思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

フロー体験・喜びの現象学

2011年02月19日 | 心理学

 今日は土曜日。休日で特に呼び出しもなさそうな雰囲気です。ひと時を楽しむ。何ものにも惑わされることなく自分のペースで好きなことができるそんな自由感が漂います。

 今から始めることは今朝のブログ記事内容をどうするかということになります。365日パソコンがある限り記事を掲出するということは、今や習慣となり身体的な癖までになっています。

 私の場合睡眠という問題は、眠くなったら寝る。何処であろうと、短時間であろうとできるという特技があるので、どんなに遅くに寝ても、午前3・4時にひどい時には2時ごろ覚めるときがありが、起きてしまいます。読みたい本を読み、番組録画したものを見たりゆっくりとコーヒーを見ながら時を過ごします。

 山間地で、時々動物の鳴き声や今時は屋根の雪が落ちる音、そして温度差による家の軋み音、そんな程度で静寂の中に身をおくことができます。

 最近「フロー」という言葉を知りました。フロー体験という表現で語られているようですが、単純明快に言えば「こよなく時を愛する」に集約されるかもしれません。

 書店などにいくと自分の好みのコーナーに向かいひと通り書棚を見まわします。そんな時に「現象学」などという文字があるとつい手が伸びてしまいます。

 『フロー体験 喜びの現象学』(M・チクセントミハイ 今村浩明訳 世界思想社)

出版社を見ておおよそ流れの中に何感を感じるのですが「フロー体験」という言葉がわからない。時の流れに身をおく姿がイメージとして浮上し、そして現象学。我が身は他者にいったり自己に行ったり来たり、時間と場のと思考をフル回転し、書棚から取り出し開いてみました。

 ザット見て、最適経験の理論。感得すれば幸福になれる。こういう視点も編み出したか、新興宗教にも似た感を受けました。

 <一つの活動に深く没入しているので他の何ものも問題とならない状態、その経験それ自体が非常に楽しいので、純粋にそれをするこということのために多くの時間や労力を費やすような状態。>という概念に基づく最適経験の理論(同書p5)。

 これだけでもその意味するところが、既成の枠組みの中の改編であることがわかります。

 改編の思考に非常に魅せられ、購入。初出版が1996年、手元のものは2009年第9刷ですので地道に読まれているようです。

 ウィキペディアフリー百科事典で「フロー」を調べると、

 フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。

となっており「心理学者のミハイ・チクセントミハイ」、ゲシュタルト心理学と現象学のフランスのメルロ=ポンティの心理学者版なのです。

 語りつくせないものをどうにか語りつくしたいと努力したメルロ=ポンティに興味がある私、従って購入は正解でした(私は早とちりなのでよくがっかり本があります)。

 ということで、今朝はその中から次の箇所を紹介したいと思います。「言語」「言葉」好きなものにとっては思考の発想に参考になりました。

<引用>

 言葉の使用を通して我々の生活を高めるのにより実質的で可能性のあるのは、現在では失われた会話の芸術である。過去二世紀余にわたって功利主義的イデオロギーは、話すことの主要目的は有用な情報を伝達することであるということを我々に確信させてきた。かくして現在我々は、実際的な知識を伝える簡潔なコミュニケーションを重視し、それ以外のものをつまらない時間の浪費と考えてしまう。その結果、人々は目前の関心に基づくか特殊な範囲の、狭い話題以外のことを、互いに話すことがほとんどできなくなってしまった。もはや「精妙な会話、それはエデンの園」と書いたイスラム教の教主アリ・ペン・アリの情熱を理解できる者はほとんどいない。
会話の主要な機能は、ものごとを達成することではなく経験の質を高めることなのだから、これは残念なことである。

 著名な現象学的社会学者であるピーター・バーガーとトーマス・ルックマンは、自分の住んでいる世界についての我々の意識は会話によって統合されていると書いている。私が朝出会った知人に「良い天気だね」という時、私はもともと気象学上の情報-----彼も私と同じデータをもっているのだから、いわずもがなのことをいっていることになる-----を伝えているのではなく、きわめて多くの言外の目標を達成している。

たとえば彼に話しかけることで、私は彼の存在を認識し、私の挨拶の意を親しく表わす。次いで私は、天候のことを話すことは人との接触を確立するうえで安全であるという、我々の文化での相互作用の基本的ルールを再確認する。最後に天気が「良い」ということを強調することによって、私は「良いということ」は望ましい特質であるという、共有する価値をほのめかしている。したがって天気についてのこの即席の意見の表明は、私の知人の心にいつもの秩序を保たせるメッセージとなるか「ああ素晴らしいね」という彼の答えは私の心の秩序を保たせる。

