とんびの視点

まとはづれなことばかり

少し走れるようになったが、ふらつく犬のようだ

2019年05月19日 | 走ること
今日もランニングをした。岩淵水門往復の12kmコースだ。走りながらいろいろ考えようとしたのだが、うまく考えられない。(それでも、とにかく書く。)自分が何を考えねばならないのか、それが見えていないからだ。理由は簡単。考えない日常を過ごしているからだ。頭は使っている。しかしそれは、たんなる処理でしかない。目の前で起こってる状況を客観的に把握する。その状況はどの基準で判断すべきか見極める。あとは無駄なく効率的に処理する。水平的に物事を捌いているだけだ。そんな日々の中で、いろいろ引っかかることはあるが、それも水平的に流れていってしまう。立ち止まって、垂直に掘り下げるように時間は取れていない。だから、走っていても、いろんなことが水平的に流れてしまう。考えようとしても考えられない。まるで頭の悪い犬みたいだ。そんなことを思いながら走る。

仕方がない。走ることに集中しよう。走っている自分の状態を確認しよう。そう思う。身体の軸はブレていないか?わずかにブレている。重心が上下し、足を踏み出すごとに左右に軸がブレる。着地の瞬間、その衝撃を全身に分散できているか?悪くない。背筋にまで力が伝わっている。上半身はリラックスしているか?いつの間にか少し力が入っている。いろいろ考えているからだろう。呼吸は肺の奥まで届いているか?少し浅いようだ。気管から肺に届くあたりで止まっている。ゆっくりと深く息を吸い込み、肺を大きく膨らます。そして息を吐き出す。

身体の状態が良くなったのか、心地よくスピードが上がる。そこで以前のランニングと現在のランニングが重なり、気付く。スピードを落とさないとダメだ。そう身体に言い聞かせた。ランニングにおいては意識と身体の良い関係を維持することが大切だ。(これは合気道も同じだ。)調子の良いときは、走り始めてしばらくすると自然とスピードが上がる。その時、意識は身体に対して「スピードを落とせ」と抑える側に回らねばならない。(前半に飛ばし過ぎて、後半にぼろぼろになる、というのがフルマラソンの失敗の典型だ。僕だけか?)そして、長い距離を走って疲れが出てきたときには、「スピードを落とすな」と意識が身体を叱咤しなければならない。(意識が弱音を吐きそうになったときに、身体が頑張るということもある。不思議なものだ。)

そうやって、意識で身体をコントロールしていると、いつの間にか身体が自然とよい状態を維持するようになる。不思議なことに、いつの間にか「垂直的」に考え始めている。自分はいったいどんな世界を求めているのだろうか、などと、たいそうな思いが頭の中で動き出す。土手は5月の初夏のような太陽だ。南からの風が心地よい。風は柳の枝を揺らし、雑草が刈り取られたばかりの芝生はきれいに揃っている。芝生の広場で遊ぶ親子や、土手を散歩する夫婦、そしてグランドで野球をする子どもたちの歓声。そんな中を走っている。

何一つ悪いところがないように思え、走りながら満たされていく。でも、実際にはこの世界は問題に満ちていることを、同時に思う。満たされながら、問題を感じる。そんなことを走りながら考える。考えるけど、いろんなことがぐるぐる回っていく。垂直な問いは立ったが、思考は水平に流れていく。まだまだ、走りながら上手く考えられないようだ。頭の悪い犬がどこを垂直に掘ったら良いのかわからず、あたりの匂いをかぎながら水平にフラフラしている感じだ。まだまだ、ランニングは戻っていない。

とはいえ、今日は1km6分を切るスピードで安定して走れた。走り終ってからも疲労もほとんどないし、腰への負担もそれほどない。体重超過のせいで身体は重かったものの、踏み出す足も地面に落ち込むよりも、前に進もうとしていた。悪くない。少なくとも、いまの段階としては悪くない。あとはどこまで走る時間を確保できるかだ
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