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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

江戸城外堀巡り PARTⅡーその3

2019-04-12 06:20:50 | 旅 ~東京

江戸城の城門中最小の門だった山下門跡のあたり。

この東京電力、みずほ銀行本店のエリアは江戸時代初期は

薩摩藩島津家の上屋敷だった所。その後外様第2の大藩になった

薩摩藩には手狭となった為、三田に上屋敷を移し、山下門内の屋敷を中屋敷とした。

外堀の門の一つ、幸橋門跡。ここで掘りはほぼ直角に曲がっていた。

現在、その痕跡は歩道の形などに残っている。

この門の内側だったことから内幸町の地名ができた。

ビルの植え込みの中に点在する石や敷地内に積上げらえた

石垣は、ビル工事で出土した外堀の石垣の石が使われている。

この石の表面に矢穴や大名家の刻印を見ることが出来る。

この刻印は他藩の石と間違えない様に彫ったとの事。

この石は豊後臼杵藩稲葉家のもの。

ガイドの篠原嬢が他藩の刻印例も説明してくれた。

現在も地名として残っている外堀の門の1つ、虎の門跡。

江戸時代では青龍・白虎・朱雀・玄武の四獣神が四方を守るという

考えがあり、青龍は東、白虎は西、朱雀は南、玄武は北が

ふさわしいとされていた。これに因んで江戸城の西に

位置していた門は白虎の虎の門と名付けられたと言われている。

虎の門の交差点には虎の門会の石碑が建っている。

文部科学省庁舎改築に伴って行われた発掘調査により

出土した外堀の石垣が省内裏手に展示されてあった。

ここは外からは分からない為、この様な方に案内されないと分からないが

一般の人にも見学できる貴重な場所だ。

ここにも多くの藩の刻印が発見されている。

ここに展示されている江戸城外堀の門の地図はとても有意義なもので

おびただしい数の門があったことが分かる。

又、改築後、官庁とは思えないお洒落なカフェがあるのも発見した。

地下鉄銀座線虎ノ門11番出口(新庁舎連絡通路内)には

なんと史跡江戸城外堀跡地下展示室がある。

もちろん料金は無料。地上からエスカレーターを降りていくと

壁に外堀の水面の深さまで表示してあるリアリティさ。

半地下部分は展望スポットになっていてガラスの塀で囲まれ

その向こうに外堀の石垣が目の前に迫ってくる。

そして詳しい解説のパネルも設置してある。

それだけでもすごいのにさらに石垣の岩の現物まで展示してあった。

主に石垣は伊豆が石材の産出場所で、石切り場で

規格化された石材に加工されていて、海路で江戸へ輸送された。

まさにここはミニ博物館だ。

 


