スミダマンのほのぼの奮戦記

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六波羅密寺

2022-07-28 06:00:39 | 旅 ~京都

六波羅密寺の周辺一帯は中世から近世にわたって武士が大いに活躍した舞台であった。

平安後期から鎌倉初期、貴族政治から武家政治への転換という

激動の時代を担った平家の棟梁、平清盛の泉殿をはじめ、

5千を超える平家一門の邸館が軒を連ねた六波羅第や鎌倉幕府が、

朝延の監視と市中取締り組織の六波羅探題を置いたところである。

当寺の境内に清盛の塚や、六波羅探題がこの地にあったことを記す碑が残っている。

日本最古の都七福神ノ一と福寿弁財天が祀られているお堂と

御拝観、御参拝の受付を兼ねたお土産ショップ。

両方の建物ともまだ真新しい。

ところで六波羅蜜寺と平家との関係に戻ると、清盛の祖父・平正盛から始まる。

天永元年(1110年)、この地に邸宅を構えた正盛は、

自ら常光院という寺を建立し、六波羅蜜寺で一切経の供養をしている。

その子の忠盛は、この地に軍勢を駐留させて軍事拠点とし、

白河上皇、鳥羽上皇の信を得て、越前国や播磨国の国守を歴任。

九州神崎荘では日栄貿易を行い、内裏への昇殿を許された。

これは平清盛公の塚。

そして清盛は武力と経済力を背景に武家として初めて太政大臣となり、

「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほど絶大な権勢を誇り、政権の実権を握ったのである。

しかし清盛は養和元年(1181)に高熱を発して亡くなり、

寿永2年(1183)平家一族が西海へ落ち延びる際に六波羅蜜寺は兵火を受け、

本堂を残し諸堂ことごとく類焼した。

一願石。

願いをこめて金文字から手前に3回まわして下さいと書かれている。

六波羅蜜寺はその後も、繰り返し起こった火災や自然災害、動乱の渦中にあったが、

源頼朝や北条泰時らによって再興修復された。

特に室町幕府第二代将軍・足利義詮は、貞治2年(1363)に本堂大修営の勧進元となり、

駿河・遠江の守護大名今川範国をはじめ、

当時の名だたる武将がこぞって寄進したことが奉加状に記されているほか、

貧しい庶民の喜捨も多かったと伝わる。

安土桃山時代の天正17年(1589)には

豊臣秀吉が本堂を補修して現在の向拝を付設し、寺領70石を安堵した。

江戸時代に至っても代々の将軍から朱印状を授けられ、

諸街道の整備が全国的に進んだことから、この地はさらに多くの人々で賑わうようになった。

明治5年(1872)政府が一連の神仏分離(判然)令を発出し、神仏習合を禁じた結果、

当寺の敷地は上地等で激減し存亡の危機に陥るが、

歴代住職と信仰の方々の尽力で厳しい状況を潜り抜け、

多くの貴重な文化財が現在に引き継がれた。

現在の本堂は大修営から約660年を経過するが、

昭和40年から4年にわたる解体修理が行われた際に、創建当時のものと推定される梵字、

三鈷杵、独鈷杵の模様が刻まれた軒丸瓦や軒平瓦をはじめ、

今昔物語集や山槐記などに記載されている泥塔が約八千基も出向した。

歴史に名高い応仁の乱をはじめ、

度重なる争乱屋天災によって多くの名刹が失われた京都にあって、

六波羅蜜寺の本堂は創建当時の建築様式を現代に引き継いだ貴重な寺院建造物であり、

重要文化財に指定されている。

なお、平安時代作の本尊、十一面観世音菩薩立像は国宝だ。

本堂の裏には令和館と称する宝物館がある。

ここの文化財は入館してみてビックリ。

よく歴史の教科書に載っている像があった。

しかし撮影禁止のため、空也上人立像の資料写真だけアップします。

木造空也上人立像。

鎌倉時代の運慶の四男、康勝の作品で重要文化財。

疫病が蔓延していた京の街中を空也が鉦(かね)を鳴らし、

念仏を唱えながら悪疫退職を祈りつつ歩くさまを迫真の描写力で表現している。

空也の口からは6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。

6体の阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、

念仏を唱えるさまを視覚的に表現している。

それ以外に空也上人像の隣りに平清盛とされる経を持った僧形の像もあった。

六波羅蜜寺の近く六道の辻近くにある幽霊子育飴本館。

この飴の由来は慶長4年(1599)女性が亡くなり埋葬され、

数日後にその土の中から子供の泣き声が聞こえてきたので掘り返すと、

亡くなった女性が産んだ子どもであった。

ちょうどその頃、毎夜飴を買いに来る女性がいたが、

子どもが墓から助けられたあとは買いに来なくなったので

この飴は「幽霊子育飴」と呼ばれるようになった。


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