思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「かたい」話

2009年03月17日 | ことば
 中国語で、口が堅い、石は木よりも硬い、あの人はかたい人(真面目な人という意味)だから安心だ。などのという場合の「かたい」という中国語はそれぞれ異なる文字と発音をします。しかし日本語だと「かたい」という発声だけで、そこにつく言葉によって抑揚が異なるだけである。

 漢字で書くと解るのですが、「硬い」と「真面目」、「手堅い」が「かたい」という発生音の中に含まれ、日本人は中国語では意味の違う言葉を同じ発音の中に集約し意味を解することができるわけです。

 虫の声が雑音でなく、滝の音、夏の蝉の声も単なる雑音でなく聞こえる感覚。右脳左脳の働き。

 コトバ即クオリアとでもいった思考。日本語はコトバ即諸クオリア思考、中国語や英語などはコトバ即クオリア思考そのような違いがそこにあるような気がする。

 この「かたい」という言葉は、古語にはありません。

 堅い岩石は「かたしは」、精製していない塩は「かたしほ」、頑固は「かたくな」、ご飯が硬いは「こわし」、体が堅くなることは、「こはばる(強張る)、」で、これが「かたい」の一言になってきたのでしょうか。

 日本語は、時代とともにコトバ即クオリアの「ことば」世界を作っる言葉のようにおもいます。

幸福は絶望のうえに

2009年03月14日 | こころの時代

 哲学者木田元先生の「新人生論ノート 集英社新書」を読んでから木田先生のファンになり「反哲学史 講談社学出文庫」「現代の哲学 講談社学出文庫」「「木田元の最終講義 角川ソフィア文庫」と読み進み「ソクラテス以前」に興味をもったころ、「幸福は絶望のうえに」という題名の木田先生、小須田健先生、フランス人のコリーヌ・カンタンさんの3名の訳者によるアンドレ・コント=スポンヴィルという方の紀伊国屋書店から2004年2月に出版された本に出会いました。

 著者について、この本によると

  1952年生まれ、ソルボンヌ大学で教鞭をとる哲学者。明晰な論理と魅力的な文章で、日常生活に役立つ哲学を提唱し、あらたな哲学ブームを巻き起こした。『ささやかながら、徳について』(ブリュイェール・ド・アカデミーフランセーズ賞受賞)はフランスで30万部を超えるベストセラーとなり、世界20ヵ国で翻訳されている。その他の邦訳に『愛の哲学、孤独の哲学』、『哲学はこんなふうに』(すべて紀伊国屋書店)がある。

と書かれている。

 題名から「絶望」という言葉と「幸福」という言葉がにつながる。どういうことなのか興味がわき早々購入読んで見ました。

 この中で、スポンヴィルは、

 私の理解している意味での絶望とは、不幸の極地でのも自殺したくなるほどに意気消沈した落胆消沈でもないのです。むしろその逆です。私はこの言葉を字義どおりの語源学的な意味で、願望のゼロ度を、純然たる願望の不在状態を指すために使っています。