江戸城外堀巡り PARTⅡ -その2

2019-04-10 05:30:00 | 旅 ~東京

PARTⅠ―その3で紹介した遠山の金さんの北町奉行所に対して、

こちらは大岡越前守で有名な南町奉行所跡。

有楽町駅前のイトシア前のある東京都指定旧跡の碑(?)。

うまく考えたもので電源盤をいかにも石碑に見せて

しかも端に小さくあるので見逃してしまう。

エスカレーター乗場には下水道の石垣。

エスカレーターで地下に降りたところに穴蔵と木樋がある。

都心のど真ん中の史跡は保存するのが本当に大変だ。

地図上の番号は、現在と江戸時代の地図の位置関係を示している。

現在図の水色は跡地も含めた外堀を表している。

江戸時代の地図と現在の地図。実際の道の曲がり方・坂道などを

良く見比べてみると使われ続けている道が多いことが分かる。

外堀の門の1つの数寄屋橋門跡。ドラマ「君の名は」で有名だが

既に外堀は埋め立てられ橋は跡形もない。

しかし東急プラザ銀座の隣にある公園には菊田一夫書の

「数寄屋橋此処にありき」の石碑がはめ込まれた橋の欄干の一部が

保存されている。ガイドさんが手に上げた昔の数寄屋橋の写真。

そして道路も江戸時代のままの曲線を描いている。

ガイドさんの説明を受けなければなぜカーブしているのか分からない。

数寄屋橋公園には作詞佐伯孝夫、作曲吉田正により

フランク永井が歌って大ヒットした「有楽町で逢いましょう」

(昭和32年)の歌碑もある。本当に懐かしい歌だ。

晴海通りと外堀通りが交差する数寄屋橋に建つ銀座の

顔の一つと言っても過言ではない歴史を持つビル、ソニービル。

このビルにも2017年3月31日を持って営業を終了。

2022年には「inviting」をキーワードにした新ソニービルとして

生まれ変わる。この日の壁面にはアッと驚くデザイン画が表現されていた。

以前東急プラザ銀座のブログで紹介したエルメスのビル屋上にある

馬の像がこの日も目に入ってきたのでパチリ。とても目立つ広告塔だ。

数寄屋橋の通りで街頭キャンペーンをしていた人達。

黒とブルーの市松模様のユニフォームがお洒落でとてもアピール度が

強かったので又々パチリ。

これも依然紹介したが東急プラザ銀座の意匠コンセプトは江戸切子。

そのカット面が横を歩いてハッキリ見えたので、これもパチリ。

やはり銀座の界隈はフォトスポットが次から次へと現れてきて楽しい。

数寄屋橋公園の中にある岡本太郎作の「若い時計台」。

昭和43年に設置された。これが夜ライトアップされると素晴らしいらしい。

今度一度夜見てみたいものだ。そして隣に見えるのが

泰明小学校。円形の曲線がとても美しい建物だ。

最近制服のブランド問題で話題になった中央区立泰明小学校。

創立は明治11年6月25日だから約140年の歴史を誇る有名小学校だ。

この小学校の卒業生には島崎藤村、北村透谷をはじめ

浅丘雪路、池田弥三郎、中山千夏、殿山泰司、

和泉雅子、近衛文磨、稲山嘉寛、などキラ星のごとくだ。

特に芸能界の人が多いのが目立つ。この校舎は関東大震災後の

復興事業として昭和4年に建てられた鉄筋コンクリート造で

壁厚を通常より厚くし、堅牢なものとした為、東京大空襲の爆撃にも

耐えて現在に至っている。外観は連なる3階の半円形の窓。

円形に張り出した講堂、縁を伴うアーチ型の開口を有する塀

「フランス門」と呼ばれている瀟洒なデザインの門扉などの特徴を有している。

泰明小学校の前の通りは、明治天皇が宮城より海軍兵学校に

御行幸された折にお通りになられたことから「みゆき通り」と

呼称される様になったと言われている。

銀座通りには柳並木で歌にも唱われた。この木は銀座の柳二世。

島崎藤村、北村透谷の記念碑も、他に多くの記念碑が正門のあたりに

貼られている。東京ど真ん中の有名校ならでわだ。


江戸城外堀巡り PARTⅡ -その1

2019-04-09 06:20:55 | 旅 ~東京

クラブツーリズム㈱が企画した全5回「江戸城外堀ぐるり一周」

シリーズの第2回「かつての外様大名の整備場所 鍛治橋跡から

