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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

清和源氏発祥の宮 六孫王神社

2022-05-08 06:22:45 | 旅 ~京都

六孫王神社は清和源氏の始祖の源経基を祭事とすることで知られている。

多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに

源氏の三神社の1つとされている。

源経基は清和天皇第6代皇子の貞純親王の子で天皇の孫であることから

「六孫王」と称された。

当神社は京都駅の西側、新幹線高架の近くにあり「出生から出世までの守護神」となっている。

境内はさほど広くはないが、桜が満開でとても華やかな雰囲気が漂っていた。

応和元年(961年)に清和源氏の祖、源経基の嫡男満仲が

経基邸宅跡に霊廟を建てたことが始まりだと伝えられている。

中世には衰退したが元禄14年(1701年)に江戸幕府により再興されたのが現在の社殿だ。

境内北の弁天堂内には満仲誕生水がある。

古くから京都名水の1つとされている。

江戸時代には源氏ゆかりの神社として

武家の信仰が厚かったことは境内石燈籠に松平吉保など

諸大名の寄進者名が見えることでしのばれる。

参道の両サイドには源経基公の恋心を歌った歌碑(捨遺和歌集)が建っていた。

唐門は入母家造の屋根の前後に唐破風をつけた四脚門だ。

両脇に回廊が接続している。

本殿は切妻造で平入の造り、その前方に建つ入母家造平入の拝殿が

造合で連絡された複合社殿となっている。

この本殿に経基、相殿に天照大神、八幡大神を合祀している。

本殿背後の石の基壇は経基の遺骸を納めた場所で神廟といわれている。

当神社は今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で源氏発祥の宮として

フットライトがあたって注目されきつつあるようだ。


嵯峨釈迦堂 清凉寺

2022-05-06 06:14:15 | 旅 ~京都

http://www.seiryoji.or.jp/

嵐山渡月橋からまっすぐ北にさかのぼり、左手に大本山天龍寺を見て、

JR嵯峨野線を超えしばらく行くとここ清凉寺の仁王門に至る。

清凉寺は五台山と号する浄土宗の古刹で嵯峨釈迦堂の名で知られている。

この仁王門は天明3年(1783年)に再建に取りかかった。

全体的に和様と禅宗様を折衷したもので初層には室町時代の仁王像、

上層には十六羅漢像を祀っている。

ヤヤキ造りの二階二重門だ。

この地には一説では「源氏物語」の主人公の源治氏のモデルであったといわれている

源融(みなもとのとおる)の山荘棲霞観があり、

融の没後、棲霞寺としたのが始まりであります。

清凉寺の案内図。

当寺は嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ姿は嵯峨野の顔とも称されている。

