「なる」という言葉が嫌いだ。べつに「なる」という言葉自体を嫌っているのではない。日常での使われ方がとても気になる。「なります」「なっています」「なりました」。いろんな出来事が、これらの言葉で説明されている。「なっている」って、べつに自然現象じゃないでしょ。誰かがそう「決めた」んだし、あなたがそう「行って」いるんでしょ。そう言いたくなることがある。
「なる」。広辞苑にはこうある。現象や物事が自然に変化していき、そのものの完成されたすがたをあらわす。
ポイントはふたつだ。人の手が加わっていないこと。そして、完成されたすがたであること。「なります」は、これから物事が変化して自然と完成したすがたになること。「なっています」は、物事が変化して自然と完成したすがたになりつつあること、あるいはすでにそうなっていること。「なりました」は、物事が自然に変化し完成した姿にすでになったこと。
いずれにせよ「なる」という言葉は、人が事象や物事の変化には関われないこと、そして、それが完成したすがたであることを示す。
だから、出来事を「なります」「なっています」「なりました」と説明されると、そのプロセスにも関与できないし、その完成したすがたを決めることもできない。私たちはそんな無力感を持つことになる。もちろん、ふたたび巡ってきた春に咲いた桜や、夏の雨降りの後のアスファルトのにおいを語るとき、「なる」という言葉を使うのはよい。しかし、いつ、誰が決めたのかわからない無意味なルールや、目の前の行動の根拠を尋ねた時に、「なっています」というのは思考や責任の放棄といえる。
山本七平の『空気の研究』でも知られているが、第2次世界大戦後に連合国が戦時日本の指導者たちを取り調べたところ、誰一人として「自分が戦争を決定して、遂行した」という人はいなかったそうだ。私としては内心は反対だったのですが、反対できる空気ではなかったのです。みんなそんな感じのことを言ったそうだ。誰一人として自分が決定したという人間がいない。そして日本人だけでも三百万人もの人が死んだ。(この日本人というのは、当時の日本人すべてのことなのだろうか。台湾人や朝鮮人は入っているのだろうか)。
山本七平はそこから「空気」という言葉を使ったが、やはりこれも「なっている」の典型だ。戦争に「なり」そうな雰囲気に「なって」いるから、自分には何も出来ない。「なる」というのは、物事が自然に変化して、完成したすがたをあらわすものだからだ。しかし戦争は人の行うことだ。自然現象ではない。大きな流れが出来ていても、「行う」「行わない」をそれぞれが思考し、自己の責任で決定すべきなのだ。
「なっている」が危険なのは、力の弱いほうに圧力や強制力が向かっていくことだ。はじまることに「なった」戦争は、自然に変化しながら完成したすがたを目指す。「なった」ものだから、その「始まり」に人は関われない。しかし、その完成したすがたへ遂行には人は関われる。戦争に「なっている」のだから命がけでがんばれ。力の弱いものに圧力や強制力がはたらく。力の弱いものも、その圧力や強制力は「なっている」ものとして受け取る。そして内心は反対でも、実際に反対することはない。
「なる」という言葉は自然現象にだけ使うべきだ。人が関わっていることには極力「する」「行う」という言葉を使うほうがよい。四季の巡りは止めることは出来ない。そのように「なって」いるからだ。だから自然をいたずらに開発するのでなく、よく観察して持続可能な交流をするべきだ。しかし、人が「する」「行う」ことには、「しない」「行わない」という選択肢もあるのだ。まずは、その選択をしよう。人が「行う」ことを「なっています」と言ってしまうと、力の弱いものに圧力や強制力が向かってしまう。それはあまりよいことではない。
なぜ、この文章を書こうと思ったか。文科省の天下り問題へのメディアや国民の反応が気になったからだ。官僚が禁止されている天下りを、組織的に行っていた。つまり不正にお金を手に入れられる仕組みを作り、運用していたわけだ。人が行ったことだ。しかし、メディアなどがそれほど強く反発している感じはない。事実を淡々と伝えている。官僚ってそう「なっている」よね、そんな感じがする。その一方、ときおり話題になるのが生活保護の不正受給問題である。これにたいしては、悪いことを「行っている」人がいる。けしからん。そんな反発を感じる。天下りは「なっている」が、不正受給は「行っている」。なんかバランスの悪いことにな「なっている」。そんな感じを持つのは僕だけだろうか。