今は無き溜池跡地周辺 溜池山王へ」に行って来た。

集合場所 東京駅八重洲口 グランルーフ下。

そしてこの方が前回に続いてお世話になった

「歩き旅応援社」のガイド篠原さんです。

このGRANROOF(グランルーフ)は、ノースタワーとサウスタワーを

結ぶ「光の帆」をデザインモチーフとした長さ約230Mの

大屋根と賑わい空間と歩行者ネットワークを形成する

ペデストリアンデッキ。これは先進性、先端性を象徴する

八重洲口の新たなランドマークになった。デザインアーキテクトは

現代建築に大きな影響を与えている世界的建築家ヘルムート・ヤーン。

地下1階から3階の商業施設にはヤエスセンセーショナルシーンを

コンセプトに新しい空間の過ごし方を提供する全16店舗が展開している。

よく行く八重洲地下街内に徳川家康の外交顧問であった

オランダ人ヤン・ヨーステンの像がある。

これは新発見だ。ヤン・ヨーステンは内堀の和田倉門近くに

屋敷があったため後に八重洲の地名の由来となった。

ヤンヨース→八代洲→八重洲。

今回も前回と同じように元気な女性高齢者が中心。

前回見た人も数人いた。今回のグループには小学生程の男の子が

一人居て、熱心に写真を撮っていたのがとても印象的であった。

外堀の門の一つ、鍛治橋門跡。江戸には幕府の鍛治職人が

住んでいた町が神田と外堀沿いの2ヶ所にあり、

神田鍛治町に対して外堀沿いには南鍛治町と呼ばれた。

この南鍛治町に通じる門であることが名の由来となっている。

ここでも少年が熱心に案内板をカメラに納めていた。

今回のツアーも江戸時代末期に作成された「尾張屋清七板江戸切絵図」の

古地図が配られた。この古地図の家紋が書かれているのは

大名の上屋敷■は同中屋敷、●は同下屋敷を、名前だけ

書かれているものは旗本・御家人の屋敷を表している。

又、家紋のある方が表門表示に成っているとか。

東京国際フォーラム東京駅寄りの所にひっそりと立っている

「東京府庁舎跡」の碑。ここは東京都指定旧跡になっている。

東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内の旧大和郡山藩邸に

開設され、その後明治27年に丸の内(現在の有楽町駅前)に

新たに建設された。第2次世界大戦中の昭和18年に

東京市と東京府が廃止され東京都が設置されたが、

この建物は戦災で焼失した。

一時代前この地にあった東京都庁の外にやや空に向いて

凛として建っていた太田道灌像はここ東京国際フォーラム1階にあった。

知らなかったナー。この地は江戸時代、土佐藩と阿波藩の

上屋敷があった所。江戸幕府開幕から遡ること約150年前、

1456年(康正2年)に江戸城を初めて築いたのが

扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌(1432年―1486年)だ。

昭和32年、開都500年を記念して、旧丸の内第一本庁舎の

鍛治橋通り沿いにこの像が設置された。

太田道灌は今も、皇居(旧江戸城)の方角を望んで立っている。

道灌像の隣には今年日本で開催されるラグビーワールドカップの

大型ラグビーボールモニュメントがあった。高さ2.3M 重さ500㎏。

館内には東京都庁の歴史を紹介を紹介する写真パネルの展示コーナーもあった。

上の写真は明治27年丸の内に建設されたレンガ造の

ドイツ式洋館の東京府庁舎。下は昭和32年の第一本庁舎。

電車に乗るとよく見たものだ。この当時は鍛治橋通りも都電が通っていた。

フォーラム内一通りの見学が終わって降りてくると太田道灌像の前に

外国人の観光グループが説明を聞いていた。

最近の観光はここまでも紹介されるのか!自分だって初めてなのに。


江戸城外堀巡りPART I ーその3

2019-03-25 17:23:15 | 旅 ~東京

まるでこの写真を見るとニューヨーク マンハッタンに居るようだ。

ここは大手町仲町通りを挟んで林立する再開発ビル群エリア。

江戸時代は酒井雅楽頭の上尾敷のあった所だ。

 

