とんびの視点

まとはづれなことばかり

長男、節分の豆できな粉を作る

2013年02月04日 | 雑文
若潮マラソンから一週間が過ぎた。いつもならマラソン後、一週間くらいは休むのだが、今回は水曜日、金曜日、土曜日とランニングをした。3日で25kmと距離は短いが、それでも走ることは走った。週末、春のように心地よかったこともある。土曜日には次男に自転車で並走させ、荒川の土手を走った。土手にはたくさんのランナーがいて、汗を流していた。次男も自転車を降りて、1kmほど一緒に走った。

筋肉疲労は抜けきっていなかったが、それでも1km5分程度のペースで走れた。(僕にとっては速めのペースだ)。どうやら若潮でタイムを見ずに、フォームだけを気にしたのがよかったようだ。良いフォームが体に残っている。このフォームをきちんと定着させることが3月の板橋cityマラソンまでの課題となる。(あとは体重を3kg落すことかな)。

フォームを意識しながら若潮を走って実感したことがある。一度に二つのことは身に付けられない、ということだ。同時に二つの言葉を思い浮かべられないとか、二兎を追うもの一兎をも得ずなど、頭では分かっていたが、少し違って実感をした。二つのことを同時に追い求めると失敗する、ということではない。本当は二つのことを一つのことと勘違いして追いかけると失敗する、ということだ。

ランニングでは、フォームを意識することと、タイムを追い求めることは、ある意味ひとつのことだ。やっているのは、時間の中で走る、ことだからだ。以前の僕は、時計を見ながらフォームを意識して走っていた。どちらにもそれなりに気を配っていた。しかし結果的には、タイムを意識してオーバーペーストなり、フォームが維持できずタイムも落ちる、ということを繰り返していた。

フォームとタイムの二つを求めているつもりはなかった。「フォームとタイムを意識しながら走る」という一つのことをやっているつもりだった。今回、たまたまフォームだけを意識して走ったことで、自分が二つのことを同時に追い求めていたのだと気づいたわけだ。もちろん、こういう気づきは他にも応用が利く。何か身に付けようとして上手くいかないときに、自分では気付かずに、二つのことを一度に身に付けようとしているのではないかと疑うということだ。

厄介なのは、出来ない人にとっては二つのことが、出来る人にとっては一つのことであることだ。だから、出来る人が出来ない人に「教え」ようとしても上手くいかないことがよく起こる。そこで「気合い」と「根性」が出てきて、体罰や暴力を生み出すことにもなるのだが、それには踏み込まずにおこう。(先日『世界が土曜の夜の夢なら』を一読してこの辺りを考えた。再読しようか迷っているところ)。

さて、今日から立春である。七十二候で言えば、立春の初候「東風凍を解く(とうふうこおりをとく)」、暖かい春風が吹き、川や湖の氷が溶けはじめるころだ。窓の外の太陽の光も心なしか強く感じる。凍ることなどない荒川の川面の色も少しずつ変わっていくだろう。

先週の金曜日、子どもたちは学校で節分の豆まきをした。長男はいつもよりも1時間近く遅く帰宅した。何をしていたのかと思えば、男友達4人で公園で、大豆を「きな粉」にしていたというのだ。大豆を新聞紙で包み、それをさらに何かでくるみ、石で何度も何度も潰したそうだ。小さな子どもを連れた母親たちが何人も見に来て感心していたそうだ。500ミリのペットボトル1本分くらいのきな粉を作った。

翌日の昼過ぎには、レンジで柔らかくした「もち」をタッパーに入れ公園に持っていき、友だちと「きな粉もち」を食べていた。きな粉に少し粒が入っていたのがいまいちだった、と長男は言っていた。きっと「石うす」の大切さを知ったことだろう。

この時期、クラスメートの何人かは中学受験をしている。一方には難解な問題を解いている6年生がいて、もう一方には公園で大豆を石で潰して「きな粉」を作っている6年生がいる。どちらが良いということでもないが、個人的には「きな粉」を作っている方が好きだ。与えられた状況を楽しめる、というのがこれからの社会で必要な能力だと思うからだ。

仕事においても、日常生活においても同じだが、ある状況に陥ったときに、そこに多様な選択肢(つまりは可能性)が見いだせる人と、何も出来ないと見えてしまう人では、思考や行動に大きな違いが出てくる。学校の節分で使った「まめ」が、ただの「残り」と見えれば、いくつか口にして、あとは投げたり、捨てたりだ。でも「まめ」に「きな粉」という可能性が見えれば、公園でのきな粉作り(これも思い出になるだろう)、そして翌日の「きな粉モチ」にまで広がる。

与えられた状況で楽しむ、というと受動的な言葉に聞こえるかもしれない。しかしよく考えれば、自分たちで新たな状況を作り出している。状況に不満を言うよりもよっぽど建設的である。(そもそも私たちがこの世界に生まれてくること自体が、ある状況に放り出されることなのだ)。

私たちは長らく、ハイスペックで便利な機器に囲まれた社会を追い求めてきた。でもそんな社会は思いのほか盤石でもなく、長続きもしなさそうな予兆も出てきた。手持ちの雑多なものにさまざまな可能性を見いだし、自分たちで愉快な社会を作り出すことが必要な時代になりつつあるのだと思う。
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