体験は思想を創り上げる。
Eテレの「戦後史の証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか。知の巨人」の第3回目が昨夜放送されていました。
「第3回 民主主義を求めて~政治学者 丸山眞男~」
今年は丸山眞男生誕100年の年にあたるということで、いつの時代も政治が問われているのですが、世界経済のバランスが崩れつつあり、発展途上国などと蔑んだ言葉も今は意味なさない言葉の遺物になりつつあります。
そもそも発展とか貧困などという言葉は、時々の人々の持つ感慨だけであって、一律的な意味あるものでないということです。語る側の場の意識が意味を特徴づけるだけで実質的なものはなにもない、日本人の今ある「怯え」はそんなところにあるのかもしれません。
人文学の世界は、よくわかりません。政治学、社会学、哲学等諸々の学の世界が専門家でない私にはその境目がよく解りません。
今回の番組はサイトでは、「丸山眞男と政治学者たち」と題されて、
<サイト紹介では>
出征、そして被爆体験を経て8月15日を迎えた丸山眞男。日本の超国家主義を分析し、「無責任の体系」と鋭く批判した論文で戦後の論壇をリードした。
敗戦直後、丸山は、東大で教鞭を執るかたわら、静岡県の「庶民大学三島教室」に通い、民主主義を広めようと努めた。60年安保闘争では「市民派」として積極的に発言したが、東大紛争では、戦後民主主義の申し子ともいうべき学生たちの厳しい批判にさらされた。
民主主義を「永久革命」ととらえ、自律した個人の確立と、他者を認め合う「他者感覚」の重要性を訴え続けた丸山。その政治学は日本社会をどのようにとらえ、戦後日本に何を提言していたのか。東京女子大に残る未刊行資料、丸山自身の録音テープ、そして石田雄さん、三谷太一郎さんら丸山政治学の弟子たちや丸山批判を展開した森田実さんらの証言を軸に探っていく。
<以上>
と解説されています。
「丸山眞男」という名に直接触れてきた世代ではありませんので、学生時代に政治学は学びませんでしたので直接丸山さんの著書に接することはないでしょうが、福沢諭吉「学問のすゝめ」やその他の福沢翁の著書に接しゆくと、自ずと丸山眞男著『「文明論之概略」を読む』(上中下・岩波新書)に接することになり、すると『日本の思想』(岩波新書)の読みたくなり、手元に読み切っていない4冊が黄色味を帯びてあります。
意味ある偶然性に感謝、意味ある必然性の流れ、学びの機会の到来でしょうか。
昨年映画化された「ハンナ・アーレント」の世界。その後話題になりつい最近矢野久美子先生が『ハンナ・アーレント』(中公新書)を出版されNHK視点・論点で「ハンナ・アーレントと“悪の凡庸さ”」放送され、20世紀を代表する政治哲学者が語られていました。
そういうことでNHK番組で戦前戦後に活躍された政治学者を知ることが出来、ある人は作為をみるでしょうが、「政治学者という人」の生きざまを知る機会などに出会うことのなかった私にとっては、ある意味、形成の啓示に思われます。
ブログの文頭に「体験は思想を創り上げる。」と書きましたが、丸山さんもハンナ・アーレントもともに戦争体験が政治思想を創り上げています。
今回の「民主主義を求めて~政治学者 丸山眞男~」の最初の方に「抑圧の移譲」という言葉が出てきます。
「抑圧の移譲」
上からの抑圧を下のものを抑圧することで順序に移譲し組織全体のバランスを維持して行くこと。
丸山さんは、軍隊経験における暴力的な抑圧に、「抑圧の移譲」という構造的な体系で説明し納得します。
この「抑圧の移譲」という構造は軍隊ばかりにあったのではなく国家のあらゆるところにあった。それによって誰もが主体的な意識がないままに戦争が行なわれていた。
と時代を読み解きます。戦前戦後の国家、終戦と敗戦国における戦争責任。丸山さんの次の言葉が語られます。
<「超国家主義における論理と心理」から>
