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スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

江戸の歴史を感じる町 佃島

2019-07-11 06:43:44 | 旅 ~東京

佃大橋の通りを北へ行くとそこは佃島エリア。

佃島は隅田川河口の2つの中州、

佃島と石川島から発展した街だ。

1990年には東京都心の超髙層住宅街の

先駆けとして有名な場所だ。

佃島には三社の稲荷神社が鎮座している。

ここは無人社の於咲波除稲荷神社。

創建時期、由来は不明だが扁額に「正一位」と

あることから伏見稲荷大社からの勧請であることが伺える。

鳥居脇に置かれた3個の力石は「さし石」といい、

佃島の若い漁業従事者らが、

大正~昭和初期頃まで力比べを行っていたという。

今、各神社には「奉祝令和」ののぼりの旗が

あちらこちらに立っている。

ここのは皇紀2679年と今時あまり見ない年数の旗だ。

こののぼりは東京都神社庁が出している。

佃堀辺りを歩いていると佃天台地蔵尊入口の

案内看板を見つけた。

写真を見ればわかるようにビックリする程狭い参道だ。

どうやら表参道は逆で、ここは裏側らしい。

こんな神社はぶらり散策でなければわからない。

江戸の佃島の漁民の故郷は大阪の佃村。

徳川家康を救ったのが摂津国の佃村の漁民。

家康は漁民達を江戸に呼び寄せ、特別な漁業権を与えた。

1646年(正保3年)の創建の住吉神社。

神切皇后と東照御親命(家康の霊)の分霊を奉遷し、

前述した摂津国佃の住吉社の分霊とともに祀った。

境内の鳥居にかかる陶製の額で明治15年に作られ寄進されたもの。

題字は有栖川官幟仁親王の筆によるもの。

この民家は佃島によく似合っている。

2階戸袋の鉄板の錆具合が見ていて懐かしさを

感じるのはなぜだろう。

この様な家が昭和30年~40年代には都内にいっぱいあった。

髙層ビルの立ち並び佃島の一画に立つ

不思議な建物が、この復元された石川島灯台。

この灯台は石川島人足寄場奉行 清水純畸が隅田川や

品川沖を往来する船舶航行のために築かせた常夜灯だ。

石川島の先端エリアに三井不動産が開発した

8棟の超髙層マンション 大川端リバーシティ21。

向い側の明石町にある聖路加ガーデンと共に

隅田川沿いのスカイラインを形成している。

佃堀(佃川支川)が隅田川に合流する地点にある住吉水門。

1965年に完成した。

1927年に立てられた佃大島の袂にある佃島渡船の石碑。

この渡船は佃島の住民や住吉神社の参拝客などが

利用していたが1964年の佃大橋の完成により廃止された。

佃島の歴史や伝統を象徴する千貫神興や

区民文化財である龍虎の獅子頭、

佃例大祭の写真などを展示している「まちかど展示館」。

歌川広重が描いた各所江戸百景の浮世絵の中で

画かれた住吉大明神ののぼり。

のぼりの奥に千貫神興が画かれている。

年号も安政四丁己六月吉日とはっきり読める。

この地を巡ってこの浮世絵のリアリティーが

ひしひしと伝わってくる。

佃島にはまだ4軒の佃煮屋さんが残って営業している。

ここ本家つくだ煮「佃源田中屋」。

当店は天保年間の創業だそうだ。

昔ながらの店頭での対面販売、量り売りは風情がある。

好きな穴子の佃煮は田中屋のみでおみやげに買ってきた。

「天安」さんは御三家で一番古くから創業していて

天保8年と佃煮に添えられた栞に書いてあった。

「丸久」さんも天保年間の創業とか。

ここは目につきやすい場所にある。

建物を建て替えたようでまだ真新しいお店だ。

ここ「つくしん」さんだけは一歩住宅街に入った所にあり、

案内看板がないとわかりずらい。

 

 

 

ここで佃煮の由来について書いてみます。

佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため

自家用として小魚や貝類を塩や醤油で

煮詰めて常備食、保存食とした。

保存性の髙さと価格の安さから江戸庶民に普及し、

さらに参勤交代の武士が江戸の名物土産物として

各地に持ち帰ったため全国に広まった。

(他にも異説が多くある。)

佃煮発祥の地で昔ながらにのれんを守り続ける姿は

佃にあってこその風格です。

とても目立った朱色の佃小橋と

今一度、大川端の超髙層マンション群。

下町の歴史を感じさせる橋と近未来を感じさせる

超髙層マンションのコントラストが

とてもおもしろい空間を作っている。

 


下町情緒たっぷりの月島

2019-07-09 06:39:37 | 旅 ~東京

都営大江戸線、東京メトロ有楽町線の月島を出るとすぐ目の前に

月島西仲通り商店街(通称もんじゃストリート)が

目に入ってくる。

通りは壱番街から弐番街、参番街、四番街まで一本道だ。

これがもんじゃストリート(月島西仲通り商店街)の案内図。

下町情緒たっぷりの町並にもんじゃ屋さんが

なんと52軒(協同組合加盟店)。

さぁーみんなでおいしいもんじゃを楽しもうという感じだ。

現在もんじゃストリート弐番街の所で再開発のビルが建設中だ。

元々、月島は明治25年の東京湾澪浚(みおさらい)

