とんびの視点

まとはづれなことばかり

環境にやさしい

2019年04月30日 | 雑文
心が狭いのか、いろんな言葉に引っかかる。

たとえば「環境にやさしい」。

そもそも環境を汚染しているのは我らだ。
欲しいものは奪い取り、いらないものは垂れ流す。
環境が弱ってきたので、我らは「環境にやさしい」と言う。

そう言えば、殴ってからやさしくする人がいるそうだ。
お前のことを思っている、お前なしではダメだ、とか言うそうだ。
暴力的なのか、優しいのか、分裂しているのか。
我らの自己認識はいかに。

環境を擬人化して「環境にやさしい」などと言っているなら、
その失礼な言葉づかいに対して、何らかの怒りを表明されても仕方ない。

荒ぶる環境。
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理性の限界を直視したところに保守がある

2018年12月29日 | 雑文
先日の東京新聞で中島岳志氏が「保守思想は人間不完全な存在と認識し、理性の限界を直視する」と書いていた。ポイントは理性の限界を直視する、という点だ。(いささか我田引水的だが。)
己の体力の限界を知るためには、これ以上は無理というところまで、体を酷使せねばならない。であるなら、理性をの限界を知るためには、これ以上は無理というところまで、理を酷使しなければならい。論理で徹底的に考えるということだ。
ぎりぎりまで論理を駆使しても正しさを保証できない。そう気付いたとき、人は自らの不完全さを認識し、謙虚になる。そして「無名の死者たちが積み重ねてきた集合的経験値や良識を大切に」せざるを得なくなる。
徹底的に論理をもって考えることなく、伝統を蔑ろにする者は革新的ではなく、伝統を崇め強要する者は保守的ではない。どちらも考えることしていない。
では自分はどうなのか。徹底的に考えようとしながら、気がつけば日々のお勤めで1日が終ってしまっているような凡夫である。
そしてそんなふうに1年も終ろうとしている。
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日本で違和感を持ったこと

2018年09月25日 | 雑文
先日、たまたま知りあったドイツ人の研究者と話しをした。
日本で違和感を持ったことは何かあるかと聞いてみた。
テレビでの事件報道に違和感があると彼女は言った。
違和感は2つあるそうだ。

1つは、容疑者段階で実名報道をすることだ。
名前だけでない。容疑者の家族とか生い立ちとか、そう言ったものも多く伝えられる。
無自覚にせよ、それらの情報は犯罪と結びつくようになっていることもある。
容疑者は裁判で有罪判決を受けるまでは、たんなる容疑者である。
日本では容疑者が捕まった段階で、ほぼ犯人として報道される。
そのことに違和感を持つ人たちが世界にはいることを、私たちは知っておいた方がよい。
自らの自然な姿は自然に受け入れられるはずだと思っていると、思わぬ痛い目を見ることもあるからだ。

もう1つは、犯罪現場の詳細なレポートだ。
レポーターが事件現場まで行き、どこでどんな風に犯罪が行われたのか、どのくらいの血が流れたのか。
そういう報道に違和感を持ったそうだ。
たしかに日本の報道では、事件を再現させるような報道が多い。
それによって視聴者は何が起こったのかを知ることになる。

こういう報道を繰り返し見ていることで、視聴者は事件を理解するためのフレームを無自覚に手に入れてしまうかも知れない。
どんな(悪い)人間が、どんな悪いことを行ったのか、それを理解することが事件を理解することだ、と。

ふと思った。あらゆる事件報道が、その事件が発生した社会的な背景のみに焦点を当て、解説したらどうなるだろう、と。
人々は、事件が起こるたびに、その社会的な背景を考えるようになるかも知れない。
そして、事件を再発させないために、社会を改善することに意識を向けるようになるかも知れない。

犯した罪は本人が償わねばならない。それは仕方のないことだ。
そしてその手続は、司法と行政がやってくれる。
だとすれば、市井の人々がやるべきは、社会的な背景を考えることだろう。
社会的な背景とは、私たちの生活している社会そのもののことなのだ。
私たちの社会は、なぜそんな犯罪を生み出してしまうのか、と。
結局のところ、それは社会を構成している自分について考えることにもなる。
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学習塾のシャープペンシル

