侵された人々以上に苦しんでいる”(同1389ページ、趣旨)。疫病が猛威を振るい、多くの人が亡くなったことが分かります。
 また飢饉についても、同抄には次のように記されています。“日本国は、ここ数年の間、うち続いて飢饉が進み、衣食は全くなくなり、
 畜類を食べ尽くした”(同ページ、趣旨)と。当時の飢饉は、これほど深刻なものでした。
 日蓮大聖人は、このように多くの人が亡くなっていった中で、生き永らえることのできた自らの使命を深く自覚すべきであると教えられているのです。

池田先生の指針から 大変な戦いこそ宿命転換の好機

 重大なる法戦――広宣流布の言論戦に立ち会い、わが身、わが声、わが行動をもって仏法を宣揚し、師匠の正義を叫ぶことができる。これ以上の誉れはありません。
 「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり」――
 思えば、末法今時において、妙法に巡りあい、創価学会員として、創価の師弟として、世界広宣流布の道を共に歩めること自体が、最高の栄誉です。黄金に輝く人生です。
 戸田先生は言われました。
 「乱れた世の中で生活が苦しいとき、何故私たちは生まれてきたかを考えなければならない。
 みな大聖人様の命を受けて広宣流布する役目を持って生まれて来たということが宿習なのである。それが解るか解らないかが問題なのだ」
 長い人生の中にあって、「ここが勝負所である」「今が重大な勝負時である」という戦いに直面した場合も、この御文に通ずる体験でありましょう。
 私も、わが師と共に、わが同志と共に、幾度となく「此の事にあはん為なりけり」と命に刻んだ激闘が、数多くあります。同志の皆様もそうでしょう。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第13巻)
 ◇ ◆ ◇ 
 大聖人は、これから弥三郎が臨まんとする法論こそ、武士が名を挙げるチャンスである合戦と同じく、広宣流布の法戦において永遠に名を残す好機だと教えられています。
 そこで譬えに挙げられているのが、宇治・勢多の戦いです。
 そこは古来、京都に攻め入る際の要衝です。そこを余人に先駆けて突破して名を挙げることに、多くの名将たちも命を懸けたのです。
 私にとって、この一節は「“まさか”が実現」と、世間をあっと驚かせた「大阪の戦い」(1956年)の渦中、わが関西の同志と深く拝した御文でもあります。
 「今ここ」が、広布の突破口を開く決戦場であり、自身の宿命転換の正念場である――こう自ら決めて祈り、行動する時、必ず勝利の道は開かれます。
 大変な戦いの時こそ大転換のチャンスだと覚悟し、喜んで挑んでいくのが本当の勇者であり、賢者の生き方です。(同)


関ヶ原の戦い

2016年10月22日 | 歴史

関ヶ原の戦いは「裏切り者を見抜く」教科書だ 「友人、部下、同僚」こんな人物は要注意!

数多くの「裏切り者」が現れた関ヶ原の戦いを知ると、裏切りを「見抜く」目が養われます(写真:akg-images/アフロ)© 東洋経済オンライン 数多くの「裏切り者」が現れた関ヶ原の戦いを知ると、裏切りを「見抜く」目が養われます(写真…  

 関ヶ原の戦いは「裏切り」によって勝負が決着したのは有名だ。

 よく知られているのは「小早川秀秋」の裏切りで、彼の決断が戦いの行方を左右したと広くいわれている。

 しかし、実際の関ヶ原の戦いで、石田三成率いる西軍を裏切ったのは小早川秀秋ひとりではなく、ほかの多くの大名も追随して裏切っている。

 彼らはなぜ「裏切った」のか? この「裏切り者」への道を選んだ彼らの動機を探っていくと、そこには現代にも通じる日本社会特有の「しがらみ」が見えてくる。

 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、
全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計15万部のベストセラーになっている。

 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、関ヶ原の戦いに見る「人が裏切る動機」を解説する。

西軍が負けたのはすべて三成のせい?

 「1600年の関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍が勝利した要因は何ですか?」

 そう質問されると、歴史ファンに限らず、多くのみなさんが「小早川秀秋の裏切り!」と即答するでしょう。

 もちろん、その答えは正解です。彼の裏切りによって、互角で推移していた戦いの形勢はいっきに東軍の優勢へと転じます。

 しかし、このとき西軍を裏切ったのは小早川秀秋だけではありません。ほかにも多くの西軍所属の大名が、大将である石田三成の指示に従いませんでした。
なかには「本当の裏切り者」とも呼べる戦国武将もおり、これらが原因で西軍の劣勢は決定的となりました。

 小早川秀秋をはじめとする彼らが西軍を裏切った理由として、「石田三成が味方からも嫌われていた」ことが一般的によくいわれています。しかし、はたして本当に理由は「それだけ」だったのでしょうか。

 あらためて「裏切り者」となった人たちの動機を細かく見てみると、興味深いことに、そこには現代に生きる私たちの社会にも見られる、もっと「多様な理由」が存在します。

 そもそも「人が裏切る」動機は何なのか。どういう人間が裏切る可能性が高いのか。今回は「裏切り者」を見抜くコツを、裏切りが続出した関ヶ原の戦いを題材に解説したいと思います。

 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

勝敗を左右した「裏切り」とは?