このビル群の中に、星野リゾートが経営している「星のや東京」がある。

ここは和のおもてなしを世界に発信する日本旅館タイプのホテルだ。

玄関で靴を脱ぎ、畳にあがるという日本の生活文化を

継承する。それを海外から訪れる方にも体感いただき、

その哲学を世界に発信していく。お茶の間を中心に設えた

小さな宿が塔状に重なり合う造り。江戸東京の文化が彩り,然も温泉まである。

外観は江戸小紋の麻の葉崩しをモチーフにした抜き型で覆われている。

当ホテルは2016年に開業した。ここは都心の真ん中の全く違う

進化した未知の空間の日本旅館ホテルだ。

再開発ビル群の一角にひっそりと立ったていた庄内藩酒井家上屋敷跡の

木標識。ここには神田明神が建っていた。江戸時代初めに移転したが

塚は残り、関東大震災で崩壊した。

この方が㈱歩き旅応援舎社長の岡本社長。

氏は町あるき歴20年、特に東海道を5回踏破、現在も6回目に挑戦中。

江戸時代の古地図を片手に東京を歩き続け、盛んな好奇心と

探究心から今も新たな発見を求め続けている。

この緑地が江戸時代の堀と陸地の境目と熱弁をふるっていた。

ここは大手町川端緑道(延長約780m幅員約12m)。

大手町連鎖型都市再生プロジェクトとして、独立行政法人

都市再生機構が施工している大手町土地区画整理事業により

日本橋川沿いに整備された歩行者専用道路だ。

日本橋川環境絵巻というコンセプトのもとにデザインされた。

この鎌倉橋は日本橋川に架かる橋で、神田エリアと大手町エリアの

境目に当たる。現在の橋は関東大震災の復興事業で

昭和4年に架け替えられたアーチ橋で欄干には昭和19年11月に

米軍による爆撃と機銃掃射を受けた際の銃弾の跡が

生々しく残っている。又、本橋左岸下流側に、江戸城の際に

相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げした河岸があり

鎌倉河岸と呼ばれた。

江戸時代初期に掘られた竜閑川の入口に架けられていた竜閑橋。

川は昭和25年に戦災で生じた瓦礫処理の為に埋め立てられ

現在は橋だけが小公園に残されている。

常磐橋の立派な欄干の柱の横に昭和のにおいがプンプンする

屋台が一台置かれていて思わずパチリ。

ラーメンが700円とはけっこういいcpだ。1万円札はダメとは何かを想像させる。

この一石橋は金座支配の後藤家と幕府御用達呉服商後藤家の間に

あったところから「後藤(5斗)と後藤(5斗)で一石橋」という

巷説がある。かつてはここで外堀と水路が十字に交差していたが

現在は一石橋より西と南の水路、堀は埋め立てられている。

一石橋の上から左に見える橋が日本橋。

橋の南詰には迷子しるべ石標がある。

ここは遠山の金さんで有名な北町奉公所跡。丸の内トラストタワーの

敷地内に外堀の石垣石と復元された下水道の石組みがあり、

大丸前の外堀通り沿いには説明板がある。

もうここを出ると東京駅八重洲口だ。


江戸城外堀巡りPART I -その2

2019-03-22 06:29:46 | 旅 ~東京

この橋を一ッ橋といい、内濠川に架かる見附橋で徳川家康が

江戸城に入ったころは、大きな丸太が一本架けられていて、

その名で呼ばれていたという。橋の近くにあった松平伊豆の守の屋敷のあとに、

8代将軍吉宗の第4子徳川宗尹が御三郷の一人として居を構えた。

そこで橋の名をとって一ツ橋家と称した。現在の橋は大正14年に架設されたもの。

一ツ橋家の屋敷跡は現在22階建てのビル(丸紅本社の建替え)の建築中。

仮囲いにはそのことを知らせる写真が掲示されてあった。

内堀架かる江戸城の通用門の「平川門」。この門は江戸城内郭門の1つで

三の丸から場外への出口にあたり、御三家・御三郷は

ここから登城した。又、この門は江戸城の鬼門にあたることから

不浄門としても使われており、罪人や死人はこの門から運び出された。

ここは皇宮警察本部が所轄している。平川門から皇居内に

入るには手荷物チェックがある。この日も多くの人が来ていて長蛇の列になっていた。

江戸城の堀、櫓の壁面などに開けてある防御用の穴や窓の狭間。

江戸時代は平和が長く続いた為、狭間もデザイン性を尊重し実用性が欠けているとの事。

平川門の橋の欄干の擬宝珠。この青銅の擬宝珠を良く見ると

寛永元甲年八月吉日と印されている。ということは約400年前のもので 

ずっと江戸、東京のど真ん中の変化を見てきた物だ。

一ツ橋家跡、現在建設工事が行なわれている所の向かい側、外堀の所には

今にも壊れそうな江戸時代の石垣の一部が残されている。

外堀の門の1つ、常磐橋門跡。命名者は江戸三年寄の1人初代奈良屋市右衛門。

現在も門の石垣が残っている。外堀に架かっている橋は明治10年に

門の石垣の一部の石を使用して造ったもの。但し、現在は東日本大震災による

修復工事中で立入禁止になっている。工事現場の仮囲いには

常磐橋の概要、歴史、工事状況、明治〜戦前の常磐橋周辺マップ、

現代のマップなどの資料が貼り出され勉強になる。

外堀の門、神田橋門跡、ここから竜閑橋までの間は

北側が荷揚場であり、鎌倉河岸と呼ばれていた。

この神田橋を渡ると首都高速神田橋入口ランプになり、

その向こうエリアは大手町のビル街に続く。 


江戸城外堀巡りPART I ーその1

2019-03-21 06:20:12 | 旅 ~東京

クラブツーリズム㈱が企画した全5回江戸城「外堀」ぐるり一周。

第1回江戸庶民の飲み水を供給する「水道橋」から

「北町奉公所跡地」周辺「東京駅」へ参加してきた。

スタート集合はJR線水道橋駅。参加者は約25名程、

圧倒的に高齢者女性が多いのには驚いた。

オリジナル解説レジュメと復刻版、江戸時代古地図をもらい

これを見ながら江戸城が蘇る5時間の歩く旅だ。

水道橋駅東口を出て、すぐ通過したのが、水道橋のパワースポット

