精神が何かの目的を追求して、そのために意志に誘惑されるというようなことがなく、直感的世界と彼自身の意識とが彼にさずけてくれる教示を余念なく受け入れるのでなくてはならない。
と、その著「知性について(岩波文庫)」でショーペンハウエルは述べている。
本を読んでいると直感的に著者の言葉を自己流に解釈し、自己の言葉で表現しているときがある。ひょっとすると著者の考えとはかけ離れているかも知れず、他人から見る知性の程度が疑われるおかしな話である。しかし、そのときはそのように感じ、そう表現したくなったので仕方がない。
では本論に入ろう。だいぶ古い話だが、京セラの元社長飯盛和夫さんの哲学という本に次の話が掲載されていた。
京セラが、ファインセラミックスの人工膝関節を許可をえずに販売したということで、マスメディアから集中砲火を浴びたことがありました。
それは、すでに許可を受けていたフィンセラミックス製股関節を医師の方々からの強いご希望により膝関節に応用したという事情があっただけに、私からはいいたいこともたくさんありました。しかし、私はあえて汚名を着せられたまま耐えようと思いました。
しかし、連日マスコミに書きたてられますと、人間、憤懣を抑えきれるものではありません。そのときに私は擔雪老師のところへ行って、「じつはこんなことがあって、たいへんな目に遭っているのです」とお話しました。擔雪老師も新聞を読まれてご存じでした。そして第一声、こんなことをおっしゃたのです。「それはしょうがありませんな。稲盛さん、苦労するのは生きている証拠ですわ」
慰めていただけるのかと思ったら、それは当たり前だといわれる。内心、落胆していたら、次にこういうことをおっしゃった。
「災難に遭うのは、過去につくった業が消えるときです。稲盛さん、業が消えるんですから、喜ぶべきです。いままでどんな業をつくったかしらんが、その程度のことで業が消えるならお祝いせんといかんことです」
まさに「積みし無量の罪滅ぶ」という白隠禅師「「坐禅和讃」にあるように説かれるのです。それは私を立ち直らせるには最高の教えでした。私はこれで救われた思いがしたのです。
私はこの擔雪老師のこの話を次のように感じ、表現したくなった。
今の苦しみ、喜び、そして涙に感動は、過去から今現在までに蓄積された業の完成である。
と。ここに至った業は、過去のその時点でいまだ完成をみないで引き継がれてきた業で、生々流転の今現在の世界は、業感縁起で成立している。が完成せざれば後へと引き継がれる。
業を消滅させることは今現在に生きることで業を完成させることである。
完成とは、あるがままがあるがままにあることを一刹那のなかに観ることである。そして完成というと形あるものとして、あたかも物質のごとく存在するもののように思うが、そうではなく直観でつかむものであるから実体などないものだと考える。
道歌に、
今今と今というまに今はなく、今というまに今は過ぎ行く。
という歌がある。
今現在の一刹那を、刹那消滅の世界と知悉すれば存在はない。
いつまでも業に引きずられ自性があると思う間は、喜怒哀楽の世界に埋没している。また、このような話を冷血な無感動な人間の話と思う間は、積みし無量の罪は滅ぶことはない。
松原泰道先生が、本年4月に「きょう一日を、生き抜いて(プレジデント社)」という本を出された。前回出版された「足るを知るこころ」以降の話をまとめられたとのことで、帯びには「過去を追わず、明日を思わず ただ今日なすべきことを熱心になせ」と中部経典の「一夜賢者の偈」が引用されている。当然今回の書籍内にも第六章平安「今日一日を生き抜く『一夜賢者』の知恵」に増谷文雄さんの訳が掲載されている。
一夜賢者の偈は、先生の書籍では初出ではないが、数え年99歳の先生が話されることだけにこの経の意味の重さを知る。