下記は、柳田聖山の「禅仏教の時間論(東京大学出版会 講座日本思想4時間)」内からの恣意的な抜粋である。
道元の時間論は、禅仏教のそれを受ける。道元に、独自の発想があるのは、時と間を分けて、間に重点をおいたことだろう。
時に対する発想は、おそらく道元独自の新しさをもつ。
墨跡、水墨、書簡など禅に関係する芸術は、いずれも間合いの工夫を第一とする。間とは、紙や筆の間を指す空間のことでなしに、そこに動く時の流れを指す。何も書いてない、いわゆる行間の意味が問われる。白紙賛は、その極北である。時を描けば、時は止まる。生きた時を描くには、間を描くほかにはないのである。さいごは、なにもかかず、賛だけとなる。
西洋画の世界観には無い東洋の山水画のもつ、ものの存在の本質を描き出す画法に気づく。以前このブログ「うつろう形を見つめて」で画家の野見山暁治さんの話をしたが、あらためて日本画に観る空間の存在に気づくとともに時と間をあらためて観ることとなった。
なおこの「間」は、禅仏教のみの話ではなく柳田聖山は、
浄土教は、この世とあの世の間を生きる。持続の工夫により出発する。浄土教が平安朝の思想史の主流となるのは、自然のことである。貴族の建築と庭園は、浄土をモデルに構成される。借景は、自然と人との、新しい間の工夫である。
と記している。
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