とんびの視点

まとはづれなことばかり

憲法改正について

2019年05月24日 | 雑文
東京は初夏のような天気だ。明日はトランプ大統領が来日するようだ。相撲観戦での升席占領とかトランプ杯が話題になっているようだが、個人的にはまた横田基地から入るのかが気になっている。前回の来日は横田基地から日本に入ってきた。自国の軍事基地から相手国へ入るということは、対等な関係とは言えない。植民地に対する宗主国のような振る舞いだ。日本をバカにしないでもらいたいし、バカにされたら怒って欲しい。

さて、ランニングは良い調子だ。今日までで5月は165km走った。このまま行けば180kmは確実だ。距離として充分だし、その分、少しずつ走力も心肺機能も戻ってきた。体重が以前より2kgほど多いので、ちとドタバタしている。問題は来月以降だろう。ゴールデンウィークもないし、天気が崩れる日も増えるだろう。そして暑さも厳しくなる。どんな夏を過ごせるかが、今後のランニングのポイントになりそうだ。

さて、とりあえず今日も何か書く。本来、ランニング中に熟成されたものを言葉にするというのが理想だが、まだうまくいかない。だから、何でもよいのでとにかく書く。まばすランニングとブログを書くことを平行させる。そしてどこかの段階で、両者をつなげる。そんな感じだ。

憲法改正について。この先、安倍政権は「消費税を上げないことの信を問う」という形で衆議院を解散し、衆参同一選に持ち込むのではないか。そして与党で3分の2の議席を確保して憲法改正の発議をするのではないか。そう言われている。特定秘密保護法、安全保障法制、共謀罪などを成立させた経緯を見れば、憲法改正に着手するのは確実だと思う。そこでいくつか書いておく。

護憲派、改憲派という名称が少し気になる。護憲派というと憲法を変えることに一切反対している人というイメージがあり、改憲派というと憲法を壊そうとしている人というイメージがある。しかし、憲法には改正についての条文(96条)があるので、改正すること自体は護憲の範囲内である。「変える、変えない」で、「護憲、改憲」というやり取りをしていると、レッテル貼り印象操作のレベルで話しが進み、本当に考えねばならないところに行き着かないまま、国民投票になってしまう。

個人的には、今回の憲法改正(安倍首相は2020年と言っている)には反対である。理由は簡単だ。今の流れで憲法改正を発議し、国民投票を行うとしても、ほとんどの国民が憲法の条文をきちんと読むこともなく、投票行動を起こしてしまうだろうからだ。(あるいは棄権する。)当人は自分で判断したと言うかも知れないが、結局は印象やイメージで決めたり、誰かの意見に引き面れる(広告の問題だ)ことになる。ビジネスの契約書にしろ、個人的にローンを組むにしろ、契約内容を読まずにハンコを押す人はいないだろう。ネット上で利用規約を読まずに「同意する」をクリックするのとは違うのだ。

日本国憲法をきちんち読んだことがある、と言える国民が、いったいどれくらいいるのだろうか?それほど多くはないだろう。(世論調査などで憲法改正への賛否を問うなら、まず、すべて自分で読んだことがあるかを問うて欲しい。)唖然とするのは、街中での「憲法を変える必要があるか」との質問に対して「変える必要があるなら変えてもよいと思う」などと答える人がいることだ。「必要があるか」「必要がないか」を具体的に聞いているのに、「必要があるなら変えてもよい」と答える。本人は答えになっていないことに気付いていない。こういう人は、国民投票をするのに適切な状態とは言えないだろう。まず、自力で憲法を読んで、自分なりに考え、判断して、それから投票して欲しい。

少なくとも、投票結果の流れを決める大多数の人は、自分で憲法を読んだことがある人でないとまずい。知識も判断基準も持たない民衆が、その場の雰囲気で国の枠組みを変えても、良いことなどあるはずがない。だから、いま憲法を変えることを主張している人たちこそ、国民に憲法を読むことを訴えるべきだ。憲法にはいったい何が書いてあるのか知ってくれ、と。

なぜ、第一章が天皇なのか、9条に問題はないのか(自衛隊と沖縄へのしわ寄せ)、12条が国民に求めているものの厳しさ、25条の健康で文化的な最低限度の生活は今の最低賃金で達成できるのか、36条に拷問や虐待の禁止があるのはどうしてか、公共の福祉と公の秩序は同じことなのか、などなど変えることへの賛否を表明する前にやっておかねばならないことがある。(それをやらずに賛否を表明することは無責任なことだ。)