計画に基づいて、東京湾より浚渫した土砂を利用して

明治時代に埋め立てられた月島一号地として完成した。

もんじゃストリートの弐番街と参番街を繋ぐ交差点に

東京で存在する交番で最も古い建物が

2007年に交番の役目を終え、

月島警察署西仲通り地域安全センターに移行した。

とにかくレトロでかわいい。

これだけ沢山のもんじゃ屋さんがあるとどの店が良いのか

一つの目安がウエイティング客の居る店はどこか?だ。

ここで数店を紹介します。

ここは参番街の「蔵」さん。

店主からのメッセージは「全ての素材にこだわりを持って

楽しく食べてもらえる とっても美味しいお店です。」

参番街にある「もへじ」さん。

もへじは数軒、ここで目にしたがどの店もウエイティング客が多くいた。

当店は創業明治4年の築地の魚河岸店直営のお店だ。

弐番街と参番街の間の古い交番の逆側の路地を

入った所にある「ことぶきや」。

店主からのメッセージは「初めての人も安心!

焼いてくれるアットホームなお店 美味しかった又来まーす。

そんな雰囲気なお店です。」

もんじゃストリートを歩いていると通り沿いに

「江戸小唄稽古所」という看板を発見。

月島の雰囲気にぴったりの看板と思いパチリ。

江戸小唄とは上方の小唄に対して江戸でできた小唄のことで、

特に幕末に江戸端唄から派生した爪弾で謳う小唄のこと。

月島の風景の素晴らしさはこの路地です。

車の進入がなされない巾2Mにも満たない路地が多く残っており、

歩行者が歩いて楽しむことができる。

下町の雰囲気が溢れる伝統的な長屋群が残され、

昔ながらの下町景観や暮らしがまだ感じられる。

そしてその背後に超髙層マンションが林立する

際立ったコントラストが月島の町並の特徴だ。


清澄庭園

2019-07-08 05:44:35 | 旅 ~東京

 