といっています。
 ようするに、失望とか落胆の意味の絶望ではなく、「望みを絶つ」という意味で、欲望や願望を持たない状態にあることをいっているようです。

 ここまでくると伊那谷の老子の加島祥造さんの「求めない 小学館」と、思いは同じようです。

 求めない
 すると
 求めないでも生きてゆけることが
 どんなに嬉しいものかを知る

 今年は雪が少ない冬でした。ごらんのとおり常念岳もこの季節地肌が見えています。


畢竟如何

2009年03月12日 | 仏教
 冬ごもり 春さりくれば・・・・・ 人事異動の季節になりました。

 一時期、春を思わせるぬくもりを感じていたのに、冬に逆戻りのような早朝の寒さが続いています。

 そんな寒さむさはなんのその。安曇野の空を気球で闊歩する愛好家がいます。

 朝朝日は東より出で、夜夜月は西に沈む。
 雲収って山骨露われ、雨過ぎて四山低くし、畢竟如何。

 忙しい忙しいの始まりです。気をしき締めて、とりあえず2週間頑張るしかありません。

福寿草

2009年03月07日 | つれづれ記
 午後休日のジョギングに出かけました。

 安曇野の有明宮城付近では、よく野猿を見かけるのですが今日はいませんでした。

 今日は坂道を約5キロコースで、県道中房線を通行止めから更に山道を登り野辺沢橋まで行きました。

 燕岳からの雪解け水が流れる穂高川、中房渓谷に渓流の音が響きます。

 道には少々雪が残っていますが、陽光は暖かく帰り道は半そでスタイルで充分でした。

 家にもどり庭を散歩すると福寿草が咲いていました。

 他には、ふきのとうが出ていて夕食の食材に決まりです。

掌を合わせる

2009年03月07日 | 仏教

 白隠慧鶴の坐禅和讃に

 衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
 譬へば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
 長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず

があります。
 私の好きな解説があるので紹介します(観音経講義 鎌田茂雄著 講談社学術文庫から)。

 衆生とは水と氷のようなものであり、衆生を離れて別の仏があるのではない。しかしわれわれは仏が即今自己自身にいることを知らないで遠くに仏を求めている。それは長者の家の子であることを知らずに貧里に迷っているのと同じである。観音さんはどこにいるのか、自己即観音であり、「自己ノ観音ヲ信ゼズシテ心ノ外ニ求」めてはならない。観音さんとは抜隊のことばでいえばまさに「自性」にほかならない。自性は無性であり、無相である。無相の形(すがた)としているのが自性である。この自性は目には見えぬ。この見えぬ自性は精彩をつけるところに観音力がある。

 
 観音様というと「合掌」を想起します。

 そこで、今日はこの合掌についてです。
 澤木興道老師の「観音経の話 堀書店版」に次の記述があります。

 「合掌」この合掌も、真言宗では何合掌という風にいろいろと細かく説いている。掌を合わせ十本の指をきちんと合わせる右の手が智慧、左の手が禅定である。西洋人はラジオを発明したり飛行機を発明したりしたが、東洋人はその代わりに合掌を発明した。この合掌を発明するために、東洋人はどの位長い間瞑想したか分からない。実に微妙なことで、理屈ではない。人間こうやって合掌したら、夫婦喧嘩も納まるし、上(のぼ)せも下がる。

 真言宗の合掌とあるので調べてみると「蓮華合掌」と「金剛合掌」がありました。
 
 蓮華合掌は、左右の五本の指をきちんと揃え、両手をやや丸くして空間を作るようにするのだそうです。

 金剛合掌は、右指を上にずらし左右の指さきを交差させる形で、この時、「右手を仏さま、左手を自分と見なし、仏の徳のうちに自分が包まれて、仏と我とが一体となったという気持ちをもつ。」のだそうです。

 「右仏、左おのれと合わす手の、中ぞゆかしき南無の一声」

 鎌田先生の解説は、難しいのですが、観音様をみると掌を合わせる姿。、そこに尽きると思います。

 小沢某さんも人前で話される時に、合掌しながらなされるような方であるならば日の姿はなかっただろうにとつい思ってしまいます。

 「今日の姿」といってしまいましたが、道歌の「いま今と、今と言う間に今はなく、今と言う間に今は過ぎ行く。」があります。

 人は、今を身につけないと「何か変なことを言い、変な行いをすることがあります。

 けさの新聞に警察官が頭にターバン用のものをかぶった二人乗り自転車の高校生を見かけ、危険なので注意をしようとして呼び止めたところ止まらないので、「お前らはタリバンか」といったのだそうです。
 ところが、実はそのタリバン高校生は紫外線に弱い子で、それでターバン様の物をかぶっていたのだそうです。

 呼び止めて止まらない高校生、瞬間「タリバン」を思い出すようなかぶり物。
  前に一度出会い知っている子であったならば、そんなとんでもないことは言わなかったでしょう。

 親は警察署に抗議に出かけ警察は謝罪。
 「危険な二人乗りをした息子を良くぞ叱ってくれました。」という話しではないようです。

 テレビでタレント化した評論家がこの件について「なぜ警察官は人権に配意した行動ができなかったか」とコメントをしていました。参りました合掌です。

 公設第一秘書、そのとき確かに受け取りました。政治団体は高額な財源があるようです。1口御いくらなのでしょう。どこからの収入なのでしょう。私には、「その出所を知りたい」という普通の欲求がありません。参りました合掌です。

