湯川秀樹「中間子論は風呂の中で生まれた」…常に問題意識を持って「考える愉しさ」を
中国、唐代の文章家であった王陽修は「余平生。作ル所ノ文章、多ク三上ニアリ。馬上、枕上、厠上」と書いている。また物理学者の寺田寅彦博士のエッセーの中にも「三上」というのがある。いい文章やいい発想は、えてして三上にあるときに生まれるという。
現代風に言えば、「ベッドの上、電車の中、トイレの中」ということであろうか。湯川秀樹博士は「私の中間子論はお風呂の中で生まれた」と話しておられる。
《山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る》
有名な夏目漱石の『草枕』の書き出しであるが、漱石は、坂道をゆっくり登っているときによい考えが浮かんだようである。
但馬文教府長であったころ、ノーベル化学賞を受賞された福井謙一教授を講師に招聘(しょうへい)して講演していただいたことがあった。教授は、「私は昔から何でも思いつくと、すぐメモをとる癖がありましてね。早朝の散歩のときもそうだし、夜中寝ているときでも思い付いたら、すぐ暗闇の中でもメモしておく。だから毎晩、枕元にメモ用紙を置いて寝ます」と話された。
そして、ここで大事なことは「偶発的なものであっても、何もないところからは何も生まれない。常に問題意識というか、執念を持っていないとよいアイデアは浮かばないということです」と。
色紙を出して「一筆お願いします」とあつかましいお願いをしたところ、快く「創造」と書いてくださった。私は、この書を弥勒菩薩の思惟像と一緒に大事に書斎に掲げている。
《…実際、よい思い付きは、例えばイエルリンクの書いているように、ソファの上で煙草を喫(の)んでいるときとか、または、ヘルムホルツが自然科学者らしい精緻さを以て述べているように、だらだら登りの道を散歩しているときとか、一体にそういった場合にあらわれることが多い(マックス・ウェーバー著『職業としての学問』から)》
これは、私がもう45年以上も前から新聞記事の切り抜きをしていて、その中で最も大切に保管している記事なのだが、大河内一男先生(当時東京大総長)が、「勇気あることばとは?」と問われて選ばれたものである。元をただせば、マックス・ウェーバーが死の前年、ミュンヘン大学の学生に、学問へ志す者への警告として発した言葉だそうだ。
大河内先生は、「思い付きは、ひとが机に向かって詮索や探究に余念がないようなときではなく、むしろひとがそれを期待していないようなときに突如としてあらわれるものなのである。その意味で、ウェーバーは、また学問的情熱や、それと結びついた『霊感』の重要さを指摘している点に私は大いに心を奪われた。学問が飛躍的に発展したり、新しい学問領域が開拓される場合には必ず、ひらめきが突如あらわれるものである」と述べておられる。
畑の草を引きながら、校長室に揚げている高村光太郎の書「いくらまハされても天極をさす」をじっと見つめている東井義雄先生の姿が浮かんだ。
喜寿を迎えて、学問とはほど遠い日常になっている私だが、余命は私の座標軸上で、考える愉(たの)しさ、思惟のすばらしさに浸る生活にしようと思っている。