清澄庭園は江戸時代、下総国関宿藩主久世家の下屋敷でしたが、

明治11年に三菱財閥の岩崎弥太郎氏が買収し、岩崎別邸とし、

社員の慰安や貴賓を招待する場所として造園された。

大正12年の関東大震災のあと比較的被害の少なかった

東半分の園庭を公園として東京市に寄付。

清澄庭園として復旧した。

昭和54年には都の名勝第1号に指定された。

その公園がこの清澄庭園。

大正12年の関東大震災、昭和20年3月の大空襲の時には

避難場所としてこの公園は多くの命を救った。

ここ清澄庭園は昭和7年7月24日に開園。

面積は1万1,343坪(公園を入れると2万4,573坪)ある。

広大な池水を囲んだ大小の島々の配置や

涼亭と池のみぎわの美しさは都内屈指の名勝として

知られている。

安い入園料(一般個人150円、65才以上70円)を払って園内へ。

革新色が強かった美濃部都政の時代、

入園料をゼロにした結果、園内は荒れてしまった歴史があり、

有料にしたという話を聞いた。

園内を一周するのに約40分位だそうだ。

3つの中島を配した広い池。

水面に島や数寄屋造りの建物、

樹々の形を映し出す大泉水は園庭の要となっている。

昔は隅田川から水を引いていたので潮の干満によって

池の景観が微妙に変化したといわれている。

現在は雨水でまかなっている。

正に、清澄庭園は緑陰の水面に歴史を映す

明治の代表的回遊式林泉園庭だ。

池の端に石を点々と置いてそこを歩けるようにした磯渡り。

広々とした池の眺めが楽しめるだけでなく、

歩を進める度に景観が変化するように配慮されている。

池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物「涼亭」。

これがこの庭園を日本情緒豊かなものにしている。

涼亭は明治42年に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を

迎える為に岩崎家が建てたもの。

「古池や かはづ飛び込む 水の音」

松尾芭蕉の最も有名なこの句を刻んだ

新小松の石でできた石碑が園内に立てられている。

この庭園に行った頃はちょうど

「花菖蒲と遊ぶ」

というイベントが半月間行われていた。

涼亭での津軽三味線、琴などの水無月演奏会、

特別ガイド「花菖蒲の楽しみ方」。

パネル展&お休み処、庭さんぽなどの企画が行なわれていた。

庭園の一番奥にある自由広場には、

お洒落なシトロエンのオープンカーを利用した

ファーストフードショップが出店していた。

これがとても風景に馴染んでいた。

清澄庭園の1つの特色は園内に無数の石が配置され、

その種類は60種程ある。

当社の創業スタートがこの近くで石材問屋を始めたことから、

個人的には石には多少の関心がある。

上の写真は順に伊豆石、伊豆磯石、伊予青石、

紀州青石、武州三波青石、秩父青石、生駒石だ。

青石系が多いが青みまたは緑色の凝灰岩で

室内装飾や建物の外装などに使われている

石が多く配されている枯滝の近くで水と戯れていた

親子の姿が微笑ましく思わずパチリ。

後でこのブログを書いてて分かった事だが、7,8枚目の写真の親子が

偶然、この親子だったことがわかった。面白いですネー。

一枚目の写真は手前に見えるのが涼亭、

大泉水の池の先に見えるのが大正記念館。

この大正記念館は大正天皇の葬儀に

用いられた葬場殿を移築したもの。

しかし、最初の建物は戦災で焼失してしまった為、

昭和28年に貞明皇后の祭儀場の材料を使って再建された。

館内では簡単な飲食ができ、みやげ物なども売られていた。

又、別のコーナーでは清澄庭園と

岩崎家の資料展示がされていた。

この庭園で最も髙く大きな築山。

関東大震災以前はこの築山の山頂近くには樹々を植えず、

サツキやその他のツツジ類の灌木類を数列横に配して

富士山にたなびく雲を表現したものだと言われている。

最近都内に来るとわずかな自然の中に

野鳥のサギを見ることが多い。

ここにいたのはアオサギで比較的ジッとしていることが多く

おもしろい写真が撮れた。

そして都内の池にはかならずと言っていい位、亀が居る。

亀はほとんど動かない為、瞬間的に良い写真が撮りにくい。

時間がかかる。

清澄通り側の中の島の橋の辺りは

住宅が近くまで迫ってきている。

住宅、店舗から見れば素晴らしい庭園が借景となり

大いに得している様に見える。

当庭園では土・日・祝日に午前・午後1日2回、

庭園ガイドが園内を詳しく説明しながら巡ってくれる。

途中から合流して一部話を聞いて歩いた。

それによるとこの大きな讃岐御影石でできた山灯籠は

ただ重ねてあっただけだったが3.11の東日本大震災で

崩れてしまった為、今は接着剤的にセメントで固めてあるとか。

都内には文化財 江戸東京九庭園というのがあり、

清澄庭園もその一つだ。

他の八つは小石川後楽園、旧芝離宮恩賜庭園、

浜離宮恩賜庭園、旧古河庭園、六義園、旧岩崎邸庭園、

殿ヶ谷戸庭園、向島百花園がある。


江戸城外堀巡り PARTⅢ(その2)

2019-07-03 06:31:02 | 旅 ~東京

江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めてきた善國寺。

日蓮宗の寺院で旧本山は大本山池山本門寺で鎮護山善國寺という。

開基は徳川家康、開山は日惺上人と伝わる。

当時は馬喰町に創建されたが、たびたび火災に見舞われ、

寛政5年(1793年)に現在地へ移転した。

芝正伝寺、浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれている。

本堂の左右には神社の狛犬のように阿吽一対の狛虎像が置かれている。

案内板には「石虎」と表記され、製作は江戸時代後期のものだ。

阿形の台石右側に町名、世話人名が刻まれ、

善國寺周辺の住民が寄進したことがわかる。

人気アイドルグループ「嵐」の活動休止の発表を受け、

嵐の聖地として知られる当寺では、ファンによるコンサートチケット

当選祈願などの絵馬奉納がこの様に沢山下げられていた。

神楽坂の坂名の由来は、

坂の途中にあった髙田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、

津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、

若宮八幡の神楽が聞こえたから、

この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、

いずれも神楽にちなんだ諸説がある。

それにしてもこの街にはなぜか着物がよく似合う。

江戸城から牛込への出口にあたる

牛込見附(牛込御門)の一つをなす橋が牛込橋。

牛込口とも呼ばれた重要な交通路でした。

現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は

広大な草原でたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたという。

牛込橋は寛永13年(1636年)に外堀が開かれた時に

阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られた。

飯田橋駅前にそびえるランドマークタワーがこの飯田橋セントラルプラザ。

ここは以前は外堀(神田川)であった所を暗渠にした所で、

その形跡がなんとなく残っている。

尚、飯田橋の名は外堀にかかる橋の名で、

江戸時代の名主・飯田喜兵衛の名前に由来すると言われている。

飯田橋セントラルプラザには、

この様に立派なステンドグラスが設置されている。

このセンターが丁度、千代田区と新宿区の区境に成っていて

それを標示するプレートが埋め込められていた。

外堀はここで神田川(江戸時代は江戸川と呼ばれていた)と

合流し東に流れていた。

尚、神田川は江戸時代初期に江戸城北側の堀として掘られた人工の川だ。

この神田川は首都髙の下に流れていてここから来ているのを初めて知った。

この様な都内の隠れた水辺にさぎが数羽現れていたのにはビックリした。

飯田橋駅前の巨大な交差点歩道橋。

形は□の字で交差点が広い為、かなり歩く歩道橋だ。

小石川後楽園は文京区後楽1丁目にある都立庭園。

江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内につくられた

築山泉水回遊式の日本庭園(大名庭園)だ。

国の特別史跡及び特別名勝に指定されている。

水戸光圀が明の遺臣朱舜水の選名によって「後楽園」と命名した。

「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から。

小石川後楽園の西側の塀の石垣は、鍛治橋跡(東京駅の南側)から

発掘された外堀の石垣石を利用して組まれたもの。

飯田橋から水道橋の総武線のガードには歴史を感じさせる

レンガ積造りの髙架下があり、架けられた鉄橋には

1904年 DUISBURG-GERMANY

という銘が打ち込まれている。

ということはこの鉄橋は115年間この線路を支えてきたことになる。

鎌倉時代初期の創建といわれている三崎稲荷神社。

万治2年(1659年)に伊達綱宗が幕府から神田川改良工事を命じられたとき、

三崎稲荷神社に祈願したところ工事がスムーズに

進んだことから社殿を新築したという。

明治37年の鉄道敷設に伴い、現在地に移転した。


江戸城外堀巡り PARTⅢ(その1)