今の上皇が2年前に天皇退位の意志を示した「お気持ち」を発表した。その時「象徴として、国民統合の象徴として」と述べた。憲法1条の「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって」を受けたものだろう。でも、なぜ「日本国の」と「日本」をわざわざ抜いたのか、すごく気になった。そして、あの時、天皇が訴えたのは、日本国民自身が象徴天皇について考えて欲しい、というものだった。あの時、天皇は自らの退位の問題をコアに、日本のことを自力で考えるように国民に訴えたのだと思う。

たぶん、多くの人は考えなかっただろう。メディアの主導する平成から令和へのお祭りイベントと化してしまった。自分たちの社会について考える大きなチャンスをひとつ潰した。憲法改正も本来、そういうチャンスなのだ。「改正」とは、良くすることだ。良くするためには、現状を知らなければならない。現状とは、今書いてある条文そのものである。それを読まずして、良くすることなど出来やしない。
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トイレ掃除と心を磨くこと

2019年05月21日 | 雑文

今朝は目覚めが悪かった。目覚ましで夢を中断されて、現実世界に引きずり出された。夢の中では、1日の仕事が終り、ちょっと疲れを感じながらも、よい感じで眠気がやってきて、まさに布団に入って眠りにつこうとしているところだった。さて、これから心地よい眠りの世界だ。そう思った瞬間にアラームで目覚める。何ともいやな感じだった。すごく身体が眠くだるい。外は雨が降っている。きっと、低気圧の影響で身体が重く、だるいのだろう。

雨が降るとランニングが出来ない。ランニングをすることで、ブログを書けるようにする。それによって、身心ともに良い状態に持っていくというのが令和元年の目論見だ。雨が降ると走れない。走れないからといって書かないと、あっという間に元の木阿弥だ。断片的でも良いので何か書くことにする。ちょっと走っては息切れして歩き、また思い出したように走り出す。そんな未熟なランナーのように。

ランニングに関しては、昨日の時点で152kmとなった。天気が崩れず予定通りに走れれば180kmくらいは行けそうだ。距離だけ言えば、年に数回フルマラソンを走っていたときと同じくらいの月間距離だ。(スピードはぜんぜん遅いけど。)でも、今月それだけ距離を稼げそうなのはゴールデンウィークがあったからだ。問題は来月からだ。最低でも月間平均150kmは走りたいものだ。(真夏になるとこれまた厳しくなる。)

息切れ。歩く。そして走り出す。(要するに、閑話休題)

Podcastを聞いていたら、「掃除で心を磨けるか?」という話しをしていた。話しとしては、素手でトイレの便器を掃除すると心が磨ける、ということらしい。厳密には「掃除で‥‥」というより「素手でトイレを掃除することで‥‥」と言わないと、誤解を生じそうだ。番組では基本的に批判的な意見が述べられていた。素手でトイレを掃除したからといって心を磨けるはずがない。ひどいことを子どもたちにやらせている。掃除と心を磨くことは関係ない。そんな感じの意見だった。

僕としては、素手でトイレの掃除をすることを学校で教員が生徒に(あるいは権力関係の中で)強要するのはひどいことだと思うし、やってはいけないことだと思う。ただ、素手でトイレの掃除をすることで心が磨けるか、という問いはまったくべつの次元で考えた方が良いのではないかという気がする。

素手でトイレの掃除をすることで心を磨くことは可能だと思う。しかし、心を磨くために素手でトイレを掃除する必要はないという意見だ。やりたいという人がいれば、禁止するつもりはない。勝手にやればいい。トイレを掃除を通して磨かれた心で、社会生活を送って欲しい。きっとその人の周りはよい社会となるだろう。上手くいかないのであれば、よりたくさんのトイレを掃除すれば良い。ただ、やりたくない人に無理にトイレ掃除をやらせても、心は磨けない。相手の心を押しつぶして、洗脳することにしかならない。自分がよいと思っていることを相手にも強要する、それを相手のためだと本気で思っている、そんなややこしい人にしかなれない。

個人的にはこの話しのポイントは「心を磨くことは出来るか」だと思う。(そう書いて「心を磨く」という言葉が抽象的過ぎると気付く。)たとえば、物を大切にする人と、物をいい加減に扱う人、のどちらが「心の磨かれている人か」と問うたら、ほとんどの人は前者を選ぶだろう。困っている人を助ける人と、困っている人につけ込む人。お金よりも命が大事と思う人と、お金ためなら他人の命などどうでもいいという人。どちらも,前者の方が「心が磨かれている」と言うだろう。

