思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

禅と浄土教

2006年06月23日 | 仏教

 今日という一日は、午前3時から始まった。
 サッカーテレビ中継を観ながら外出準備。途中までサッカーを見た後、職場に向かい松本市を6時30分に出発。

  その後安曇野市に立ち寄り、高速長野道、中央道で伊那市にも立ち寄る。伊那市を8時30分ごろ出発し、東京都港区に向かう。

 ちょうど昼頃目的地に到着し要件を済ませ、ビル最上階で昼食。遠方にフジテレビの社屋が見える。江戸期に砲台のあったお台場である。
 午後1時頃港区を出発し途中二ヶ所のサービスエリアに立ち寄り午後4時ごろ松本市に帰った。

 山国から都会のビル群の中へ、そしてまた、山国へと帰る。天候は今にも雨降りの様相だが雨に遭うことはなかった。

 今日は市街の古書店に出かけた。岩波文庫の「十訓抄」「大乗起信論」を買い求める。
 「仏教における時間論」という古書があり、値段が見当たらないので店主に聞くと「時間論関係は高い」といい値段を聞くと1万円はするとのこと。私の安月給では二の足を踏んでしまう。市内に他に買うような人はいないと思うのだが。書棚の肥やしになってしまう運命にあるのかこの書籍。

 市内の他の古書店では、書籍の汚れも考慮し、さらに客の懐、求める理由も見て商売をするところがある。そこにこの書籍があれば、「古書でありながら現代に生きるのに」とふと思う。

 東京からの帰路の車中で「藤吉慈海 禅と浄土教 講談社文庫」を読む。このところ禅と浄土門の関係に興味が移り、共時性のごとくtenjin95さんの影響を受けている。
 上記の書籍の次の部分にマーキングする。

 形は坐禅と念仏を実践するとしても、その間に自然な統一がなければならぬ。そして、それが自然に平常低のものとなり、生活即仏法といわれるものでなければならぬであろう。この数年間のいくらかの考えの変化というならば、「禅か念仏も」自ずから自らの実践の上に生かされてゆくものでなければならぬということである。自然法爾ということがいわれるが、つねに自己批判的に自らの行道のあり方を反省してゆくということと、自然法爾ということとは対立するように思われるが、本当はそうでないということである。自然法爾に自らの行道がきめられてゆく、その背後に厳しい自己批判がなければならぬが、その厳しい自己批判が自然法爾になされてゆくとでもいうべきであろうか。

 午後5時30分頃帰宅。早朝のジョギングができなかったのでアルプス公園まで出かける。西方に日が落ちる頃で、雲の間から太陽が顔を出しながら西方の北アルプスに吸い込まれてゆく。
 今日はコースをお地蔵さん経由の道に変える。
 西方浄土は輝いていた。


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2 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2006-06-24 04:29:33
> 管理人様



拙僧の影響を受けてとのことですが、多少なりとも学びへのご縁を付したというのであれば、まさしく無為の功徳であります。管理人様の問題意識からどのような結末が生まれるのか、拙僧も楽しみにしております。
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先日はありがとうございました (随流真山)
2006-06-26 14:48:39
信濃大門さま



先日は当方のブログをお訪ねくださいましてありがとうございました。

今後、こちらにも立ち寄らせていただきます。

どうぞよろしくお願いします。
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