2019-07-01 06:25:01 | 旅 ~東京

全5回の江戸城外堀ぐるり一周の旅は第3回の溜池から四ツ谷駅までは

都合がつかず残念ながら不参加で、今回の第4回

「今も人気の大正ロマンの神楽坂、水戸徳川縁の地 小石川をあるく」に

参加してきました。

集合場所はJR四ツ谷駅麹町口出口。

そして今回も第1回、第2回に引き続いてガイドさんは

「歩き旅応援社」の歴史に精通した篠原嬢。

3回目になるとお互い、またよろしくネといった感じでアイコンタクトが通じる。

そんな人達が今回も数人いた。

まず、四ツ谷駅の目の前には上智大学のキャンパスが。

久し振りにしみじみと上智大方面を見ると随分変わりました。

上智大学の創立は1913年。

大学が始まったのが1928年と意外に古く、もう100年近い。

風景的に上智大と一体になっている聖イグナチオ教会も

約20年前に建て替えて、余計変わった。

江戸城外堀の門、四ツ谷門(ガイドさんが手に持っている写真)。

現在の新四谷見附橋の場所に橋が架かり、その東側に城門があった。

現在も城門の石垣の一部が残っている。

江戸時代には半蔵門を起点とする甲州道中にあり、

江戸城防御のための城門だった。

寛永16年(1636年)に長門萩藩主・毛利秀就によって

この城門石垣が作られたが、現在は一部しか残っていない。

特に四ツ谷駅麹町口駅舎下の所は深くのぞくとよく見えた。

4枚目の髙低差のある土塁は寛永13年(1633年)に

仙台藩・伊達家をはじめとする東国52家の大名により

牛込(飯田橋駅)から赤坂(赤坂見附)へ開削されたもの。

この外堀普請は約30年にわたった大規模なもので

これで江戸城建設は締めくくられた。

外堀の内側、雙葉中・髙等学校の校舎と

四ツ谷駅のプラットホームとはかなりの髙低差がある。

又、2枚目の写真は昭和4年に中央線複々線化工事の際に

四ツ谷駅北側の堀は埋め立てられて外濠公園となった。

現在は千代田区が管理しており、野球場やグランドなどが設けられている。

この公園と外堀通りとの髙低差も3枚目の写真を見れば一目瞭然だ。

市ヶ谷駅と外堀通りから市ヶ谷見附に向かう道路は

立派な石垣でできているのがわかる。

この日は米国トランプ大統領ご夫妻が令和に成って初めての国賓として

来日ということで都内はいたる所で厳重な警備が成されていた。

この地も然りである。

市ヶ谷駅ホーム、路線と外濠とはこのように背中合わせなのがよくわかる。

ガイドの篠原嬢が持っているのが市ヶ谷門の古い写真。

そして市ヶ谷交番の裏手に市ヶ谷御門の橋台の石垣石がある。

赤坂から四谷・市ヶ谷・牛込橋にいたる掘割や土手、

外郭門の石垣などが昭和31年に江戸城外堀跡として国の史跡に指定された。

CMやドラマで見かけた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

市ヶ谷駅ホームから見える釣堀の市ヶ谷フィッシュセンター。

私はここの思い出が沢山あり、久し振りに来て(おそらく50数年振り)