「なる」。広辞苑にはこうある。現象や物事が自然に変化していき、そのものの完成されたすがたをあらわす。
ポイントはふたつだ。人の手が加わっていないこと。そして、完成されたすがたであること。「なります」は、これから物事が変化して自然と完成したすがたになること。「なっています」は、物事が変化して自然と完成したすがたになりつつあること、あるいはすでにそうなっていること。「なりました」は、物事が自然に変化し完成した姿にすでになったこと。
いずれにせよ「なる」という言葉は、人が事象や物事の変化には関われないこと、そして、それが完成したすがたであることを示す。
だから、出来事を「なります」「なっています」「なりました」と説明されると、そのプロセスにも関与できないし、その完成したすがたを決めることもできない。私たちはそんな無力感を持つことになる。もちろん、ふたたび巡ってきた春に咲いた桜や、夏の雨降りの後のアスファルトのにおいを語るとき、「なる」という言葉を使うのはよい。しかし、いつ、誰が決めたのかわからない無意味なルールや、目の前の行動の根拠を尋ねた時に、「なっています」というのは思考や責任の放棄といえる。
山本七平の『空気の研究』でも知られているが、第2次世界大戦後に連合国が戦時日本の指導者たちを取り調べたところ、誰一人として「自分が戦争を決定して、遂行した」という人はいなかったそうだ。私としては内心は反対だったのですが、反対できる空気ではなかったのです。みんなそんな感じのことを言ったそうだ。誰一人として自分が決定したという人間がいない。そして日本人だけでも三百万人もの人が死んだ。(この日本人というのは、当時の日本人すべてのことなのだろうか。台湾人や朝鮮人は入っているのだろうか)。
山本七平はそこから「空気」という言葉を使ったが、やはりこれも「なっている」の典型だ。戦争に「なり」そうな雰囲気に「なって」いるから、自分には何も出来ない。「なる」というのは、物事が自然に変化して、完成したすがたをあらわすものだからだ。しかし戦争は人の行うことだ。自然現象ではない。大きな流れが出来ていても、「行う」「行わない」をそれぞれが思考し、自己の責任で決定すべきなのだ。
「なっている」が危険なのは、力の弱いほうに圧力や強制力が向かっていくことだ。はじまることに「なった」戦争は、自然に変化しながら完成したすがたを目指す。「なった」ものだから、その「始まり」に人は関われない。しかし、その完成したすがたへ遂行には人は関われる。戦争に「なっている」のだから命がけでがんばれ。力の弱いものに圧力や強制力がはたらく。力の弱いものも、その圧力や強制力は「なっている」ものとして受け取る。そして内心は反対でも、実際に反対することはない。
「なる」という言葉は自然現象にだけ使うべきだ。人が関わっていることには極力「する」「行う」という言葉を使うほうがよい。四季の巡りは止めることは出来ない。そのように「なって」いるからだ。だから自然をいたずらに開発するのでなく、よく観察して持続可能な交流をするべきだ。しかし、人が「する」「行う」ことには、「しない」「行わない」という選択肢もあるのだ。まずは、その選択をしよう。人が「行う」ことを「なっています」と言ってしまうと、力の弱いものに圧力や強制力が向かってしまう。それはあまりよいことではない。
なぜ、この文章を書こうと思ったか。文科省の天下り問題へのメディアや国民の反応が気になったからだ。官僚が禁止されている天下りを、組織的に行っていた。つまり不正にお金を手に入れられる仕組みを作り、運用していたわけだ。人が行ったことだ。しかし、メディアなどがそれほど強く反発している感じはない。事実を淡々と伝えている。官僚ってそう「なっている」よね、そんな感じがする。その一方、ときおり話題になるのが生活保護の不正受給問題である。これにたいしては、悪いことを「行っている」人がいる。けしからん。そんな反発を感じる。天下りは「なっている」が、不正受給は「行っている」。なんかバランスの悪いことにな「なっている」。そんな感じを持つのは僕だけだろうか。