興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

他者の体験

2006-09-07 | プチ臨床心理学

カップルセラピーという心理療法があって、それは、関係がまずくなったカップルや夫婦が、最善の合意点(それは和解かも知れないし、離別かもしれない)を求めて、基本的にはカウンセラーと三者面談をするのだけれど、このカップルセラピーの初期の会話は、多くの場合、お互いの過ちや欠点や、問題点などの罵り合いだ。

これは当然といえば当然のことで、お互いがそれぞれの今現在の相手に対して不満や怒りを抱いている訳だから、この罵り合いはしばらく続く。

これは別に、セラピールームに限ったことじゃないと思う。友人のカップルが、険悪な関係になってあなたに相談しにやってきたとき、そういうことは普通に起こるだろう。相手の中傷や攻撃やこき下ろしなど、「いかに相手が酷い人で、いかに自分は
傷ついたか」という話が延々と続いたりする。

あらゆるカップルの争いには、「自己憐憫」(Pity)と罪悪感(Guilt)の感情が付き物で、この二つの感情は常に隣り合わせである。たいていの場合、自己憐憫を抱く側と、罪の意識を感じる側の、二者のやり取りで、その役回りは入れ替わったりする。

たとえば、浮気した彼女の行為に傷付いて、 自己憐憫の感情でいっぱいになる彼氏と、 彼が自己憐憫のムードになっていることで、罪悪感を感じる彼女。でも、浮気の背景には、彼が彼女をほったらかしにして寂しい思いをさせ続けていたかも知れず、ここで、「あたしは寂しかった」となると、彼女の罪の意識は自己憐憫に変わり、彼の自己憐憫な感情は、罪の意識へと変わる。

これは単なる一つの例に過ぎないけれど、このようにして、少しずつ、相手を非難したい感情も収まってきたりする。 


実際に、カップルが、和解に向かって歩み始めるのは、相手のことを、表面的な言動ではなくて、人間全体のダイナミズムとして理解でき始めた時だ。結局のところ
誰でも欠点だらけで、根本は自己中心的な人間だから、間違いも犯すし、相手を深く傷付けることもしてしまう。

でも、それを含めて人間で、あらゆる行為には、その本人にしか分からない、意味は必ずある。

実際に、たとえば浮気をした彼女の「実際の体験」を彼が正確に知ることはできない。この彼は、「自分より他の男の方がよかったんだ。 自分に隠れて楽しんでたんだ。ひでえよ」と 思うかも知れないけれど、もしかしたら、彼女は、彼とは得られない、親密感や、こころの交流や、受容がどうしても欲しかっただけなのかもしれない。 

全然楽しんでなかったかもしれないし、楽しんでいたにしても、彼の想像する快楽とは全然種類の違うものかも知れない。

同様に、彼の傷ついた気持ちや、それに付随して起こった、暴力や罵倒などの、本質的な動機については、彼女には分からないかもしれない。

古代から、「他者のこころ」についての問題は "Problem of Other Mind"として哲学者たちによって議論され続けてきたが、どうしたって、他人の体験を本当に理解しあうのは不可能なのが人間だ。(相手のこころがホントに読めたら人間発狂するだろう)

ただ、ここで面白いと思うのは、僕たち人間が、「他者の精神世界や体験は、全くユニークなものであり、本人にしか分からない」という事実を一度認めてしまうと、却って相手の事を深く理解できるように
なるということだ。

別の言い方をすると、「この人はこういう人で、こういう願望があったゆえにこういう行動に出た」などと決め付けてしまうと、相手に対する理解や共感性はここでストップし、相手に対する攻撃や反感や軽蔑がはじまる。

誰かが、腹立たしい行動に出たときや、人を失望させるアクションを取ったときに、自分の世界観を相手に当てはめて、その動機を推測して決め付けてしまうのは簡単だし、人間そういうふうに考えるようにできているけれど、そこで、踏みとどまって、
他の可能性があることを考慮に入れた上で喧嘩したら、もしかしたら、相手のことをより深く知った上での仲直りも、それほど難しくないのかもしれない。