思考の部屋

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真田三代の菩提寺とはならなかった海野氏の菩提寺について。

2009年10月04日 | 仏教

  写真は海野一族(海野衆)の起請文(真田右馬助綱吉)

 「石徳五訓」の話しを[つらつら日暮らし]さんのブログで知り、心が熟していないのか承知したまま今朝にいたっていました。

 朝早から最近の戦国武将真田氏の動向を視察するためサイト巡りをしていたところ彼岸のときに訪れた「曹洞宗 瑞泉院 興善寺」の「石徳五訓の碑」のことが書かれているサイトに出会いました。

 これも何かの縁を感じましたので「石徳五訓」と私の感じた道元さんの言葉、そしてこの碑のある興善寺と真田家との関係について今日は書くことにしました。

 石徳五訓の碑には永平寺73世泰禅禅師とこの碑には刻まれておりますから、先代の住職の代の檀家寄進ではないかと思います。

   石 徳 五 訓 (せきとくごくん)
1. 奇形怪状無言(きけいかいじょう)にしてよく能言うものは石なり
2. 沈着にて気精(きしょう)永く、土中に埋もれて、大地の骨となるものは石なり
3. 雨に打たれ、風にさらされ、寒熱に耐えて悠然動ざるは石なり
4. 堅質(けんしつ)にして大厦高楼(たいかこうろう)の基礎たるの任務を果たすものは石なり
5. 黙々として山岳、庭園などに趣を添え、人心を和らぐは石なり 

 この「石徳五訓」ですが「永平寺73世泰禅禅師」となっているものの[つらつら日暮らし]さんの話ですと作者は不明とのことです。

以下は、わたしがこの碑から感ずるところがあり、道元さんの正法眼臓から解釈抜きで引用したくなりましたので以下のとおり掲出します。

 『正法眼臓第四十六無情説法』(石井恭二著 河出書房新社第三巻P271~P272) 
 しかあるを、草木瓦礫を忍じて無情とするは不遍学なり、無情を忍じて草木瓦礫とするは不参飽なり。たとひいま人間の所見の草木等を忍じて無情に擬せんとすとも、草木等も凡慮のはかるところにあらず。ゆゑいかんとなれば、天上人間の樹林、はるかに殊異あり、中国辺地の所生ひとしきにあらず、海裏山間の草木、みな不同なり。いはんや空におふる樹木あり、雲におふる樹木あり。風火等のなかに所生長の百草万樹、おほよそ有情と学しつべきあり、無情と認ぜられざるあり、草木の人畜のごとくなるあり、有情無情いまだあきらめざるなり、いはむや仙家の樹石・花菓・湯水等、みる疑者およばずとも、説者せむにかたからざらむや。ただわずかに神州一国の草木をみ、日本一州の草木を慣習して、万方尽界もかくのごとくあるべしと擬議商量することなかれ。

なるほどなどと安易に素人が納得したということは決してないのですが、解釈なしで引用しました。

 さてこの石徳五訓のある興善寺ですが山号が瑞泉寺で、東御市の曽根の字名は西田という地籍にあります。千曲川の東側、浅間連峰側にあります。この周辺は河岸段丘が山側に何段も続く場所で二段目ほどの場所にあります。

 永正三年(1506)海野氏が創建した寺で、海野氏の当主の海野棟綱の時代です。宗派は曹洞宗で開山は遠州の国周知郡久野村の可睡斎五世大路一遵(繁道)といわれています。

 寺伝では、海野氏23代海野幸義が夫人の菩提を弔うため、正長元年(1428)に海野氏から出た名僧如仲天闇和尚を請じて幸義寺を開創したとされますが、郷土史書によると

名僧如仲天闇和尚は貞治4年(1365)から永享12年(1440)の人であるから、ありえることと見られるが、当主幸義が夫人の菩提を弔うために建てた寺の名が「幸善」であることは不似合いな感がしないわけではない。興善寺の前身が同じ音の幸善寺であることはよいとして、幸善寺の起こりは、むしろ、観応の騒乱の総大将として奮戦した海野幸善の菩提を弔うためのものではなかろうか。

