市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

2011年クリスマスイブ 快楽 大衆情報

2011-12-24 | 日常
 
 ここ数年のクリスマスイブのぼくにとっての快楽は、イルミネーションの電飾を「見て廻る」ことが、主たる部分である。今夜は、去年よりももっと冷えそうだ。市街地の住宅や、閉ざされた小さな商店、なんらかの理由で、町内の一区画だけが電飾を家庭ごとに光らせている通り、果てしない暗がり、いきなり犬が吠え掛かる路地に光るクリスマスツリーとか、一時間ほどの寒がりの中で出会えるクリスマスイルミネーションである。その侘しさ、孤立感、それでいて生活観と、絆を求める暖かい呼び声を感じることで、クリスマスを楽しめることが出来るのだ。

 このクリニックの駐車場入り口の電光看板の足元に、ゴミが捨てられていた。ネルのような灰色のズボン下一枚に、ベッドの端の鉄製の支柱、それとペットボトルやアルミ缶、プラスティックの破片とボトルとチリ紙、雑誌の破れなどが詰められたビニール袋は汚れて、内臓の塊が透けて見えるようだった。おそらくどこかの入院生活者を想像させる廃棄物である。おそらくこの人物は、ひどく孤立した、ひとりぼっちの寂しい男であろう。女性ならこういうことはしないだろうと思う。自分のつけていた下着などは捨てられないであろうと思う。こんな孤立の状況を想像すると、人はほんとうに孤立に強くなり自信を深めなければならないと思う。その力によって、必要な人間力をももつことができるからである。それによってのみ、孤立感を自分からなくせるからである。クリスマスイブは、孤立感を実感させる夜でもある。

 快楽とは、自分から作り上げる快楽でこそだ。つまり自分だけで楽しめることをいかに発見し、創作するかが、現実に対応する方法でる。だれもそれは教えない。いや、快楽は外にしかないとしか示唆しない。この商品を買えば、この料理をクリスマスの夜に楽しめば、快楽は訪れるとテレビは、本放送の部分全体を使って説きまくっているではないか。今夜の黄金時間帯の番組は、そうなるだろうと予測出来るように思う。

 酷寒の朝、アナウンサーが、ラジオで叫んでいた。今日は一日冷えますので、お出かけは「出来る限り」(デキルカギリ)「厚着」をしてください!と。耳にしたとたんぼくは吹き出した。厚着で団子のように膨れ上がった男のイメージで、笑えたのだ。出来る限りの厚着とは、具体的にどんなことなのかと、考えてみると、その具体的な行動はなんなのだろう。何枚、重ね着をすればいいのか、どんなものを重ねるのか、下着、シャツ、セーターにジャンバーかアノラックか、いやダウンかダウンも薄手かあるいは登山用のか、出来る限りであれば、登山用かと、どうだろう、出来る限りの厚着とは具体的な意味はないのである。出来る限りの薄着なら意味は明確である。ではアナウンサーは「出来るだけ厚着をして」と言いたかったのだろう。なら、大半の女性たちは、この寒さでも出来るだけ薄着をして、着膨れにならないようにとうのは本心ではないだろうか。アナウンサーが出来るだけ厚着してというのは、余計なおせっかいとなる。

 アナウンサーの発言は、ではなにを伝えたかったのだろうか。それは酷寒という大衆情報を伝えたかったのだ。その情報を誇張して、否応でも情報に反応させ意識を捉えることである。誇張と浸透(洗脳)というマスメディアの特性を身をもって実践していく習慣がついてしまっているのだ。それが、現実とは関係のない状況説明を生んでいく。日常用語、まったく普通の当たり前の呼びかけのなかにそれが忍び込んでいるのだ。そのことはアナウンサー自身が、職務をつくしている間は、自分の言葉の可笑しさを自覚できない。

 さて、もうすぐ昼休みになる。ぼくも委員に名を連ねている『レコード音楽愛好会』主催の「街角コンサート」を午後一時半から聞きに行く。真空管アンプでレコードのクリスマス関連の曲である。およそ2時間半の内容であるが、多分一時間ほどしか参加できないであろう。その後喫茶店でコーヒーのみながら本を読み、それから温泉に行き、夜のクリスマス・イブ電飾を見て廻る。風邪を引くかもしれないが、風邪というのは立ち向かえば避けられるかもしれない。この危険も快楽だ。

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