
(写真:安曇のではどこへ行っても芝桜が盛りです。笑うという言葉で花をみると活き活きとして見えます。)
最近は眼前に広がる世界を認識する場合に、「これは何か」という問いによる言語化しなければならない部分と言語化する以前にそれはある、という認識があることを強く意識し、視点という問題、志向性の問題を深く考えるようになりました。
やまと言葉(古語)の「笑む」「微笑む」という言葉の概念の中には実際にニコニコ笑う、ニヤニヤ笑う概念と「花が咲く」「実が熟す」という概念があること知り、現在では失われている古代人の精神構造に深く、強く感動しています。
どう見ても花は語ってはいないし、花は笑っていません。しかしそのように表現してしまう。
実際花を見つめるときに、咲いた花が「微笑んでいる」と・・・表現が難しいのですが・・・言葉化して視線を向けると、花が活き活きして見えるのです。これは単純な話で、現前のものは変わってはいない、変化はしてはいないのですが、活き活きが見える。
これは個人的な、まったくのこの個人的な考えですので了承願います。
上記の流れもあって、「花が咲く」「微笑む」や「熟す」という言葉が文字として眼前に立ち現れるとどうも引き寄せられる(主体から積極性)、魅了される(相手の誘惑感で感じるのはあくまでも主体)昨今なのであります。
昨日はあるサイトの文章に「法句経・ダンマパダ」という原始仏教典の一節を見てその中に「熟」という言葉が書かれているのを発見しました。「悪心が熟する」旨の意味を表現しているもので、以前ならば素通りしてしまうのですが、引き寄せられ、魅了されたわけです。
そこで、法句経(以下はダンマパダを意味する)を何種類か読み直してみました。
【法句経119】
悪果未だ熟せざる間は悪人も尚ほ幸に遇ふ、悪果熟する時に至れば(悪人は)悪に遇ふ。
【法句経120】
善果未だ熟せざる間は善人も尚ほ悪に遇ふ、善果の熟する時に至れば(善人は)善に遇ふ。
これは法句経(荻原雲来訳注 岩波文庫)で初版は昭和10年です。この当時はこの法句経が流行した時代で、その当時のベストセラーは『法句経』(友松圓諦著)でした。
友松先生の法句経をみるとこの偈を次のように訳しています(講談社版を使用)。
【法句経119】
悪の果実(このみ)いまだ
熟(う)れざる間(あいだ)は
あしきをなせる人も
幸福(さいわい)を見ることあるべし
されど
悪の果実
熟するにいたらば
その人ついに
不幸(わざわい)に逢わん
【法句経120】
善の果実(このみ)いまだ
うれざる間は
あしきをなせる人も
善事(よきこと)を見ることあるべし
されど
善の果実
熟するに至らば
善人は幸福を見ん
と訳されていました。しからば中村元先生の『真理の言葉 感興のことば』(岩波文庫)を見ると次のように書かれていました。※注:真理の言葉=ダンマパダ 感興のことば=ウダーナヴァルガ)
【法句経119】
まだ悪の報(むく)いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遇うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遇う。
【法句経120】
まだ善の報(むく)いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遇うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遇う。
となっていました。どうもいろいろ調べていると原文に近いのは中村先生の訳で、友松先生は「果実の熟」を使っていますが原文には「果実」はないようです。
次に引用したいのはNHK出版の「シリーズ仏典のエッセンス」の『ダンマパダ』)松田愼也著)です。松田愼也先生は上智大学の宗教学・仏教学の専門家で春秋社の『中部経典』などを手掛けておられる方です。
この本は法句経の解説書です。偈だけの話ではなく思想解説がなされています。法句経の第5章の偈から引用します。
<引用『ダンマパダ』)松田愼也著 NHK出版)から>
・・・・・『ダンマバグ』第五章「愚者」(※中村元先生の場合は「愚かな人」)には次のような句があります。
ある行為をしたのちに、そのことで悩み苦しみ、顔に涙して泣きながら、その報いを受けるならば、そのようになされた行為は善くない。(六七「愚者」)