ということです。
 南北朝時代も末期(観応・正平~明徳・元中年間)の当主海野善幸は南朝方信濃武士団の海野一族(深井・正村・矢島・関・所・岩下・・・・)総大将として活躍しており興善寺は、海野一族が総大将を弔うために建立した寺というのが史実のようです。

 後の世に真田信之が松代に移るに当たり寺や神社を松代に移しますが、あくまでも真田氏は支流のため、海野氏の祖(海野一族の祖)滋野貞主を祭った白鳥神社は、分祭はできましたが、この興善寺は当然直系ではありませんので移動することができませんでした。理由は以下の流れがあるためです。

 真田氏は、海野一族ですが上田市の菅平を拠点していました。海野氏の支流でも早い段階に分かれた禰津氏・望月氏とは異なり南北朝のころは勢力が無く海野善幸の配下となり、時には海野一族に組してその活動の場を保持していました。

 その後戦乱の世になり地形的に防護の強い菅平で勢力の減退も無くあったが、反面海野総本家のあった旧東部町は村上氏や武田氏の進入により海野一族は危機状態となりました。海野総本家海野棟綱をはじめ海野一族は、関東管領上杉家を頼りながら同族のいる群馬沼田方面へ拠点を移します。 

 その混乱の中真田右馬允頼昌の長男真田右馬助綱吉が海野一族筆頭家老の深井右衛門尉棟廣の養子となりました。真田家は二男の真田幸隆が家督を継ぎ菅平の地を守りながら群馬沼田の海野棟綱と蜜に連絡をとり海野氏存続を図るべく策略を練るととも海野棟綱の姫(むね)様を娶りその長男が真田昌幸です。

 間もなく棟綱の長男幸義が村上義清軍との戦いで戦死したことを知った幸隆は、武田信玄との連合に反対する海野棟綱を陰謀により亡き者とし、海野家を継承を強行しました。

 寛政重修諸家譜の真田家系図は、しっかりとした清和天皇系滋野氏本流海野氏本流の系図となっているのですが、このような歴史的な背景があるため海野氏の菩提寺を白鳥神社のように松代藩に移せなかったのです。

 今日は、石徳五訓から真田氏と海野氏の関係について話をしましたが、最近の戦国武将ブーム昔を思い出し書いてみました。

 なお真田というと六紋銭(ろくもんせん)が有名になっています、伝承では海野氏の弓の名手が瀬戸内海の弓の競い合いで勝ったときに六つの渦潮が連なって祝ったことから、六連銭とし、その後六道思想と重なり六文銭となったということです。従って海野一族の古老は六連銭と呼んでいました。しかも海野一族では細かく「くっ付き六文」「離れ六文」と細かく分類していました。
  


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4 コメント

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リンクをありがとうございます。 (tenjin95)
2009-10-05 06:01:13
> 管理人様

「石徳五訓」、拙ブログにも書いた通り、作者は分かっていません。熊澤禅師かとも思っていたのですが、色々な人に聞くと、その前からあったらしいとのことなので、未だに作者を捜している拙僧です。

そして「石徳」だけに、各地の寺院でこの熊澤禅師の書を石に刻むということが流行ったようです。他の寺でも見たことがあります。

是非、皆さんに子のことを知っていただいて、作者の調査が進むことを祈念するばかりです。
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石徳五訓 (管理人)
2009-10-06 05:21:37
 コメントありがとうございます。「石徳五訓」とても深い言葉ですね。
 直観でものを言ってしまう傾向があるのですが、「場の大切さ」今この瞬間にいる自分の場を逆説的に感じました。
 今後もよろしくお願いします。
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興善寺 (wakaba)
2010-06-07 08:09:35
こんにちは。通りすがりの東御市民です。

上田市史やその他の書籍を読むと、興善寺は上田に海禅寺として移され、松代移封の際は開善寺として再び移された、という趣旨の説明ですが、名前が微妙に変わっているのもこちらの記事の理由のため配慮した、ということでしょうか?
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そのように理解しています。 (管理人)
2010-06-08 06:25:05
講談等で真田氏が有名になると、海野一族にも海野氏のというよりも真田一族という意識が芽生えてきてしまいました。現代もそのように思い込んでいる方々が多い状況です。

しかし歴史的事実,文献調査から海野一族が,真田氏から離れ帰農した(全員ではなく、家族内でも同じ)事実があります。
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