スミダマンのほのぼの奮戦記

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知恩院 (真夏の京都 前編)

2019-09-02 06:29:38 | 旅 ~京都

https://www.chion-in.or.jp/

知恩院は浄土宗の総本山で山号は華頂山。

承安5年(1175年)に法然が開いた。

浄土宗の宗祖、法然が後半生を過ごし、

没したゆかりの地に建てられたのがこの寺院だ。

現在のように大規模な伽藍が建立されたのは、

江戸時代以降、徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、

今も京都の人々から親しみを込めて

「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。

なんと言っても国宝のこの三門は迫力と威厳がある。

元和7年(1621年)徳川二代将軍・秀忠が寄進して建立された。

入母屋造、本瓦葺き、五間三戸の二重門で現存する

日本の寺院の三門(山門)の中で最大の二階二重門だ。

そして様式は禅宗様に成っている。

因みに日本三大門は法隆寺三大門、東福寺三門、

そしてここ知恩院三門と言われている。

どこのお寺、神社も一年間色々な催事を行っている。

この催事に参加するのは観光客では無理がある。

何時は一時でも京都に移り住んで様々な寺の催事に 

行ってみたいと夢見ている。

知恩院では僧の法話に力を入れているようだ。

三門をくぐると急な石段が待っている。

この階段は男坂といい、右側にはスロープに成っている坂がある。

これを女坂という。

知恩院の境内は、三門、塔頭寺院のある下段、

本堂など中心伽藍のある中段、そして勢至堂、

法然廟などのある上段の3つに分かれている。

ここが本堂などがある中段のエリア。

上段は開創当初の寺域であり、中段・下段の大伽藍は江戸時代になって

徳川幕府の全面的援助で新たに造営されたものだ。

この敷地は徳川幕府が隣の青蓮院から知恩院に与えたもので、

そんな事情から今でも青蓮院と知恩院は仲が悪いと

MKタクシーの運転手は言っていた。

本堂の御影堂、本尊の法然上人像を安置している。

寛永10年(1633年)に焼失、寛永16年(1639年)に

徳川家光によって再建された。

江戸幕府造営の仏堂として偉容を示している。

外観は保守的な和様を基調としているが

内部は禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。

2002年に国宝に指定されている。

現在、法然上人800年大遠忌を迎えたのを期に

平成の大修理中で来年3月に竣工予定だそうです。

宝仏殿。本堂の南側に北面して建つ寄せ棟造の仏堂。

平成4年の建立で、内部には阿弥陀如来立像と四天王像が安置されている。

小髙い丘の上に建つ納骨堂。

そこへ行く石橋と池に咲く蓮の花が印象的であった。

唐門の先には大方丈と法然上人御堂(集会堂)が見える。

大方丈は寛永18年(1641年)に建立された書院建築で重要文化財だ。

本堂の東方に建つ宝形造本瓦葺き裳階付きの経蔵。

三門と同じ元和7年(1621年)に建立された建物でこれも重要文化財。

境内東側、急な石段を上った先の小髙い場所にある

勢至堂(本地堂)へ行く階段。

この建物も重要文化財。左の銅像は法然上人像。

本堂の向かって左に東面して建ち、本尊阿弥陀如来坐像を安置する。

明治時代の再建だが正面に掲げられている大谷寺という

勅額は後奈良天皇の宸筆である。

この建物が知恩院の新玄関になっている。

京都は文化財の宝の山。

木造建築の敵は火災ということで、ここぞという寺院には

放水銃が設置されてあった。

新玄関から裏手に抜け黒門に至る石段の光景は

寺院というよりは城の様な造りになっている。

石垣には立派な苔が付き、とてもいい感じ。

知恩院では大変ユニークな運動が展開されていた。

それは「おてつぎ運動」。

この夏もおてつぎこども奉仕団と称して2泊3日の

お寺合宿が行われていた。

私たちは「なぜ生きているんだろう?」

「死んだらどこへいくんだろう?」

多くのお坊さんたちが残してくれた言葉をお寺で学ぶイベントだ。

知恩院前の駐車場にあるトイレの横に

自動販売機と並んで、外貨両替機を発見。

さすが国際観光都市・京都。

両替も随分手軽にできるようになったものだ。