2018年09月14日 | 雑文
子ども中学校の門の近くで、ときどき学習塾のスタッフがシャープペンシルを配っている。コンビニで100円で買えるようなシャープだ。デザインもひどいし、安っぽい感じだが、作りはしっかりしていて、実用に十分に耐えるものだ。そのシャープには塾の名前が印刷されている。ある種の広告だ。

中学生ならシャープペンシルを使うから、シャープを配ろうと思いついたのだろう。筆箱に入れて愛用するとは思わない。それでも机の上に置いてあれば、ときどきは使うかも知れない。場合によっては、塾の名前に気が留まるかも知れない。この前の試験、よくなかったな、塾でも行こうか。そんな風に思うかもしれない。

あるいは、中学生はそんな塾の名前の入ったシャープはダサいと言って、家に帰ったと同時に台所のテーブルに放り出してしまうかも知れない。狡猾な塾のスタッフはそれを狙っているのかも知れない。子どもがシャープをテーブルに放置する。母親か父親がそれを見つける。シャープには塾の名前。子どもの成績が心配になる。前回の定期テストもミスが多かった。担任は、もう少し頑張れば、もっと成績が伸びるはずだと言う。でもどうすればよいかわからない。ちょっと塾に相談してみようか。そんなことを狙っているのかも知れない。

しかし現実はちょっと違うようだ。わが家のテーブルの上に塾の名前が入っているシャープが4本も5本もある。次男にどうして何本もあるのかと尋ねる。塾の人が配っていた。みんなシャープをもらうと芯だけ抜いて、植え込みとかに捨ててしまう。何かいやな感じがするので、自分が引き取ってきたのだという。

新品のシャープをそんな風に捨ててしまうのはもったいない。捨てるくらいなら、もらわなければよい。いや、芯だけ抜いているのだから、ただ捨てているのではない。与えられた状況で、最大限の利益を引き出しているのかも知れない。自分に必要なものを選び出し、それだけを手に入れる。シャープそのものを断ってしまえば、芯を手に入れることは出来ない。このチャンスで最大限の利益を手にするには、シャープをもらい、必要な芯だけを抜き出し、無駄な本体は捨てる。それも瞬時に行う。素早い判断で、利益を確保する。なんだか、出来るビジネスマンのようだ。

でもねぇ。何かシャープが可哀想なんだよな。シャープペンシルとして生まれてきた。高貴な血筋でもなく、見目麗しくもない。機能もシンプルで1つのことしか出来ないが、愚直にそれだけはやり続けられる。宮沢賢治の物語に出てきそうなタイプだ。そんなシャープが、体に他人の名前を印刷をされて送り出される。文字を書くという本来の機能を1度も発揮することなく、捨てられる。芯だけ抜かれて。人間なら、戦争中の無意味な自爆攻撃を強要された兵隊みたいなものだ。印のついた飛行機に乗せられ、爆撃による攻撃という本来の機能を発揮することなく、命だけ抜かれる。シャープがシャープとして、人が人として存在できない世界は、やはりよろしくない。

いずれにせよ、わが家には塾の名前の入ったシャープが何本もある。案外しっかり作ってあるので簡単には壊れそうもない。芯を入れれば何年も使える。おまけに、芯を抜かれたシャープには芯を入れなくてはいけない。それにシャープは1度に何本も使わない。なんだか一生分のシャープが手に入ったようだ。(個人的に気に入っているシャープがあるのに。)これ以上は引き取ってくるなと言いたいが、無下に捨てられるのを放っておけとも言えない。義を見てせざるは勇なきなり、とだいぶ前に野田聖子さんが言ってたっけ。せめてボールペンにしてください。塾に電話してみようか。いろいろ考える。

こんなことをぐずぐず考えてる自分は、もらったシャープから芯を抜き取りさっと捨てる中学生よりも、判断力が劣っているのか。そういえば、出来るビジネスマンというのは自分とは対局の存在だった。彼らが効率良く「芯」を抜き取っているそばで、「捨て去られた何か」を僕が引き取って行こうとしているのかも知れない。ちなみにわが家では、子どもを塾には通わせていないし、今後も通わせることはない。
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難民条約について

