goo blog サービス終了のお知らせ 

思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

私という現われ

2019年06月09日 | 思考探究

中国唐代の禅僧で臨済宗開祖の臨済義玄の言行を まとめた語録『臨済録』という書籍に「無位(むい)の真人(しんにん)」という言葉が出てきます。真の自分は呼吸する日常のあたり前のそこに現れているという禅の問答で語られている話です。「眼に働けば見るといい、耳に働けば聞くといい、鼻に働けば嗅ぎ、口に働けば話し、手に働けばつかみ、足に働けば歩いたり走ったりする」という一連の身体の諸機能の働きの作用の内に真の自分は現れているということのようです。

 私の日常が即ち自分自身の現れで、「そのようなことをいうのは馬鹿ではないか。」と言われても自分というものは恥ずかしながら現れてしまうものです。当の本人は決して恥ずかしい事態が現れているとは認識していないわけではなく第三者の反響を受け、事態をのみ込むことができ反省の念をもって自戒します。

これも禅の話になりますが、臨済宗の禅僧山田無文老師の著作集「しんじん文庫第八集」『不二の妙道』にある講演会記録の中に老師がドイツの哲学者オイケン・ヘリーゲルの著『弓と禅』の中の一説を話されたことが書いてありました。

 ヘリーゲルが日本で弓道を習った際に師範がヘリーゲルに「矢が弦をはなれるときに意識してはいけない。いま行くナという意識があってはいけない。」と彼を注意したその時師範にヘリーゲルが「私が弓を引くのに私が意識をしなかったら一体だれが弓を引くのですか?」と哲学者ですから理屈でそう言ったところ「それは、自分でないもう一人の自分が弓を引くので、そのもう一人の自分がわかれば、それが禅である。」と語った。

 この話を禅に重ねて老師は語っており、禅を否定する話としてではなく当然「そういうものだ」と会得し、掴むものだということです。

的に当てようと思ってはいけない。

的をねらってはいけない。

じっと的を見つめて、的が自分になるまで見つめて、的が自分になったときに矢を放てば的が当たるのだ。

 射撃とは的に当てるのが、その筋だと思われるのですが、師範は真逆と思われるような話をヘリーゲルに教えるわけです。しかし、ヘリーゲルは5年ほどするとようやくその境地を体得し、本国に帰国してから「自分は直接禅をやらなかったが、弓をやることによって禅がわかった。」と語ったとのことです。

このヘリーゲルの話を引用しながら、無文老師は「花を見れば花が自分になり、月を見れば月が自分になり、的を見れば的が自分になり、すべての森羅万象と自分の距離がなくなるのが禅です。」と、『不二の妙道』に書いています。

このような話は、「物となって考え物となって行う」という西田哲学に通じる話ですが、最初の「無位の真人」も思慮なく徹しっているところにあるわけで、「恥ずかしながら」の話もありのままに自分が語るわけで、真の自分が現れているということになります。そこには恥ずかしさを知るような自分はなく、どこまでも個人の言動を自分が成立させているわけです。

 パスカルは『パンセ』の358で次のように語っています。

「人間は、天使でもケダモノでもない。そして不幸なことには、天使のまねをしようとするとケダモノになってしまう。」

この言葉も非常に今の私に語りかける言葉で、「戦争をして奪還」などという第三者が聞けば悪魔的ささやきの言葉も、ご本人自身が、良い考えだという天使のささやきとして自覚する中で彼自身を現したということになります。

この『パンセ』の70には、

「自然は・・・・・・ない。自然はわれわれを丁度うまく真ん中においたので、われわれが秤(はかり)の一方を変えると、他方を変えることになる。ジュ・フゾン、ゾーア・トレケイ。このことからして私は、われわれの頭の中には、その一方に触ると、その反対の方にも触るように仕組まれていたバネがあるのではないかと思われる。」

この言葉も自分という現象を考える時には大いに参考になります。

 ある男優が「体制批判を考えざるを得ない」という発言をしたところ炎上し、それに対して、日本には「役者は体制批判をするものではない」という「空気」があるようだという話まで現れてきました。

 個人の言動が社会的な場の秤を乱すという批評にまでなるのですから、多くの人々に接する公人(おおやけびと)の秤は、場の空気感という秤とも密接に共鳴するように見えます。

「自分でないもう一人の自分が弓を引くので、そのもう一人の自分がわかれば、それが禅である。」

これは、天使のささやきを聴けという話ではなく、私という現象を体得(つかめ)という話に思うわけです。

 「もう一人の自分が分かれば」とはどういうことか。
 
 今まさに私は何を語り、何をしようとしているのか。
 社会に一般的な人として現れている自分ですが、他者とは同一ではなくどこまでも個性的な特殊な現れとしてある自分です。悪魔のささやきなのか天使のささやきなのか、おのずから見極める「無位の真人」になりたいものです。

一般的に「壊れる」前に、特殊という場にある私を見つめよう。

天使にも悪魔(ケダモノ)にも他人から見ればそう見える自分を見つめよう。

人はなぜ「壊れる」と殺人を行ったり、人の心を傷つけるのでしょう。

 ここまで書いてここで思考に終止符を打てばよいものを、『パンセ』70の「自然は・・・・・・ない。」という言葉が気にかかります。

 「おのずからしかり」という東洋的な自然(じねん)とは異なる気がします。左右の均衡という秤を思考して現象を考えますが、均衡は定点的な概念で、私の思う現象は点時間ではなく、持続の内にあるものです。青年の指パッチンという一刹那も点時間、点時刻ではありません。純粋経験も同様で定点的な概念で考察するものではないように思う。

壊れる前ならば、自覚と反省の場は現れるもので、「無位の真人」は呼吸しているまさに今に息する、生かされている自分に現れるように思います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。