大変懐かしくなりました。

というのも昔、我が家では池に鯉を飼っていて

父親に連れられて何回も買いに来た所だからだ。

文明11年(1479年)に太田道灌が

鶴岡八幡宮から勧請して建立した市谷亀岡八幡宮。

こんな所に立派な神社があるなんて知らなかったナー。

江戸時代には境内に時の鐘があった。

銅鳥居は新宿区唯一のもので文化元年(1804年)造。

又、この水鉢台座は几号水準点に成っている。

境内には他に祭礼の時などに村人が力くらべをした力石が合計7個奉納されている。

一番古い力石は寛政6年(1794年)奉納されたものがある。

ここ八幡宮は髙台にあり、近くに防衛省本省の建物が見えた。

防衛省のある市ヶ谷台は明治7年に陸軍士官学校が開校したことがスタート。

そんな関係でか神社近くの境界地に今でも陸軍省所轄という

石標が残っていることには驚いた。

本当に名も無い路地にひっそりと眠っているという感じだ。

坂の上に浄瑠璃の芝居小屋があったことからこの坂を浄瑠璃坂と呼ばれた。

宇都宮藩・奥平家の家老同士の喧嘩から

仇討ち事件の現場になったことでも知られている。

神楽坂の手前に築土神社という小さな神社がある。

ここには堀兼の井という史跡がある。

この井の意味は掘りかねるというところから来ており

掘っても掘っても水が出ない為、皆が苦労してやっと掘った井戸という史跡だ。

神楽坂若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で、

御祭神は仁徳天皇、応神天皇だそうだ。


天王洲アイルと寺田倉庫

2019-05-27 06:11:57 | 旅 ~東京

長い長いゴールデンウィーク。

都内の小さな旅第2弾は

この天王洲アイルと品川五反田エリアを

選んで五月晴れの中を

一日ウォーキングしてきた。

天王洲アイルは京浜運河、

天王洲運河に面した約22ha全域が埋立地。

ここには東京モノレールと

東京臨海髙速鉄道りんかい線が

乗り入れている。

1985年、天王洲の再開発計画がスタート。

1988年からオフィス商業複合ビル

7棟の建設が進められ、

2015年現在の就業人口は約12,000人に成った。

今やシーフォートスクエアを始め

多くの超髙層ビルが林立し、

JTB、日本航空、住友ベークライト、

寺田倉庫、セガホールディングス、

DHLなどの本社がある。

ボンドストリートは、ふれあい橋と

海岸通りをつなぐ200メートルほどの小径。

名前の由来は保税地域(bonded area)で、

その名の通り、昔は倉庫街でした。

今は倉庫をリノベーションし、

天井の髙いショップやレストランがある、

おしゃれなゾーンと成った。

今話題になっている

「The Shamisen」 Shinagawa2019。

この壁画は最近テレビでも紹介された。

作者はカリフォルニア州で生まれ、

バルセロナで育った

アリス(ARYZ)さん。

この壁画は鈴木春信の浮世絵

「見立芥川」を題材にして描かれている。

車と比較すればこの巨大さに驚くはずだ。

生コン工場の塀もアートだ。

さらにプラント施設まで

アートにしてしまったらもっと迫力が出たのに。

その隣の立体駐車場の壁も

レインボー的カラーになっていて

これは参考になる。

「猫も杓子も」(2018年作)

この猫のオブジェは2018年夏に

長野県御代田町で開催された

「浅間国際フォトフェスティバル」のために、

フランスのグラフィックアーティスト

「ダミアン・プーラン」によって

製作された作品です。

猫が人間をデジカメで撮っている

ユーモアと皮肉が

こめられた光景です。

他にもビルの壁面が黒字に白の

市松的デザインの建物、

ポケットパークのベンチの壁が

子供の絵でデザインされているもの、

通りの一角がベニヤ板で仕切られた

素敵な空間など、

このボンドストリートは

アートの臭いでいっぱいだ。

壁の一部のさりげないワインの看板も

すごくお洒落に見えてしまうから不思議だ。

全面、温室風な2階建ての建物も

このボンドストリートの風景に

とってもマッチしていて

小さいのに存在感があった。

天王洲運河の上に架かる歩道橋の

「天王洲ふれあい橋」。

レトロなピントラスト構造が特徴で、

連続性のある水辺スペースが

快適さをもたらし、

新しい都市空間の創造を目指す

天王洲アイルの独自性を

強力にアピールしている。

運河の水辺にはボードウォークが整備され、

大きな背もたれの

お洒落なベンチが並んでいる。

ここは日本ではなく、

アメリカのウォーターフロントの

空気が流れている。

手前にボードウォークが低い階段を上がると広場が、

そしてその周辺は髙層ビルが並んでいる。

倉庫風の低層の建物と建物の間の

脇道が路地になっていて、

これが又、雰囲気があってイイんだナー。

建物の壁にはフィンランド生まれの

サナ・レートの作品が並んで展示されていた。

T-PASSAGEでは世界最古のワイン、

ジョージアワイン展が開かれていた。

今の時代、しっかりした所でやるよりも

倉庫みたいな仮設的な所の方が

お洒落に感じるトレンドなのかな。

この建物では1階がファッション雑貨関係、

2階がデンマークの家具販売をやっていた。

1つ1つの商品よりも

その空間の楽しさを感じながら

ウィンドショッピングしてみた。

白というよりホワイトの鉄筋のエントランス。

やはりジョージアホームランドのワインと

書かれたゲート。

いかにもアメリカのにおいがする。

ウォーターフロントの水辺サイドは

ぐるりとボードウォークになっていて

すごくお洒落で素敵な空間が続く。

晴れた日の大きなパラソルも

とても似合っている。

日本を代表する建築家、隈研吾氏監修の

天王洲運河に浮かぶ船上スペースの

「T-LOTUS M」。

運河からの風と水面の光に包まれた、

都心では類を見ない空間だ。

T-LOTUS Mの隣りにはポップ調の

派手なカラーの建物が浮いていた。

この建物の用途はよくわからないが、

外装のデザインを見ただけでも

楽しくさせるハウスだ。

ボードウォークのポイントの場所に

英語のみで書かれた標識、

案内ポールが立っていた。

これもオシャレでパチリしてしまった。

こうなるとゴミ箱までオシャレ。

大きな缶には手書きの絵が

描かれてあり、これが又アートだ。

このスタッフの出入口も

オシャレさを感じて目に付いた。

又々パチリです。

 


森鴎外と夏目漱石

2019-05-24 06:15:54 | 旅 ~東京

ここ文京区森鴎外記念館(大観音通り側)は

明治の文豪、森鴎外の旧居「観潮楼」跡地に

平成24年11月、誕生150周年を記念して開館した。

当館は建築家・陶器二三雄氏の設計で、

第12回文の京都市景観賞・景観創造賞(2013年)、

第55回BCS賞(2014年)、

日本芸術院賞(2015年)等、

数々の賞を受賞した評価の高い建物だ。

2枚目の写真は薮下通り側入り口から撮ったもの。

https://moriogai-kinenkan.jp/

鴎外は1892年(明治25年)