三崎稲荷神社。当神社の創建は寿永元年(1182年)に

武蔵国豊島群三崎村の鎮守の社として創建されたと伝わっている。

その後転々として明治38年(1905年)に現在の地に移転してきた。

徳川3代将軍家光から旅行安全の神様として信仰され

江戸城の出入りの際は参拝したと伝わっている。

諸大名が江戸城入りする際は当神社でお清めしたことから

「清めの稲荷」とも呼ばれていた。

このツアーには「歩き旅応援舎」の歴史に精通した

女性ガイドさんと会社の社長(この方はTVにも出てきたり

この世界ではスーパースターの様だ。)が同行した。

又最近流行りのガイディングレシーバーも貸してくれて大いに役立った。

堀留橋。もともとここには平川という川が流れていたが

神田川を掘削し、明暦大火後にここより北側の神田川に

通じる水路は埋め立てられたため、外堀の起点はここになった。

滝沢馬琴硯の井戸跡。滝沢馬琴は26歳の時からこの地に

31年間住み、「南総里見八犬伝」をはじめとして

多くの小説を世に出した。この奥に当時の井戸があった。

俎橋。名前の由来については、江戸時代初期に、近くに御台所町

(幕府の台所役人の屋敷と思われる。詳細不明)があったことから

「俎板橋」と名付けられたという話がある。

この橋を過ぎると大通りに出た。先には靖国神社の大鳥居が見える。

渡された古地図は重宝な書かれ方をしている。

昔は表札が無く、地図で名前の上の方が玄関という書き方になっているそうだ。

1回目の休憩地となった千代田区役所本庁舎と九段第3合同庁舎。

江戸城清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵

馬場、厩といった江戸城付属の施設が置かれていた。

近代になるとこの地は、明治政府の厩が置かれた。

明治9年には二度の総理に就任し、早稲田大学を創設するなど

多方面に活躍した大隈重信が邸宅を構えた。

その後、フランス公使館、憲兵練習場、国営竹平住宅を経て現在を迎える。

昭和36年に国指定重要文化財に指定された「清水門」。門の名については

かつて清水が湧き出ていたからという説とこのあたりに

清水寺があったという説がある。1624年(寛永元年)安芸広島藩

藩主浅野長晟により修築され、1657年(明暦3年)の火事で

類焼したと考えられる。又徳川御三卿の清水家はこの門内に

屋敷地を与えられたことに由来する。

一ツ橋、竹橋JCTのエリアは共立女子学園の建物が多く目立つ。

一昔前有名な神田共立講堂、共立女子中、高、女子大学。

創立は1886年で大学設置が1949年。建学の精神は誠実・勤勉・友愛だそうだ。

昔はあまり見なかった水位警報の案内板。水位が護岸天端から1.5mに

達すると自動的にサイレンが鳴るシステムになっている。

おそらく東日本大震災以降、津波を意識して設置されたのでは。

 雉子橋門跡。外掘と内掘を結ぶ堀に橋が架けられ、雉子橋門があった。

幕末の嘉永2年(1849年)に新設された蕃書調所は当初は

雉子橋門外にあったが、火事で九段下に移転した。

尚、この橋は大正14年に架けられた。

以前の住友商事ビルの所に江戸時代の石垣が残っている。

石垣の一部には石を採取する時の斫りの跡が残っている。


深大寺

2019-02-27 06:36:57 | 旅 ~東京

武蔵野(調布市)の水と緑と寺とそばで有名な深大寺。

参道には深大寺そば店が並び、特有な雰囲気、景観を創り上げている。

又、隣接する旧寺領には都立神代植物公園がある。

元禄8年(1695年)に建てられた山門は、深大寺で最も古い建物。

苔が生えた萱葺きの屋根と朱塗りの門がとても素晴らしい。

深大寺の創建は天平5年(733年)と伝えられ、東京都内では

浅草の浅草寺に次ぐ古刹だ。開基は満功上人と言われ、

天台宗別格本山、山号は浮岳山という。本尊は阿弥陀三尊像。

この本尊は大正時代に再建されたもの。深大寺の名は中国増 

玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」に由来していると伝えられている。

釈迦堂にある国宝銅造釈迦如来倚像は白凰仏とも言われ

2017年9月15日付で国宝に指定された。この像は元三大師堂の

壇の下から発見されたものだそうで東日本最古の国宝仏だ。

これが深大寺の境内。樹木が多く茂り武蔵野の面影が色濃く残っている。

のどかでとても良い雰囲気のお寺だ。

この梵鐘は永和2年(1376年)鋳造した銘があり、

重要文化財に指定されている。都内でも3番目に古い梵鐘だそうだ。

旧庫裡とお札などが売っている売店 深大寺全体の空気に

馴染んだ建物になっている。

なんじゃもんじゃの木。学識名称はヒトツバタコ(モクセイ科)。

4月下旬より開花し、あたかも雪が降り積もったかのように

真っ白な花が咲き乱れることからスノーフラワーとも言う。

かつては、その土地に自生している珍しい樹木や

一度も見たことがない摩訶不思議なものを、

「これはなんというものじゃ?」と尋ねたことから

「なんじゃもんじゃ」と呼ばれるようになったとか。

境内には高浜虚子の句碑と胸像があった。「遠山に 日の当りたる 枯野かな」

明治33年11月25日、虚子庵例会での作品。当時虚子26歳であった。

本堂の横にある元三大師堂。お堂の前には賓頭盧尊者が祀られている。

深大寺の厄除元三大師祭(3月3日~3月4日)では日本三大

だるま市の一つ 深大寺だるま市が行なわれる。

300年前、江戸中期から存在する日本最大の厄除け大師で

約10万人前後の人々が集まるそうだ。因みにあと2つのだるま市は

高崎だるま市(少林寺達摩寺)と毘沙門天だるま市(富士市今井香山寺妙法寺)だ。

元三大師堂のおみくじはすごい。大吉、吉、半吉、小吉、末吉、末小吉、凶

と7段階ある。自分の知りうるところでは2つ多いような気がする。

 