そして、現実的には心の磨かれていない人はいる。物をいい加減に扱う人、困っている人につけ込む人、お金のために他人の命を犠牲に出来る人。たしかにたくさんいる。そういう人たちが良くなれるのだとすれば、心を磨くこともできることになる。実際、そういう人たちは「心を磨く」べきなのだ。だとすれば、そのための方法に何を選ぶかが鍵となる。「素手でトイレ掃除」はないだろう。ただ、素手でトイレ掃除というものが選ばれてしまうのもわからなくはない。

(ここからはかなり想像が入る。)そもそも、お寺などの修行のひとつとしてトイレ掃除があったはずだ。布きれ1枚できれいにトイレを掃除するというものだ。これが本当にきれいになるそうだ。とくに素手でやらないと、布を通して伝わる便器の状態(つまり汚れの状態)がつかめず、磨き上げることが出来ないそうだ。(僕自身、職人の息子としてこの感覚の大切さについては、はげしく同意する。)とはいえ、これは(おそらく)総合的な修行のプロセスにきちんと含まれるから意味を成すのであり、たんにトイレを素手で掃除すれば良いというものでもないだろう。

もうひとつ。今で言うとトイレは単に汚いものという印象だが、昔は少し違う意味を持っていたのだと思う。ひとつは肥料として。もうひとつはきちんと管理しないと疫病が広がる元として。(水害の時に、肥だめなどにフタをして重しの石を載せることで、疫病の蔓延を予防するということがあったらしい。)つまり、トイレを掃除とは、たんに人が嫌がる汚いものを懲罰的に行わせることでなく、疫病の予防という意味が含まれていたのではないかと。確かにやっていて心地よいものではないかも知れないが、たんなる懲罰でなく、人々の役に立つ大切な行為を行うという意味があったのではないか。人のいやがることを人々のために行う。それができる人は、心が磨かれている、と言えなくもない。

そうであれば、トイレを素手で磨くことで心が磨ける、とは令和においては言えないだろう。何らかの大きな宗教的な修行の一環に位置づけられるわけでもないし、犠牲的精神で疫病の蔓延を防ぐようなことにもならない。でも、心を磨くことは必要だと思う。掃除が面倒だからといってルンバを買って、ルンバに掃除をさせているあいだ、くだらないことをやっているようだと、それこそ「素手でトイレを掃除しろ」と言われかねない。でも、素手でトイレを掃除しろって、他人に言う人のその心は、とてもじゃないが磨かれているとも思えない。ただのややこしい人だと思う。

息切れ。そして時間切れ。
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少し走れるようになったが、ふらつく犬のようだ

2019年05月19日 | 走ること
今日もランニングをした。岩淵水門往復の12kmコースだ。走りながらいろいろ考えようとしたのだが、うまく考えられない。(それでも、とにかく書く。)自分が何を考えねばならないのか、それが見えていないからだ。理由は簡単。考えない日常を過ごしているからだ。頭は使っている。しかしそれは、たんなる処理でしかない。目の前で起こってる状況を客観的に把握する。その状況はどの基準で判断すべきか見極める。あとは無駄なく効率的に処理する。水平的に物事を捌いているだけだ。そんな日々の中で、いろいろ引っかかることはあるが、それも水平的に流れていってしまう。立ち止まって、垂直に掘り下げるように時間は取れていない。だから、走っていても、いろんなことが水平的に流れてしまう。考えようとしても考えられない。まるで頭の悪い犬みたいだ。そんなことを思いながら走る。

仕方がない。走ることに集中しよう。走っている自分の状態を確認しよう。そう思う。身体の軸はブレていないか?わずかにブレている。重心が上下し、足を踏み出すごとに左右に軸がブレる。着地の瞬間、その衝撃を全身に分散できているか?悪くない。背筋にまで力が伝わっている。上半身はリラックスしているか?いつの間にか少し力が入っている。いろいろ考えているからだろう。呼吸は肺の奥まで届いているか?少し浅いようだ。気管から肺に届くあたりで止まっている。ゆっくりと深く息を吸い込み、肺を大きく膨らます。そして息を吐き出す。

身体の状態が良くなったのか、心地よくスピードが上がる。そこで以前のランニングと現在のランニングが重なり、気付く。スピードを落とさないとダメだ。そう身体に言い聞かせた。ランニングにおいては意識と身体の良い関係を維持することが大切だ。(これは合気道も同じだ。)調子の良いときは、走り始めてしばらくすると自然とスピードが上がる。その時、意識は身体に対して「スピードを落とせ」と抑える側に回らねばならない。(前半に飛ばし過ぎて、後半にぼろぼろになる、というのがフルマラソンの失敗の典型だ。僕だけか?)そして、長い距離を走って疲れが出てきたときには、「スピードを落とすな」と意識が身体を叱咤しなければならない。(意識が弱音を吐きそうになったときに、身体が頑張るということもある。不思議なものだ。)

