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ものごと認識と言っていいのか、人間は覚醒していようが夢の世界であろうが人間は相対的判断でものごとを認識している、という思考は正しいのか。
仏教における縁起観も相対的、生死から愛や憎しみ・・・限りなき相対に、限りなき二元の、他方に依存する認識で、識別、判断されるものなのでしょうか。
したがって存在論における「ある」も「無い」を前提にされている認識であり、「である」「がある」の主語と述語からなる関係の存在だけが「ある」であって「無い」をともなわない「ある」は思考の前提にはならない、体験認識としてありえない、と言えるのだろうか。
「地球は太陽エネルギーの流れの中にある定常開放系である」
「生命系の維持にとってこの認識が肝心」
絶対温度2.7度
宇宙のはるか向こうにあるM100銀河の中心にある暗黒部はマイナス250度(セルシウス度)前後
セルシウス度で表せば ー273.15度
宇宙空間は絶対温度に近いことが好みのようです。安定しているとは言いませんがそれに落ち着いている・・・ように見えます。
人間の体温は36度に近い温度を好む、体温が好むのではなく人はそこに落ち着くということです。
死ぬとどうなると、普通ならば徐々に体温は下がり常温で落ち着く、死体の置かれた室温、外気に落ち着くということです。
微生物発酵で体温といってよいか分かりませんがやや上がるときがありますが、普通ならばそういう経過をたどります。
この死体の体温は「ある」のか「無い」のか?
「無い」と言って誤りはないように思いますし、現実社会は一般的にそれを肯定しています。
先の宇宙の恒常的温度からすれば発熱作用のない死体はとんでもない高温状態です。
絶対温度は、「ある」「無い」の相対的なものか?
我々の存在にとって「温度」は相対的なものか?
思うにそこには「ある」があるだけであって、そう言語表現してもいいのではないか。
それは感覚の世界であって身体的な体得感覚。
そう言えるのではないか。体感とは何か、感じるとは何か、体温は感覚であり物理的現象でもあり、今現在それは主体無き、われ無き不思議なポイエシスの中にあります。
そして感覚的に詩的であり、物的作品であり美です。