 Q1.「関ヶ原の戦い」はいつどこで行われたのですか?

 戦いが行われたのは、1600(慶長5)年9月15日です。ただし、この日付は「旧暦」で、いまの「西暦」に直すと秋本番の10月21日です。

 現在も東海道新幹線や名神高速道路などが走る「関ヶ原」は、岐阜県と滋賀県の県境に近く、北国街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わり「関所」が置かれるなど、古くから交通の要衝でした。

 「関ヶ原」の地名は、この「関所」に由来します。

 Q2.誰と誰が戦ったのですか?

 それぞれの主導者は、東軍「徳川家康」、西軍「石田三成」です。

 「東軍」は、主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政なども含む総勢7万4000。

 一方の「西軍」は、西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2000。ちなみに西軍の「名目上」の総大将は、石田三成ではなく毛利輝元(てるもと)です。

 Q3.「戦いの原因」を教えてください

 原因は、「豊臣秀吉亡き後の政治の主導権争い」です。

 彼の息子、豊臣秀頼(ひでより)はまだ幼く、本来であれば徳川家康ら有力大名と石田三成ら優秀な文官との「合議」により政権運営が行われるはずでした。しかし、徳川家康はこれらのルールを無視し、次第に台頭していきます。

 その結果、「徳川家康に追随する大名」と「反感を募らせる石田三成のような大名」との間で亀裂が深まり、これがやがて「関ヶ原の戦い」へと発展します。

 Q4.どのように決着がついたのですか?

 戦いは、わずか半日で勝負がつきました。

 開戦時、東西両軍の兵力差はさほどなく、東軍を包囲するように布陣した西軍が有利な状況でした。

 しかし、戦闘に加わらない西軍大名が多く、戦況はしばらく拮抗します。やがて、家康の鼓舞に東軍がやや勢いを増すと、これを見た小早川秀秋はじめ西軍の一角が東軍に寝返り、この結果、石田三成ら西軍はなすすべなく敗走しました。

 Q5.裏切り者の「動機」は何だったのですか?

 そこには、大きく分けて「5つの動機」が存在します。

 西軍を裏切った大名を例にとりながら、「人が裏切る動機」を分析してみましょう。

「怨恨」「血縁」裏切りの動機は十人十色

 1.「冷遇」されたことへ恨み(小早川秀秋)

 裏切る動機のひとつめは、「小早川秀秋」(筑前名島〔福岡県〕30万石)に代表される、「冷遇」されたことに対する個人的な恨みです。

 小早川秀秋はもともと豊臣秀吉の妻、北政所(きたのまんどころ、おね)の甥で、子どもに恵まれなかった秀吉の養子となり「後継者候補」といわれていました。

 しかし、秀吉に実子「秀頼」が誕生すると、一大名の小早川家に養子に出されてしまいます。その後も戦場での失態から領地を没収されて左遷されるなど、石田三成ら豊臣政権から「さんざん、冷遇」されました。

 やがて小早川秀秋は旧領を取り戻しますが、このとき手を貸してくれたのが徳川家康です。石田三成らに対する「冷遇されたことへの恨み」が、小早川秀秋が裏切ることになった要因のひとつです。

 2.もともと「寝返る先」と仲がよかった(吉川広家)

 吉川広家(きっかわ ひろいえ、出雲・隠岐〔島根県〕14万石)は関ヶ原の戦い以前から、黒田長政をはじめ多くの東軍の大名と非常に親しく、しかも東軍の勝利を確信していました。

 しかし、彼は「諸事情から自らの望む陣営に加われなかった」のです。

 吉川広家は西軍の「名目上」の大将、毛利輝元のいとこで、吉川家は代々毛利「本家」を支える重要な「支族」の地位にありました。そのため、毛利輝元の西軍に参加するという意向に従い、広家も「表面上」これに追随します。

 ただ、水面下では「開戦前」から家康に内通しており、最後まで戦闘に加わらずに味方の進撃を妨害し続けるなど、「利敵行為」に徹しました。

 3.本人の意志ではなく「身内」に反対されて(鍋島勝茂)

 「本人の意志」ではなく「身内からの強い反対」にあって寝返った大名もいました。「鍋島勝茂」(なべしま かつしげ、肥前佐賀〔佐賀県〕35万石)です。

 勝茂の父、鍋島直茂(なおしげ)は、かつて島津家らと九州の覇権を争った龍造寺家の家臣でありながら、実質的には「当主」として君臨していた実力者でした。

 子の勝茂は、はじめは「独断」で西軍に属し、東軍の拠点を次々と攻略していたところ、本国の父、直茂から「いますぐ東軍に所属せよ」との命令が届き、関ヶ原の決戦を前に急きょ、戦線を離脱します。

 この父親の「卓見」が、鍋島家を救ったのです。

 4.わが身の「生き残り」を最優先して(小川祐忠)