そうやって、意識で身体をコントロールしていると、いつの間にか身体が自然とよい状態を維持するようになる。不思議なことに、いつの間にか「垂直的」に考え始めている。自分はいったいどんな世界を求めているのだろうか、などと、たいそうな思いが頭の中で動き出す。土手は5月の初夏のような太陽だ。南からの風が心地よい。風は柳の枝を揺らし、雑草が刈り取られたばかりの芝生はきれいに揃っている。芝生の広場で遊ぶ親子や、土手を散歩する夫婦、そしてグランドで野球をする子どもたちの歓声。そんな中を走っている。

何一つ悪いところがないように思え、走りながら満たされていく。でも、実際にはこの世界は問題に満ちていることを、同時に思う。満たされながら、問題を感じる。そんなことを走りながら考える。考えるけど、いろんなことがぐるぐる回っていく。垂直な問いは立ったが、思考は水平に流れていく。まだまだ、走りながら上手く考えられないようだ。頭の悪い犬がどこを垂直に掘ったら良いのかわからず、あたりの匂いをかぎながら水平にフラフラしている感じだ。まだまだ、ランニングは戻っていない。

とはいえ、今日は1km6分を切るスピードで安定して走れた。走り終ってからも疲労もほとんどないし、腰への負担もそれほどない。体重超過のせいで身体は重かったものの、踏み出す足も地面に落ち込むよりも、前に進もうとしていた。悪くない。少なくとも、いまの段階としては悪くない。あとはどこまで走る時間を確保できるかだ
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とにかく走る、とにかく書く

2019年05月18日 | 雑文
昨日に続き、今日もランニングをした。自宅から隅田川沿いに出てしばらく走り、五色桜大橋で荒川の土手に移り、上流に向って岩淵水門まで走る。そこで折り返し、来たコースを家まで戻る。ほぼ12kmの距離で、腰を痛める前のスタンダードコースだ。今日も書くために、走りながらいろいろ考えようとした、しかし相方と一緒のランニングだったので、時おり言葉を交わすなどし、うまく考えられなかった。だから、とりあえず、思いのままに書く。とにかく書く。

相方と一緒ではあったが、時おりハイになるというのか、ゾーンに入るというのか、そんな時間があった。走っているが、走っている自覚もなく、体が自然と動いちゃってて、でも自分はいつも自分として同じ場所にいて、動いているのは地面のように感じられる。そして、ただ、ただ、規則正しい足音だけが耳に入ってくる。走っていて最も心地よい時だ。

フルマラソンでもスタートから40分くらい(僕の走力だと7〜⑧kmくらい)のところで、そんな感じになる。僕だけでなく、周りもそんな感じだ。スタート直後から続くざわざわした感じや、知り合い同士の会話、ペースの違うランナーたちの交雑した走り、そんなものが5kmを過ぎた辺りから落ち着いてくる。しばらくすると、誰もが自分の走りに没入していく。みんなの足音だけが規則正しく響く。

上手く考えられなかったが、そういう感覚を思い出せたのは心地よかった。(走っていて心地よいことのもうひとつは、過去のランニングが重なって感じられることだ。ただ、これはハイというかゾーンの状態にしか起こらない。)

ランニングを終えて、シャワーを浴び一休みをする。それから、部活保護者会のため次男の中学に行った。ついこのあいだ入部したと思ったら、あと1か月ちょっとで引退だ。時の飛去するのは本当に早いものだ。あるいは、早く感じるのは、次男のバレーボールがそれほど上達していないからかも知れない。次男だけではない。引退を向える3年生はみんな同じようなものだ。なぜか。2年間、あまり質の良い部活が出来ていなかったからだ。個人的には顧問に問題があったと思うが、顧問にも言い分はあるだろうから、細かいことは書かない。(僕以外の保護者や生徒たちも、それぞれ顧問に問題があったと思っているようだ。)その顧問が転勤し、4月から新しい顧問の先生になった。

去年の夏明け、当時の3年生が引退し、顧問とすったもんだした上、次男は部長になった。しばらくして、自分はバレーボール部で活動することには何も求めない、体育会に属していたといえる体力を身に付けるための時間にする、と言った。次男はうまく切り替えられたが、質のよいバレーボールに取り組めていないというのは、他の部員も同じだったに違いない。

