市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

夜の視界 サッカーワールドカップ ブラジル大会

2014-06-26 | 生き方
 夜の闇に映える街角は、ただあちこちの照明看板が、一箇所に集まって見えただけであった。それが、にぎやかな街角だと判断できた。そこへ向かって歩きだすと、街角はなく、コンビニや、街灯や、シグナルがぱらぱらとあっただけであった。つまり闇は照明の相互の距離感を視界に感じさせなかったからである。

 サッカーW杯でだれもが一次予選どころか、準決勝どころか優勝も視野のうちとう盛り上がりは、終わってみれば、夜の赤江大橋で、街角を見た視界ともいえそうである。話を聞くと
これまで日本チームは、W杯は前回も一次予選で敗退だったというし、世界の強豪と試合した経験もほとんどなく、ただアジア大会で最強であったということである。サッカーの世界大会というのは、闇の世界であったわけである。闇の作用を無視して、日本チームの煌々とした灯りを視界に入れ、おおいに盛り上がりまくっていった日々が何十日とつづいたのであった。それはそれで、よくもまあ、これだけ、日本全国つづうらうらまで、サッカーサッカーに愉快な日々にファンも選手もメディアもテレビのコメンテーターも歓喜にあふれていたのだから
結構な話であったと、言っていいのではないかと思う。

 世界のサッカー競技の質・量を実際に測定できる手段がなかったのだから、自分中心で判断するしかないわけでアジア大会優勝のレベルで、世界大会のレベルを推し量るしかないわけで
ある。それにチームのほとんどの選手がイギリスやスペイン、ロシアのチームで活躍、それなりの実績を加算して、灯りを見るわけであった。夜の闇の力が、盲点となっていたことはだれも自覚できなかったのだ。つまり盲点があった。その盲点で負けた。盲点は意識できないから
盲点なわけで、せめられる筋合いはどこにもないわけだ。終わってから初めて気づくだけだ。
橋上の闇のかなたに遠望できた街角がなかったからといって嘆くことはなく、理由がわかって
かえっておもしろかったのであった。
  
 選手もファンも、歓喜の日々は終わった。たのしんだだけ、得だったといえるではないか。ブラジルまで、日本から一番遠い国まで、応援にかけつけたファン、その礼儀正しさが世界から賞賛されたという情熱と名誉は、いい日々であったはずである。今を嘆き、悔やみ、未来に
暗たんたる思いを抱くのは、よろこびのあとの苦しみで、いいことばかりが永遠につづくというわけではない。要するに闇の力が見えなかっただけの話である。あるいはバイアスの力は自分が生み出す力である。その力を、こんどは闇の克服に合理的に向けていくことを、自覚すべきであろう。







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