 戦国時代によく見られる、典型的な「なりふり構わぬ」生き残り戦略。その代表例は、小川祐忠(おがわ すけただ、伊予今治〔愛媛県〕7万石)でしょう。

 小川祐忠は、当初は六角家に仕えていましたが、織田・浅井連合軍により六角家が滅ぼされると、浅井家に仕えます。

 やがてその浅井が織田に滅ぼされると今度は織田に、織田が明智光秀の手に倒れると明智に、明智がやられると柴田勝家に、柴田が滅ぶと豊臣秀吉にと、自らは「恥も外聞もなく」生き残る道を選びます。

 彼にとってみれば、関ヶ原の戦いもそうした「生き残り戦略」の延長にすぎなかったのでしょう。

最も多かったのは「勝ち馬に乗る」ため?

 5.最後に「勝ち馬」に乗ろうとして(赤座直保、朽木元綱)

 どっちつかずの日和見でしたが、「東軍が勝つ!」と見るや、体よく勝ち馬に乗ろうとした者もいます。数からいえば、これがいちばん多かったでしょう。

 赤座直保(あかざ なおやす、越前今庄〔福井県〕2万石)や朽木元綱(くつき もとつな、近江高島〔滋賀県〕9500石余)らは西軍に属し、関ヶ原の戦い当日を迎えます。このとき、
東軍への寝返りを画策していましたが、その「事前通告」は家康にしておらず、最後まで態度は「流動的」でした。

 戦いがはじまり、やがて「小早川秀秋の裏切り」を見るや、小早川軍の前面に布陣していた赤座や朽木は、小早川軍の先陣をつかさどる形で「勝ち馬」に乗ろうとして西軍を裏切ります。
その結果、東軍を勝利に導きましたが、当然その「功績」はまったく家康には認められませんでした。

 【番外編】「私は裏切っていません!」(島津義弘)

 島津義弘(しまづ よしひろ、薩摩・大隅〔鹿児島県〕56万石)は裏切り者のひとりとして扱われることもありますが、終始戦闘には参加しておらず、これは「誤解」です。

 西軍の事前の作戦会議で、当日の島津隊はもともと兵力も少なかったことから「二番備(にばんぞなえ)」、つまり敗北寸前の敵に「とどめの一撃」を加える役割を命じられていました。
戦闘への不参加はこのための「兵力温存」であり、小早川秀秋、吉川広家らの動向とはまったく異なります。

 ただし、「じつは石田三成の采配に不満をもち、兵を動かさなかった」とも言われます。

 結局、島津隊の出る幕がないうちに西軍が崩壊したため、島津義弘は敵陣を「中央突破」し、家康本陣をかすめて戦線を離脱しました。

 西軍を裏切った大名の動機をあらためて詳しく見ていくと、意外にも「石田三成本人への怨恨」を挙げる大名は少ないようです。

 もちろん、石田三成を嫌っていた大名ははじめから家康の側につくでしょうから、それはある意味、当然ともいえます。「関ヶ原の決戦当日をむかえるまでの石田三成は、それなりに西軍をよくまとめていた」とも思います。

 とはいえ、石田三成が西軍の大名から好かれていた様子もなく、そうでなければ、これほどの「裏切り」が続出するわけがありません。やはり、「石田三成に人望がなかった」というのも本当のようです。

 もし、徳川家康に匹敵する人望を石田三成がそなえていたら、戦いの結果は違っていたかもしれません。

「裏切りは当たり前」だった戦国時代

 現代に生きる私たちの価値観では、「裏切り」と聞くと非常にマイナスイメージがあります。しかし、当時はむしろ「裏切りが当たり前」の時代でした。

 自分たちが「生き残る」ために烏合(うごう)離散は日常茶飯事。このころはまだ「武士道」などという言葉すら存在していません。下克上の戦国時代を生き抜いてきた大名たちにとって、裏切りは特別なことではなかったのです。

 もうひとつ、多くの裏切りが起きた背景には「徳川家康の画策」がありました。家康は情報網を駆使して事前に周到な策をめぐらせ、裏切りを誘発していたのです。

 この時期、家康は西軍に味方しそうな各地の大名たちに膨大な数の手紙を書き送り、決戦の前から懐柔していました。その結果、西軍には家康に内通した大名たちも多かったのです。

 石田三成は、そうしたことに警戒はしていなかったのか。怪しい動きを察知することはできなかったのか。裏切る人の動機はさまざまありますが、結果からすれば、内通を見抜けなかった石田三成は脇が甘かったと言わざるを得ません。

 このように関ヶ原の戦いを見てみると、現代にも通じるさまざまな教訓を得ることができます。「勝利する者」は事前に周到な準備をし、逆に「敗者」の側から見れば、裏切る者には何かしらの「動機」があり、
それを冷静に見抜けなかったことが敗北につながりました。

 日本史には、このように人間関係を考えるヒントが詰まっています。ぜひ歴史を学び直すことで、ビジネスや実生活で生き抜くための「人間関係の武器」を手に入れてください。