新しい顧問の先生が来て2週間後、春季大会があった。2試合とも負けて、1セットも取れなかった。でも、相手ボールをレシーブし(セッターにはきれいに戻らない)、セッターにトスを上げ(高さもネットからの距離も微妙だ)、敵コートに戻せている(アタックとは言えない山なり)。すごい、バレーボールになっている。おまけに、子どもたちの表情がとても良い。保護者たちはみんな大喜びだった。試合後、顧問の先生が、ふがいない試合で、という感じで挨拶(それは初めての顔合わせだった)に来たのに対して、保護者たちは、どうもありがとうございます、と口々にお礼を述べた。(あとで先生に「あれはどういうことなのか?」と次男に尋ねたそうだ。)

その日、帰宅した次男は「初めて、バレーボールを楽しいと感じた」と嬉しそうな声で言った。そして、あそこでああすれば、次はこうする、と(楽しそうに)悔しがって、反省していた。1年の時から、いや2年の時からで良いから、こういう時間が過ごせれば良かったのにと思う。でも、過ぎてしまったことは仕方ない。残り1か月ちょっと、少しでも質のよい時間を過ごせることを願うのみだ。

そうそう、中学の部活をしている時間って本当にすごい。次男の場合、月、火、水、金、土(か日)が基本。週に14時間程度だ。主要5教科のどれか1つも、そんな長時間勉強はしていない。そのことに気付いたとき、部活ってけっこう奇妙なものだと思った。
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少しずつランナーに戻れれば

2019年05月17日 | 走ること
今日は予定していた仕事がキャンセルになり、家で過ごすことになった。掃除や雑巾掛け、洗濯物、猫の世話などの家事をやったり、後回しにしていた仕事に手をしたり、ふだん時間が取れず等閑にしていたことに手を付けた。このブログもその1つだ。書こう、書こうと思いつつ、時間が取れずに放置していた。

ランニングについて軽く書く。ここ5年ほど腰を痛めて本格的なランニングが出来ないでいる。日常的に走ってはいるが、かるいジョギング程度だ。月間の走行距離としては100km前後だ。今年も4月までの合計は380kmちよっとだ。これではランナーとは言えない。ジョガーだ。

しかし、5月に入ってから少しランナーっぽく走れている。ゴールデンウィークの後半はランニングを中心にしたからだ。1日12kmを6日間続けた。かつては12kmなど何ともなかった。疲労も筋肉痛もない。いい汗をかいて気分もリフレッシュ。そんな感じだった。しかし今回は違った。そもそも走るのに時間がかかる。以前は普通に走れば70分もかからなかったが、1時間半以上かかった。腰を気づかってというのもあるが、増えた体重と落ちた走力や心肺機能のせいだろう。一歩ごとに、体が前に進むというより、地面に落ち込んでいく感じだった。(実際、この落ち込みは腰への負担になる。)

当然、疲れ方も違う。かつては仕事や思索で頭が詰まったときの気分転換に走れた。今回はそんな余裕はなく、筋肉痛や疲労、しばらくしてから睡魔に襲われた。走り終わり、シャワーを浴びて、マッサージ器で脚をケアする。その後、1、2時間眠ることでやっと体の疲れも取れる感じだった。走ってから復活するのに半日を要する。長い休みが続かないと出来ないことだ。それでも、日を追うごとに少しずつ走力は戻り、反比例するように疲労も減っていった。ゴールデンウィークが終る頃にはランナーっぽさが少し戻ってきた。(体が少し前に進むようになった。)そういうわけで今月は124km走っている。距離的には悪くないペースだ。後はピードを少しずつ取り戻せるかだ。

今日は仕事がキャンセルになったおかげで、予定より長い距離を走った(5kmから9kmに変更)。土手を走りながら、いろんなことが頭の中をぐるぐるした。仕事のことを考えていたらいつの間にか別のことになったり、土手で芝刈りをしている人たちを見て最低賃金のことを思ったり、緑の柳が心地よかったり、いろいろだ。そして思い出した。昔、自分がランナーだった頃、日々、ブログを書けていた。走りながら書くことを考えていたからだ。(決して直線的な思考ではない。考えているつもりが別のことが頭に浮かび、また考え直してはぐるぐるする。長い距離を走れたから出来ることだった。)走ることで身体と頭の両方をメンテナンスしていたのだ。

長い距離を走れなくなり、いつのまにか、そういうことを忘れていた。忘れていることに、気付けなくなっていた。そういうことが「ない」ことになっていた。そして長い距離を走ることで思い出せた。自分にとっては大切なことかも知れない。忘れないために、今日はそのことを書いておこうと思った。
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