30才で文京区千駄木に居を構え、

60才で亡くなる1922年(大正11年)まで

30年間にわたり家族とともにここで暮らした。

観潮楼は団子坂上(別名・汐見坂)に位置し、

家の2階からも品川沖が見えたと言われ、

鴎外により「観潮楼」と名付けられた。

しかしその後の火災・戦災により

焼失してしまった。

旧正門の礎石、敷石、大イチョウ、

三人冗語の石などは現在も残り、

東京都指定旧跡「森鴎外遺跡」として

文化財保護の対象となっている。

尚、園庭内にある三人冗語の石とは

明治29年に創刊した雑誌「めさまし草」で

鴎外・幸田露伴・斉藤緑雨は合評形式による文芸批判

「三人冗語」を掲載した。

「三人冗語」同人や、鴎外の家族を

この庭石の前で撮影した写真が残っている。

園庭通路にある詩碑「沙羅の木」

鴎外の33回忌にあたる昭和29年7月9日に

鴎外の長男から文京区に寄贈された。

この発案は詩人の野田宇太郎で、

作家の永井荷風に書を依頼し、

建築家の谷口吉郎の設計協力を得て、制作された。

当館は、東京都文京区と台東区をまたぐ

「谷根千(やねせん)」と呼ばれる地域にあり、

特徴的な凛とした建物だ。

路地の様なレンガの小道の先にある、

見上げるほどの大きな扉が

館内への入り口だ。

館内に足を踏み入れると、スポットライトに浮かぶ

鴎外の横顔のレリーフが出迎えてくれる。

展示室は地下1階にある。

常設部分では津和野の幼少期から豊穣の時代、

晩年まで、鴎外の生涯を写真、

自筆原稿、書簡、遺品等で

たどることができる。

陸軍軍医でありながら、

小説家、戯曲家、翻訳家と様々な顔をもつ

鴎外の偉大な功績にふれることができる。

さらに、年2回ずつの「特別展」と

「コレクション展(通常展期間中)」を開催し、

所蔵資料を中心に鴎外の多彩な活躍や

他の文人との交流、

そして新たな鴎外の魅力を紹介している。

現在(4月6日~6月30日)は

「一葉、晶子、らいてう」

特別展が開催されていた。

「獲易からざる才女」樋口一葉、

「何事にも人真似をしない」与謝野晶子、

「書いてゐる事は八面玲瓏」平塚らいてうの

3人の女性文学者たちだ。

大正3年、彫刻家の武石弘三郎により

製作された森鴎外の胸像が

B1F展示室入口で観覧者を迎えている。

森鴎外は本名「森 林太郎」。

現在の島根県津和野町に代々津和野藩の御典医を

務めた森家の長男として生まれた。

明治14年に東京大学医学部を卒業。

軍医として陸軍に入り、ドイツへ留学。

明治40年には陸軍軍医総監。

陸軍省医務局長に就任し大正5年まで務めた。

その間、小説・戯曲・詩歌などの創作、

翻訳や評論を発表し、

明治・大正を代表する

知識人として活躍した。

またこの家には鴎外を訪ねて、

永井荷風、芥川龍之介、

伊藤左千夫、石川啄木、斎藤茂吉など

多くの文人が訪れた。

観潮桜は、森家の住まいのみならず

文人たちの社交場でもあった。

1階には園庭の見える空間で

お茶やお菓子を楽しめる

「モリキネカフェ」と

オリジナルグッズをはじめ、

鴎外著作や関連書籍、

展覧会図鑑などを

販売しているミュージアムショップがある。

一方、森鴎外記念館から徒歩数分程度の所に

 夏目漱石旧居跡(区指定史跡)がある。

夏目漱石(本名:金之助 慶応3年~大正5年)は

この地に漱石がイギリス留学から帰国後の

明治36年3月から39年12月、

現在の西片1丁目に移るまで、

3年10ヶ月住んだ家があった。

(家主は東大同期の斎藤阿具氏)。

当時、東京帝大英文科、

第一髙等学校講師として教職にあった漱石は、

この地で初めて創作の筆をとった。

その作品「吾輩は猫である」の舞台として、

"猫の家"と呼ばれ親しまれていた。

この地で「倫敦塔」「坊ちゃん」「草枕」などの

作品を次々に発表し、

一躍文壇に名をあらわした。

ここは漱石文学発祥の地である。

漱石が住む13年程前の明治23年10月から

1年余り鴎外が住み、文学活動に励んだ。

鴎外はここから団子坂上の観潮桜へ移っていった。

二大文豪の居住の地、

漱石文学発祥の地として、

近代文学史上の重要な史跡である。

旧居は愛知県犬山市の

「明治村」に移築保存してある。

現在この地は日本医科大学同窓会館

(文京区向丘2-20-7)に成っている。

森鴎外の観潮桜入り口前には

文化の香りがする標識、

地図が立っていた。

確かにここは髙台で昔は品川沖が

見えたというのも頷ける。

文京区は多くの文化人が住んだ

「文の京」である。


根津神社のつつじまつり

2019-05-23 06:00:33 | 旅 ~東京

今年で第50回の根津神社で行われた

「つつじまつり」(4月6日~5月6日)に行って来ました。

