仏教における時間論の中で、特に刹那生滅に心ひかれる。「刹那滅の哲学(連続をめぐる哲学 ミネルヴァ書房p59から)」という谷貞志さんの論文を読むと刹那生滅の仏教哲学が哲学上の時間論へと展開することに思考を向け知悉したくなる衝動に駆られる。
刹那生滅で変化するものは何かということに視点をおくと谷さんは、「刹那滅はものの変化ではない」として
「変化」は存在そのものがまるごとなくなるのではなく、その存在の姿や形や性質の示す時間的様相と考えられる。
と語る。
時間的様相とは何か、こうなると哲学的な論及が展開されるが、私のような凡夫には難解でなかなか理解しにくい。
そこで視点を変えて、詩の世界で「刹那生滅」観てみるとかなり理解しやすくなる。
宮沢賢治の「春と修羅」の序文の詩に
わたしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失われ)
という詩(一部)がある。
紀野一義先生は、その著書「佛との出会い 筑摩書房」で永遠のいのち 迷える詩人の中で「『法華経』の中に説かれているいのちについて一番はっきりと、あざやかにつかまえた人は宮沢賢治だと思う。」とこの詩を紹介しながら宮沢賢治を語っているのが参考になるような気がする。
有機交流電燈とは、いのちのある交流電燈のことで、交流電燈は60サイクルないしは50サイクルで電気的には正負が変化するため人の眼ではその変化は捉えられないが、光としては明滅をくり返している。
紀野先生は、
わたしたちが生きているというのは、仏のいのちからいのちが来ている。そして帰る。来ては帰るのくり返しである。それを昔の人は「刹那生滅」といったのである。
自然も仏からいのちをもらって、そして刹那消滅をくり返している。
と語り、因果交流電燈については、
因果関係がずっと続いてきてこの電球になった。わたしといういのちは、いろんな因果が重なりあってわたしのいのちになって来ているのであるから、自分のことを因果交流電燈というのである。
と語る。
さらに仏のいのちについてであるが、
それはちょうど広い海があって、その海の上を波が立ち、そして消える。その波が立ち、また消えるというくりかえしが、海というものになっている。しかし、その波の下には、深い大きな海がある。それが仏にいのちである。こういうふうに、宮沢賢治は考えていた。
という。
刹那生滅を光の明滅で語るとやまと言葉の「かがやく」という語が思い出される。輝くは、日本人にとっては光の明滅を表す言葉だということを文学博士の中西進さんが語っていたことがある。「あの人は輝いている。」と表現すると明滅する光、ぎらぎら照り輝くような感覚を得ることができる。
日本人の古代精神史においても、また連綿と続く日本人の深層心理の中にも普遍的なものとしてこの「明滅する光」があるような気がする。「いのちに輝き」を観て、「人に輝き」を観ることができる日本人。最近はその明滅する輝きを感じ、心を照り輝かせる人が少なくなってきているような気がする。
日本語というものは、言葉自体に「精神的要素、感覚的要素」が含まれる部分が多いので面白い言葉である。
上記紀野先生の話の中に「自然も仏からいのちをもらって、そして刹那消滅をくり返している。」という文章がある。この中の「自然」という言葉も特別な言葉である。上記の場合の「自然」は、「しぜん」と読むが仏教では「じねん」と読み日本人の形而上にかかわる思惟としては「おのずから」と読み方(講座 日本思想1 自然東京大学出版会から)もある。
特にこの「自然」という言葉は、明治維新の前後の外国語翻訳の問題もあり、現代人にとってはその言葉の概念に注意しなければならない。
仏教上の自然成、自然法爾の場合は、日本語の意味合いの中の「おんずから」「みずから」という志向表現とも絡んで思考の世界が広がる。
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聖書から仏典から生長の家から幸福の科学から、色んな本を読みあさってます
またちょいちょい来させていただきますね
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