ある行為をしたのちに、そのことで悩み苦しむことなく、喜んで心地よく、その報いを受けるならば、そのようになされた行為は善い。(六八)
行為の善し悪しは結果から計られるというわけですが、現実世界は本当にそうなっているでしょうか。善人が報いられるどころか悲惨な目にあったり、悪人がのうのうと栄華を誇っていることもあるではありませんか。業思想は、弱者の空しい復讐願望に過ぎないのではないでしょうか。しかし、そうではない、と 『ダンマバグ』は続けます。
愚者は、悪行の報いが熱しない間は、それを蜜のように思いなす。しかし悪行の報いが熟したときには、苦しみを受けるに至る。(六九「愚者」)
悪しくなされた行為は、牛乳と同じように、すぐには固まらない。灰に覆われた火と同じょうに、じわじわ燃えながら、愚者につきまとう。(七一)
あるいは、次のようにも言われます。
まだ悪の報いが熟しない閏は、悪人といえども幸運に出会う。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はもろもろの凶事に出会う。(二九「悪」)
まだ善の報いが熟しない間は、善人といえども凶事に出会う。しかし善の報いが熟したときには善人は幸福に出会う。(一二〇)
結果が現れるのには時間がかかるのです。それまでの間は、あたかも業など存在しないように見えるのだ、というのです。牛乳を暖かいところに放置しておくと、やがて腐敗して固形分と上澄みに分かれます。これをうまく管理すれば、ヨーグルトやチーズができます。
インドでは、古来、乳製品を多く食べてきました。それを巧みに比喩として用いているのです。火を灰に埋めると長時間保つことができます。火種を残すのです。私たちは必要に応じてそれを掘り出し、炎を燃え立たすことができます。そのように、業は埋火(うずみび)として存在し続けるのです。
でも、これでもまだ不十分です。人の一生だけを考えれば、到底、善悪の業とその報いである苦楽とは、計算上の辻褄があっているとは思われません。
「天道、是か非か」とは中国の史書『史記』の作者・司馬遷の残した有名な言葉です。高潔の士である伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)の兄弟は極貧のうちに餓死し、極悪人の大盗賊である盗跖(とうせき)柘は天寿を全うしたことについて発した疑問です。
古代中国に業思想はありませんが、「天」が人の善悪を把握し、賞罰を与える、と信じられていました。本当にそうなのだろうか。果たして「天」に正義はあるのか、というのです。・・・・・
<以上同書p35~p37から>
この続きには、この
<果たして「天」に正義は>
に対するインドの輪廻思想が語られていますが、今朝の思考の視点はこの「熟」という言葉ですのでここまでの引用としました。
「熟」の根本的な意味は「菌が繁殖」をするような感覚の概念のようです。
菌という主体が、培養皿であたかも意志のあるように自分の都合の善き方向に繁殖するように・・・・。
その根本には、主体があります。「菌」という主体が。
そこでやまと言葉に「熟する」という言葉があるか、というと古語辞典にはありません。古語の逆引きの辞典『古語類語辞典』(三省堂)を引くと次のように書かれています。
じゅく・す[熟]
あからみあふ[赤合]
うる[熟]
つゆ[潰・熟]
わらふ[笑]
じゅくせい・する[熟成]
なる[慣・馴]
となっていて、わらふ[笑] については過去に「微笑む」の時に紹介しています。注目点は最後にある。
なる[慣・馴]
で悪が熟するのではなく、悪に慣れる。以前にも言った「狎れる・熟れる・慣れる・馴れる」につながり。
日本語では「悪」に主体性をもたせない。悪に染まっていく私がある、という感覚なのだと思うのです。
「なる」の根底にも通じることで、[慣・馴]ではあるが「成」でもあり、主体性のない「自ずから然り」の世界が見えるような気がします。
そのような世界観が、仏教の伝来とともに折り重なり独自の、大乗的なもの、民俗的なものにうまく迎合されているのではないか、というのが今朝の結論です。
さらに哲学的に追求するならば、西洋の現象学における志向性の機能の捉え方です。「自ずから然り」という視点が捉えにくい(合理的に説明ができない)という問題につながるように思えるのです。
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