境内に大きくて立派な石灯籠を発見。なんと奉納者は

徳川二代将軍秀忠と書かれたあった。


清水谷公園(小さな旅)

2018-06-09 05:08:21 | 旅 ~東京

東京のド真ん中千代田区紀尾井町に、ホテルニューオータニ、

2年前にオープンした東京ガーデンテラス紀尾井町などが

面している紀尾井町通り。写真で左側に緑がある所が清水谷公園だ。

井伊家との境目付近が谷だったこと、井伊家との境目付近の

紀州徳川家の屋敷から清水が湧き出ていたことから

付近は清水谷と呼ばれた。この公園付近を

個人から東京市に寄贈されたのを受け、1890年清水谷公園として開園された。

現在は清水は涸れて、人工的に復元した心字池がある。

又各種樹木があり、ちょっとした森になっていて

界隈を行き交う人々の憩いの場となっている。

かつてはデモの集会の場としても知られ、よくニュースに出て来た。

この地に来た訳は今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」の

相手役正助どん即ち、大久保利通(1830~1878)が

暗殺された、その生の地に立ってみたかったから。

大久保利通は薩摩藩出身の政治家で、明治維新後は

版籍奉還や廃藩置県などを主導し、初代内務卿(実質上の首相)に

就任した。現在に至る日本の官僚機構の基礎は

大久保によって築かれたと言われている。

西南戦争の終結後、一部の士族らが大久保の政策に反発し、

1878年5月14日朝、麴町清水谷において、

赤坂仮皇居内の太政官へ出仕する途中の馬車を襲い暗殺した。

この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれている。この哀悼碑は

暗殺された10年後の1888年(明治21年)建立された。

石碑の後から撮った写真には東京オリンピックの年

昭和39年9月に開業したホテルニューオータニ

ザ・メインと10年後の昭和49年9月に開業した

新館のタワー(ガーデンタワー)が写っている。

大久保利通は現在青山墓地で眠っている。その大きな

お墓の側にはともに犠牲となった馭者や馬も眠っている。

それにしても鳥居があり、墓石の大きいこと。

これを見るとその当時の人々の衝撃の大きさが伝わってくる

ような気がする。(2016-6-3付ブログ 青山墓地を参照)

この石桝は昭和45年道路工事の際に出土した玉川上水

幹線(本管)の一部。江戸は慶長・寛永期と時を経て

人口が増加すると、小石川上水や溜池上水といった

旧来の上水だけでは水不足となり、新しい玉川上水が開発された。

全長43㎞に及ぶ水道を造ったが、四谷大木戸(現在の四谷4丁目)

から石樋や木樋による暗渠となり、江戸城内をはじめ

麹町・赤坂・虎ノ門などの武家屋敷地や京橋の町地にも給水された。


両国の見どころを歩く (その3)

2018-04-24 05:55:43 | 旅 ~東京

鍼術の神様・杉山和一(1610~1694)が5代将軍綱吉から

ここ本所一ツ目に土地を拝領し総録屋敷を建て、

その西隣に弁財天の1社を建立したのが江島杉山神社の始まり。

ここには江ノ島の弁財天と杉山和一総検校が祀られている。

杉山和一は、現在の三重県津市の出身で幼い頃に失明したが、

江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり

鍼術の1つである管鍼術を授かった。その後江戸に戻り

鍼の名人として活躍した。この評判を聞いた綱吉は和一を

「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせた。

いよいよ赤穂浪士の吉良邸討入の現場本所松坂町に到着。

その昔、吉良邸は松坂町1.2丁目(現両国2.3丁目)の内

約8,400㎡(約2,550坪)を占める広大な屋敷だったが

年を経て一般民家が建ち並び、ご覧の様に今ではその面影はない。

真ん中の写真は上の図面でいうと左上の角の場所(裏門)

左の通りの所に大石内蔵助の息子大石主税が待機していた所。

3枚目の写真は図面の右下(正門)で、大石内蔵助隊が待機していた。

前の写真2枚目の向かい側の所に赤穂浪士の1人

浅野家の金奉行であった前原伊助宅があった所だ。

前原伊助は吉良邸裏門近くの本所相生町2丁目に移り住み

「米屋五兵衛」と称して店を開業し、吉良家の動向を探っていた。

吉良邸の屋敷図面を手に入れるのに相当苦労したとの事。

ここ本所松坂公園は、昭和9年3月地元町会の有志が

遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として

東京市に寄付をした。周辺の石壁は、江戸時代に

おける高家の格式をあらわす「なまこ塀長屋門」を模した造りで

園内には元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの

遺蹟があり当時をしのばせている。

忠臣蔵は日本人が大好きなストーリー。その舞台になった所を

訪ねようと、大きな団体が来た。コースガイドさんの話では

調べれば調べる程、吉良家はこの事件で割りを食う立場に

なって本当にかわいそうだと言っていた。

 

