思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

唯一と信仰そして火花

2006年05月19日 | 宗教
 ルカ伝第10章第38節は、イエスがある村の姉妹の家を訪れたときの話である。献身的にイエスの集団をもてなす姉マルタとイエスの御姿と言葉に陶酔する妹マリア。

 このルカ伝は、マイスター・エックハルトの説教にあり一考察したので、頭の片隅にあるから他の書籍を読んでいてこの話に出逢うと足踏みをしてしまう。

 仏教と他宗の相異について興味を持って増谷文雄先生の「仏教とキリスト教の比較研究 筑摩叢書」という先生の若い時の書籍中に、上記の話が掲載されていた。

 同書の「キリスト教における信仰と浄土門の仏教における信仰について(三)」に次のように掲載されている。

 イエスがある村に入った時のことであった。マルタとよばれる女が、イエスを我が家に迎えいれ、いそいそとたちまわって、イエスをもてなした。しかるに、彼女の姉妹にマリアという女があって、彼女は、イエスの足もとに坐し、ひたすらイエスの言葉に耳をかたむけて、すこしもマルタを手伝おうとはしなかった。それがマルタには、しだいに腹立たしいことに思えてきた。ついに彼女は、いささか心をとりみだして、イエスの許にすすも寄っていった。「主よ。わが姉妹われを一人のこして働かするを、何とも思い給わぬか。かれに命じて我を助けしめ給へ。」するとイエスは、このように答えていった。「マルタよ、マルタよ、汝さまざまな事により、思ひ煩ひて心労(こころづかいひ)す。されど無くてならぬものは多からず。唯一つのみ。マリアは善きかたを選びたり。これをかれより奪ふべからざるものなり。」では、たた一つのなくてはならぬものというのは、なんであろうか。
 イエスはまた、このような譬えをもって説いたことが思い出される。「天国は良き真珠を求むる商人のごとし、価たかき、真珠一つを見出さば、往きて有てる物をことごとく売りてこれを買ふなり。」良き真珠をもとめる商人はその資本のすべてを賭けて、たった一つのよき真珠を仕入れるであろう。そのように、イエスの道にしたがう人々は、一切を賭し、他のことごとくを打ちすてて、ただひたすらに神性に身を投げかけることによって、神の国を求めるがよいというのが、この譬えによってイエスが教えんとしたものである。それは、いいかえれば、この道を行かんとするものにとって、無くてはならないものは多からず、ただ一つ、信仰のみであるということでなければならぬ。

  このように増谷先生は、イエスの「唯一つのみ」を「信仰」としている。増谷先生は、エックハルトについては言及することはないが、この「唯一」についていろいろと考察するに、エックハルトの解釈と相異するようでいて奥深い思考の中に共通する部分があるような気がする。

 増谷先生は、この書籍でこの唯一に浄土門との共通点について言及するのであるが、エックハルトの禅的部分をこの「唯一」に求めていく別の思考ですすむと西田幾太郎先生の一灯園での講演筆記録「西田幾多郎全集14巻 講演筆記 エックハルトの神秘説と一燈園生活」の「我を忘れたとき、火花のように現われるFunke(火花)である。」「真実在」という言葉が「信仰」という言葉に重なってくる。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。