思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ヒトが直立二足歩行をはじめた理由(わけ)

2009年10月24日 | 仏教

 直立二足歩行といえばヒトのことだとわかります。ヒトのことをお釈迦様は、

この世にもあの世にも
期待を持つ
欲から離れない者
彼を私はヒトと呼ぶ

といいました。
 なぜ人は直立し二足歩行するのか、先生方が思う疑問を、私も頭の隅においてみました。

 最近流星群が話題になっていましたので、帰宅すると空を見上げる癖がついていました。満天の星の輝き、といいますが、住んでいるところは片田舎。真っ暗とはこのことを言うのでしょう、ですから星は降るように夜空に広がっています。

 以前にも話しましたが、近々旅客機の発着がなくなる松本空港近くには、ボルデメという電波標識があり、国際便も含め数多くの飛行機が流れ星のように夜空を機体の点滅灯を点滅させながら空を流れていきます。

 遥か遠くを飛びますから音はしません。静かに流れていきます。当然「星に願いを」と思いたくなるように流星も流れていきます。

 朝焼けの時は水平に見る私もこの時だけは、夜空を見上げています。その時に私は二足であることに気がつきました。

 空を見上げるには、直立二足がとても便利のような気がしました。四つんばいになって空を見上げてみましょう。美しい朝焼けは見えても青空に点在する羊雲は見えません。

 台地を感じあお向けになれば見えますが、そのたびにおなかを天空(てんくう)に突き出すのはとてもではありませんが疲れてしまいます。

 やはり気がついたら二足で立っていました。

 二足で立つととても素敵な詩に逢い、素敵な話に出逢います。どんな詩かといいますと以前にも紹介したことのある詩です。

 星とたんぽぽ

 青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように、
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
  みえぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの、
 かわらのすきに、だァまって、
 春のくるまでかくれてる、
 つよいその根はめにみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ。
  見えぬものでもあるんだよ。

この詩はお母さんのような詩です。ようなとは諭(さと)すような母の温かみがあります。
こんなお話もありました。

 いちょうの実

 そらのてっぺんなんか冷たくて冷たくてまるでカチカチの灼(や)きをかけた鋼です。そして星がいっぱいです。けれども東の空はもう優し桔梗の花びらのようにあやしい底光りをはじめました。・・・・・・・・・いちょうの実はみんな一度に目をさましました。そしてドキッとしたのです。今日こそはたしかに旅立ちの日でした。・・・・・・・・・そうです。この銀杏(いちょう)の木はお母さんでした。・・・・・・お日様は燃える宝石のように東の空にかかり、あらんかぎりのかがやきを悲しむ母親の木と旅に出た子供らとに投げておやりになさいました。

 全文を書けばよいのですが人であることを(めんどくさがり屋)忘れそうなのでやめました。

 こんなお話もありました。四つんばいの一匹のトノサマガエルを見つめる「私」の話です。

ブンナよ、木からおりてこい

 一ぴきのトノサマがえるが、沼の岸にすわって空を見あげていました。・・・・・「トノサマがえるのブンナ、なにをそんなにしんけんに見あげているんだい」土がえるの仲間がはなしかけました。・・・・・・・・・・木のぼりじょうずなことは、蛙仲間の身を守るたすけとなりました。・・・・・・・・・ブンナはみんなに見送られて、椎の木にのぼりはじめました。・・・・・・・今日いちにち生きてゆける喜び---ブンナは大きく大きく胸をはって太陽にむかって鳴いてたのです。

とてもじゃあーないですが、長すぎて早朝のいまの私には打てません。

ですので作者を紹介します。
 最初の『星とたんぽぽ』は、金子みすゞさん(JULA出版)です。

    

二番目の『いちょうの実』は、宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜 集英社文庫」

     

そして最後の『ブンナよ、木からおりてこい』は、水上勉さん(新潮文庫)です。最後の『ブンナよ、木からおりてこい』は水上先生の仏教観を語る上で紹介されることが多いので仏教の関係者には知っておられる方も多いかと思います。

     

 水上先生の話はカエルの話だから、四足だろうと思う人もおられると思いますが、とても人を超えた立派なバラモンですので折り合いでその通りといっておきますが、私はいまだにヒトですので、二足で立つ水上さんをみるのです。

 ここで、断っておかなければならないことがあります。文頭のお釈迦様のことばです。 
法句経410(法句経 友松圓諦訳講談社から)は、

 この世に
 後の世にも
 希(ねが)いなく
 意楽(のぞみ)なく
 繋縛(まつわり)を離れたるもの
 かかる人を
 われ婆羅門とよばん

ですが、お釈迦様は優しいお方ですから、ヒトに合った話をされる方でした(対機説法)。 するとお釈迦様は、ヒトに、
 
 この世にもあの世にも
 期待を持つ
 欲から離れない者
 彼を私はヒトと呼ぶ

と語りはじめたのではないかと、ある日、二本足で立っていることに気がついた私は思ったのです。

 人類はなぜ直立二足歩行なのか。気がついたら二本の足で立っていたのです。


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