山のあなたの空遠く
「幸(さいわい)」住むと人のいう。
噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ かえりきぬ。
山のあなたのなお遠く
「幸」住むと人のいう。
カール・プッセの有名な詩です。
朝に続き、紀野一義先生の言葉を引用します。
カール・プッセは「幸」といったが、人によってそれは「夢」であったり、「理想」であったり、「永遠」であったりするのであろう。人はかぎりなくそれを求め、求め得ずして涙ぐみつつ帰ってくるのである。それでもなお、人は、「幸」を求めつづける。生あるかぎり、それを求めつづけるのが人間というものなのである。一代でそれが果たせぬときは、わが息子に、わが娘に、わが孫にその夢をたくしてゆくのである。(風の中のさすらいびと 紀野一義著 日本交通公社 P86・87から)
加島祥造さんの「求めない」の正反対の話ではありません。
求めない
すると
自然の流れに任すようになる
(求めない 加島祥造著 小学館 P37から)
「求めない」という心のもち方が重要で、「求める」という気持ちを制し、自分を創ることではないのです。
「幸」と「欲望」の違いに気がつき、それを素直に認めるところから、自然の流れに乗ることができるのです。
人は「求める」ことから離れることはできません。
「足るを知る」とはそのことを言っているのです。
仏教詩人の真民さんの詩に次の詩があります。
きょうは
わたしの
かなしみゆえに
木が光る
草が光る
石が光る
重信川が光る
水が光る
坂村真民さんは四国の松山市の南、砥部町麻生八幡の方でご自身の仏教感からの詩をたくさん作られています。その中のひとつの詩です。
「かなしみゆえに」などと書くと、暗さが漂ってきますが、ある政治家の政治資金規正法違反での秘書逮捕事件で、起訴段階での涙の弁明のその姿に哀れさを感じこの詩を思い出しました。
この政治家は、「木が光る 草が光る 石が光る 水が光る」ことも思わず朽ちていくのでしょう。
仏教学者の紀野一義先生がこの詩について語っていました。
「かなしみゆえに」というその「かなしみ」は、はじめはたしかに小さな人間の悲しみであったであろうが、やがてそれは仏の大悲のごときものに変わってゆく。そして木が光り、草が光り、石が光り、川の水も光り・・・。
という解説をされていた。
悲しみの中に信仰をもち、また信仰の中で悲しみを受けたとき、悲しみの中で虚空の中にある我が身(色)をみる。
大きな政治的な野心が断たれたときの涙。
哀れであり天空から舞い落ちる雪をみながら朝から悲憤慷慨してしまいました。