市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

赤江大橋 夜の視界から視覚へ

2014-06-12 | 社会
 
 遮蔽物もなく、なぜ小戸橋の欄干上にならんだ照明ランプが赤絵大橋から歩きながら見ると、消えるのか、その方程式を解くことはできなくなったので、やっぱり橋の上に行ってみることしないとなり、ある日、ぼくは午後10時半すぎに、草ぼうぼうの土手を歩き出した。恐れたほど危険ではなく、草に覆われてはいるが、通路はまだ残っていた。ここにくるには、赤江大橋の南端から土手まで数メートル下の土手に下がらねばならない。下がって50メートルほど歩いたときだ、目の前の小戸橋、まだ全長が残っていて、その
500メートルほどの欄干は、ランプですきまなく密植され、長大な電飾となった川を横断していた。それは、まさに壮観であった。たぶん、その光景を目にした人はあまりないのではないだろうか。赤江大橋から、こういう電飾が土手に下りたとたんに見えるとは、想像もできないはずだし、わざわざ夜に土手を歩く理由などもないわけであろうから、だれも気づかないということになるのではないかと思う。
 
 そして、ぼくは、その電飾の橋にたどりつき、その進入禁止の柵をのりこえて、橋上に立ったのであった。そして、消滅のなぞは、解けた。欄干に並んだランプは、じつは、片側の欄干にしか並んでいなかった。こちらからみる欄干でなく、奥のほうの欄干にである。夜の赤江大橋の欄干からみるランプの並びは、こちら側でなく、あちら側の欄干に片側だけ並んでいたのだ。そんなことが想像できるものではなかった。さらにおろろくことには、こちら側に橋の欄干と、一メートルほどの歩道と車道側を仕切る柵と、2重の鋼鉄の格子状デザインの枠の間からランプは見えていたのである。この2層になった格子は、角度によって、格子がかさなり、ランプの所在を覆って、あるいは隠してしまうのである。土手の上からは、下から見上げるので、隙間がつぶれることはなく、小戸橋全体のランプが、見えるわけである。とういうことであったのだ。

 さて、ここで、ぼくは、賑わいの街角とか、消滅する電飾ランプの遮蔽物とかをはじめに視認したことは、間違いであったかというと、そうではなくまさにそのものであったことだ。見て判断したプロセスは、はじめは正しかったし合理的でさへあったといえる。そしてそれは、とんでもない誤認であるという結果につなっがっていった。見た目の背後につよく働くバイアスつまり偏向の要素があったわけである。もし、闇の影響力というのを体験していたなら、目にした光景を、別のものに解釈できたかもしれないと思う。かんがえると、見るということは、カメラのモニターに景色が写るようなものでなく、無意識にうちにその解釈、つまり対象への認識があり、それを了解しているということをいまさらに思い出したのである。視界では、いちいち意識的にそれはなに、なりとするのでなく、日常経験の上で、習慣的にしょりしていっているということだ。そのことを自覚させるのに隠し絵というゲームがある。たとえば、森の風景画があり、小鳥と舞、ウサギが草を食みする風景のなかになお3匹の動物が隠されているので探そうなどというのだ。それがかんたんにみつからない。見つけるには、木々の枝とか、草の姿などを森の要素としてみるのでなく、デザインの線として捉えなおして見る必要がある。すると、枝がくみあわされて、猿の顔になったり、草の曲がりがリスになったりして、動物がうかんでくるのだ。つまり、森という規制を、意識的にはずすという視覚へのコントロールをやらねばならぬのだ。

 つまり、見るということは、とても不安なことでもあるのだ。見ただけで信じるなどということは、とんでもない恐ろしいことなのであるということである。見るということは意識化して、検討しうるが、情報認識という意識にかかるバイアスは、想像をこえる力を働かせているはずである。これが国家規模となると、とんでもないことを信じていくことになる。しかも、それがもっとも合理的な自分の推理によってこうなると、信じ込んでいくことになるのかもしれない。昔、鬼畜米英というスローガンがあったが、今は暴力国家中国というスローガンがある。これは視覚と同様に正しいのかどうか、バイアスを知る必要が不可欠ではなかろうか

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