つつじは花の種類が多く、

早咲きから遅咲きまで次々に開花し、

長い期間にわたって楽しめるのが

つつじの魅力だそうだ。

根津神社は文京区根津にあり、

元准勅祭社で東京十社の1つだ。

東京十社とは、

明治元年、准勅祭神社として幣帛を捧げられ、

東京の鎮護と万民の平安を

祈願されたお社を東京十社と言う。

その十社は芝大神宮、品川神社、

赤坂氷川神社、日枝神社、白山神社、

王子神社、神田神社、亀戸天神社、

富岡八幡宮とここ根津神社だ。

根津神社の境内案内図。

当神社は日本武尊造祀の古社で、

古くは根津権現とも称された。

社殿の7棟は国の重要文化財に指定されている。

鳥居をくぐり、表参道を進み神橋を渡ると楼門に出る。

この門は重要文化財で朱塗りの立派な門だ。

境内には露店の甘酒茶屋、酒まんじゅう屋があり、

祭りの雰囲気作りに一役買っている。

こちらは神楽の舞殿。

こちらも雰囲気のある建物だ。

周りのベンチで休憩している高齢者が印象的だ。 

参道には長蛇の列ができ、

なんだこれは!といった驚きだ。

どうやら令和の元号の

御朱印をもらいに来た人が大勢居る為に

列が進まない様だ。

現在の社殿は宝永3年(1706年)の創建で、

本殿、拝殿、幣殿はやはり重要文化財だ。

この3殿は権現造の傑作とされている。

又、本殿に入る唐門も重要文化財だ。

境内にはつつじの名勝つつじ苑がある。

約2000坪のつつじ苑にはシロヤシロなど

約100種3000株のつつじが

今が見頃といっせいに咲き誇っていた。

このつつじ苑には小髙い丘になっており

200円の入苑料を払って中に入れるが

この日は30分待ちのウエイティング。

次の予定もあり、入苑するのを諦めて、

外から観ることにした。

ちょっと残念は気持ちは今でも持っている。

その美しさはご覧の通りだ。

この美しいつつじの丘を撮ろうと

大勢の人が声を上げてつつじ苑の方向に

ファインダーを向けている姿が

とても異様な風景に見えた。

この西門と透塀も重要文化財。

境内のわずかなスペースには

この佃煮屋さんをはじめ、植木市や骨董市、

そしてまつりに欠かせない屋台なども開かれていて、

たいへんな賑わいだった。

根津神社の境内、つつじ苑の隣りには

乙女稲荷があり、小さな千本鳥居が

ミニ伏見稲荷のような光景をつくっている。


令和 IN 皇居

2019-05-19 06:08:23 | 旅 ~東京

令和の新しい時代を迎えて3日目。

連日報道された皇居がどんな雰囲気なのか、

肌で感じたくなり久し振りに皇居へ向かった。

東京駅のドームのコンコースには

「祝 令和元年 天皇陛下御即位おめでとうございます」の

横断幕が迎えてくれた。

永年工事が続いていた東京駅丸の内の駅前広場も

工事が完了し(平成29年12月7日)、

広々とした空間に生まれ変わった。

 この通りは行幸通りといい、

大正12年の関東大震災の復興再開発の際に作られた。

(大正15年7月開通)

この通りは天皇の行幸(いわゆる外出)及び

信任状捧呈式に向かう外国大使の専用道として使われた。

もう一枚の写真には逆に行幸通りから見た東京駅。

約100年前(大正13年)に辰野金吾が設計し、

創建された当時の姿を忠実に再現する為、

5年以上をかけ平成24年リニューアル工事が完了した。

最近都内でチョコチョコ見かけるゴーカートの一団。

この日もコスプレに変した外国人グループが

春の風を受けながら気持ちよさそうに滑走していった。

行幸通りと日比谷通りの交差点で交通事故と遭遇。

何台ものパトカー、救急車が停車している中、

現場検証が行われていた。

車の損傷が結構ひどい。アレアレ!

これより和田倉門に入る。

石垣の所には特別史跡、江戸城跡の案内板が。

それをじっと読む人々。

本当に皇居の整備は素晴らしい。

これが皇居前広場の案内図。

写真が出ているのは二重橋、和田倉噴水公園、楠木正成銅像、桜田門。

この広場は昭和24年に一般開放された。

その後、昭和44年から北の丸地域が解放され

広く国民に親しまれている。

内堀通りに面した濠の角にそびえる櫓が桜田巽櫓あるいは桜田二重櫓だ。

江戸城本丸の東南(辰巳=巽)の方向にあることから名付けられた。

富士見櫓、伏見櫓と並んで

江戸城に残る江戸時代の櫓のひとつで、

三の丸に位置している。

江戸城桔梗濠に面した門が桔梗門で

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された外桜田門に対して、

内桜田門と呼ばれている。

この門を入ると江戸城三の丸ので、

大名などの登域は大手門と、

この桔梗門と定められていた。

現在では、皇居一般参観の入域門となっている。

 

 