次に向かったのは幕末の英雄、勝海舟の生誕の地。

海舟は本所亀沢町にあった父の実家である男谷家の屋敷

(現在の両国公園)で文政6年(1823年)1月30日に生まれた。

海舟の父惟寅は跡継ぎのいない勝家の婿養子となり

勝小吉と称することになる。勝家は三河以来の古参の幕臣でしたが

小晋請組に属する無役で、いわゆる貧乏旗本だった。

両国公園の一角には、法務大臣西郷吉之助が書いた石碑がある。

そして勝海舟の歩みと種々な出会いの幕末絵巻が

展示してある。(黒船来航、長崎海軍伝習所、感臨丸の渡航、

坂本竜馬との出会い、神戸海軍操錬所、江戸城開城(西郷との出会い)

戊辰戦争など)そして海舟は明治32年1月19日まで生きた。76才没。

この文学碑は、芥川龍之介の代表作の一つである「杜子春」の一節。

ここの場所が芥川が学んだ両国小学校。創立150周年記念事業として

平成2年10月に建立された。又、ここからちょっと離れた両国

3丁目21番4号の芥川龍之介生育の地も案内された。

芥川龍之介は明治25年3月1日に、東京都京橋区入船町に

新原敬三、ふくの長男として生まれた。辰年辰の日、辰の刻に

生れたのに因んで龍之介と命名された。生後7ヶ月の時、

本所区小泉町15番地(現両国3丁目)に住んでいた

ふくの長兄芥川道章に引き取られ、13才の時

芥川家の養子となった。芥川家は旧幕臣で江戸時代からの名家で、

教養趣味が深く江戸趣味豊かな家庭だった。本所は龍之介の

幼児期から少青年期までの大事な時期を育んだ場所だった。

江東尋常小学校(現両国小学校)、府立第3中学校(現両国高校)

そして成績優秀により無試験で第一高校第一部2類に入学した。

その後東京帝国大学英文科を卒表した。東大在学中、

夏目漱石の門に入り同人誌に優れた短遍を発表して文壇に華やかに登場した。

昭和16年5月、第35代横綱・双葉山が開いたここ

「双葉山相撲道場」が現在の時津風部屋のルーツ。

双葉山と言えば、未だ破られない歴代最高記録の69連勝、

5場所連続全勝優勝などを記録した大横綱だ。

「双葉の前に双葉なく、双葉の後に双葉なし」と言われた。

両国地区には他にも相撲部屋が沢山あり、このスーパーにも

ちゃんこ鍋などの食材を買いに多くの相撲取りが来るとか。

この日はのぞいても一人も居なかったが、きのこなど保存がきかない

野菜はあっという間に無くなってしまうとコースガイドさんが話していた。


両国の見どころを歩く (その2)