天慶8年(945年)に等身大の釈迦像が安置され、

これが嵯峨野釈迦堂との通称の由来になったともいわれている。

その後インド、中国、日本の三国伝来となる釈迦如来像を持って栄(中国)から

帰国した奝然上人(ちょうねん)からその像を安置するため、

愛宕山を中国の五台山に見立て「大清凉寺」の建立を計画したが

志半ばで没したため弟子の盛算(じょうさん)が清凉寺を建立して像を安置した。

本堂は元禄14年(1701年)に徳川五代将軍綱吉、その母桂昌院らの発起により再建された。

当寺には桜の木は少なかったが、それでも1本しだれ桜の木が満開を迎えていた。

求道青年像法然房源源空24歳求道誓願像。

昭和43年10月8日開眼のブロンズ像。

清凉寺にはもう一つ有名な大念仏狂言(嵯峨念仏狂言)がある。

ちょうど行った日は春と秋の定期公演が行われていた。

この狂言は重要無形民俗文化財として奉納されている。

あいにく小雨の中、境内にある狂言堂で奉納がされていた。

まさに寺の境内という「男はつらいよ寅さん」が片隅で見ているのではないかと

思ってしまうそんな空気感があった。

嵯峨釈迦堂 清凉寺

この大念仏狂言は融通念仏(大念仏)の中興者である

円覚上人による念仏の教えを無言劇にしたものです。

融通念仏は摂津国の大念仏寺(大阪市平野区)を根本道場として良忍(聖応大師)によって

始められたもので、その教えを広めるべく作られた念仏狂言。

京都のここ清凉寺や壬生寺などで融通念仏が盛んになり、

他に千本閻魔堂、神泉堂にも円覚上人による大念仏狂言が伝えられている。

なお、この日の演目は「花盗人」と「土蜘蛛」。

清凉寺の境内には奝然上人、源融、嵯峨天皇、壇林皇后、

近年では前尾繁三郎第58代衆議院議長のお墓などがある。


浦和エリア旨い店シリーズ ~番外編388~

2022-05-04 06:24:25 | 食~番外編(京都)

京料理 湯どうふ おきな

京都市右京区嵯峨釈迦堂大門町11

TEL 075-861-0604

定休日 毎週水曜日、第3木曜日

http://saga-okina.com/

当店は嵯峨野清凉寺仁王門の斜め前にある一戸建ての京都らしい

雰囲気を醸し出している湯どうふを売りにした京料理店だ。

当店を知ったのは浦和で大変お世話になっている方の紹介で

「素晴らしいお店だから是非行ってみたら・・・」

とのアドバイスで予約した。

京都では1階の屋根の上に鐘馗(しょうき)さまが乗っている家が多い。

鐘馗さまは中国唐の時代の実在の人物だそうで疫病や病を払ってくれる、

さらに日本では火災除けとしての役割も担っているとのこと。

コワモテの鐘馗さんを屋根に乗せ、鬼から守っていただろうと

京の街では家の屋根にのせるのが流行らしい。

玄関のところに花木が活けられていた。

一見すると季節柄、桜か桃かと思いきや、女将曰くアーモンドの木だそうだ。

アーモンドの花なんて初めて見たかも?