このような分かり切ったことのたえざる繰り返しがなければ、人々は直ちに自分の住んでいる世界の現実に疑いをもち始めるだろうとバーガーとルックマンは主張する。我々が互いに交わす分かり切った言葉遣いや、テレビやラジオから流れる取るに足らない話は、すべて世はこともなく、存在はすべて平常状態にあることを我々に再確認させるのである。

 非常に多くの会話がそこで断ち切られてしまうのは残念なことである。しかし言葉がうまく選ばれ、うまく並べられるなら、それは聞き手に喜ばしい体験を生み出すことになる。語彙の豊富さと言葉の流暢さは会社の経営者として成功するための最も重要な資質であるというのは功利主義的理由のみに基づくのではない。巧みに話をすることは、すべての相互作用を豊かなものにし、またそれはだれもが身につけることのできる能力である。

 語彙についての子供の潜在能力を養う方法の一つは、ごく初期のうちに言葉遊びをさせるということである。語呂合わせや二重の意味をもつ言葉の操作は教養ある大人にとっては最も低い段階のユーモアだろうが、子供たちにとっては言葉を統制するのによい訓練の場となる。子供と会話している時に注意を集中しさえすればよく、機会があれば-----つまり無邪気な語や表現が他のものに置き換えられる時は-----直ちにその組立てを切り換え、その単語の異なる意味で理解したようなふりをするのである。

 子供たちが"having Grandma for dinner"という表現は〔haveが〕客として招くという意味でも料理として食べるという意味でも用いられることに最初に気づいた時、彼らは「喉の中の蛙」〔声がかれること〕という表現を聞いた時と同様、いくらかまごつくだろう。事実、言葉の意味についてすでに秩序づけられているものへの期待を壊すことは、最初は軽いショックを与える。しかし子供たちはすぐに意味をつかみ、会話を一捻りすることを学んで応酬するようになる。
このようにして彼らは言葉の統制の楽しみ方を身につけ、成人した後には失われた会話の芸術の再生に貢献するだろう。

 これまでに何度か述べたように、言語を創造的に用いるものの代表は詩歌である。詩は凝縮され変換された形で経験を心に保存させることができるので、意識に形を与えるのに理想的である。毎晩詩集を読むことは体に対するトレーニング器具のように-----心の調子を整えさせる働きをする。それは、少なくとも最初のうちは「偉大な」詩歌である必要はないし、詩の全部を読む必要もない。重要なことは、少なくとも心が歌い始める一行また一節を見つけ出すことである。わずか一語ですら新しい世界への窓を開き、心が内面的な旅を始めるのに十分な場合がある。

 そしてここでも受動的な消費者に留まらねばならない理由はない。わずかな訓練と忍耐でだれもが詩の中に個人の経験を秩序化することができる。ニューヨークの詩人で社会改革者でもあるケネス・コックが示したように、スラムに住む子供や老人ホームのあまり読み書きのできない老婦人ですら、最小限の訓練で美しく躍動する詩歌を書くことができる。

この能力の獲得が彼らの人生の質を変えることは疑問の余地がない。これらの人たちは、その経験を楽しむだけではなく、詩作の過程で自尊心を大きく高めることになる。
 散文を書くことも同様の恩恵をもたらす。散文は韻律や韻によって課せられる明確な秩序をもたないが、書く能力は身につけやすい(しかし偉大な散文を書くことは、偉大な詩歌を書くと同様に困難だろう)。

<以上同書p162~164から>

たいへん分かりやすく、疑問の余地のない内容だと思います。いろいろな若者と話す機会が多いのですが、彼らの語彙の少なさと、気持ちの表現の苦手さには驚かされます。

 楽しいことと楽しくないこと、快と不快という本能的な二元の世界は非常にはっきりするのですが、淡さの感覚の広がりがなく、味覚の単調さにも表れているように思います。

 時代の流れもありますが、それもよいのですが何かが違うのです。

 さらにある一定の教養をもつ若者、ハーバード大学の白熱教室@東京大学における討議に加わった若者にみる文化的な深層がことば表現の中に出てこない事実。

 総じて思うにM・チクセントミハイの言葉に耳を傾けることも必要かもしれません。

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