道徳経(老子)の第六章に、
原文
谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。
訳
谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝(げんぴん)と謂(い)う。玄牝の門、これを天地の根(こん)と謂う。緜緜(めんめん)として存(そん)する若(ごと)く、これを用いて勤(つ)きず。
という教えがあります。『老子』金谷治著(講談社学術文庫)では、
>谷間の神は奥深い所で滾々と泉を湧き起こしていて、永遠の生命で死に絶えることがない。それを玄牝(げんぴん)---神秘な雌のはたらきとよぶ。
神秘な雌が物を生み出すその陰門、それこそ天地もそこから出てくる天地の根源とよぶのだ。はっきりしないおぼろげなところに何かが有るようで、そのはたらきは尽きることがない。
谷という言葉はどこの国にもある言葉で、この言葉はとても不思議な概念を表わしています。
谷という言葉は、左右の山に挟まれた空間を示す言葉で、山そのものがなければ、谷は存在せず、「谷」という言葉を聞けば溪谷のイメージを頭に浮かべます。そこに雌牛の陰門、すなわち子を生み出す不思議な場所を重ね合わせて、神秘の力の根源を求めそれを「道」というはたらきの教えの喩えとしたわけです。
空間の不思議さの視点から『老子の思想』張鐘元著(講談社学術文庫)では、
<解説>
谷神ということばはタオイズムの文献ではよく見られるものである。その文字通りの意味は谷間の精神ということである。しかし、これでは充分に本当の意味を表わしていない。後漠王朝の高義方はいう。「知性と思想が無に減ずると、谷間の精神はいつも残る」。言い換えると、無用な思想が心をおおい隠さなければ、心の空の現実はいつまでも存在するのだ。
四世紀の葛洪(かっこう)は、『抱朴子(ほうぼくし)』でいう。「光を吸いこみながら、谷間の精神は完全に純粋化される」。 六世紀の庚信(ゆしん)の詩で「虚空に谷間の精神はとどまるようになる」とある。『老子翼』で呂吉甫(ろきつぼ)はいう。
谷は形を示す。人が真空によって「一」に達するとき、彼は充分なものに達する。一方、神は形のないことを示す。人が沈黙によって「一」に達するとき、精禅的になる。人が静穏のまま「一」に達するとき、その体形はあたかも谷間であるかのように空である。形のない彼の心は沈黙的で精神的である。形と形なきものは永久に続く。古代人は体と心、心と息、息と精神的現実、精神的現実と無を統一した。
このように、谷神は空あるいは無と関係あることを論及している。そして、谷神は「空の精神的現実」と訳されている。この空の精神的現実は思考や故意の行いによっては達せられない。ただ空と受動性によってのみ達せられる。受動性が深ければ深いほど、空の精神的現実への到達は高くなる。ここから、玄牝は受動性の神秘を示す。原典では、牝はヨガの基礎的原則に従って、女性、受身、従順を意味する。この章の象徴的意味をどんなに苦労して求めようとしても、集中と黙想によって自分の内的な承認に達しなければその本質を本当につかむことはできない。そして、それに達するとき、如何にこの止むことのない現実が残り、それが使い尽されないかがわかるのである。
と解説し、上記の「谷神は死せず、これを玄牝と謂う」を、
空の精神的現実はいつも存在する。
それを受動性の神秘と呼ぶ。
その入口は宇宙の根源である。
止めることなく、それはいつまでも残る。
汲み出しても尽きることはない。
と私訳しています。ここで注目したいのは、
>この空の精神的現実は思考や故意の行いによっては達せられない。ただ空と受動性によってのみ達せられる。
「空と受動性」
空に受動性があるわけではなく、受動性は我々の谷を見る側にあります。
空間に何かが有るわけでもないのに、「受動性」は相対的に言明するところに実存とは異なる思考視点があります。
語れば尽きないのでこの程度にしますが、あるわけがないものが、何かを意味する。実在における無いものが「ある」の「生る」、「有る」、「在る」にも通じる論理を思います。