興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

「怒り」という感情における考察

2006-09-28 | プチ精神分析学/精神力動学

 今回は、人間の基本感情の一つである、「怒り」について少し考えてみようと思います。

 私たち人間が持っている、すべての感情には、生物学的、 進化論的な、「適応」のための存在理由があると言われていますが、とりわけ「怒り」の感情は、 人間以外の様々な種族において確認できるもので、 しかも、怒りの感情の喚起に伴う生理学的な反応は、
異種族間で共通点も多く、実際にサバイバルのうえで必要な機能であるのは確かです。

 「悪感情」(Negative Emotion)については、別の機会にまたゆっくりと書きたいと思いますが、怒りという「悪」 感情も、もともとは、生きていくうえで必要な、ある意味 「良い」ものだという事実は、なんだか興味深いです。

 一般に、怒りとは、個人の欲求や目的到達が、何らかの状況によって阻害された時や、何ものかによって、自分の領域が侵されそうになったり、実際に侵入されたときに起きる感情とされていて、怒りを体験した個人には、 「破壊」などの、攻撃性が出てきますね。

 怒りの原因となっている対象物に直接攻撃性をぶつける人もいれば、より怒りをぶつけやすい「安全」な対象に怒りの矛先を向ける、置き換え(Displacement)、つまり八つ当たりとして表現する人もいれば、怒りを無意識の中に抑圧(repression)して、その結果、身体的な痛みとして間接的に怒りが表現される人もいるように、怒りの表現には、
その時の状況や、個人差などで、様々なものがあります。

 前置きが長くなったけれど、今回書きたいのは、怒りの感情に対する一つの対処法についてです。

 怒りの感情とは、誰にとっても不快であり、面倒なものだと思います。動物大国では、怒りはその対象物に直接ぶつけられて、自分や家族の身を守るうえでも有益なものだったけれど、私たちが現在住んでいる文化圏の複雑な人間社会では、怒りの感情はしばしば「不適応」 を呼び起こすものでもあり、極度な怒りの感情やその継続は、様々な、身体的、精神的な支障へと繋がります。

 さらに、人間において、怒りの感情は必ず、「自己愛」と関係しています。僕は、その昔、母親と争っているとき、彼女を見ていて、「怒っている人は、現在進行中に傷付いている人だ」という事実に気付いて、当時の母の心の痛みに気付くことができたのだけれど、怒っている人間というのは、必ず、何らかの原因によって心が傷ついています。

 複雑でタイトで歪んだ社会、生活していて何かに怒りを感じずにいるのはかえって難しいものだと思うけれど、すぐに収まってしまう種類の怒り(電車の中でマナーの悪い人に対する怒り)もあれば、もっと個人的な人間関係における、なかなか収まらない怒りもあり、本当にやっかいなのは多くの場合、 後者の、長引くタイプの怒りです。

(電車の中の赤の他人同士の一触即発な殺人事件はあるけれど、それはまた別の問題ですね)

 さて、この、比較的強烈で、場合によっては何日も続くような種類の怒りだけれど、これには人それぞれさまざまな対処法があります。ある人は、気晴らしに飲みに行ったり買い物に行ったりするかもしれないし、ある人は、前述のように、誰かに八つ当たりするかも知れないし、ある人は、その怒りを完全に無意識の世界に封じ込めて、身体を壊したりします。

 或いは、その怒りの原因となる直接の対象に攻撃性を持っていって、互いに強く傷付けあうかもしれない。

 冷静な話し合いや、直接的な問題の解決が可能な場合もあるけれど、本当にどうしようもない状況って残念ながら存在します。たとえば、世の中には、本当に、誰が何を
言っても変わらない人がいます。他人の意見に全く耳を傾けず、いつも自分が正しいと確信していて、常に自己中心的に行動する人と重要な局面で対峙しなければいけないときなど、これにあたります。

 また、本当に酷い事件の被害にあったけれど、 その加害者がどうしても見つからない、という状況も、 これに該当するでしょう。

 ちょっと極端な例を挙げたけれど、もっと身近なことで、本当にどこにもやり場のない、それでいて強い怒りを体験する人は、多いと思います。

 ここで、一つ不思議なことがあります。

 怒りというのは、先程書いたように、生物学的には、本当にせいぜい数分の現象に過ぎません。身体の反応なので、本来は、数分で、ニュートラルな状態に戻るはずなのです。

 たとえば、道を歩いていて、後ろから突然走ってきた自転車とぶつかりそうになったとき、「危ないなあ!」と、 あなたは腹を立てるかもしれないけれど、数分後に友達と会っておしゃべりに盛り上がっているうちにこの怒りはすっかり忘れているかもしれない。

 思い出して不快になることはあっても、その時に感じたほどの怒りにはならないでしょう。

 では、なぜある種の怒りは継続するのでしょうか。

 怒りが継続するには、その生理学的な反応を維持するための燃料を常に加え続ける必要があります。

 つまり、継続的な怒りを体験しているとき、その人は、その怒りにどんどん燃料を加え続けているのです。

 もちろんこれは、無意識の世界です。誰にとっても、怒りという不快な感情は早く収まって欲しいもので、それを自分で維持させてるわけないじゃないかと思う人も多いと思うけれど、その怒りを燃やし続けているのは、 実はその人の心の中にあるものなのです。

 面白いもので、私たちは、その、ほとんど「無意識」に怒りにくべていた燃料の存在に気付くと、その怒りは解消へと繋がっていきます。その燃料を加えるのをやめるからです。

 その燃料は、たとえば、絶対に分かってくれるはずのない人間にたいする、ほんのわずかな期待(と、そこからくる失望感)だったり、もうどうにもならない物事に対する、 諦めきれない小さな希望だったりするけれど、そのような、怒っている最中はなかなか見えにくい、怒りを継続させる要素の発見などの、より客観的な自己分析は、 本質的な意味での怒りの解消に繋がり、 それは自分自身の成長や癒しへも繋がります。