白隠慧鶴の坐禅和讃に
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
譬へば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷ふに異ならず
があります。
私の好きな解説があるので紹介します(観音経講義 鎌田茂雄著 講談社学術文庫から)。
衆生とは水と氷のようなものであり、衆生を離れて別の仏があるのではない。しかしわれわれは仏が即今自己自身にいることを知らないで遠くに仏を求めている。それは長者の家の子であることを知らずに貧里に迷っているのと同じである。観音さんはどこにいるのか、自己即観音であり、「自己ノ観音ヲ信ゼズシテ心ノ外ニ求」めてはならない。観音さんとは抜隊のことばでいえばまさに「自性」にほかならない。自性は無性であり、無相である。無相の形(すがた)としているのが自性である。この自性は目には見えぬ。この見えぬ自性は精彩をつけるところに観音力がある。
観音様というと「合掌」を想起します。
そこで、今日はこの合掌についてです。
澤木興道老師の「観音経の話 堀書店版」に次の記述があります。
「合掌」この合掌も、真言宗では何合掌という風にいろいろと細かく説いている。掌を合わせ十本の指をきちんと合わせる右の手が智慧、左の手が禅定である。西洋人はラジオを発明したり飛行機を発明したりしたが、東洋人はその代わりに合掌を発明した。この合掌を発明するために、東洋人はどの位長い間瞑想したか分からない。実に微妙なことで、理屈ではない。人間こうやって合掌したら、夫婦喧嘩も納まるし、上(のぼ)せも下がる。
真言宗の合掌とあるので調べてみると「蓮華合掌」と「金剛合掌」がありました。
蓮華合掌は、左右の五本の指をきちんと揃え、両手をやや丸くして空間を作るようにするのだそうです。
金剛合掌は、右指を上にずらし左右の指さきを交差させる形で、この時、「右手を仏さま、左手を自分と見なし、仏の徳のうちに自分が包まれて、仏と我とが一体となったという気持ちをもつ。」のだそうです。
「右仏、左おのれと合わす手の、中ぞゆかしき南無の一声」
鎌田先生の解説は、難しいのですが、観音様をみると掌を合わせる姿。、そこに尽きると思います。
小沢某さんも人前で話される時に、合掌しながらなされるような方であるならば日の姿はなかっただろうにとつい思ってしまいます。
「今日の姿」といってしまいましたが、道歌の「いま今と、今と言う間に今はなく、今と言う間に今は過ぎ行く。」があります。
人は、今を身につけないと「何か変なことを言い、変な行いをすることがあります。
けさの新聞に警察官が頭にターバン用のものをかぶった二人乗り自転車の高校生を見かけ、危険なので注意をしようとして呼び止めたところ止まらないので、「お前らはタリバンか」といったのだそうです。
ところが、実はそのタリバン高校生は紫外線に弱い子で、それでターバン様の物をかぶっていたのだそうです。
呼び止めて止まらない高校生、瞬間「タリバン」を思い出すようなかぶり物。
前に一度出会い知っている子であったならば、そんなとんでもないことは言わなかったでしょう。
親は警察署に抗議に出かけ警察は謝罪。
「危険な二人乗りをした息子を良くぞ叱ってくれました。」という話しではないようです。
テレビでタレント化した評論家がこの件について「なぜ警察官は人権に配意した行動ができなかったか」とコメントをしていました。参りました合掌です。
公設第一秘書、そのとき確かに受け取りました。政治団体は高額な財源があるようです。1口御いくらなのでしょう。どこからの収入なのでしょう。私には、「その出所を知りたい」という普通の欲求がありません。参りました合掌です。
目の前で合掌などをされると何もいえません。合掌されている観音様に掌を合わせるときすなおな姿でありたいものです。
上記文中、手を合わせる。掌を合わせる。本当は「てをあわせる」にしたいところですが「掌を合わせる。」にしてみました。
神仏にてをあわせ、陽にてをあわせます。今日は晴れました。
夜が明けない日はありません。ありがたいことです。