我こそは戦争を起こしたといふ意識がこれまでの所、何処にも見当たらないのである。何となく何ものかに押されつつ、づるづると国を挙げて戦争の渦中に突入したといふ、この驚くべき事態は何を意味するか。
これを「無責任の体系」と分析することで戦後を丸山さんは時代を切り開こうとしました。
<新たな時代の指針>
知らないということは、感動を受けます。戦後まもなく静岡県三島市の三嶋大社の社務所で開かれていた「庶民大学」。社会学者の清水幾太郎、英文学者の中野好夫さんも講師として開催され多くの庶民が「何かを求めて」聴講した事実が紹介され存命する参加者の声も紹介されていました。
番組では残されている丸山さんの肉声が紹介されていました。丸山さんはその中で、集う人々の姿を語ります。
「今までの価値体系が一挙に崩れ、まったく精神的空虚にある庶民」
「飢餓の中の飢えの中の民主主義の原点」
という言葉に、「裸の実存」という言葉が重なりました。
名誉も地位も財産も喪った人々に、招来した民主主義という新しい言葉。個々の理解の納得にあるのですが、「裸の実存」には、時代から問われるその中に、自らの問いと納得をもふくめた形成の働きがあるように感じました。
単純に裸のままに放り出されるのではなく、自ずから自らどうあるべきかという姿勢がそこにあります。
飢えながらもこの時代のこのような集いに、集まる人々がいる一方で、食に翻弄されるばかりで全くこのような機会を意に介さない人々もまたいたのも事実です。
上記の丸山さんの語られる「民主主義の原点」は、明治維新にまでさかのぼって考え出されます。
三嶋での最初の講義は、「明治の精神」。
自由という思想は、戦後民主主義とともに到来した自由という思想であり、占領軍から押し付けられたもののように思われそうですが、明治維新の思想に既に見いだされていた。
そこに現れる人物が『学問のすゝめ』の福沢諭吉で、その著書の「一身独立して一国独立す」は、「主体性を持った個人が独立心をもってはじめて国家も独立する。」という思想で福沢の言葉に丸山は新時代を感じていたということです。
「戦争責任者のどこにも居ない国」
謄写版の当時の文集に上記の言葉が映し出されています。
番組から一部だけを取り出しています。
丸山さんのこの言葉は、「戦争」という言葉を削除すれば「責任者のどこにも居ない国」ということになり、「先見の眼」と言われますが、現代社会の今まさに日本を語る言葉です。
個人的に思うところとなりますが、先ほど紹介した矢野久美子先生のNHK視点・論点「ハンナ・アーレント」で語られた次の言葉を思い出します。
【矢野久美子】 アーレントは語りました。「底知れない程度の低さ、どぶからうまれでた何か、およそ深さなどまったくない何か」が、ほとんどすべての人びとを支配する力を獲得する。それこそが、全体主義のおそるべき性質である、とアーレントは考えました。
「底知れない程度の低さ」
この言葉は、投げかけています。
ホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人や他民族への破壊、大量殺人)の背景にある「底知れない程度の低さ」がそこに語られているのです。
『イェルサレムのアイヒマン』『全体主義の起源Ⅰ反ユダヤ主義』(みすず書房)
購入してしまいました。その後よその県の県議会議員の「涙の会見」「脱法ドラック所持」が話題になりましたが、地方選挙も国政選挙も民主国家の構造の現れの中にあり、庶民はそれに関わっているわけです。
「底知れない程度の低さ、どぶからうまれでた何か、およそ深さなどまったくない何か」
という言葉はアイヒマンだけに見い出されるものではないことは、「<悪>の陳腐さ」に現れてきます。
現代社会はこの「<悪>の陳腐さ」に翻弄され自ら怯えているように思います。
行く場のないという怯え。
来たらざる未来に怯えています。
丸山眞男さんの、
「今までの価値体系が一挙に崩れ、まったく精神的空虚にある庶民」
とは今の時代を物語っています。