辞典というものは、世の中にいろんな種類のものが存在する。私の身の回りを見ても、専門分野のものから日常の用語辞典までとかなりの数の辞典がある。
その中に国語関係のものがあるが、その中で良く調べ作ったなあと感動する辞典がある。それは、反対語辞典である。今ここにあるのは、集英社の新修反対語辞典で編者は文学博士峰村文人となっている。この辞典は付録として後ろの方に反対のことわざが付いている。
この辞典の「はしがき」には、こんなかことが書いてある。
「私は彼に好意を持つ。」という文の「好意」という語を知っていて、その反対語の「悪意」を知らない人が、かりに「私は彼に悪意を持つ。」という意味のことを表現しようとすると、どのようになるであろうか。「私は彼に」という形を残した言い方をするとしたら、「私は彼に好意の反対の心を持つ。」と言うか、「私は彼に好意を持たない。」と言うのか、いずれかになるであろう。
前者の言い方では、生きた日本語という感じがしないし、後者の言い方では、”好意を持たないが、悪意と言えるほどのこころを持たない”という意味になるようで、真意が的確に表現されているとは言いがたい。
こう考えてみると、さまざまな語の反対語を知っているということは、単に語を余計に知っているという消極的な意味のことがらではではなく、言語生活のさまざまな場面で、それぞれの場面にふさわしい的確な表現をすることができるという積極的な意味を持つと言える。そういうことから「反対語辞典」も生まれるようになったのである。
ちなみに死の反対語は生であり、苦の反対語は楽で、愚かの反対は賢いである。仏教学的にこの辞典をみると相依の世界である。
言語学という難しいことをいわずに、言葉を考えてみる。以前ある対談集を読んでいたら言葉の発生は、生殖行為の際の「雄叫び」ということをいっていた人がいたが、そういうことにして、その内に「ある感情」に対して言葉が生まれ、したがってその際にはその反対の感情にも言葉が生まれたのでありましょう。
この辞典には、反対語が約8600語、反対のことわざが約600あるのですが、ひとの分別心を考えると感動します。分別の実体から無分別の空。
この辞典を使い思考するとFunkeである。
「馬子にも衣装」ということわざの反対のことわざは、「衣ばかりで和尚はできぬ」でした。