RSSリーダーで「持衰」という古代史関係の用語を検索対象にしていますが、最近この言葉も志向性が異なると別の意味になるのだなあと驚かされました。
私は、古代の精神史、例えば和御魂・荒御魂の統一体が日本の神の御魂であり、別の視点から河合隼雄先生の中空構造の説に従うものとして再度本年2月に掲出したものを再度掲出しました。
尚、異なる別の「持衰」については検索ドライバーで検索してください。
魏志倭人伝に「持衰(じさい)」という役目の人物記載があります。この持衰という役目は、倭人が魏という国に朝貢に行く際の船に乗っていく特殊な役目をする人のことです。
岩波文庫の「魏志倭人伝」には次のように書かれています。
「その行来、渡海、中国に詣でるには、恒に一人をして梳(くしけず)らず、?蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もしも行く者吉善なれば、共にその生口、財物を顧し、もし疾病あり、暴害に遭えば、便(すなわち)これを殺さんと欲す。その持衰謹ますといえばなり。」
すごい役目です。頭髪はボサボサで体中しらみだらけ、当然衣服は垢で汚れたままであるということです。
肉は食べてはならず、女性との接触はご法度。こういう男性を船に乗せて行き、無事に目的(往復渡海)が達成できれば、この男性は最大級の保障を受けられ、そうでないと殺されたようです。
この持衰の衣服の汚れ髪の乱れにシラミなどがある状態は、神に対する冒とくで天罰が下る行為だと直ぐに考えてしまいますが、この倭人の時代はそうではないようです。
女性を避けたり、肉を食わないなどの不作為は、後の時代の神に接する人々の姿似ていますが、修験者の修行による汚れとは違い、そのままの汚(きたな)き汚(よご)れの状態で乗船し、それが神の災いを受けず安全に船旅をするための一つの条件になっていることは不思議なことです。
穢れのない状態とそうでない状態が一体になっている状態は、日本書紀をはじめとする古書に出てくる荒御魂(あらみたま)と和御魂(にぎみたま)の両者を兼ね備えた状態にどこか通じる点があるのでしょうか。
古典学者石井庄司は、「万葉集が和歌革新の原動力となっているところは、実にこのあらさのためであると思う。あらは生まれながらの穢れざる美しさである。」と述べています。
生まれながらの状態、自然のままの身体の状態と解せば、美しき穢れなき状態であるのかもしれません。