 皇居前広場から見た丸の内の超髙層ビル群。

通常のサイズでは全部が入りきれないので

パノラマで撮ってみた。

日本でも有数の美しい近代的風景だと思う。

昭和10年に建設された宮内庁の庁舎。

現在の宮殿とは渡り廊下(紅葉渡)で接しているとか。

住所は東京都千代田区千代田1番1号。

なお、皇居全体が一地域で「千代田区」だそうだ。

ここは江戸城西の丸造営直後に築かれた坂下門。

江戸時代は大奥に近く、

西の丸通用門として利用されていた。

文久2年1月15日(1862年)、

老中・安藤信正がこの門外で水戸浪士に襲われた

「坂下門外の変」は有名。

現在は皇居乾通り一般公開、正月、

天皇誕生日の一般参賀の時のみ、くぐることが可能だ。

いよいよ二重橋エリアへ。

その手前にはこんな立派な車止めが並んでいる。

しかしそれ以外に丸いベンチとしても使われているようだ。

行った時は多くの機動隊の警察官が

二重橋前の広い広場に一生懸命

コーンを並べていた。

聞いてみたら明日(5月4日)に一般参賀が

予定されており、その準備との事。

翌日の報道によると14万人の人々が

参賀に参加されたとの事。

その列は東京駅まで続いたらしい。

二重橋のたもとにある、

警視庁 丸の内警察署の祝田町見張所。

古風だが重厚な造りでお洒落な建物だ。

日の丸が立てられているのが

新しい令和の時代を祝しているようだ。

ここ皇居外苑から二重橋の眺めは皇居を象徴する景色だ。

この前が皇居の正門で

手前に見える橋が「正門石橋」、

奥の橋が「正門鉄橋」。

後方には現存する数少ない

江戸城の櫓の一つ「伏見櫓」が見える。

その右手には樹木に隠れて見えないが宮殿がある。

正門鉄橋は、かつて木橋で、

その下に橋桁をささえるもう一つの橋が

あったため「二重橋」と呼ばれている。

本当に久し振りに二重橋をしみじみと眺めることができ、

新時代「令和」を実感することができた。

ここに来てみて意外だったのが

もっと祝賀モードに溢れていると思ったが、

この親子が日の丸を持って記念写真を撮っていた位で

あとは普段と変わらない光景であったことだ。

若者のグループがいきなり前へ出てきて

ご覧の様なパフォーマンス。

一体何を表現しているのかわからないが、

その息が合った姿はお見事でした。ヤルー!

こちらは外国人グループの観光客。

ツアーガイドさんが説明しているのは

2日前に行われていた天皇即位についてらしい。

手にした新聞記事でわかる。

これが正門石橋と正門鉄橋。

この二つの橋を総称して、

「二重橋」と呼ぶ人も少なくないそうだ。


江戸城外堀巡り PARTⅡーその4

2019-04-13 06:53:02 | 旅 ~東京

工部大学校阯碑。霞ヶ関コモンゲートの一帯、すなわち江戸時代

虎ノ門内延岡藩邸を中心とした地域は日本の工業発祥の地だ。

明治6年(1873年)工業分野における日本人の人材育成を

目的として工学校(工業寮内に設置)が開校し、明治10年(1877年)には

工学寮が工部大学校と改称された。同校は明治19年(1886年)に

帝国大学と合併してその工科大学となった。

現在の東京大学工学部の前身だ。

霞ヶ関三丁目の旧文部科学省、会計検査院庁舎跡地に、

官庁整備にPFIを導入する先駆的事例の市街地再開発事業

通称「霞ヶ関コモンゲート」広場「霞テラス」が2007年10月の完成した。

2棟の高層ビル(東館・西館)と商業施設の「アネックス」と

中央合同庁舎第7号館の別棟に当たる旧文部省庁舎の4棟の

建物からなる。東館と旧文部省庁舎には文部科学省、文化庁、

会計検査院が入居。西館には金融庁、帝人、大和住銀投信投資顧問

愛知大学、霞山会館などの民間施設が入居している。

三井ビル前のこの石垣は大変重要な価値がある。

外堀の内側の石垣が地表から露出している。

この石垣の上に江戸城外堀唯一の櫓があった。

この付近の千代田・港の区境は、区画の中を一見中途半端に

横切っているが、これは外堀の外縁部の跡が基準となっているためだ。

ガイドさんの持っている絵は、京極家が丸亀藩主だった時に

領内にあった金刀比羅宮から勧請して上屋敷内に建立した金刀比羅宮。

溜池交差点の中に溜池の由来が書かれた石碑がある。

江戸時代初期に外堀に堰を設けて貯水池にし

上水の水源としても利用された場所だ。明治時代に水量が減って

川のようになり、昭和初期に暗渠化されて姿を消した。

この溜池は慶長11年(1606年)に浅野幸長が設けたもので

堰から流れ落ちる水の音から「赤坂どんどん」と呼ばれていた。

首相官邸表門の裏側から撮ったもの。

(2017-8-3付ブログ 首相官邸参照)

官邸前の池の畔に外堀の石垣石が並べられている。

大分前、ビートルズが来日して宿泊したその当時のヒルトンホテル。

その後キャピタル東急に変わったが、現在建替えられて、

すっかり近代的ビルに生まれ変わった。周辺も全く変わってしまった為

昔の面影を思い出すとっかかりすら見つからない。

山王日枝神社の裏参道の立派な石造の大鳥居。本殿は小高い

山の上にあり、そこに行くのに厳しい階段を上がっていかなければならない。

その為、この参道には神社には珍しい立派なエスカレーーターが

設置されてある。階段も裏参道とはいえ、広々していて立派だ。

山王日枝神社の境内の案内図。当神社は太田道灌が江戸城を

築いたときに川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である

川越日枝神社を勧請したのに始まると言われている。

この地は江戸城から裏鬼門に位置している。

旧国宝だった本殿、神門。宝暦の大火の後、この地に落ち着き

多くの国宝建造物を所有していたが、第2次大戦で全て焼失した。

ここでは江戸三大祭の一つ、山王祭が行なわれている。

本殿の裏手にある山王稲荷神社、八坂神社、猿田彦神社。

ここの狛犬は結構有名らしい。

こちらが表参道の山王男坂。見た感じはどちらかというと

こちらが裏参道で前述した外堀通りに面した裏参道が表の鳥居に見えてしまう。

こちらの鳥居は稲荷参道。山王日枝神社の鳥居は一般的な鳥居の上に

山が乗っている形に成っていて個性的だ。