東京は初夏のような天気だ。明日はトランプ大統領が来日するようだ。相撲観戦での升席占領とかトランプ杯が話題になっているようだが、個人的にはまた横田基地から入るのかが気になっている。前回の来日は横田基地から日本に入ってきた。自国の軍事基地から相手国へ入るということは、対等な関係とは言えない。植民地に対する宗主国のような振る舞いだ。日本をバカにしないでもらいたいし、バカにされたら怒って欲しい。
さて、ランニングは良い調子だ。今日までで5月は165km走った。このまま行けば180kmは確実だ。距離として充分だし、その分、少しずつ走力も心肺機能も戻ってきた。体重が以前より2kgほど多いので、ちとドタバタしている。問題は来月以降だろう。ゴールデンウィークもないし、天気が崩れる日も増えるだろう。そして暑さも厳しくなる。どんな夏を過ごせるかが、今後のランニングのポイントになりそうだ。
さて、とりあえず今日も何か書く。本来、ランニング中に熟成されたものを言葉にするというのが理想だが、まだうまくいかない。だから、何でもよいのでとにかく書く。まばすランニングとブログを書くことを平行させる。そしてどこかの段階で、両者をつなげる。そんな感じだ。
憲法改正について。この先、安倍政権は「消費税を上げないことの信を問う」という形で衆議院を解散し、衆参同一選に持ち込むのではないか。そして与党で3分の2の議席を確保して憲法改正の発議をするのではないか。そう言われている。特定秘密保護法、安全保障法制、共謀罪などを成立させた経緯を見れば、憲法改正に着手するのは確実だと思う。そこでいくつか書いておく。
護憲派、改憲派という名称が少し気になる。護憲派というと憲法を変えることに一切反対している人というイメージがあり、改憲派というと憲法を壊そうとしている人というイメージがある。しかし、憲法には改正についての条文(96条)があるので、改正すること自体は護憲の範囲内である。「変える、変えない」で、「護憲、改憲」というやり取りをしていると、レッテル貼り印象操作のレベルで話しが進み、本当に考えねばならないところに行き着かないまま、国民投票になってしまう。
個人的には、今回の憲法改正(安倍首相は2020年と言っている)には反対である。理由は簡単だ。今の流れで憲法改正を発議し、国民投票を行うとしても、ほとんどの国民が憲法の条文をきちんと読むこともなく、投票行動を起こしてしまうだろうからだ。(あるいは棄権する。)当人は自分で判断したと言うかも知れないが、結局は印象やイメージで決めたり、誰かの意見に引き面れる(広告の問題だ)ことになる。ビジネスの契約書にしろ、個人的にローンを組むにしろ、契約内容を読まずにハンコを押す人はいないだろう。ネット上で利用規約を読まずに「同意する」をクリックするのとは違うのだ。
日本国憲法をきちんち読んだことがある、と言える国民が、いったいどれくらいいるのだろうか?それほど多くはないだろう。(世論調査などで憲法改正への賛否を問うなら、まず、すべて自分で読んだことがあるかを問うて欲しい。)唖然とするのは、街中での「憲法を変える必要があるか」との質問に対して「変える必要があるなら変えてもよいと思う」などと答える人がいることだ。「必要があるか」「必要がないか」を具体的に聞いているのに、「必要があるなら変えてもよい」と答える。本人は答えになっていないことに気付いていない。こういう人は、国民投票をするのに適切な状態とは言えないだろう。まず、自力で憲法を読んで、自分なりに考え、判断して、それから投票して欲しい。
少なくとも、投票結果の流れを決める大多数の人は、自分で憲法を読んだことがある人でないとまずい。知識も判断基準も持たない民衆が、その場の雰囲気で国の枠組みを変えても、良いことなどあるはずがない。だから、いま憲法を変えることを主張している人たちこそ、国民に憲法を読むことを訴えるべきだ。憲法にはいったい何が書いてあるのか知ってくれ、と。
なぜ、第一章が天皇なのか、9条に問題はないのか(自衛隊と沖縄へのしわ寄せ)、12条が国民に求めているものの厳しさ、25条の健康で文化的な最低限度の生活は今の最低賃金で達成できるのか、36条に拷問や虐待の禁止があるのはどうしてか、公共の福祉と公の秩序は同じことなのか、などなど変えることへの賛否を表明する前にやっておかねばならないことがある。(それをやらずに賛否を表明することは無責任なことだ。)
今の上皇が2年前に天皇退位の意志を示した「お気持ち」を発表した。その時「象徴として、国民統合の象徴として」と述べた。憲法1条の「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって」を受けたものだろう。でも、なぜ「日本国の」と「日本」をわざわざ抜いたのか、すごく気になった。そして、あの時、天皇が訴えたのは、日本国民自身が象徴天皇について考えて欲しい、というものだった。あの時、天皇は自らの退位の問題をコアに、日本のことを自力で考えるように国民に訴えたのだと思う。