2018-04-23 06:12:41 | 旅 ~東京

両国駅から回向院に向かう国技館通りの両サイドには、

雲竜型、不知火型の土俵入りをしている横綱像が6体あり、

台座には多くの横綱の手形が付いている。

相撲の街両国ならではのオブジェだ。

最初に向かったのは回向院。回向院の由来は次の通りだ。

明暦3年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった

明暦の大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は、10万人以上、

未曾有の大惨事となった。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様であった。

そこで4代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、

ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩薩を

永代にわたり弔うように念仏堂が建立された。優縁、無縁、人、

動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の

慈悲を説くという理念のもと「諸宗山無縁寺回向院」と

名付け宗派を問わないという意で諸宗山という山号になった。

ここには遊女、水子、死刑者、諸動物も含め、

ありとあらゆる生命が埋葬供養されている。

コースガイドさんが持参してきた江戸時代の古地図によると

回向院の参道は現在と違うが、今の両国橋より下に架かっていた

橋を渡り、そのまま直線上にあった。この白黒の絵を見ると

相撲取りが大勢描かれている。

この絵は明治41年10月に描かれたもので、左前方に

見える円形の鉄骨は、工事中の旧国技館。

翌年6月に完成し、明治・大正・昭和のファンを熱狂させた。

回向院はまだ、江戸相撲発祥の地で、天保年間にはここが定場所であった。

これが回向院の本堂、いつ建てられたのか分からないが、

随分近代的な御堂だ。1階の庇の所に竹が植えられているなど意匠性の高い建物だ。

日本の国技である相撲は、江戸時代は主として

公共社会事業の資金集めの為勧進相撲興行の形態を

とっていた。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは

明治5年(1768年)。明治42年の旧両国国技館が

完成するまでの76年間は回向院相撲の時代が続いた。

力塚の碑は昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の

慰霊の為に建立したもの。その後も新弟子たちが

力を授かるように祈願する碑として、現在も相撲と当院との

つながりを示す象徴に成っている。力塚を囲んでいる

石柱の中に不世出の横綱、相撲の神様と言われた

双葉山定兵衛の関脇時代のものを見つけた。

大分県出身の双葉山を豊前と書き込んであるのも時代を感じる。

石造明暦大火横死者等供養塔。

延宝3年(1675年)頃建立されたもの。

境内には、猫の報恩伝説で知られる「猫塚」(文化13年、1816年)

唐犬八之塚(慶應2年・1866年)オットセイ供養塔、

邦楽器商組合の「犬猫供養塔」など、さまざまな動物の慰霊碑、

供養碑がある。回向院では、その開業以来、馬頭観音様を中心に

連綿と動物供養が行われてきた。ご供養は有勤行内で行なう。

それにしても昨今のペットのかわいがりようは半端ではない。

写真に写っている塔婆はほんの一部でずらーと並んでいた。

飼い主の名とペットの名が見事に並んでいる。

こちらは鼠小僧次郎吉の墓。時代劇で義賊として活躍する

ねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、

大名屋敷から千両箱を盗み町民の長家に小判をそっと置いて

立ち去ったと言われ、その信仰は江戸時代より盛んだった。

コースガイドさんの話だとその義賊性については

クレッションと言っていた。又、長年捕まらなかった運にあやかろうと

墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで

現在も特に「スルリと通り抜ける」ということにあやかって

合格祈願に来る受験生があとをたたないという。

回向院では竹の子が採れるのですよという

コースガイドさんの話で竹の根元を見たら確かに竹の子が

生えていた。都内の真ん中で小さな春を発見した。

回向院から両国橋へ歩いて行くと、袂に猪料理店

「ももんじゃ」がある。ここで又ガイドさんの説明があった。

当店は享保3年(1718年)の創業。「ももんじゃ」とは

百獣のことで、四つ足の動物の肉を扱う店を「ももんじ屋」と

総称している。もとは漢方の薬屋で薬の一種として出した猪が

人気商品となり料理店へ変身。肉食が禁じられていた

江戸時代でも「山くじら」と称して食べらえていた。

その他に鹿刺、狸汁などの珍しい肉料理が味わえる。

店頭に吊らされている熊は以前は本物であったが、

近隣のクレームで現在はにせ物を吊しているとか。

隅田川にかかるこの橋は武蔵国と下総国との国境にあったことから

両国橋と呼ばれた。ガードレール部分には軍配や

花火が描かれ、柱部には両国国技館の屋根に模った

飾りを配するなど、デザイン的にも凝ったつくりになっている。

着工は昭和5年でIHIと間組が施工した。

両国橋の手前数十メートル行った所に昔広小路があり、

赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げる前に休憩をした場所だ。

浪士たちは登城路になる旧両国橋を渡らずに、

後述する一之橋、永代橋を経由して泉岳寺へ引き揚げた。

文政年間(1818~1830)に当地本所横綱町で

華屋与兵衛が始めたすし屋が握りずしの発祥と云われている。

濃口醤油を付けて手づかみで昔は食べた。

形や造り方は当時も今も同じだが、一貫の大きさは今の2倍もあった。

江戸では空腹を凌ぐため「腹塞ぎ」として食べたという。

隅田川沿いから左へ曲ると出羽海一門の春日野部屋の前を通る。

春日野部屋は大正14年5月、第27代横綱栃木山

(8代春日野)が出羽海部屋から分家独立し、

創設した名門部屋だ。9代春日野(横綱栃錦は昭和49年から

昭和63年まで、日本相撲協会理事長を務めた。

コースガイドさんの話では相撲取りは原則自動車運転は

してはだめで皆自転車に乗っている。体が巨体の為

サドルも一般の自転車よりずっと大きいのに乗っていうとか、

これはおもしろい秘話だ。

幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を

最小限に止めるため排水路を碁盤の目状に開削した。

万治2年(1659年)、縦の代表格、竪川の開削と同時に

架けられたのが隅田川から入って一ツ目の橋という意で一之橋と命名された。

この橋は赤穂浪士が討ち入り後、最初に渡った橋として知られている。

そんなことでこの川はどこまでも真っ直ぐだ。