店内に入るとこれが渋くて良い感じ。

カウンター席の前の渋めのレンガ積仕立て焼場(?)がとても素敵に見える。

当店は二世代のご夫婦が営む気取らない家庭的なお店で

ミシュラン1つ星にも2年連続で選ばれた。

息子さんは祇園「八寸」で修業したらしい。

そして後ほどドラマチックなお話を紹介するが、

昨年他界した瀬戸内寂聴の小説「女徳」のモデルである

祇王寺の庵主・故高岡智照尼によって「おきな」と名付けられた。

今回は個室を用意していただいた。

おきなさんは温かいもてなしと時節の京料理が楽しめる伝統に則し、

一皿に使う素材の数を控え、何を食べたかが印象を残すというコンセプトでやっている。

これがお昼のメニュー。

季節の料理が二品出て湯豆腐ひろうす煮、うなぎ、お造り盛り合せ、

天ぷら盛合せの一品が選べるという楽しい組み立てになっている。

その他にも一品料理が付いて4,900円(税抜)+別途サービス料だ。

では絶品、逸品の品々のパレードのスタートだ。

いきなりきました多彩な変化球。

しかも美しい。

本格的なシャンペングラスの中にさっきまで

生きていたような鮮度のホタルイカ、そして炙った帆立。

それにホワイトアスパラ、空豆、スナップインゲン等の野菜が酢味噌和えの中にいる。

実食・・・アーこれ旨い、すごくセンスある。

入口からいきなりテンションが上がってしまった。

今、旬のものといったら、たけのこでしょう。

日本一のたけのこ「大江塚原」とわかめと木の芽の和え物。

天下の王道料理だが素材がすごく、たけのこの食感とわかめのダシの相性が抜群。

木の芽のパンチ力も最高だ。

さらにすごいのが出てきた。

湯豆腐ひろうす煮。

この豆腐は嵯峨豆腐といって今日の京豆腐のブームの先駆けとなった

清凉寺門前にある豆腐店「森嘉」のものだ。

木綿豆腐のような歯ざわりと絹ごし豆腐のような舌ざわりを併せ持つ食感と

豆そのものが持つ風味のハーモニー。

この旨さの秘密は、やはり京都の水だそうだ。

そして薬味3種。

この天婦羅も美味しかったナー。

特に稚鮎は絶品でした。

アップの写真がボケてしまいましたが、海老、

ハスなどが写っているのでカットできませんでした。

天つゆのお皿には星座が描かれお洒落。

2代目曰く「料理は7割素材で決まる」。

他一品料理がこの飛龍頭。

これも言うことなしです。

ゆずの優しい個性がさらに引き立てている。

やはり京料理といったらちりめんじゃこは出てきますネ。

そこにイクラを持ってきたとはちょっとにくいね。

そしてデザートは三嶋亭に続いて柑橘系のジュレ。

このレベルも愛情のこもっていた手作り感があってかなり高かったですヨ!

個室の会話も若女将から女将に変わってどんどん盛り上がってきた。

たまたま女将の姉が浦和に嫁いでいることがわかり、話は究極のテーマへ。

実はこの女将は昨年亡くなった瀬戸内寂聴の食事の世話を

寂聴が京都嵯峨野の寂庵に居して以来、

約40年近く面倒を見ていたという大変な関係の人だった。

その関係を表す写真を沢山見せてもらった。

寂聴は当店にも幾度も来ては食事を楽しんだという。

まさに旅の醍醐味を感じる一瞬であった。

感謝、合掌。


落柿舎

2022-05-02 06:12:11 | 旅 ~京都

http://www.rakushisha.jp/

昨年夏に人力車で嵯峨野めぐりをし、遠目で落柿舎の前を通りすぎた。

(2021-8-20付 人力車で嵯峨野めぐり参照)

その時、次は必ず立ち寄ろうと課題を課したが、

早々と来ることができ、その宿題も達成できた。

それにしても落柿舎の前の草を刈ってある広々とした広場は何なのだろう。

とても気持ちが良い空間になっている。

ここは蕉門十哲の一人として名高い、向井去来(慶安4年・1651年~宝永元年・1704年)の

閑居の跡として知られている落柿舎の門。

当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、

かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。

これが落柿舎の名の由来であります。

元禄の俳人・向井去来は芭蕉の門人にて師翁の言葉に

「洛陽に去来ありて、鎮西に拝諸奉行なり。」と称えられた。

現在の落柿舎は蝶夢門下の井上重厚が明治7年(1770年)に再建したもので、

ご覧のように本庵と次庵に分かれ、農家のような質素な建物であった。

玄関の横には蓑と笠がかけられ庵主の在宅を示していた。

なお、次庵は句会席として使われていた。

芭蕉が訪れたのは元禄2年(1689年)あわせて3度来庵した。

元禄4年には4月18日から5月4日まで滞留し、

その間に座敷に展示されている「嵯峨日記」を誌した。

外の庭には多くの句碑、歌碑、供養塔、俳人塔などが並んでいる。

右側は昭憲皇太后の御歌碑、左側は高浜虚子の生前最後の自筆句碑

「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」

芭蕉が嵯峨日記の最後に記した句碑

「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」

向井去来の墓は落柿舎の裏、北へ約70メートルの弘源寺墓地内にあり、

遺髪を納めたという去来唯一の立烏帽子形の墓がある。

40センチほどの自然石にただ「去来」とのみ刻まれている。

今から半世紀以上前、この地を1人で訪れ、

このあまりにも簡素なお墓を見て胸がキュンとしたことを思い出す。

約半世紀ぶりの再会に感じるものがあった。

落柿舎の西隣は嵯峨天皇皇女有智子内親王墓に接す。

皇女は初代の加茂斎院にて当代第一の漢詩人としての

名誉を得られたのは17歳の少女の時だった。