天気予報のとおり午後は雪降りとなりました。安曇野の山麓線は、休日の観光客の車両も少なく雪は路面を白いカーッペットを敷いていきます。
15センチから20センチほどの積雪となるとの予報、明朝は早めに家を出なければならなくなりそうです。
NHK教育テレビ番組の「知るを楽しむ この人この世界」で国立科学博物館人類学研究部長馬場悠男先生の「『顔』ってなんだろう?」という番組が放送されています。
縄文時代の末期の日本列島の人口は約10万人と推定され、現在の日本人の7割ほどが渡来してきた弥生人(北方アジア人)、縄文人(南方アジア人)が3割ぐらいの割合の混血だそうで、渡来人がやってきてすぐに混血を始めてこのような人口比率になるためには少なくとも20万人の弥生系の渡来人が大陸から来ているという計算になるそうです。
縄文人も元々大陸続きの日本にいたわけではなく、そこへまったく異なる言語をもった弥生人が渡来します。その後朝鮮半島からも多くの人々が渡って来ました。
この人々はどのようなコミュニケーションをとり、国家を形作り、日本語を形成していったのでしょうか。
一方的な征服ならば、文化的な面は支配側の持っていた文化を押しつけたはずですから似かよった言語をもつ国があってよいものですが語源が似ているということだけで、通訳なしでコミュニケーションをとることのできる国はありません。
日本語の語源を探求することも個人的に好きな方ですが、視点を変えて言葉を聞いた時のイメージと意味の理解という作用の方が日本語には重要な意味があるような気がします。
同じ発音の言葉でありながら言葉の前後の関係で意味が異なったり、同じことを言っているようで全く異なる背景がある場合など、日本語は実におもしろい言葉です。
「むすぶ」という言葉は、紐を結ぶ場合もあれば縁をむすぶ場合もあり、おにぎりをむすぶ場合もあります。手をむすぶこともあれば手をむすんでひらくこともあります。
「くくる」という言葉があります。紐でくくる場合もあれば、首をくくるという表現もあれば、腹をくくるという表現をすることもあります。
「むすぶ」と「くくる」という言葉は、同じような意味に使われることがありますが、その背景に大きな違いがあるように感じます。
発音する言葉の一音一音に意味があるわけではなく、日本人は音声からその使われている意味を知るのです。従って「もの」という言葉に、古語にない「自然」という言葉を当てはめるのは早計で、中西進先生の言われるように、動詞的な働きを観て何かを感じるのがやまと言葉の思考であると思います。
合理的に言葉の再分化を図り一音一音に解釈を与えることは、具象化はすれどその背景を見ない思考になるように思います。
虫の音や滝の音に何かを感じるときそれは雑音ではなく、情緒のようなものからそれぞれの個性的な心にうける何ものかをもちます。
「うつろい」も「うつす」も止揚ではなく編成であるところに重要な意味(松岡正剛さんの卓見)があるのであって、一音一音に意味をもたせ解釈して理解するものではないのです。
万葉歌に梅の花に積もった雪を手にのせて、雪の梅香が融けていく歌がありますが、これだけでも唖然とするところ、さらにこの雪を誰かに届けようなどと考えたら万葉人とは何ものかと思ってしまいます。
貴族文化、常民文化の論争は愚かな話で、あるがままをうるわしく楽しく思うことがしあわせというものだと思います。
15センチから20センチほどの積雪となるとの予報、明朝は早めに家を出なければならなくなりそうです。
NHK教育テレビ番組の「知るを楽しむ この人この世界」で国立科学博物館人類学研究部長馬場悠男先生の「『顔』ってなんだろう?」という番組が放送されています。
縄文時代の末期の日本列島の人口は約10万人と推定され、現在の日本人の7割ほどが渡来してきた弥生人(北方アジア人)、縄文人(南方アジア人)が3割ぐらいの割合の混血だそうで、渡来人がやってきてすぐに混血を始めてこのような人口比率になるためには少なくとも20万人の弥生系の渡来人が大陸から来ているという計算になるそうです。
縄文人も元々大陸続きの日本にいたわけではなく、そこへまったく異なる言語をもった弥生人が渡来します。その後朝鮮半島からも多くの人々が渡って来ました。
この人々はどのようなコミュニケーションをとり、国家を形作り、日本語を形成していったのでしょうか。
一方的な征服ならば、文化的な面は支配側の持っていた文化を押しつけたはずですから似かよった言語をもつ国があってよいものですが語源が似ているということだけで、通訳なしでコミュニケーションをとることのできる国はありません。
日本語の語源を探求することも個人的に好きな方ですが、視点を変えて言葉を聞いた時のイメージと意味の理解という作用の方が日本語には重要な意味があるような気がします。
同じ発音の言葉でありながら言葉の前後の関係で意味が異なったり、同じことを言っているようで全く異なる背景がある場合など、日本語は実におもしろい言葉です。
「むすぶ」という言葉は、紐を結ぶ場合もあれば縁をむすぶ場合もあり、おにぎりをむすぶ場合もあります。手をむすぶこともあれば手をむすんでひらくこともあります。
「くくる」という言葉があります。紐でくくる場合もあれば、首をくくるという表現もあれば、腹をくくるという表現をすることもあります。
「むすぶ」と「くくる」という言葉は、同じような意味に使われることがありますが、その背景に大きな違いがあるように感じます。
発音する言葉の一音一音に意味があるわけではなく、日本人は音声からその使われている意味を知るのです。従って「もの」という言葉に、古語にない「自然」という言葉を当てはめるのは早計で、中西進先生の言われるように、動詞的な働きを観て何かを感じるのがやまと言葉の思考であると思います。
合理的に言葉の再分化を図り一音一音に解釈を与えることは、具象化はすれどその背景を見ない思考になるように思います。
虫の音や滝の音に何かを感じるときそれは雑音ではなく、情緒のようなものからそれぞれの個性的な心にうける何ものかをもちます。
「うつろい」も「うつす」も止揚ではなく編成であるところに重要な意味(松岡正剛さんの卓見)があるのであって、一音一音に意味をもたせ解釈して理解するものではないのです。
万葉歌に梅の花に積もった雪を手にのせて、雪の梅香が融けていく歌がありますが、これだけでも唖然とするところ、さらにこの雪を誰かに届けようなどと考えたら万葉人とは何ものかと思ってしまいます。
貴族文化、常民文化の論争は愚かな話で、あるがままをうるわしく楽しく思うことがしあわせというものだと思います。