たぶん、多くの人は考えなかっただろう。メディアの主導する平成から令和へのお祭りイベントと化してしまった。自分たちの社会について考える大きなチャンスをひとつ潰した。憲法改正も本来、そういうチャンスなのだ。「改正」とは、良くすることだ。良くするためには、現状を知らなければならない。現状とは、今書いてある条文そのものである。それを読まずして、良くすることなど出来やしない。
さて、ランニングは良い調子だ。今日までで5月は165km走った。このまま行けば180kmは確実だ。距離として充分だし、その分、少しずつ走力も心肺機能も戻ってきた。体重が以前より2kgほど多いので、ちとドタバタしている。問題は来月以降だろう。ゴールデンウィークもないし、天気が崩れる日も増えるだろう。そして暑さも厳しくなる。どんな夏を過ごせるかが、今後のランニングのポイントになりそうだ。
さて、とりあえず今日も何か書く。本来、ランニング中に熟成されたものを言葉にするというのが理想だが、まだうまくいかない。だから、何でもよいのでとにかく書く。まばすランニングとブログを書くことを平行させる。そしてどこかの段階で、両者をつなげる。そんな感じだ。
憲法改正について。この先、安倍政権は「消費税を上げないことの信を問う」という形で衆議院を解散し、衆参同一選に持ち込むのではないか。そして与党で3分の2の議席を確保して憲法改正の発議をするのではないか。そう言われている。特定秘密保護法、安全保障法制、共謀罪などを成立させた経緯を見れば、憲法改正に着手するのは確実だと思う。そこでいくつか書いておく。
護憲派、改憲派という名称が少し気になる。護憲派というと憲法を変えることに一切反対している人というイメージがあり、改憲派というと憲法を壊そうとしている人というイメージがある。しかし、憲法には改正についての条文(96条)があるので、改正すること自体は護憲の範囲内である。「変える、変えない」で、「護憲、改憲」というやり取りをしていると、レッテル貼り印象操作のレベルで話しが進み、本当に考えねばならないところに行き着かないまま、国民投票になってしまう。
個人的には、今回の憲法改正(安倍首相は2020年と言っている)には反対である。理由は簡単だ。今の流れで憲法改正を発議し、国民投票を行うとしても、ほとんどの国民が憲法の条文をきちんと読むこともなく、投票行動を起こしてしまうだろうからだ。(あるいは棄権する。)当人は自分で判断したと言うかも知れないが、結局は印象やイメージで決めたり、誰かの意見に引き面れる(広告の問題だ)ことになる。ビジネスの契約書にしろ、個人的にローンを組むにしろ、契約内容を読まずにハンコを押す人はいないだろう。ネット上で利用規約を読まずに「同意する」をクリックするのとは違うのだ。
日本国憲法をきちんち読んだことがある、と言える国民が、いったいどれくらいいるのだろうか?それほど多くはないだろう。(世論調査などで憲法改正への賛否を問うなら、まず、すべて自分で読んだことがあるかを問うて欲しい。)唖然とするのは、街中での「憲法を変える必要があるか」との質問に対して「変える必要があるなら変えてもよいと思う」などと答える人がいることだ。「必要があるか」「必要がないか」を具体的に聞いているのに、「必要があるなら変えてもよい」と答える。本人は答えになっていないことに気付いていない。こういう人は、国民投票をするのに適切な状態とは言えないだろう。まず、自力で憲法を読んで、自分なりに考え、判断して、それから投票して欲しい。
少なくとも、投票結果の流れを決める大多数の人は、自分で憲法を読んだことがある人でないとまずい。知識も判断基準も持たない民衆が、その場の雰囲気で国の枠組みを変えても、良いことなどあるはずがない。だから、いま憲法を変えることを主張している人たちこそ、国民に憲法を読むことを訴えるべきだ。憲法にはいったい何が書いてあるのか知ってくれ、と。
なぜ、第一章が天皇なのか、9条に問題はないのか(自衛隊と沖縄へのしわ寄せ)、12条が国民に求めているものの厳しさ、25条の健康で文化的な最低限度の生活は今の最低賃金で達成できるのか、36条に拷問や虐待の禁止があるのはどうしてか、公共の福祉と公の秩序は同じことなのか、などなど変えることへの賛否を表明する前にやっておかねばならないことがある。(それをやらずに賛否を表明することは無責任なことだ。)
今の上皇が2年前に天皇退位の意志を示した「お気持ち」を発表した。その時「象徴として、国民統合の象徴として」と述べた。憲法1条の「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって」を受けたものだろう。でも、なぜ「日本国の」と「日本」をわざわざ抜いたのか、すごく気になった。そして、あの時、天皇が訴えたのは、日本国民自身が象徴天皇について考えて欲しい、というものだった。あの時、天皇は自らの退位の問題をコアに、日本のことを自力で考えるように国民に訴えたのだと思う。
たぶん、多くの人は考えなかっただろう。メディアの主導する平成から令和へのお祭りイベントと化してしまった。自分たちの社会について考える大きなチャンスをひとつ潰した。憲法改正も本来、そういうチャンスなのだ。「改正」とは、良くすることだ。良くするためには、現状を知らなければならない。現状とは、今書いてある条文そのものである。それを読まずして、良くすることなど出来やしない。