2018年08月27日 | 雑文
「難民条約」という条約がある。正式には「難民の地位に関する条約」という。
第2次世界大戦後、急増した難民に対処するために作られた条約だ。
難民に対して不法入国や不法滞在の罪を問うてはいけないこと、その難民を迫害する国に送り返してはならないことなどが定められている。
日本は1981年に加入した。

しかし、どうやら日本はあまり難民を受け入れていないようだ。
日本の2016年の申請者に対する難民認定率は0.3%だ。
多い国と比べるのはなんだが、カナダは67%、アメリカは62%、ドイツは41%だ。
ケタ違いの数字だ。考えられる理由は2つだ。
1つは、日本とその他の国では難民の認定基準が異なっている。
もう1つは、なぜか日本にだけ偽装難民がやってきている。

条約の主旨に照らしても、難民の認定基準が受入国によって異なることは考えにくい。
難民認定基準が受入国によって異なれば、難民の地位が不安定になるからだ。
しかし日本にだけ偽装難民がやたらとやって来るというのも考えがたい。
偽装難民であれば、認定率の高い国を選ぶはずだからだ。
認定率が0.3%の国にわざわざ偽装してまで難民として申請する人(やブローカー)はいないだろう。
だとすれば、日本は難民条約に加入していながら、独自の基準で運用を行っていることが推論される。
技能実習生制度もそうだが、観光客でないような外国人に対して日本はかなり冷淡な扱いをする。

難民と認定されれば、永住許可への道が開かれ、日本国民と同様の手当などを受けられるようになる。もちろん日本での労働も可能だ。
認定されない場合は、そのまま入国者収容所に入れられるか、法務大臣から「在留特別許可」が下りるかだ。
在留許可は3〜6ヵ月おきに更新が必要で、特別な許可を得ないかぎり、いかなる労働も認められない。
その他に「仮放免」という不安定な状態もある。
ほんらい収容されているはずの入国者収容所から一時的に身柄の拘束を解かれた状態だ。
当然、労働はできない。また、何の違法行為をしなくても突然、収容されることがある。

難民とは、さまざまな理由で母国から逃げるようにして来た人たちだ。金銭的な余裕はないだろう。
(偽装難民も同じだ。偽装難民は仕事を求めて来ているはずだからだ。)
すでに日本で生活している同国人で、後から来た同国人をサポートできるほどの金銭的余裕のある人はそれほど多くはあるまい。
日本国からの公的な援助がなければ生活できるはずもない。
ほとんどの人は労働せざるを得ない。しかしそれは違法である。

違法なことをしなければ生活できない状態に「仮放免」する。あるいは「在留特別許可」を出す。
(違法なことをしていなくても、仮放免の人はいつでも収容できるのだが。)
少なくとも難民申請をして日本にいる多くの人たちの地位がそんな状況だ。
「難民の地位に関する条約」という名前から想像されるものとはだいぶ異なるのではないか。

1000人のうち3人しか難民認定しない。
言い方を換えれば、難民申請をした人の997人は難民ではないと認めたことになる。
難民でないなら、それは不法入国者や不法滞在者になるはずだ。
であれば、来た国に強制送還すれば良い。そのほうがすっきりしている。
しかしそれはできないのだろう。難民条約では、難民を迫害する国に送り返してはならないと決まっているからだ。

難民申請者の中には偽装をしている人もいるだろう。
しかしカナダやアメリカやドイツを基準にすれば、認定率が0.3%というはあまりにかけ離れている。
カナダやアメリカやドイツの認定機関があまりにも間抜けで、日本のそれはあまりにも優秀とでも言うのか。
おそらく、何らかの理由で難民を認定したくないのだろう。
その理由のひとつは簡単に推論できる。多くの難民を認定したときに生じる状況を避けたいのだ。
すなわち、永住権を持った外国人が日本社会にたくさん存在することだ。

もしそうであれば、この社会は、本当に助けを必要としている人たちを多く見捨てていることになる。
外国人だから見捨てるというなら、日本人であるという理由だけで、外国からそのように扱われること私たちは受け入れねばならない。
外国人だから見捨てるという社会は、いずれ同じように日本人も(たとえば、生産性がないという理由で)見捨てる社会を作るだろう。

そんな社会でも見捨てられないように頑張るのか、そんな社会を作らないように頑張るのか。
この社会で生きている人は、そんな選択を迫られている気がする。
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