思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

効果と生き甲斐の関係・老子・ユングの言葉

2011年03月20日 | 地震

 (自然は時々不思議な姿を見せてくれるものである。一昨日前に諏訪に出かけた時に、諏訪湖上空で見た直角雲。)

 異動期で送別会を行うのが例年の慣わしだが、今年は自粛を決定した。同期の少人数も含め気持ち的にも今なすべきことが共通の思いになっている。臨機な対応、指摘されないまでも自主的に行えること、職場はもちろんご近所との共同体の生活においてもとても重要に思える。

 階段や街頭の電燈一本が切れても人待ち姿勢が目立つ。「おまえは大丈夫か。」二人称の叱咤激励を自らの心の中に聞き、一人称の反省を日々重ねる。

 自ら湧き出る欲する心を避け、厳格な倫理性を格律のもとに生きるなどということは、できるものではない。安きに流れたし、そんな心をいくらかでも避けることができれば幸いである。

 原子力発電所のポンプ車による冷却に一定の効果があるようです。ポンプ車による冷却発想は単純だが、先進国日本の対応は警視庁の放水車が最初というのは悲しい限りである。

 最初の発想はどこから来たのか、誰が考えついたのか聞きたいところである。

 さて上記の文章の中にもあったが、「効果」という言葉がある。「よい結果が現れること」という意味になるようだが、この場合の「よい」は「良い、善い」の反対語の悪いを思考の前提に置かない「よい」で、善し悪しを越えて、本来あるべき姿に落ち着く、均衡、平衡の状態、「程よい」といったときの「よい」という概念の言葉のようである。

 「効果」を表す言葉にどんな言葉があるのか類語辞典を調べてみた。

効く【き・く】
利かす【き・かす】
効き目【き・き・め】
役【やく】例:覚えた英語が役に立つ。
功【こう】
詮【せん】例:忠告しても詮がない。
甲斐【かい】
徴【しるし】例:薬の徴が現れる。
生きる【い・きる】
生き甲斐【い・き・がい】
年甲斐【としがい】
効【こう】例:薬石効なく・・・。
逆効果【ぎゃくこうか】
効用【こうよう】
効力【効力】
効能【こうのう】
効験【こうけん】例:効験あらたかな薬。
験【けん】例:山伏が験を現わす。
速効【そっこう】
実効【じっこう】
特効【とっこう】
偉功【いこう】
奇功【きこう】
薬効【やっこう】
発効【はっこう】
奏功【そうこう】
功を奏する【こう・を・そう・する】
時効【じこう】
失効【しっこう】
死ぬ【し・ぬ】
<以上角川書店『類語国語辞典』から>
※個人的に判りにくいことばには、用例等を付した。

冷却の効果、原子炉の安定・・・今や世界の人々の願いであり復興にも拍車がかかるように思う。

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 上記の「効果」の類語の中に「生き甲斐」という言葉が入って入ることに気づく。

 「生き甲斐」は、「生きているの値打ち」「張り」という意味で、用例としては「生き甲斐のある人生を送る」などと使われる。

 「生き甲斐」がなぜ「効果」と類語になるのだろうか。
 効果という言葉の中にその共通項を見いだすと、「あるべき姿」という根源的な深みの中にその意味があるように思う。生きがいとは心の安定であり、心の平衡・均衡であるように思というよりもこじつけたい。

分析心理学者カール・グスタフ・ユングに次のような言葉がある。

<C・G・ユングの言葉>

生涯のおわりにすべきこと

 私が生涯のおわりにあたって、一生をただ無為にすごしただけだったと思うかどうかが問題だ。仏陀も、弟子たちの不毛な理論追究をやめさせようとしたときにその問題を考えたのではないか。

 私の生きている世界が、私に、お前はいかに生きてきたのかとたずねることが、私の生存にとつて重要な意味がある。たしかに私自身は、この世界に対し疑問をもっでいる。しかし、世界が私に対してもっている疑問に対する返答を、私は世界に示さなくてはならない。

 さもなければ、私は単に、世界が私の疑問に答えてくれたことに追従するだけである。世界に対する返答の作成は、私が苦心して実現すべき超個人的な生活課題である。おそらくこれは私の先祖も取り組んだもののはっきり回答できなかった何物かであろう。                                     〔思い出〕

<以上『ユングの名言集』フランツ・アルト編 金森誠也訳 PHPから>


 ・・・・・私に、お前はいかに生きてきたのかとたずぬることが、私の生存にとつて重要な意味がある。・・・・・

と、二人称の呼びかけと、一人称の自戒の言葉がある。

 以前M・チクセントハイの喜びの現象学でいうところのフロー体験について書きかましたが、上記のユングの言葉と生き甲斐の本来的な意味について思考すると、フロー体験よりも更なる深遠な善き生き方に思う。

 社会学者の大澤真幸氏の「裏返しの終末論」を最近紹介したが、ここで述べられる「終末論」は世界の終極ではない。

 宇宙科学・物理がいかようにその真理の追究に結論を出そうが、世界は永遠であり、終極はなく、終末などもない、人は永遠の中に帰るだけである。

 そういうことを踏まえて限られた人生の中でどう生きるか、そして、生きたのか、である。

 昨朝は中国の韓非子を引用したが、老荘思想や道教は古代から日本とかかわりが深い。
 老荘思想は中国仏教に深く関わりをもつものであり、また賀茂真淵の国学の思想の中にも見ることができる(『老子・荘子』森三樹三郎著 講談社文庫・『近世の国学思想と町人文化』松島栄一著 名著刊行会 第一章賀茂真淵の「からごころ」批判をめぐって」参照)。

 その老子の「至楽(しらく)篇」の中に次の話がある。

<引用>

妻の死に盆をたたいて歌う荘子
                  
 荘子の妻が死んだ。そこで友人の恵施(けいし)が弔問に出かけた。そのとき荘子は両足を投げ出したまま、盆を鼓いて歌をうたっていた。
 
 そこで、恵施はいった。
 
 「夫婦となってつれそい、子を育て、ともに年老いた仲ではないか。その妻が死んでも泣かぬというのはまだしものこと、盆をたたいて歌うとは、ちとひどすぎるのではないか」
 
 すると、荘子は答えた。
 
 「いや、そうではないよ。妻が死んだばかりのときは、わしだって胸がつまる思いがしないわけではなかった。だが、よく考えてみると、人間はもともと生のないところから出てきたのではないか。生がないだけではない。もともと形さえなかったのだ。いや、形ばかりでない。形をつくる気さえなかったのだ。
           
 そのはじめ、天地が混沌(こんとん)の状態にあったとき、そこに変化が生じ、気が生まれた。その気が変化して形をつくり、その形が変化して生となったのだ。ところがいま、も一度変化をくりかえして、形のある生から形のない気へ、気からまだ気のなかった混沌の状態、つまり死に帰っていったのだ。これは春夏秋冬の四季の循環をくりかえすのと全く同じではないか。
                  
 それに、せっかく天地という巨大な部屋(へや)のなかで、いい気持で寝ようとしている人間に、わしが未練がましく大声で泣きわめくようなまねをするのは、われながら天命をさとらぬしわざに思われる。だから、泣くのはやめたのだよ」
 
<以上『老子・荘子』森三樹三郎著 講談社文庫から>

大道に臥す。姑息な生き方だけはしたくないものである。仏教の中にはそんな心も重なっている。

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