 目の前で合掌などをされると何もいえません。合掌されている観音様に掌を合わせるときすなおな姿でありたいものです。

 上記文中、手を合わせる。掌を合わせる。本当は「てをあわせる」にしたいところですが「掌を合わせる。」にしてみました。

 神仏にてをあわせ、陽にてをあわせます。今日は晴れました。

 夜が明けない日はありません。ありがたいことです。

          


知るを楽しむ

2009年03月03日 | ことば
 天気予報のとおり午後は雪降りとなりました。安曇野の山麓線は、休日の観光客の車両も少なく雪は路面を白いカーッペットを敷いていきます。

 15センチから20センチほどの積雪となるとの予報、明朝は早めに家を出なければならなくなりそうです。

 NHK教育テレビ番組の「知るを楽しむ この人この世界」で国立科学博物館人類学研究部長馬場悠男先生の「『顔』ってなんだろう?」という番組が放送されています。

 縄文時代の末期の日本列島の人口は約10万人と推定され、現在の日本人の7割ほどが渡来してきた弥生人(北方アジア人)、縄文人(南方アジア人)が3割ぐらいの割合の混血だそうで、渡来人がやってきてすぐに混血を始めてこのような人口比率になるためには少なくとも20万人の弥生系の渡来人が大陸から来ているという計算になるそうです。

 縄文人も元々大陸続きの日本にいたわけではなく、そこへまったく異なる言語をもった弥生人が渡来します。その後朝鮮半島からも多くの人々が渡って来ました。

 この人々はどのようなコミュニケーションをとり、国家を形作り、日本語を形成していったのでしょうか。

 一方的な征服ならば、文化的な面は支配側の持っていた文化を押しつけたはずですから似かよった言語をもつ国があってよいものですが語源が似ているということだけで、通訳なしでコミュニケーションをとることのできる国はありません。

 日本語の語源を探求することも個人的に好きな方ですが、視点を変えて言葉を聞いた時のイメージと意味の理解という作用の方が日本語には重要な意味があるような気がします。

 同じ発音の言葉でありながら言葉の前後の関係で意味が異なったり、同じことを言っているようで全く異なる背景がある場合など、日本語は実におもしろい言葉です。

 「むすぶ」という言葉は、紐を結ぶ場合もあれば縁をむすぶ場合もあり、おにぎりをむすぶ場合もあります。手をむすぶこともあれば手をむすんでひらくこともあります。

 「くくる」という言葉があります。紐でくくる場合もあれば、首をくくるという表現もあれば、腹をくくるという表現をすることもあります。

 「むすぶ」と「くくる」という言葉は、同じような意味に使われることがありますが、その背景に大きな違いがあるように感じます。

 発音する言葉の一音一音に意味があるわけではなく、日本人は音声からその使われている意味を知るのです。従って「もの」という言葉に、古語にない「自然」という言葉を当てはめるのは早計で、中西進先生の言われるように、動詞的な働きを観て何かを感じるのがやまと言葉の思考であると思います。

 合理的に言葉の再分化を図り一音一音に解釈を与えることは、具象化はすれどその背景を見ない思考になるように思います。

 虫の音や滝の音に何かを感じるときそれは雑音ではなく、情緒のようなものからそれぞれの個性的な心にうける何ものかをもちます。

 「うつろい」も「うつす」も止揚ではなく編成であるところに重要な意味(松岡正剛さんの卓見)があるのであって、一音一音に意味をもたせ解釈して理解するものではないのです。

 万葉歌に梅の花に積もった雪を手にのせて、雪の梅香が融けていく歌がありますが、これだけでも唖然とするところ、さらにこの雪を誰かに届けようなどと考えたら万葉人とは何ものかと思ってしまいます。

 貴族文化、常民文化の論争は愚かな話で、あるがままをうるわしく楽しく思うことがしあわせというものだと思います。